幻想の普通少年

鱗青

青の時代

     「つまり、あなたがこういう状況を経験されたのは、

      これが初めてというわけではないのですね」


                             O・ヘンリー






 冬の暮れ時なら、血のように真っ赤な夕焼けがいい。

 アスファルトも雑居ビルも、道行く人さえ誰もが皆、同じオレンジがかった緋色に染まる。

 そこでなら、自分が普通であると、違和感を与える存在ではないと束の間錯覚できるから。

 12月第一週の火曜日。西の空に宵の明星が瞬く。まるで空にピンを刺した穴から漏れた天国の灯火みたいに、小さな優しい輝きだ。

 僕、陣内夕辰じんないゆうたつ14歳狼人は、首に巻き付けたマフラーから唇をちょっとだけ出して、ぷはーっと息を太く吐いた。怪獣の口からほとばしる放射能入りの蒸気のように、白い空気の道が宙にできる。

 学ランの両ポケットに突っ込んでいた手を抜く。馬手めてにライター、弓手ゆうんでにショートホープ。肩掛け鞄を後ろにずらし、足を止めず素早く煙草に火を点けた。

 深く吸い込むと寒さが和らいだ気がして、「あー美味しい…」と呟きを漏らす。

 やにわに「ダーレダっ!」と無理に作った裏声が響き、背後から眼を塞がれた。

「コンナトコロデ堂々トォ、イッケナインダゾォ」

 もう寒いくらいだというのに汗でシットリした固い掌。そしてこれは…ヨーグルトみたいなすえた匂いの、独特なワキガは…

「ちょ、くだんないことしないでよ、満(み)っちゃん」

 チガウヨォ、僕ハ、ミッキーマウスダヨォとまだ続けているそいつの手に煙草を近づけた。

「うわっち!」

 背中の気配が離れ、視界が開く。

 僕と同じ中学の制服、えんじ色の学ランをだらしなく着て、四角い黒縁眼鏡の虎人がそこにいた。氷塊のように冷えた金色のボタンに、火先を当てられた指を涙ながらにくっつけている。

「ひでぇなユータ、下手したら火傷モンだぜコレ」

「そうだねごめんなさいだいじょうぶだった」

「棒読みで言うな!」

 喚き散らす虎人、佐東満さとうみちる14才を放っておいて、僕は歩き出す。早生まれのくせにだいぶ子供っぽい満っちゃんは指先をしゃぶりつつ、プンスカしながらついて来る。

 そして、二人とも吹き出して肩を抱き合った。

 僕は「しょーもないことしないでよ」と言い、満っちゃんは「ユータこそ過激だろ」と唇を尖らす。

「今練習終わったんだ?いつもより早いんじゃない?」

 満っちゃんの少し先の曲がった耳に、ラグビー場の芝生が一筋引っ掛かっている。チョイとつまみ取ると「うははヤメロ何すんだよ!」と大袈裟にくすぐったがった。

「もう期末テストだからって、部室で軽く反省会やっただけだった。あと監督センセイの差入れのジュースとか菓子喰って、あとはお疲れーって」

「へー、何だかのんびりしてるんだねぇ」

「いやいやいや、普段はそりゃあ厳しいもんだぜ?も・ガッツガツよガッツガツ。今日だけ特別だったんだろ」

確かに、虎人の身体は入学したての頃に較べると格段に分厚くなった気がする。今、実際に肩組みしていると、僕の首筋に乗る二の腕なんかズシリと重く痛いくらいだ。

 そして第二次性徴期という頃なのか、顔の方も毛皮が固くなり眉も膨らんで、以前よりずっと男らしく見える。しゃべる声音も重く太くなり、電話だと佐東家の父親と間違えてしまうことが増えた。

 小学校までは同じぐらいだった身長も、ずっと前に負かされてしまっている。中学に入る時には視線の高さは変わらなかったのに、二年生も終盤の今、目を合わせるために顎を上げている自分がいた。

 僕だって背は伸びているのだけれど、相手は167cm、こちらは152cm。

「てかユータこそ遅いんじゃね?帰宅部のくせにさ」

「婆ちゃんの見舞いに行ってたから」

「へぇ、調子どうなんよ?退院できそう?」

 僕はかぶりを振る。虎人は小学生の頃から使い古しの眼鏡の鼻当てを人差し指で押し上げ「そっか」とだけ呟いた。

「まぁ、いよいよになったら家で看取ろうかって話にはなってるよ」と言いながら携帯用灰皿に吸い差しをしまった。満っちゃんがそれをジッと見ている。「…何?」

 餌がほしい雛みたいに、ぱくばく、と口を開きかけ、また閉じてうなじをボリボリかいて、ため息一つ。

「…なんでもね」

「1日1本しか吸ってないんだから、うるさく言わないでよね」

 虎人はタラコな唇をへの字に曲げ、うっせぇ分かってるよ!と肩をそびやかす。

「あ、練習もう無いんだったら勉強頑張れるじゃない。早めに一緒にやろっか?」

 僕の幼馴染は「うっげー」とベロを垂らす。「母ちゃんみたいなこと言うなよ」と口を尖らす。

 勉強と関わるものは教科書から机まで大の苦手な満っちゃん。1学期は中間テストが赤点ギリギリの綱渡りで(一昨年から教育制度改革とかで、中学でも普通に落第するようになった)、夏休み前の期末テストは国語数学理科社会、ことごとく僕が面倒を見て乗りきったといっても過言ではない。

「あ~いやだ、早く卒業してぇなー」

「何言ってんの、まだ二年目なのに。そんなに勉強キツい?」

「いやそりゃユータみたく勉強好きならいいんだろーけどさ。俺肉体派だし、授業はほぼ寝てるし」

「うわー、給食費ムダ遣い~。おばさんにチクッちゃおうかな」

 馬鹿やめろ、と満っちゃんは眉を盛大に歪める。

「それにしたってさ、満っちゃんは商売やるんだから、せめて高校ぐらいはきちんと出なきゃ」

「あー、まぁなー…」

 満っちゃんの家は代々江東区では名の知れた佃煮屋を営んでいる。上には兄と姉が一人ずついるが、兄は外向きの性格ではなく大学でこもりきりの研究生活。姉のほうは醤油の匂いも酒の匂いも大嫌い、自分はフランス人を前世にもつ日本人の皮を被せられたヨーロピアンなのだと公言するという、身内に持つと大変恥ずかしいたぐいの性格だ。なので、一家の後継者選びの白羽の矢は、この虎人の少年の背中にぶすぶすと刺さりまくっている。

