第4話 少女戦士と冒険の旅(前篇)

 春になると、心が躍る。


 ポカポカと暖かい春の陽気のせいもあるだろう。

 けれど俺たち学生は、それだけじゃないはずだ。


 終業式が終われば、さぁみんなお待ちかね、春休みだ。


 夏休みや冬休みと違って、宿題がないのも春休みの特徴のひとつ。

 そのせいか春休み前は、みんな浮き足立っているのがよく分かる。


 ディズニーランド? 東京スカイツリー? それともUSJ?


 クラスメイトのみんなは、何処へ遊びに行くか相談していた。

 その輪からそっと離れた俺は、ひとり帰宅の途についた。

 心苦しいが友人たちの誘いは、みんなキャンセルするしかない。

 なにせ長旅へと出かける準備をしなくてはならないからだ。


 なにしろ俺が向かうその先は、剣と魔法と冒険の異世界。

 未開の大地に怪物が跋扈し、数多の英雄が生まれいずる場所だ。


 そしてそこには、天姿国色のハイエルフが待っている。

 彼女の事だ。今か今かと首を長くして待っているに違いない。


 俺は逸る心を抑えながら、足早に自宅へと向かう。

 彼女とした約束を、絶対に守るために。



 見渡す限りの一本道。まるで地平線の彼方まで続くかのようだ。

 ここは、王都よりイラを跨ぎ、南北を結ぶ旧交易街道。今まで見たことがない程、高くそびえる街路樹が立ち並ぶ。

 その街路樹の向こう側には、長閑のどかな田園風景が広がっていた。


 『グラスベルの玄関街』と呼ばれるイラを離れて、三日目の朝。


 その街道上に瑛斗とアーデライードはいた。高校の春休みを利用して、彼女と初めての遠出をすることになったのだ。

 まず最初の目的地は隣街、古都・エーデル。イラから南へ徒歩で三日程度の所にある。

 日の出前に宿を出て、今はまだ早朝と呼べる時間帯だ。朝霧が葉の上に露を落としそうな、しっとりとした空気が周囲を包む。


「この季節の朝はいいわね。大気がマナに満ち溢れている」


 深呼吸をしたアーデライードが、続けざまに小さく伸びをした。

 マナとは、大気に宿る気の流れだという。魔力の根源のひとつだそうだ。

 瑛斗も彼女を真似て、朝の涼やかな空気を胸いっぱいに吸い込んでみた。なんとなく細胞の一つ一つが活性化する――そんな気がする。

 でもそれは精霊使いシャーマンのアーデライードに言われたせいかも知れない。魔法能力が低い瑛斗では、マナに関して真偽のほどは分からない。

 先を行くアーデライードの足並みは軽やかだ。何せ彼女は軽装で荷物が少ない。

 服の上に装備した、装飾の美しい針葉樹色基調フォレストグリーンのレザーアーマーに、腰に付けた幾つかのポーチ。あとは愛用のレイピア程度――とかなり身軽なためだろう。

 彼女の分も含めて荷物は全て、瑛斗が背負ったバックパックの中にある。


「大丈夫そうだね」

「なにがよ?」

「先週は二日酔いアデリィのお世話で終わった」

「うっ、五月蠅いわね! 悪かったわよ! ありがとう!」


 かなり甲斐甲斐しくお世話されてしまった。相当無様な姿だったはずだ。

 いつも尊大で高慢なアーデライードですら、思い返すに赤面せずにはいられない。


「それよりも早く『コージエン』を渡しなさいよ! 約束でしょう!?」


 失態の記憶を振り払うように、わざと怒鳴ってみせているのが丸分かりだろうか。


「この旅が終わったら渡すよ」


 そんな心配を余所に、瑛斗はいたって真面目な表情で答えた。

 義理堅い瑛斗は、約束通りに最新の広辞苑を持って来ている。だがまだ渡していない。借りてある『悠久の蒼森亭』の一室に、そっと隠して宿を出た。

 何故ならば、膨大なページ数に渡るこの書籍を渡した途端、活字中毒の彼女は、部屋に閉じ籠ったまま出てこなくなると、容易く予想ができるからだ。

 珍しく瑛斗が素直じゃないのは、今回の遠出を余程待ち望んでいた証拠だろう。だがアーデライードには、瑛斗の初遠征を邪魔する気なんて毛頭なかった。今回に限っては、彼の旅立ちを応援するためにも、全力で成功させる心構えでいる。

