第5話 誰がために

 「相馬そうま殿、何故戻られた。ここはそなたがおる場所ではないはず」

 日向徳兵衛ひゅうがとくべえはうな垂れる一平に白湯さゆを差し出す。

 「何があったかは知らん、じゃがここは一向衆の・・・」

 「徳兵衛殿、徳兵衛殿は何のために戦っておるのですか?・・・」

 両手をついたまま彼は、徳兵衛を見上げる。


 徳兵衛は「仏説無量寿経ぶっせつむりょうじゅきょう」と書かれた紫色のたすきを手に取ると、その朱色の糸で刺繍ししゅうされた文字を一文字々親指でなぞった。

 「わしらは、すべて阿弥陀あみだ様のお教えに従っているまでじゃ。阿弥陀様と共に生き、阿弥陀様と共に死ぬ。ただ、それだけじゃ」

 「仏のために死ぬのですか?・・・」 

 一平はうなだれ、自分のこぶしを見つめた。

 少しの沈黙が続く。

 囲炉裏いろりに掛けた鉄瓶てつびんの湯が微かな音を立てている。

 徳兵衛は鉄瓶のふたを開けると、柄杓ひしゃくで少しの水をその中へと注いだ。湯は再びその音を失った。


 「相馬殿は、何のために戦っておるのじゃな?」

 「拙者は、ただ信ずる殿のため、織田家のためと思うておりました」

 彼の目からは、涙が取り留めもなく溢れ出る。それはほおを伝わり、あごの先から大きな水滴の塊となって畳に幾つもの跡を付ける。

 「思うておりました?・・・」

 徳兵衛は、先程からふすまの向こうにひかえている娘のこうを呼び入れた。香は足早に部屋へ入ると、一平の背中に向かって深々とひとつ頭を下げる。

 一平にはその香の足袋たびが畳をる音も、背中越しに漂う彼女の香りも、そして息づかいまでもがはっきりと目に浮かぶ。


 「一平様・・・」

 「お香様・・・」

 二人は声に出さずとも、心の中で互いを呼び合う。

 徳兵衛は、ひとつ白湯をすすった。


 「思うておりましたとは、では相馬殿は、今は何のために戦いまするのか?」

 一平は面を上げると、振り返り香を見つめる。そして、静かに徳兵衛の方に向き直った。

 「拙者せっしゃは、誰のためにも戦いませぬ」

 「戦わぬ?・・・」

 「戦いませぬ。戦わぬことこそが、本当に愛する者を守ることだと思いまする」

 再び一平は香の白い指を見つめる。


 徳兵衛は立ち上がると、静かに部屋の襖を開け放った。見ると、外にはいつもの年よりも少し早い雪が降り始めていた。


 「戦わぬことが守ること・・・、か」

 徳兵衛はひとつ、深いため息をついた。


 ほどなく白山の里も、一面真っ白な雪で覆われた。この雪の中では、織田軍も容易に攻めてはこないであろう。

 一向衆徒の村にも一時的な安らぎの時が訪れたことになる。


 一平は相変わらず願慶寺がんけいじへの参拝を日課とした。かたわらには、今日も香が寄り添うように歩いている。

 彼が村を歩くときは、必ず紫色の襷を首から下げた。徳兵衛がそうするよう彼に渡したものである。

 村の者達はこの紫色の襷が意味することを十分承知している。だからこうすることで、彼もこの村の中では一向衆徒と同じ立場を保つことができるのである。

 山門を抜けると、一平は伽藍がらんへと通じる石段を見上げる。


 「お香様、いつかお香様と交わした約束を、私は守れそうにありませぬ」

 「・・・・・」

 香は黙っている。

 「拙者は、ここにいても愛する人すら守ることが出来ないのです」

 一平はゆっくりと牡丹ぼたん雪が落ちてくる灰色の空を見上げた。

 「私は、一平様がそばにいて下さるだけで良いのです・・・」

 香はうつむきながら答える。 

 一平は、そっと香の手を取ると、自分の手の中で暖かな息を吹きかけた。


 鳥越とりごえ城へと向かう道すがら、二人は孫一まごいち太助たすけに出会った。

 孫一は挨拶を交わすよりも先に一平の手をしっかりと握りしめる。太助に至っては、すでに一平のその胸の中で声をだして泣いている。