 すっかり気疲れした様子を作って、虎人はしょぼしょぼと目ヤニを掻き落としつつ「仕事を受け継ぐよりも、俺はラグビーだけしてたいんだけどなあ」とぼやいた。

「だからさ、部活とか頑張ってるのは良いけどさ、勉強も平均ぐらいとれればいいんじゃない?」

「んー、俺としては体育会系で進学したいのだが」

 そう言って顎に指を当て、知的なポーズをしてみせる虎人。「そこまで甘くないと思うけど…」と僕が言うと、だよなぁ、とうなだれた。

 幅の狭い歩道は進んでいく先で少し盛り上がって、丘みたいになったカーブにさしかかる。痩せた巡礼者のようなススキの穂がさわさわと揺れ、長い影法師を引きずった僕達を見送っている。

 小高い坂の上から広がった景色は湾岸の外れの夕映えだった。暗くなり始めた街ととろけたガラスを煮詰めたような空。その天地を貫く、建ったばかりの台場再開発地区の高層マンションがそびえる中心地。そしてそれを取り巻く哀愁を帯びた東雲の古い団地と公園。

 新旧の入り交じった不思議な街並みだ。更に不協和音に輪をかける、異様に近代的な都心モノレールの駅と巨大な竜のようにうねっている高架。

 足が遅くなる僕に、満っちゃんは無言で歩調を揃えてくれる。

 この広大でスケールの巨きな風景が僕は大好きだ。自分の生まれ育った町が。新しい部分も古い部分も、失われ移ろいこぼたれてゆくその姿も。

 この町は、とりわけ暮色に包まれているときが一番綺麗だと思う。江戸時代、アサリをとる漁師舟の漕ぎ手たちも(その頃はまだ海上であっただろう)、今僕がそうしているように湾岸に漂う小舟にうっとりと立ち尽くしていたのじゃないだろうか。

 やがて夕陽が去り、夜が来る。

 街灯がパパパッと伝染したように光の傘を飛び火させていく。仄かな街灯の明かりで雑木林は緑に黒、隣の満っちゃんの毛色はオレンジと薄黄色。

 そして、僕は……

 坂の向こうから四人組の他校の男女がやって来た。

 僕らとすれ違った瞬間「エッ」「キャッ」と声を漏らす。そして後ろで「なんだあれ、ビックリした」「外人じゃないよね、気持ち悪ーい」と僕を指差しながら密やかに確認している。

 途端に満ちゃんが牙を剥いた。「ッだアイツら!」吐き出すように叫ぶ口はグワッと裂け、眼は三角に吊り上がり、その鬼のような形相にひるむ四人に襲いかかろうとする。

 僕は今まさに地を蹴ろうとする虎人の胴体にしがみついた。

「満っちゃん、ダメ!!」

「止めんなユータ!よっくっもあいつら!ブッ殺ぉす!!」

 怒号とともに、満っちゃんは僕がひっついたまま前進する。一生懸命力を込めているのに、全然止められない。

「に…逃げて!」

 え、あ、とグズつく相手のグループに向かって「いいから逃げて!早く!! 」と叫んだ。

 おどつきながらも一目散に駆け出す連中に虎人は尚も「あっ、待てゴラ!」と鉤爪の飛び出た手を伸ばし、小さくなってゆく4つの後ろ姿を捕らえようとする。

「もういいよ、満っちゃん、もういいから」

「良くねえよ!あいつら、あいつらお前のこと何つったか聞いてたのか!?」

「聞こえてたけど」充分離れて、相手の連中の制服も闇に紛れた。僕は両腕を離す。「しょうがないよ。珍しいのは確かなんだし」

 満っちゃんは物凄く毛を逆立てている。そしてガードレールを「あークソ!」と蹴り上げた。その怒りは、あっちの連中に対してだけじゃない。僕にも向けられているんだ。

「あーいうバカを放っといちゃダメなんだぞ!?お前分かってんのか!!」

「うん、まあ、少しは、…ね」

 別に僕だって、腹が立たないわけじゃない。いきなり他人から指を差されたり「変」とか「気持ち悪い」とか言われたら、普通は怒るだろう。

 そう、普通なら。

「…さ、行こ?」

 んンう、と眼鏡のフレームの奥で眉間にシワ寄せる虎人の手を取る。納得はしてはいないけれど、だからといって僕にまで殴りかかってもな、とでも言いたげだ。

 満っちゃんの、はっきりした色合いの毛皮と、僕の限りなく透明に近い銀の毛皮が重なる。

「うわ、今のでスッゴく汗ばんでる。グジョグジョだね」

「うっせぇな、だったら握んなよ」

「こーしてないと、あの人達を追っかけてっちゃうでしょ?」

 わざと陽気に繋いだ手を振って歩く。あ♪る♪こー、あ♪る♪こー。ぼーくはー、気にしなーい♪とか歌いながら。

「___…もぅいいよ、喧嘩んねぇから」

「…ありがとう、怒ってくれて」

「あん?」

 なんでもない、と笑いかける。満っちゃんは目を大きくしただけで何も気付かず、髭をピクつかせている。

 大事な言葉はいつだって、囁くようにしか言えない。

 電灯の明かりは僕の瞳を照らす。その色は、深い紫。

 白子、白皮症、色素欠乏、遺伝子異常____…

「あそーだ、明日さあ、泊まりで軽く数学から教えてくんね?」沸点の低い虎人のハートは、冷めるのもまた早い。さっきの憤怒はどこへやら、満っちゃんはにっかり牙を見せる。「こないだの漫画の続き持ってくっからさ」

「おお、ヤル気はあるんだ」

 いや、さすがに留年は洒落なんねーかんな、と顎をボリボリやって苦笑する。

「じゃあここはひとつ、みっちりと教えてあげましょうか。漫画は次の機会でいいよ」

「イヤイヤ、軽くでいいわ。平均点取れるくらい?真面目にやっと頭痛くなるんだ」

 カハハハと誤魔化す相手を、僕はじっとりと半目で突き放す。

「ユータ…その無言の攻撃やめてくれ」

「言っとくけど、半端になんかやらないからね。ちょうど明日から朝練もやらないんなら、本腰入れての勉強会にしようか」

「うええぇ」

「情けない声出さない!泣かない!」

 渋々頷く虎人。

 これからまたしばらくは部活がないから一緒にいられる。それは素直に嬉しいことだ。

 この幼馴染にはなんでもしてあげたい。恩返しの意味も込めて、少しでも多くのことを。

 それが僕の生きている意味だと思うから。

 結んだ掌から伝わってくる満っちゃんの体温で、こっちまでポカポカしてきた。

 「ささやかな幸せ」なんていうものは、実はこの世にはないんじゃないかと思う。あくまで僕個人の感想だけれども。

 今感じられること。それがあるかないか。そのものが、幸福。

 短命を決定づけられた僕にとって、この言葉にできない想いが生きる希望なんだ。


 アルビノイド。

 生物の資料集をパラパラめくっていて見つけたその単語は、俺___東雲3中トップ5のイケメン(自称)こと佐東満___の眉間にガツンとぶつかってきた。

 興味があるか無いかで言えば、横文字ってカッコいいよね、てなぐらいには興味を持ち合わせている英語の授業中だった。俺は頭の中にもやがかかるような授業に居眠りし、さらに選択授業で買った今は全く読む必要のない生物便覧を眺めていた。