 もちろん、前回の失点を取り返すためもあるけれど――


「信用失っちゃったかなぁ、寂しいなぁ、もうっ……」


 なんてことはとても声には出せない。色んな気持ちが相まって、自分を誤魔化すように頬をぷーっと膨らませた。



 二人が歩き始めること数時間。

 街道は山間やまあいの谷間へ入り、段々と緑の色が深くなってきた。そんな山奥の細道を歩いていた時のことだ。アーデライードがふと足を止める。


「ふーん……ね、この近くにとても綺麗な渓流があるんだって」

「へぇ、誰から聞いたの?」

「精霊が囁いているのよ。ねぇエイト。私、水浴びがしたいわ」


 またアーデライードの唐突な我儘が始まった。

 とはいえイラの街を出てからもう三日目。綺麗好きな彼女のことだ。そろそろ水場が恋しい時期だろうとよく理解できる。

 瑛斗の返事も聞かず、アーデライードは街道を外れて森の中へと飛び込んだ。軽やかな足取りで進む彼女の後を、瑛斗はゆっくりとついて行く。

 道なき森の下り坂を程なくして、涼やかな川のせせらぎが聞こえてきた。


「ホントだ。こんなところに渓流があったんだ」


 アーデライードが率先して水浴びをしたがる理由が分かるほど、そこは湧水の湧き出る透明感溢れる清流であった。


「エイトも入りなさいな」

「いや、俺はいいよ」

「ダメ。あなたも入りなさい。命令よ。汚い人はイヤ」


 こうなるともう何も聞き入れてはくれまい。

 アーデライードに命じられるまま、瑛斗は渋々と服を脱ぎ始めた。


「へぇ、良く鍛えているじゃない」


 まだ少年のあどけなさを残す瑛斗の上半身は、未完成でありながら引き締まった男の肉付きをしている。鍛錬を怠らない瑛斗らしい肉体といえた。


「ジロジロ見ないでくれよ。恥ずかしいだろ」

「まだ子供なんだから気にすることないわよ」


 アーデライードの言う事は容赦ない。


「水浴びしたいと言ったのはアデリィなのに。君はどうするんだよ」

「無用な心配はいらないわ」


 そう言い残して精霊語を唱えると、足先から水が湧きあがり次第に彼女の姿を消し去ってしまった。これは精霊語魔法のひとつ『アクアミラージュ』というそうだ。

 後から詳しく聞いた話だと、水の精霊を使って光を屈折させているのだという。


「ね、これならば分からないでしょう?」


 なるほど。だがなんというか、ちょっと複雑な気分になった。


「もしかして、私の裸が見られると思った?」

「お、思わないよ!」


 即座に否定したが、思春期の瑛斗に「全く思わなかった」と言える自信はない。


「異世界の小説だと、入浴時には乙女の裸身が見られるものなんでしょう?」

「そんなわけないだろ」


 とは言ったものの、最近のノベルとかアニメにはそういうのが多い気がする。


「私、読んだことあるわよ」

「ええっ、まさか!」


 爺ちゃんが異世界に今風の小説を持ち込んだとは、とても思えない。いくら頭を捻ろうが釈然とする回答が思いつかなかった。音を上げてアーデライードに尋ねてみる。


「……なんていう小説?」

「えっとね、確か『伊豆の踊子』だったわね」


 言わずと知れた、ノーベル文学賞を受賞した川端康成の代表的な短編小説だ。かの名作にそんなシーンがあっただろうか。うちへ帰ったら読んでみることにしよう。