 彼らの再会に言葉はいらなかった。一平は太助の顔から涙をぬぐうと、彼に尋ねる。

 「新吾しんごは如何いたした?」

 「新吾兄いは、佐良さがら様のご命令で松任まっとう城に行きましただ」

 太助も今では、その腰に立派な太刀をたずえている。

 「佐良様?・・・」

 一平が初めて聞く名前であった。

 「鳥越城の新しいお殿様ですじゃ」

 孫一が答える。

 一平は、春から始まるであろう、織田軍による一向衆徒への総攻撃を予見よけん してか、ひとり悲しい目をした。



 やがて長い冬が過ぎ、また春が巡ってきた。

 里山にも雪の間からふきとうがいくつも芽を出し始めている。雪解け水の集まった川では、川岸に小さな魚達がその黒い背中を群れなしている。

 棚田に張った氷も昼過ぎには溶け、きらきらと眩しいほどに太陽の光を映し出していた。


 そんな中、松任からの早馬が駆け込んできた。

 しかしその知らせとは、織田方の総攻撃によって城が陥落かんらくしたというものである。さっそく村人達は皆、日向徳兵衛の屋敷に集まるとこの知らせを耳にした。


 「松任城が織田の手に落ちたそうじゃが、城に行った村の者達はどうなったのじゃ?」

 長老達が誰とは無しに尋ねる。

 徳兵衛は黙ったまま頭を振る。

 「城は四方から攻められ、ありい出る隙も無かったそうじゃ」

 「で、では、新吾兄いは?」

 太助は、もう半べそをかいている。

 「この白山の里にも攻めてくるのだろうか?・・・」

 孫一の言葉には一平が答えた。

 「秋までには、必ず攻めてくるに違いない」


 ところが、一平のこの言葉に村人達の表情は見る見る険しくなった。

 「おめえは何でここにいるんだ。おおかた織田に俺達のことでも知らせているんだべ」

 吉次きちじが嫌みを込めて一平をなじる。

 「相馬様はそんな人でねえ。おら達にも槍や弓の使い方を教えてくれたでねえか」

 孫一が食ってかかったが、松任城を落とされた村人の怒りは自然、一平へと向けられる。中には一平をこづく者や襟首えりくびを掴む者まで出てきた。

 「だいたいこいつは、もとは織田の侍でねえだか。いつわしらを殺しにかかるか分かったもんじゃねえ」

 木こりの助松すけまつが土間においてあった鎌を手にした。

 村人も知っていたのである。一平が人知れずこの村からいなくなった理由を。

 そして、今ここでやり場のない怒りを彼に向けることで、目の前の恐怖から少しでも逃れようと考えたのである。


 徳兵衛は立ち上がると、助松と一平の間を割るように身体を置いた。

 「徳兵衛様、どいてくれろ。織田の兵が攻めてくる前に、まずこいつからおらに殺させてくれ」

 そこにいる誰もが血走った目をしながら、この助松と徳兵衛、そして一平との距離を固唾かたずを飲んで見守っている。

 この沈黙を破るかのように、急に太助がその腰にした太刀に手を掛けた。彼は一平に背を向けると、鎌を手にした助松をにらむ。

 「太助っ、おまえはいつからそいつの子分になりやがったんだ。おまえはおら達と同じ一向衆徒でねえのか!」

 吉次の言葉に、太助は背中で大きく息をする。

 緊迫した時間が永遠のように長く感じられた。言葉にはできない怒りや感情が、その場の空気を動かすことも躊躇ためらっているようだ。

 「徳兵衛様っ、どいてくれろ」

とその時である。部屋の奥から香が静かに現れた。

 香は助松の目の前に立つと、その大きな瞳で彼や吉次、そして村人達を見つめ静かに語り始めた。


 「お忘れになりましたか。助松さんも吉次さんも、そして村の皆も相馬様が丹誠たんせい込めて作られた牛蒡ごぼうを食べられたではありませんか。手取川にも、相馬様は一人で川魚用の生けをお作りになられました。それに、村の皆が日々怪我をしないよう、幸せに暮らせるようにと、一平様は毎日願慶寺にもうでていたのを知っておいででしょう。そんな、一平様を・・・」