 いつの間にか俺は、他教科の資料を広げる生徒を見咎めて質問してくる教師の声も聞こえないくらい集中してその短いコラムを貪り読んでいた。

色素欠乏症アルビノ………

 色素を合成するための酵素を作り出す機能を備えていない個体で、遺伝によるものと遺伝子変異によるもので大別される。ヒトにおいては日本の名古屋大学の研究で』

 このあたりが文章理解の限界で、俺の脳ミソがゼリーみたいにブチュンと潰れた。あとはイミフな単語をなんとか目で追い続けるだけ。普段なら苦しい筈のことなのに、目が離せない。

 んでもって辛うじて読み取って記憶できたのは

「いずれにせよ、アルビノの個体は自然界では適応が困難であり、また短命なものが多い」

 という一文だった。

 短命。つまり長生きできないこと。それくらいなら俺にだって分かるぜ。

 それから昔読んだ何かの漫画を思い出した。その話の中でもやっぱりアルビノは体が弱いからウンタラ、と書いてあった気がする。それがどんな題名だったか、俺のスーパー漫画脳をもってしても思い出せなかったが。

 そこで英語教師が「佐東君。聞いているのかね」と教科書を握る手をワナワナ震えさせているのに気付いて、「あスンマセン。俺ちょっと便所行ってきまッす」と教室を脱け出した。

 後ろ手に戸を閉めて、さてどうしようか、と考える。頭の中がぐるぐる回ってまとまらない。

 アルビノ。ユータはアルビノだったんだ。これは確実に、昨日の化学の小テストで俺が一桁の大台を記録しているのと同じぐらいは確実だ。

 だけどまずは確認しないと。でもどうやる?

 ユータには…本人にはいくらなんでも駄目だ。

 シンプルにいつもの調子で肩をポンとはたいて「ヨッ!ところでお前、すぐ死んじゃうってホントか?」とか。

 ……駄目だ駄目だ絶対ダメだ!

 となると…姉貴や兄貴に聞くか…

 最近派手めの化粧に目覚めたギャル崩れの女と、同じ家に生まれ育った兄弟だというのに14年間「ああ」と「いや」しか聞いたことがない極端に無口な男の顔が浮かんだ。一方は口が軽いし脳足りんだし、もう一方はそもそも返答すらもらえない気がする。

 どちらにも頼れそうにないじゃないか。なら、どうするか…

 授業中で誰もいない廊下を渡り、角を曲がってフと頭を上げると「保健室」の標示の前に来ていた。

 そうだ、保健の先生なら何か知ってるかも。と思ったら、すぐに引き戸を開けてしまっていた。

「しっつれぃしーっス」

 デスクから薬棚に移動しつつあった長髪の女が振り向く。ポインター系犬人で、ラグビー部でも人気が高い月山里沙つきやまりさ。小柄で白衣がブカブカで、いつも袖まくりをしているが、いつまでも抜けない学生っぽさが俺達男子には受けている。

「アラどうしたの?元気な声だしちゃって。顔色も悪くないみたいだけど」

 笑うと綺麗な歯並びがこぼれる。化粧品のCMみたいだ。

「キミ、確かラグビー部よね。佐東君だったかしら」

 俺の部にはマネージャーもいて、怪我に簡単な手当てならするのだが、手に余れば直行で保健室に来ることになる。ガタイが良くてタックルの当たりを鍛えるために練習台だいとして使われる俺は、その回数が他の奴らと比べて半端ないので、顔を憶えられるのも当たり前だ。

 チッス、とひょっとデコを下げて挨拶をし、丸椅子に腰を落とす俺に背を向けたまま、「ちょっと待てる?探し物しててね」と棚の薬瓶のラベルを確認し始める。

 時々は授業がタルいと休憩サボリに来ているやつもいるんだろうが、今は奥に見えるベッドのカーテンは開いていて物陰にも人の気配はない。微かに香水の匂いのする女の人と二人きりという空間に、わけもなくウズウズしてくる。なので、しゃべって間をもたせる。

「何してんスか」

「んー、ちょっと薬の整理をね…上部うえが規定を変えたから使えなくなる薬剤があるのよ。早めに処理しないと」

 へぇ、と意味が分からないながら相槌を打ち、膝小僧をいじりながらキョロキョロしていると「あーもう!すぐには終わんないわね!」と月山が叫んでデスクに戻ってきた。

「ごめんなさいね佐東君。それで、どうしたの?」

「えーと、それなんスけど」月山が軽く組んだ足元がヒールで、そこから細いくるぶしと膝上のスカートまでが剥き出しで…いやストッキングに覆われていて、視線を引き離すのがひと苦労だ。「あ、あの、ビョーキのことなんス」

「病気?どこか調子悪いの?」

「いやあの、俺のことじゃなくって、ダチのことなんスけど」

 アラ、とまた首を傾げる。その仕草がなんとも可愛い。グラビアの水着アイドルみたいなのだが、それより自然にやっているだけに俺にとってはタチが悪い。

「先生、アルビノって知ってっスか」

「…どういう意味の質問なのかによるけど」

「えと、その、だから」物事を順序だてて話すのが苦手で、よくユータにも怒られるんだよなぁ。もどかしさにつむじのあたりを掻きながら文章にしていく。「アルビノって、すぐ死んじゃうんでしょ?あの、教科書で読んだんス」

 ふむ、と膝の上で両手を重ね目を閉じる。

「うーん、それは一概には言えないわねえ。あなたは…佐東君は眼鏡をかけているわね。どうしてか聞いていい?」

「へっ?」

 いきなり変な方に話がバウンドした。

「どうして?」

「そりゃまぁ…漫画とかゲームのやりすぎで眼が悪くなったんスけど」

「そう。でも他の人が同じように生活したとしても、必ずしも視力が落ちるとは限らない。そういうことを『個体差』と言うの。これは分かる?」

「なんとなく…」

「それで、さっき出たいわゆるアルビノの人達についてだけど、彼らにとっても同じことが言えるわ。体が強い人もいれば、そうでない人もいる。教科書で見たって言っていたけれど、教科書にあるのは一般論だから」