 そうこうしている内に、微かに聞こえる布すれの音。アーデライードが服を脱ぎ始めたのだろう。純情な瑛斗は、その音ですら緊張してしまう。


「あのさ、アデリィ。俺はこっちで身体を拭いているから」


 瑛斗が後ろを向いた時、水の中に飛び込む音が聞こえた。


「ねぇ、エイト。私、いま全裸よ?」

「そ、そういうのは言わなくてもいいから!」

「なぜエイトは恥ずかしがっているの? 見えていないのに?」


 くすくすと笑い声が聞こえてくる。すっかりからかうことに決めたようだ。

 見えていない、というアーデライードの方へとよくよく目を凝らす。すると彼女の声がする向こう側の背景との間に、少しだけ違和感がある。それは透過する若枝のようにしなやかなアーデライードの身体のライン。それは本当にうっすらであり、彼女でさえも全く気にしない程度のものであったが、瑛斗を赤面させるには十分だった。

 女の子が下着姿は気にするクセに、似たようなビキニ姿を気にしないのと同じようなものかな――と、余計なことを考えたところで、首を横に振って邪念を振り払う。

 これ以上、純情をからかわれては堪らない。アーデライードの呼び声に聞こえないふりをしてそっぽを向くと、近くの岩に腰をかける。そうして足を川面に浸しながら、身体を拭き始めることにした。

 すると真正面の水面が大きく盛り上がり、尋常じゃない水飛沫が飛んできた。姿が見えないのをいいことに、アーデライードに思いっきり水を引っ掛けられたのだ。


「うわっ! いっ、悪戯にも程があるぞ、アデリィ!」

「あははは、そっちじゃないわよ、エイト!」


 アデリィの高笑いが清涼な森の中に響いた。仕返しに水を跳ね上げてはみたものの、アーデライードには全く当たらなかったようだ。

 麗らかな春の陽気の中、暫くお互いに水を掛け合った。

 お互いに、とはいったものの、アーデライードの姿が見えない瑛斗の方が、一方的にびしょ濡れにされてしまう結果ではあったが。

 ひとしきりそうして遊んだ後、アーデライードはひとりで水浴びを楽しむことに決め込んだようだ。きっと今は髪を流しているのだろう。彼女のご機嫌な鼻歌と静かな水音が聞こえてくる。

 一方、瑛斗は木陰で服を脱ぎ、びしょびしょに濡れたズボンを固く絞るのに専念していた。


「あーあ……パンツまでびしょびしょだよ……」


 馴染みのない森の中で下着まで脱ぐ気にはなれない。それにアーデライードがどこで見ているか分からない。タオルで適当に全身を拭いて、後は自然に乾くのを祈る。

 そうしていると、視界の端に何かが風でふわりと舞い上がるのが見えた。


「あれ、もしかしてアレって……」


 簡単に身支度を整えると、風に飛ばされそうになっていたアレを手に取った。


「ううん、これは困ったな。でも仕方がない」


 そして、数分が経過した後の事である。


「エ……エイト……」

「ああ、アデリィ。水浴び終わったんだね」


 精霊魔法を解いたアデリィが、大判のタオルに包まって青ざめた顔をして立っていた。濡れた髪からは、ぽたりぽたりと大粒の雫がまだ滴り落ちている。身体を拭くのもそこそこに、瑛斗の元へと飛んできたようだ。