 言葉の最後は、香の流した涙がすべてを語ってくれた。

 「お嬢様・・・」

 助松はその場に鎌を放った。

 香の言葉に、皆は返す言葉を失った・・・


 徳兵衛は娘の言葉に、あらためて一向衆徒としての自分が何をなすべきなのかということを気付かされたような気がしたのである。

 彼はもう一度村人達一人一人に言い聞かせるよう、一平の処遇しょぐうについてその口を開いた。

 「以降、相馬一平をこの村に迎入れることとする。異存のある者はござらんな」

 村人は答える代わりに、静かに頭を垂れる。

 孫一はその手を、そっと一平の肩に落とす。太助は徳兵衛の足下にひれ伏すと、土間に額を擦るほどに頭を下げた。

 一平の隣では、香が声を出さずに泣いている。しかしそれは、悲しく冷たい涙ではなく、心が震えるような温かいものでもあった。


 この後、日向徳兵衛は村人に里山の備えをするよう指示すると共に、太助を鳥越城へと走らせた。

 それは城の本願寺信徒しんと、佐良善宗ぜんそうに連絡を取るためであった。



松任城が織田勢によって落とされたという報告を受けてから二日後、物見のため手取川の河原を下っていた者から火急の知らせが届いた。それは、藤蔵ふじくらの河原から少し上がった山道で、新吾が見つかったというのである。

彼は瀕死ひんしの重傷を負ってはいるものの、まだ息もあるという。早速、一平と孫一、それに太助や村人たちも藤倉の河原へと急いだ。


到着した一平達が目の当たりにした新吾の姿は、とてもそれが彼だとは気づけないほどであった。

背中から刺さった矢は肺を抜け、やじりはその胸元をつらぬいている。槍刀で斬られた箇所も五つや六つではない。

新吾は雑兵の甲冑すら身に付けてはおらず、衣服には所々赤黒く固まった血が不自然な紋様もんようを作っている。

それは語らずとも、松任城での戦が如何に凄まじかったのか伺い知ることができた。


うつろな目をした新吾は一平の声を聞くなり、その声がする方に瞳を動かす。おそらくは、もう目も見えていないのであろう。

彼は宙を見るような眼差しで、それでもなお口だけは確かに動かした。

「相馬様・・・、相馬様・・・」

「聞こえるか新吾、わしはここじゃ。おまえに命をもらった一平じゃ」

「相馬様・・・、城の者から相馬様が里に戻られたと聞き、是非もう一度お会いしたいと思っておりました・・・」

むせる新吾の口からは、真っ赤な血がほとばしる。

「新吾、しゃべるではない。すぐに医者を迎えにやるので、それまでの辛抱じゃ」

「相馬様・・・、わしは相馬様にびなければなりません。村に相馬様の噂を流したは、この私です・・・」

一平は新吾の手を、両手でしっかりと握った。

 新吾も力無くその手を握り返す。


「それを言うためにここまで・・・。もう良いのだ新吾。そのようなこと、わしは何とも思うてはおらん。もう良いからしゃべるではない」

「新吾兄い、もう相馬様はおら達の仲間だ。徳兵衛様もそう仰ってくれただ」

太助は新吾の足にすがり付くように頭を埋める。

孫一も、もう一方の手を取ると、自分の頬にそれを擦りあてる。

「孫一・・・、太助と村を頼むぞ・・・」

「新吾兄い、新吾兄い!」

新吾は見えぬ目で動かぬ身体で、それでも最後の力を振り絞って口を開いた。


「相馬様・・・、お香様を・・・、お香様をお守りく・・・」

「新吾―っ!」

新吾は静かに目を閉じた。

一平には新吾が語ろうとした最後の言葉がはっきりと聞こえていた。

 彼は血に染まった新吾の髪を束ねると、それを短刀で丁寧に切りふところに抱いた。隣では、孫一も太助も誰はばかること無く大声で泣いている。


 新吾の亡骸なきがらは願慶寺にほど近い、雲龍山うんりゅうさんの中腹に埋められた。そこからは正面に鳥越城が望め、また白山の里を一望の下に見下ろすことができる。

 村人達一向衆徒は、今までにも増して織田に対する憎悪の念を燃やしたが、同時に新吾の死によって、いよいよ織田による一向一揆の掃討戦そうとうせんが間近に迫っていることを感じずにはいられなかった・・・

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