「それって、よーするに大丈夫だってことっスか」

「その人がどういう状態なのか私は知らないし、断言はできないな。でもなんでそれを気にするの?」

「ダチっすから」

「…ふうん」

「確かにちょっと身体は弱いと思うんス。でも、その、俺頭良くねえから、付き合ってても毛皮の色が無いこととか目の色のこととか全っ然気にしてなかったし、深く考えたことなかったし、それがアルビノっていうビョーキ?みたいな?モンだって知ったから、その、なんてーか…」

 オムツの頃から一緒にいたユータのことで思い浮かぶのは、笑顔ばかりだ。

 あいつは冗談やちょっとした嘘で俺をからかったり、勉強のことになると鬼の家庭教師になったり、でもそればかりじゃなくて俺が試合のときにはドーナツ作って差入れしてくれたり、わざわざお台場神社から必勝祈願のお守りを買ってきてくれたりもする。

 親友。幼馴染。そういうもんでくくっちまえるぐらい安い存在じゃない。今こうしてあいつのことを、多分生まれてから一番心配して、自分が一言じゃ言えないくらい大事にしていることに気がついた。

「あいつは………すっげぇ特別な、大事な奴なんス。うまく言えねえけど、あいつが身体が悪くなる病気とかなら、俺、俺が何かしてやりたいんス」

「何をしてあげたいの?」

「それは…だから、それが知りたいんじゃないっスか。俺頭悪くて分かんねーから、先生、教えて下さいよ」

「イヤよ」

「はい?」

「君がその子のために何がしたいか、よぉく考えて選んで行動するのは君自身のすべきことであって、たとえ人生の先達であろうと、他人に丸投げするのは間違いなのよ」

 先達というワードが翻訳できなくて少年ジャンプに時たま載ってるラフ絵みたいになる俺に月山は「分かり易く言えばね、私にアドバイスはできても、ああしろこうしろと指図はできないってことなのよ。もう一度よく考えてみることから始めたほうがいいかもね」と微笑んだ。

「んでも…まだ、あいつが本当に長生きできないのか、そうじゃねえのかわかんないじゃないッすか」

 だから、それを本人から聞くことが大事なんじゃないの。何もかもそこがあって、それからの話よ。

 月山はそう俺を諭すと「だから、ね?その子とよくお話ししなさい」と立ち上がり、さあさあまだ授業中なんだからと背中を押して戸を閉めた。

 保健室から出てきた俺は、結局なんも解決してなけりゃ展開さえしてないような、しかしそうでもないような、狐につままれたみたいってこんな感じなのかな…などと考えていた。

 ただ一つ、これだけは決めている。今日は放課後すぐにユータを捕まえて一緒に帰ろう。それから、あいつん家に泊まって、とことん聞き出さなきゃ。…勉強もあるし。

 そう腹を決めて胸を張って教室に戻る。意外と月山先生、保健室の良き相談者としてピッタリなのかもしれないな。

 便所の時間が長すぎるぞって教師にイヤミ言われて、「大のほうしてきたんだろー、くっせー!」とクラスのみんなに笑われたのは痛かったが。


 お昼休み、机の並び順で四人組の班を作り、給食のクリームうどんをすすってるところへ、いきなり満っちゃんがやってきて、

「おいユータ!」

 と凄まじい険のある顔つきで近寄って来た時には、とうとう勉強方面でのしごき過ぎで恨みを買い、タックルか何かで殺されるのかなと思ってしまった。教室の中でそんなバイオレンスな死に方をしたら、きっと百年経っても語り継がれる伝説になれるだろう。

「な、なーに満っちゃん。まだご飯中なんだけど…」

「メシなんかどうでもいいだろ。今日の放課後、俺と一緒に帰ろ。OK?」

 NOと言ったらくびり殺されそうな雰囲気なので、素直に首を縦に振る。

「あ、でも僕、今週は図書委員の当番だから遅くなるんだけど…」

 あっそ、んじゃ教室で待ってるな、またあとで!

 ニコッと牙を見せて教室を去る幼馴染。机を合わせてた班の子達が「なにあれ、呼び出し?」「陣内くん、いじめられてるの?」などと気を回してくれるお陰で、言い訳が大変だったことは僕にはかなり迷惑だった。後でクレームとして厳しく言っとかないと!


 図書室は試験前ということもあってか、ほとんど利用者がいなかった。自分から待ち合わせを約束するなら教室じゃなくてここで待てばいいのに、満っちゃんがそうしないのは「騒ぐな、寝るな、本を読め」と壁の張り紙に墨文字で大書してあるからだろうか。

 だとすると、これはまるでお札みたいだ。うるさくてすぐ居眠りして漫画しか読まないラグビー部員を締め出す聖なる力が宿されているのだ。

「…なーんて、ね。んなわきゃないよね」

 あんなに思い詰めて一体僕になんの相談かな?満っちゃん、また親に怒られたのかな…

「何がそんなわけないって?夕辰?」

 ぽむ、と僕のうなじに柔らかく熱い掌が乗っかる。

 僕の背後に、桃色というよりピンクにほぼ変わらない、ツルツルの肌をした豚人、三年生で図書委員長の星明ほしあきら先輩の、まん丸い顔が和んでいた。

「お疲れ様、今学期の活動はこれで終わりだ。片付けして帰ろう」

「はい、あれ?でもちょっと早いんじゃ…」

 壁掛け時計は4時5分。この時計は卒業生の寄贈品で、いつも10分遅れてるから今は大体15分。それにしても、図書委員の退出予定は40分だから、早いのには違いない。

「うん、まあ、そうだな」

 小首をかしげて何かもどかしそうにも躊躇うそぶりを見せる三年生の豚人に、僕もアレ?と目が縦線になる。

「どうかしたんですか星先輩?もじもじしちゃって、らしくないですよ」

「生意気なこと言うんじゃねえよ。いつもと同じだ、同じ」

 星先輩はがっちりした筋肉肥りな満っちゃんと違い、本当の太っちょだ。プクプクしたお腹は服の下にスイカを入れたようだし、腕はハムみたいで指はウインナーそっくり。脚は二本の丸太ん棒。