「えっと、どうかした……?」

「どうしたもこうしたも何もないわよ!」


 困惑した表情で瑛斗を怒鳴りつけると、岩場に置かれた自分の着衣を指差した。

 それらは全て丁寧に畳まれた上に、清潔そうな大きめの石が上に積まれている。それは風に飛ばされないようにした配慮であろう。


「なんで脱ぎ散らかしてた私の服が、きちんと畳まれて置いてあるのよ!」

「や、だって、風に飛ばされそうだったからさ」

「風にって、何がよ!」

「えーっと、あの、ほら……白くて、三角で、小さいのが……」


 はっきりと言うには憚られたので、瑛斗はつい口籠った。


「ああもう、いい! 聞かなきゃよかった!」


 アーデライードは恥ずかしいと感じていた。ある意味、裸を見られた方がマシだ。

 もしも裸を見られたとしたら、それは事故だ。もしくは瑛斗の過失によるものだろう。ならばちょっと悲鳴を上げて、瑛斗を引っぱたいて終わりにしてしまえばいい。そのくらいの信用は、この半年間でしっかりと二人の間に築かれている。

 だが、寄りにも寄って大恩ある勇者の孫に、さっきまで身に着けていた自分の着衣から下着まで、きちんと畳まれてしまうなんて。その上、スカートの折り目プリーツは元より、服の皺までちゃんと叩いて伸ばしてあったのだから堪らない。

 ガサツな自分が悪かったとはいえ、こんなにも丁寧な仕事っぷりを見せつけられると、しっかりしなくてはならないはずの自分が、だらしなく感じられた。

 匂いはしなかっただろうか。汚れはなかっただろうか。もう気が気ではない。

 まだ少年の瑛斗に女心を理解しろなんて言えないし、むしろ察せられても困る。そして落ち着きなく、こんなにあたふたしている自分にも、うんざりしてしまう。


「もう……なんでエイトってこんなに気が利くのかしら? 異世界人の男ってみんなこうなの?」


 アーデライードはそう独語ひとりごちて、皺のとれた服をのろのろと着るしかないのだった。



 再び山間の街道を歩き始めてそう間もなく。ハイエルフ特有の艶やかな金髪が、そろそろ乾き終わった頃のことだ。

 先行して前を歩いていたアーデライードが、ふと足を止めて呟いた。


「精霊たちがざわめいている……これは血の匂いのせいだわ」

「あの一団、何か様子が変じゃないかな」


 瑛斗が指差す先は、旅人であろうか。三人ほどいるのが見えた。

 その内の一人は赤髪をした小柄な戦士風で、怪我をしたのか片腕を押さえてしゃがみこむ。残る二人は、街道を切り通した土崖にぐったりと倒れ込むように寄り掛っていた。


「あっ! ちょっと、待ちなさいエイト!」


 アーデライードが止めるのも聞かず瑛斗が駆けつけると、片腕を押さえていたのは戦士姿の少女であった。切り傷だろうか。腕から血が滴り落ちている。


「怪我をしたのか?」

「私は腕を……でもかすり傷だから、大丈夫」

「かすり傷でも油断はできない」


 傷口の布を裂き、清潔なハンカチと水筒の水を使って傷口をよく洗い流す。手際よく止血をし包帯を巻く。爺ちゃん譲りの応急治療だ。

 瑛斗のあまりにそつがない行動に、戦士姿の少女は驚いた。


「す、凄いわね……あなた」

「爺ちゃんが良く言ってたんだ。生死を分けるは、初期治療が重要だってね」


 そう聞いた瑛斗が習得した技の一つが、応急処置だ。

 爺ちゃんの応急処置は、戦場で数多くの戦友たちの命を救ったという。だがそれは戦場ばかりではない。魔王退治の時も同様に仲間の命を救っている。

 治療を終えて少女を見るに、歳の頃は瑛斗と同じくらいであろうか。使い込まれているがよく手入れの行き届いた防具類。凛とした光を灯す瞳に、赤髪で長めの緩やかなショートボブが印象的だ。