 豚人のコンセント型の鼻は低く、眉は剃りを入れたわけでも無いのに生えておらず、目付きは逆さカマボコの形ではっきり言って人相はよろしくない。書物を司る文人ですよというよりも、むしろ豪放磊落な山賊の方なんだぜと言う方が通りがよい。そんな姿形をしている。

 だけど本の管理に関して、この人は一にも二にも厳正だ。汚したり破いたりしようものなら、相手構わずきちんと詫びて反省するまで説いて聞かせる。図書室の本の念が取り憑いてるんじゃないかと思うぐらいの真面目さがある。

 だから陰口で「あのデブオタが偉ぶってよ…」なんて言われてるのを書架の整理中に聞いたこともある。そういう時、ちゃんと言い返せるぐらいの度胸は僕には無い。せいぜい咳払いをして、ぞんざいに前を通りすぎるぐらいだ。しょぼいったらない。

 僕や他の委員が仲のいい生徒の延滞を見逃したりしようものなら、ちゃんと公平に几帳面に雷が落ちる。図書室にもかかわらず怒鳴り散らすのだ。ある意味委員担当の教師よりも怖い存在。

 それなのに、今日は一体どうしたんだろう?満っちゃんといい、星先輩といい、僕の周りの人だけどうかしちゃったみたいだ。

「今日はもう誰も来ないさ。俺の経験上確実だな」

 そうまで言われたら、二年生の僕は反論する余地がない。なるほどそんなものかと素直に片付けを始め、カウンターの方は先輩に任せて奥からゴミ箱の中身を集める。

 最後に窓の鍵を確認するため一番奥の書棚に向かった。これであとは電気を消すだけ。

 ちゃんと閉まっているかどうか窓枠を引いてみて、よし、と振り返るとそこに豚人の幅広の身体が立ちはだかっていた。

 ドン!と胸を突かれ…じゃなく、激しく背後の壁に押さえつけられた。

 膨れた指が僕の顎を仰向あおむかせる。そして、星先輩がむしゃぶりつくように唇を重ねてきた。

 僕は抵抗できなかった。先輩の行動が唐突すぎたせいかもしれない。いや、相手が真剣そのもので、それ以上の何かをするような気配がしなかったからかもしれない。いや、実を言うと押された勢いで後頭部を強打してしまってクラクラしていたせいだというのが正しい。

 生温かく、唾液で濡れた豚人の唇。カッと眼を見開き、鼻の穴はおっぴろげた顔。笑ってしまうくらい滑稽な様相だった。襲われてキスされたというのに、恐怖を全く感じない。

 ゆっくり唇を離すと、先輩は興奮で朱に染まった皮膚のまま「俺、本気だぞ」と呟いた。

「夕辰、お前、誰か付き合ってるやついるのか」

「え…ええと…」

「俺と、付き合おう」

「いやいやいや、ちょっと待ってくださいよ!順序がおかしくないですか?まず僕に『好きなやついるか?』『付き合ってるやついるか?』とか尋いて、それからいないのを確かめて、僕もOKしたらキスでしょ?これじゃ無理矢理じゃないですか!」

 それ以前に、第一に男同士で!…でもその点では、僕も同類になるんだろうな…

 先輩の身体がしゅうぅんと縮んだ気がした。僕に責められて背中を丸めている。

「うん、理屈はそうだな。済まない、いきなりファーストキスもらっちまった」

「それはいいんですけど…」

 多分先輩とのキスがファーストじゃない、けど、いつがファーストだったのか自分でも覚えていないのでそこは流した。子供の頃にふざけて満っちゃんと真似ごとをして、結構な回数で経験しているのは確かだと思うから。

 豚人ははにかみながら弁解した。

「…まあ、その、俺はお前が一年生で入ってきた時から好きだったんだ。話してても楽しいし、真面目だし、かわいいし。それだけじゃなくて、その、なんていうか守ってやりたいっていうか…男のお前にこんなこというと怒られるかもしれないけど、お前が女の子でもきっとそう思ったよ」

 まだ身体はぴったりくっつけたまま。豚人の高い体温も、柔らかなお腹も全部感じられる。鼓動だけがいやに速くて、ぽろりぽろりとこぼす科白が嘘偽りない本当の言葉なのだと伝わってくる。

「俺はもう来年の春には卒業だから、学校で会えなくなる前に自分の気持ちをどうしても言っておきたかったんだ。迷惑…だったかな」

「そんなことはないです…」

 つられて僕も赤くなる。二人で向かい合って自分達が磨いた床を眺めてしまう。

「もう一度言うぞ。俺は、ゆゆゆゆゆゆゆ夕辰、お前のことが好きだ。俺の恋人に、なってくれ!」

 最後は叩きつけるようなフォルテシモ。こんな場面が人生に準備されていようとは、現実というプログラムを仕組む誰かさんは、予想を覆すことになんて長けているのだろう!

「それとも…もしかして、俺のことが、本当は苦手だったり…するのか?それとも男は気持ちが悪い…のか?」

 はいそうです。もしくはそのどっちもです。なんて、うまいこと切り抜ければいいのだろう。だけども、僕も頭がいっぱいで、そこまで考えが回らなかった。

「いえ、それはないです…けども」

「じゃ、じゃあ、付き合ってくれよ!!」

 近い。顔が近い。息がかかる。のどちんこの裏まで見える。目が血走ってるし、鼻水が垂れてる。どんだけ興奮してんだろうこの人?

「あの、少し待ってください。僕にも気持ちの整理というか、言葉の選び方というか、色々ありますから…」

「それはダメだってことか?見込みがないってことなのか?俺がキライなら、そうとハッキリ言ってくれて構わないぞ。それぐらい覚悟してきてるんだ」

「先輩のこと、キライじゃないです」

「じゃあ好きなんだな!?」

 僕は、つい、頷いた。深く考えたわけではないけど、深く考えるほど嫌悪感があるでもなし、先輩のことはどちらかと言えば好きだったから。

 豚人は「くーっ」とも「ふゅーっ」ともつかない音を喉から漏らして、プロレスでよく見るような「ハッスルハッスル!!」のポーズをし、それからもう一度だけキスしてきた。

 今度はなぜか瞳を閉じて合わせてしまった、唇。チャイムの響きを合図に引き離されるまで、僕はなんとなく満っちゃんのことを考えていた。

 それから図書室を閉め、一緒に帰ろうと言う星さんに「満っちゃ…友達を待たせてるんで。スイマセン」と我知らずへりくだって謝り、ほとんど上の空で二年生の教室へ歩く。

 星先輩の告白を、付き合いたいという願いを断らなかったのは、僕も似たような想いを幼馴染にいだいているせいだろうか…と、無駄な自己分析をしながら。


「とぅ!目を覚ませぃ!」

 何回か問いかけを無視されたので、俺は幼馴染の狼人の、銀色の頭にチョップをいれた。

 いったいなぁ何すんの!と、ユータは俺の土手っ腹にパンチではなく蹴りを入れてきた。

「ごふぅ」マジで効いた。涙が出るくらい、効いた。「さ…さすがユータ…普通ならセーブするとこをガチでキックするとは…お前はセレガンか…」

「ごめん満っちゃん、真剣に考え事してたのにウザいから、つい。てかセレガンて誰?あ、やっぱ言わなくていいや、面倒くさいしどうせゲームのキャラでしょ?で、なんだったっけ?」

 ウザいからって…相変わらずひでぇなあ。昔からこういうツッコミは容赦の無いやつだよ。

「だからさぁ、英語の授業中に読んでた科学の便覧にさぁ、ウーパールーパーが載ってたんだよ。お前も読んだか?あの『息抜きコラム』ってコーナー」

「ウーパールーパー!?あれね!満っちゃんも読んだんだ!興味あるの!?」

 ユータは生き生きと「ウチで昔一匹飼っててさ、『大迫おおさこさん』って名前つけて婆ちゃんが可愛がってたんだ。愛嬌があって利口でね。そうそう、ウーパールーパーは正式には“ルーマニア洞窟大サンショウウオ”っていうんだって。幼生から姿が変わらない、ネオテニーって言って生物界でも珍しい進化をしていてね」と長丁場になりそうな予感をさせる。

 いや、そんなのはいいから。俺は手刀で空気を切り、ユータのうんちくトークを終わりにさせる。

「じゃあなんなのさ。僕も今日はちょっと大変なことがあったから、満ちゃんに相談したいんだけど」

「…んー、そのさ、そこにアルビノについて書いてあったんさ」

「ウーパールーパーはアルビノ種だからね。ふんふんそれで?」

 アメジストみたいに紫色の、大きな瞳で見上げられると、舌が絡まり言葉が出てこない。こんな無邪気なこいつに、俺はなんちゅうイヤな心配をしてんのかと思う。

 それでも。なんとか…なんとか尋かないことには、このまんまじゃ昼寝(という名の授業逃避)もおちおちできやしないぞ。

 できるだけユータが警戒しないよう、外堀から埋めるように尋いていこうと、用意していた質問をしようとするが、気ばかりが焦る。

 そうこうするうちに高台まで来てしまい、自然と夕陽を眺めるためユータの歩みが遅くなる。

 ここだ!

「あのさユータ。お前、すぐに死んだりしねえよな?」

「あー、今の質問で死にそうだよ」

 ……………あれ?

「ちょっと待て。俺今なんて言った?」

「あのね、自分の台詞ぐらい覚えてらんないの?」腰に手を当て半眼になる。「幼馴染の僕でなきゃ怒ってるよ、『お前すぐ死ぬのか』だなんてふざけるにしてもタチが悪い…あれ、なんかこれ童話の題名みたいだね。『おまえすぐしぬのか』か。…ダメかな。ダークすぎるかも」

 ええ?俺、俺、ひょっとして…

「っくぁぁぁぁ!!」

 俺は頭を抱えて歩道にへたり込んだ。えっ、なになにどうしたの?とユータが駆け寄ってくる。

「俺…俺は、お前が大事だから、なんとか傷つけないように聞き出そうって思ったのに!大失敗じゃねえか!クソックソックソぉぉぉ!!」

「___そんなに落ち込まなくても。満っちゃんがバカでおっちょこちょいで緊張しぃな小心者なんだって、僕ほどよく分かってる友達は、この世界に他にいないと思うよ」

「___ンだよその英語の例文みたいな言い方。どうせバカにしてんだろ、ううう…いいよ、どうせ俺はバカですよーだ!」

 もとからバカな人はバカだって自分で言わなくてもいいんだよ、と背中に優しく手を添えられる。なんか、ほんとに、泣きたくなる。

「…で、どうなんだよ」

「どうって?」

「さっきの質問!答えろ!」

 ユータは笑う。何も返さず間をあける。困ったように肩をすくめる。

「俺はユータがいないとかいなくなるとか、そんなの考えたくない。つーかマジで堪えらんねえ。だから正直に答えてくれよ。ユータ、お前はこれからもずっと一緒にいてくれるんだろ?」

「………だから」

 太陽が、西の茜空から地球の裏側へ逃げて行く。狼人は目を灼(や)くような夕陽の光に身体の半分がたを喰われ、もう半分は闇に沈んでいる。コントラストの強い画面。相手の始めの科白がよく聞き取れず、俺はなんだって?と聞き返した。

「満っちゃんはまるで小学生みたいだよね」

「おい、それさっき言ってた科白と違うだろ。どうなんだっての!」

「そんな泣きそうな顔なんかしちゃってさ。人間、いつかは死ぬに決まってるじゃない。アホみたい。そんなことずーっと考えてたの?」

「あ、あ、アホってなんだ!ユータお前、俺がどんだけ心配して心配して悩んで頭痛くなったか分かんのか!?」

「僕は大丈夫だから。満っちゃんが心配しなくてもね。身体は満っちゃんみたいに頑丈じゃないけど、マンガじゃあるまいし急に死んだりしないってば。現実にはそんなドラマチックなことは起こらないよ。ずっと一緒にいられるよ」

「なんだ…そっか………」

「そうだってばもー、やだなぁ!そんな変なこと考えてるぐらいなら四文字熟語の一つも憶えなよ。こりゃ帰ったら早速陣内塾・秋の特別コース開幕だね」

「げー、そりゃ勘弁してくれよ、ふぅじこちゃ〜ん」

 誰がふじこちゃんだよ、満っちゃんの馬鹿たれ!白銀の体毛の狼人がカバンを振り回して攻撃してくるのをよけながら、ああ良かった、いつもと同じ調子のユータだ、と取り越し苦労を自嘲する。

「何回も言うことないだろ。さすがに俺だって、落ち込んだりも…」

「あ、ゴメン言いすぎた?」

「したけれど、私、元気です」

「わけが分からないよ!何のネタ!?」

 優等生には死んでも分からないネタですよーっだ!えー何ソレ感じ悪い!普通の奴なら怒るかもしれない会話の後でもふざけられるのが、俺達なんだよね。

 だけどなんだろう、なんか妙だ。困り顔でなだめたりツッコミしてくるのはいつものユータなのに、まるで水槽とか自動ドアの向こうで話してるみたいに遠く隔たりを感じる。

 俺の幼馴染、一人だけの、特別なやつ。

 今、少しだけお前が淋しく見えるのは、なんでなんだろう?