「あとの二人は?」

「私が簡易処置を……多分一人は腕と肋骨を骨折してる。もう一人は頭を打って……」

「大丈夫。命にはぜーんぜん別状なさそうよ」


 ゆっくりと瑛斗に追いついたアーデライードが代わりに答えた。精霊の動きで様々なことを見通せる彼女だ。確信的に言うならば、まず間違いはないだろう。

 だが、いきなりそこから返す刀で、戦士の少女に辛辣な声で問いかけた。


「あなたたち冒険者でしょ。なに? 返り討ちにあったの?」

「! 仕方がないじゃない! 予想外の不意打ちに遭って……」

「だらしないわね。さっさと立ちなさい」

「なっ、なんですって?!」


 口論間際の二人の間を、瑛斗がなだめる様に割って入る。


「そういう場合じゃないだろ、二人とも」


 言いながら、ゆっくりと背中のバックパックを下した。


「やっぱりエイトはよく分かっているわ! ……あなたは落第点だけれど」


 赤髪の少女が抗議の声を上げようとした瞬間、ハッキリと彼女にもそれが分かった。


 私たちの周囲に、何かがいる。


「ところでエイト、よく気づいたわね」

「アデリィが俺のことを『待ちなさい』って止めたからね」


 基本、冒険に関しては放任主義のアーデライードである。そんな彼女の注意喚起だからこそ、瑛斗は周囲への注意を怠たってはいなかった。


「ちょっと反則だわ。だけれど、いい判断よ」


 ガサリ……ガサリ……


 周囲の草木を掻き分けて現れたのは、ゴブリンの群れだった。

 黒猩猩チンパンジー程のサイズに、小鬼のような醜悪な姿。奴らは邪悪にして狡猾な種族である。

 石斧や石刃を手にするこの怪物たちは、瑛斗ら三人の周囲を取り囲み始めた。


「あらあら、食糧と血の匂いを嗅ぎつけたのね。ハイエナのような連中だわ」

「あのさ、アデリィ」

「なに?」

「この世界にもハイエナっているの?」

「……私は見たことないわね」


 勇者ゴトーの受け売りである事がうっかりバレてしまった。

 怪物を前にしての呑気なやり取りに、戦士姿の少女が思わず口を挟んだ。


「ちょ、ちょっとアナタたち、こんな時に何を巫山戯ふざけてるのよ!?」


 利き腕の怪我で剣を握れぬ少女は、焦りの色を隠せなかったようだ。


「ね、ねぇ、アナタたち、腕に自信は……?」

「いや、俺はこれが初めての戦闘だ」

「……聞かなきゃよかった」


 皮肉交じりに吐き出した溜息を、少女は再び飲み込むことになった。

 瑛斗が降ろした荷物の中から引き抜くは、大振りの両手剣グレートソード


「あなた……何よそれ!?」


 いや、彼の持つ剣は、両手剣を片手半剣バスタードソードに改装してあるようだ。とはいえ、その長さは彼の身の丈に近い。


「そんな剣を初めての戦闘で使うだなんて、バカげてる!」

「これが一番重かったんだ」

「英雄気取りは結構だけど、それで死んだら元も子もない!」


 このやり取りには、アーデライードも黙ってはいない。


「助けてもらっといて、いちいち五月蠅うるさい女ね」


 若干苛つきながらそう言って、赤髪の少女の肩を掴んで下がらせる。


「怪我人は邪魔よ。エイトの初陣を邪魔しないで」

「な、なんですって!?」


 アーデライードの手を跳ね除けて、赤髪の少女はあろうことか暴言を吐いた。


「何を言ってるのよ! うう、えっと、この、ちびっこエルフ!」

「あら、もう一度言って御覧なさい。この赤毛のお猿さん」


 アーデライードがそう言った途端、少女が何か喋ろうとしても、むぐむぐと口が動くだけで声を発することが出来ない。

 これは、風の精霊を使役つかった静寂サイレントの精霊語魔法である。

 音を運ぶ風を操って遮断すれば、自分は元より誰の耳にも届くことはない。それにより赤髪の少女は、口が訊けなくなってしまったのだ。

 速やかに邪魔者を排除したアーデライードは、腕組みをすると冷静だが鋭い声を瑛斗に飛ばした。


「エイト、油断は?」

「ない」

「教えたことは?」

「覚えている」

「ならいいわ。それじゃ行ってらっしゃい!」


 アーデライードの声のトーンは、まるで近所へお使いにやるかのようだ。

 戦士姿の少女は思わず「初心者をひとりで行かせる気?!」と叫んでいた。

 もちろんそれは『声が出ていたならば』の話だが。


 ゴブリンたちの数は三匹。

 不気味なわらい声を上げつつ、まるで狩りを楽しむかのようだ。

 瑛斗はバスタードソードを下段に構えたまま、ゆっくりと間合いを詰めてゆく。

 ゴブリンの動きは然程さほど速くはないが、のろまとも違う。

 賢くはないが、決して低い知能の持ち主ではない。

 動きを見極めた瑛斗は地を蹴ると、瞬時に片手半剣バッソの間合いに入れた。


 その動きを「速い!」と赤髪の少女は思った。

 だが瑛斗は「遅い」と感じていた。アデリィの方がずっと速い。


 そのまま躊躇なく剣を振り抜くも、ゴブリンたちには掠りもしない。

 一旦引き下がったゴブリンたちは、体勢を整えると一斉に瑛斗へと雪崩れかかる。


「エイト、敵が三匹並んでいる場合は?」

「もう一匹その先を斬るんだろ、アデリィ!」


 瑛斗はすぐさま二撃目へと転じる訓練を重ねていた。

 三匹並んだ敵の、そこにはいない四匹目までを斬り抜く気持ちで……!


 勝負は一瞬で着いた。三匹諸共、真一文字に一刀両断。


「まだだ!」


 倒木の陰に隠れていた最後の一匹。瑛斗は流れるような三撃目で瞬断した。

 その場にいた全てのゴブリンは、退治された。あっという間に腐った土塊に戻り、消え失せてゆく。

 赤髪の少女は「強い……!」と呟いたつもりだったが、まだ声は出ていなかった。

 瑛斗は「ふぅ」と小さく息を吐いて、初陣の緊張を解く。


「どうかな、アデリィ」

「いいわ。それがあなたの戦い方よ。これからあなたの軸になる」


 満足そうなアーデライードは、瑛斗へ向けて悠々と、余裕の笑みを浮かべる。

 だがずっと彼女の隣にいた赤髪の少女は、戦士の直感として肌身で察していた。この亜人類ハイエルフの、見かけは華奢な美少女といえる彼女から、鬼気迫る程に立ち上っていた気配。少年の一挙手一投足を見逃さんとする凄まじい圧力。

 万が一、彼に何事かあらば、即座に対処したであろうことは想像に難くない。戦士としての経験が、彼女の背中に冷たい汗を滴らせた。


「やぁ、片付いたよ」


 戦慄していた赤髪の少女の気持ちを余所に、瑛斗は呑気に話しかけた。

 けれど彼女の声は、まだ出ることはない。酸欠状態の金魚の様に口をパクパクとさせるのみである。


「ねぇ、君の名前は?」

「~~~~~~~~~~~~!」

「ああ、ごめん。俺の名前は瑛斗っていうんだ」

「~~~~~~~~~~~~!」

「……もしかして、緊張して人見知りするタイプ?」

「~~~~~~~~~~~~!?」

「エイト、貴様に名乗る名などない」

「~~~~~~~~~~~~?!」

「いや、そんなことは言ってないと思うよ、アデリィ」

「~~~~~~~~~~~~!!!!」


 赤髪の少女は、段々涙目になりながら、必死に何かを訴えているようだった。

 だが瑛斗は、少女の身に何があったかわからない。目の前の敵に集中していたから、すっかり見逃していのだ。あの時、アーデライードが人差し指をタクトの様にして振ったのを。


「アデリィ……君が何かをしただろ?」

「さぁ? 暫くしたら元に戻るでしょ」


 髪色の様に顔を真っ赤にする少女を横目に、アーデライードは涼しい顔で答えた。

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