 夕飯の後の台所はまるで戦場だった。

満っちゃんが久しぶりに泊まりに来るからと、僕がついつい張り切ってカレーに唐揚げにエビチリなどと、後始末の手間が余計にかかるメニューを作ってしまったせいだ。

 汚したところは徹底的に磨かないと収まらない自分の性格が災いし、ごちそうさまから洗い物が済むまで50分近くもかかってしまった。その間、僕と同じく満っちゃん大好きな爺ちゃんが、この体育会系に染まりつつある幼馴染の虎人の相手をしてくれていた。

「ラグビーってなあれかい、防具はあんまつけねぇのかい?」

 60まで生きてきて未だにヒとシの区別が曖昧なブルドッグ系の爺ちゃんが、上機嫌にポン酒のお猪口をさし上げる。

「ヘッドギアぐらいっすねぇ、俺らがつけてんのは。だから捻挫や脱臼はいつものことっすよ。応急処置のRICEも教わったっすから。知ってっすかRICE?」

 なんだそりゃ昔のアメリカの国務長官かい、と妙にうがったボケをかます爺ちゃんに、満っちゃんは圧して冷やして高く吊って安静にすることっすよ!とゲラゲラ笑っている。

 エプロンを冷蔵庫傍の壁のフックに放り上げ、満ちゃんに「そろそろ階上うえに上がるよー」と声をかける。

「なんじゃせわしないのう。まだ寛いでいてもよかろうが。ほれ、煎餅食わんか煎餅を」

「そうもいかないんだよ爺ちゃん、満っちゃんてば今度の期末が赤点多いと留年しちゃうかも知れないんだから。そんなことになったら、勉強見てる僕の責任問題だよ」

「そうかあ…今時の中学生さんは大変なんじゃのう。わしらの頃はゆとりだなんだと言うてそれはのんびりとしたものじゃったがのう…」

 そのまま昔話モードに突入する前に、着替えを箪笥から出してきて爺ちゃんを風呂に追いやった。

「ぬぁーあー、勉強かーやだなー」

 頭の後ろに腕を組み、階段を上がりながらこぼす虎人。僕の顔の前にある肉付きのいい尻をおばちゃんビンタしてやる。

 イヤんH!としなを作る満っちゃんを僕の東向きの部屋の勉強机に座らせ、自分もスツールを持ってきて隣に陣取った。

「いやなものはさっさと済ませるに限るでしょ。苦手なおかずとか先に食べるようなもんだと思いなよ。はい教科書出して!」

「数学からでいいか?」

「ううん。だからどうして自分ができる科目から攻めるの?不得意な国語と英語からやるよ」

 満っちゃんは歩いて5分の家から持ってきた校章の入ったバッグを重たげに掴み、魂の抜け殻みたいなノロノロさで国語と英語の教科書を取り出す。

「そりゃあデザートとかあれば我慢もできるけどさあ、勉強にそんなのないじゃんよ」

「ご褒美的なものかあ…そうだね…」

「あ、そうだ」

「話変えようとしてもダメだよもう。さ、まずは国語からやろっか」

「いや、そういうつもりじゃないんだ。ユータがさっき俺に相談したかったことって何なんだ?」

「…じゃ、それも終わったら話す。ちゃんと11時までに終わったら、ね」

 いい話?と尋ねられ、僕は、さあてお楽しみ、と誤魔化した。

 このまま忘れてくれるのが一番いいような気がする。適当にスルーしてしまえたら、その方が。

 今更この気持ちを言うぐらいなら、その方がいい…


 それから二度居眠りしかける相手の耳をつねり、三回くらい言い合いをし、途中で風呂に入って上がって来ると、虎人はちゃんとメモ用のノートに四文字熟語と漢字の書き取りを終えて安らかに眠っていた。

「満っちゃんてば、起きなよ。お風呂入ってきて!」

「うあぁふ、ユータ、なに?」

 だからお湯が冷めないうちに次に入ってよ、爺ちゃんが戸締まりと火の始末しようと待ってるんだから!と揺さぶりをかける。ガクガクと頭が揺れて目が覚めた虎人は、スツールに座り添削しようとする僕の二の腕をガッシと掴んだ。

「痛たた、力が強いよ満ちゃん!どうしたの!?」

 相手は唇の端がひん曲がって裂けるんじゃないのという位にニッカリし、大きく舌を動かして、ご、ほ、お、び!と発音した。

「さっきの相談ってなんだったんだ?」

「あ、ああそれ…別に対したことじゃないし…いいじゃん」

「言えよー。言わないとこのまま離さないぞ!」

 満ちゃんは僕の細い腕の肉をギリギリと締め付ける。誤魔化せないことに焦ってはいても、こんなに力が強くなっていたんだと思うぐらいの余裕はあった。

「分かったよ…あのね、僕………誰にも言わないで欲しいんだけど」

「言わない言わない」

「その軽さが信用置けないんだけど…あのね、くれぐれも絶対他の人には漏らさないでよ!」虎人はコクコク人形みたいに頷くから余計不安だ…「星先輩に、告白されちゃった」

「星先輩?誰だそれ?」

「あれだけ怒られたのになんで憶えてないの?ほら、僕と同じ図書委員の豚人のひと!」

「…ああふうん、あの先輩かぁ。そういえば俺も一回本返すの忘れてて、アホかってくらい怒鳴られたなあ。おかげで二度と図書室なんか行くもんか、って誓ったのでした。あれが『ほしせんぱい』、ね」

 わははは、は?笑いが止まる。おんや?と片眉がかしぎ、でもちょっと待てよ?と目玉が斜め上を見据えて、自分が記憶している星明の姿を相照らしているらしい。

「あれ、あいつ男じゃなかったっけ、てゆーか男だよな?」

「うん」

「うんって…」

 だから他の人にベラベラ喋らないでって言ってるんでしょ、と虎人の間抜けな表情を睨む。

「噂になんかなったりすれば、僕より星さんのほうがダメージでかいんだからね。そんなことしないって信じてるけど、もししゃべったら絶交するよ」

「しない!…けど、そうかあ………」

 眼鏡が天井の蛍光灯を反射して白く塗りつぶされている。目元から相手の表情が読み取れない。

 満ちゃん、どう感じてるのかな…

「満ちゃんは、どう思う?」

「は?俺?」

「うん」

 僕は勇気を振り絞った。短い人生の中で、これからもどうせ長くはない一生のうちで多分一番最初で、そして最後の質問をするために。

「僕が誰かと付き合うの、満ちゃんはどう思う?」

 もし少しでも眉をひそめたら。うつむいたら。声に、調子にこもるものがあれば。

 そうしたら僕は。

 僕は、正直になるよ。声なんか糸よりも細くなってしまうだろうけど、でも確かに、告白しようと決意してるんだよ。

 満っちゃん。大好きだよ、満っちゃん。

 ん___…と中空を眺めやっていた虎人は、ポンと掌をもう片方のゲンコツで叩くと「俺にアドバイスはできねえよ」と言った。

「え?どういう意味?」

「だからさ、あの先輩の告白を受けてユータがどう思って何がしたいか、それを決めるのはお前自身だから、あーしろこーしろって俺がとやかく言えねってこと!」

 珍しく理屈が通ってる。でもそれがゆえに浅薄な感が否めない。まるで銅の地金に金箔を貼ってるみたいな、とってつけたような胡散臭さ。

 でも。

「……つまり、満ちゃんにはどうでもいいってことなんだね」

 それならば、それでも一向に構わない。仕方がない。そういう結末も、予想はしていた数ある答えの一端にすぎない。ただ僕の希望通りにいかなかっただけだ。

 だけど、苦しい。こんなに痛いとは思わなかった。

 数時間前、あの夕暮れの中で投げつけられたストレート直球ど真ん中の質問に対し、僕は嘘をいた。嘘を吐くしかなかった。

 僕はね、満ちゃん、21ぐらいまでも生きられないってお医者さんから言われてるんだよ。お婆ちゃんのお見舞いは、いつも自分の健康診断と重ねてるんだよ。爺ちゃんはそれを知ってるから、僕が煙草吸っても何しても大目に見てくれてるんだよ。

 だからごめん、あと何年かだけしか一緒に居られない。

 そんな言葉は重荷にしかならない。そんな前置きしてから「君が好き」だなんて言えないよ。だってそれって脅迫じゃない。強制じゃない。優しくて馬鹿な満ちゃんじゃ、きっとYESって答えちゃうから。自分が心の底から幼馴染を超えたいとは思っていなくても、恋人として関係を変えてもいいと思っていなくても、そうなんだと勘違いしてしまうから。

 だから、幼馴染の予想が正しかったことを隠しても、対等な立場で告白したかった。そして、それは成った。

 もういいや。これはこれで、仕方ない。諦めるしか、ない…

「ユータ、おいユータ、どした?」

 泣きそうになる自分を叱りつけ、僕は腕組みのふりで己が肩に爪を立てた。

「なんでもないよ。変な相談してごめんね。あと、ありがと。ふっきりが…ついたよ」

 そか!白い歯並びも眩しく笑う初恋の幼馴染。その彼の最後の科白は、僕の胸を甘く柔らかく切り裂いてこの会話を締めくくった。

「俺はユータの親友だからな!これからも悩んだときには、何でも一番に俺に話せよ!」

 自然な微笑みがスッと顔に浮かんだ。自分でもそれに驚きながら、

「うん!ありがとう、満ちゃん!!」

 と虎人に礼を言う。照れる相手ににこやかに笑いかけながら、どうしてこんなにも己の面に偽りの表情を被せるのが楽なのかを悟った。

 絶望したから___好きで好きで堪らない相手にとり、自分は普通より少し親しい友達だと教えられ、また相手を傷つけないために死ぬまで嘘を吐き通すしかなくなってしまったせいだ。


 その次の日の正午、僕は星さんをあの夕陽を眺める丘に呼び出して、こう伝えた。

「星さん、昨日は言えなくてごめんなさい。僕は寿命が長くありません。ぶっちゃけ来年か再来年か、それともその先かは分かりませんけれど、とにかく二十歳はたちを越えられたら御の字だとお医者さんから言われてます。だから、星さんの気持ちには応えられるかどうか自信が無いんです」

 豚人は逆さカマボコのまなこを一層吊り上げた。そしてツカツカと僕に歩み寄り、ガッと肩をつかんできた。

「俺が治す!」

 あんまり声が大きくて、何と言われたのか見当がつかない。すると一息おいて、「心配しないでいい。俺がお前を治す」と静かに繰り返した。

「え___えぇ!? 」

「俺、実は今までこれっていう将来の夢っちゅうか、なりたいものってなかったんだけど、それが今決まった。いや、多分これが運命なんだ。夕辰、俺は医者になる!医者になって、必ずお前を治してみせる!」

 だからそんなこと気にするな!そう断言して、星さんは近隣の住人かはたまた通勤者かの数人が通りがかる見晴らしの良い丘の上で、堂々と僕にキスをした。

 これはさすがにマズい。ぎゅうぎゅう抱きしめる豚人の顔を押してなんとか呼吸し、「な、なんてことをするんですか!」と尻上がる調子で文句をつける。

「こんな、こんな他の人の目のある場所で、こんなことするなんて___」

「んー?法律で禁止されてるわけじゃねえし、何したっていいだろ?」僕達を面白おかしく指差したり、眉をひそめたり、おえっと顔をしかめる通行人。星さんは、それらをニヒッと笑い飛ばして獲物を手にした海賊のような表情になる。「あいつら、かわいそうな奴らなんだよ。あん中の誰もこんなに熱いキスはしたこと無いに決まってる。俺は本気でお前に惚れてんだ。恥ずかしくねえどころか、誇らしいぜ!」

 そしてまた、さっきより深く唇を食い合わせてきた。

 キスって、重いんだな。真剣にされると、まるで魔法にかかったみたいに身体が動かなくなるんだ。

 息継ぎのためじゃなく自然に口が離れると、豚人は怖い顔を朱に染めている。それはまさしく、僕が好きな優しい夕焼けの色。

「夕辰、俺も正直言うと、お前は童顔のくせにどっか不思議な雰囲気がある後輩だなと思ってたんだ。お前の言葉を聞いてその理由が納得できたよ。

 お前は自分の生命いのちが短いって言われたから、他の奴らよりもこれまでの時間…14年の間を早く駆け抜けてきたんだ。だから、そのぶんだけ周りの連中よりも大人びてるんだな___」



 冬の陽射しは昼間でも淡い。白けた月が星さんの額の端っこに見えて、僕はその広い背中にソロソロと腕を回して考えた。

 この人のためになら、僕はもう少し、生きることを頑張ってみてもいいかもしれない___と。    


続く

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