第30話


 薄暗い部屋の中で、ジェーンはエリーがエドガーらしき人物を取り押さえているのを見た。そこまでは、想定の範囲内だった。だから、そのまま部屋の奥へと目をやった。一人の少女が、木の椅子に体を預けて、こちらを見ている。その髪は、驚くほど真っ赤な色をしていた。ジェーンはどきりとした。目をこらして顔を見る。それは紛れもなく、レイチェルの顔をしていた。ただ、その瞳はやはりルビーのように赤く、ジェーンは唾を飲み込んだ。白い肌が深紅の解かれた髪に埋もれて、赤バラの花びらを敷き詰めたところに一輪だけ落とされた、真白いバラのようだった。ジェーンは目を細めた。レイチェルのまなざしは、ジェーン一人に注がれている。それが、ジェーンにはしっくりきた。

「ジェーン」

 その唇が、名を呼ぶ。

「ごめんなさい、あなたを苦しめて。私、酷いことをしたのに」

 今にも泣き出しそうな顔に、胸が締め付けられていく。

「でも、やっぱり来てくれた」

 ジェーンの体が震えた。何ら、変わりはないのだ。その声音は、一年前までの記憶の中のレイチェルとは。

なのになぜだろう。あんなにも焦がれていた時間が遠すぎて、どんなふうに接していたかわからなくなっている。そして、レイチェルを染める赤。

存在してはならない者。

キュセスの加護を自ら絶った者。

けれど、とジェーンは思い直す。小気味よい衣擦れの音をさせて、ジェーンはレイチェルに近づく。二人の前を通り過ぎ、レイチェルの目の前に立つ。レイチェルはそっと手を差し出しかけた。しかし、すぐに手を下ろした。

「クロムから、話を聞いてきた。娘は、既にこちらの手の者が保護している」

 レイチェルは、予測していたかのようにあまり喜びを露わにしなかった。が、改めてそれを実感しているようでもあった。

「だが、娘は返せない」

 きっぱりと、ジェーンは言った。レイチェルは、静かに言葉の続きを待っている。ジェーンは、眉根を寄せて言った。

「交換条件だ、レイチェル。その力を、セントオールのために使ってほしい。その代わりに、娘とレイチェルの命の保証をしよう」

 ジェーンはレイチェルのその深紅の目をまっすぐ見つめる。その赤い瞳は、ちかちかときらめきながら矢継ぎ早に、ここではない様々な光景を映しているのが見て取れた。それが何かまではジェーンにはわからない。しかし、それによってレイチェルが、起き上がれずにいるのがわかった。

「ありがとう、ジェーン」

 レイチェルは、微かにほほえんだ。

「私の命の保証はいらないわ。娘さえ無事なら」

 その答えに、ジェーンは顔をゆがめる。

 もう、戻れはしないのだ。改めて、ジェーンはそう感じた。

 その方が、都合がいい。

「そんな顔しないで、ジェーン。――ごめんね」

 レイチェルは重そうに半身を起こすと、ジェーンの手を両の手で包み込む。顔の前に捧げるように持って行くと、ルビーの瞳の中で小さな光が天球を描くようにきらめいた。

「未来読見の祝福を、ジェーン・オズウォルトに授けん。精霊の紡ぐ糸があなたの意志を汲み、星の導きがあなたを照らさんことを」

 言って、そうっとその手の甲に口づける。

 瞬間、ぐらりと視界が歪んだ気がして、ジェーンはしっかりと足を踏みしめた。浮ついていた頭が、ようやく答えに辿り着けたかのようにはっきりとする。

「呪いの巫女、読見の巫女、何でもいい。私は、その祝福を背負おう」

 じっとりと、手の甲に熱を感じる。ふとレイチェルの手に包まれた自分の手を見ると、そこには星形の、焼印を押したかのような跡があった。痛みはない。熱だけがまだちりちりと残っているようだった。

「なりません、呪いの巫女と、取引などと!」

 エリーに押さえられ、エドガーが叫ぶ。

「セントオールに、災厄をもたらすおつもりか」

 ジェーンはちらとエドガーを見やる。

「災厄を運ぼうとしているのではない。私より、エドガーの方がずっと身に染みているだろう。この力を使えば、逆に災厄からセントオールを救えるかもしれない。使い方を、誤らなければ」

「キュセスの加護のない力です。魅入られてしまえば最後、取り返しのつかぬ事になります。ご再考を」

 枯れた声を振り絞るようにして、エドガーは叫んだ。しかしジェーンは、険しい顔をしてエドガーを見つめるのみ。

「ずっと気になっていたんだ、エドガー。一体、先王陛下に、何があったのだ。私には、巷で流れているような毒殺などではない気がしてならない」

 感情を抑えた声で、ジェーンは言う。エドガーはしばし逡巡すると、重そうに口を開いた。

「戦争の最後の年、我々はロザリー・コルベールを捕らえるのに成功しました。そして、秘密裏に城の北塔に幽閉しました。陛下は、話がしてみたいとおっしゃいました。彼女が、彼女から恋人を奪った我々に復讐しようとするのではないかという考えは、もちろん我々の中にもありました。しかし、陛下はご自身の王としての力量に、キュセスの加護に自信をお持ちでした。そして我々も、見立てが甘かったのです。想像以上に、巫女のまなざしと言葉は強く――我々は吐き出された禍々しい呪いの言葉に、気づかないうちに心が絡め取られてしまったのです」

「呪いは、本当だったと?」

 エドガーは、肯定も否定もしない。

「陛下は、三年ともたない。エリック様も、三十までは生きられない。セントオールは、貴族たちに蹂躙されて、没落の一途を辿っていく。呪いの巫女は、そう、陛下に言い放ちました。我々とて、信じようとはしませんでした。信じたくもない。戯れ言に過ぎぬと。しかし、ハロルドの乱、セズの洪水、ザラテの暗殺未遂と、呪いの巫女の〝予言〟が次々に年号も時期もぴたりとあたり、だんだんと貴族の台頭が現実のものとなるにつれて、陛下は心を乱していかれました。貴族への取り締まりを異常なまでに強化し、貴族からの毒殺を恐れて、食事も喉を通らなくなりました。私は初めて、陛下に強く意見しました。召し上がらないと、お体に障りますと。無理にでも召し上がっていただこうとして……もう、陛下には飲み込む力も、かつてセントオールを率いていた勇敢な背中も消え失せてしまったことに気づいたのです。それでも、私にとっては、最期まで理想の陛下であってほしかった――。そして陛下も、呪いに屈した王としての姿を見せたくないとおっしゃった。私は陛下の死因をトレヴィシックにも隠すことを約束しました」

 エリーは眉根を寄せる。

「陛下はおっしゃった。『もし、自分が本当に呪いなど信じず、これまでの姿勢を変えていなかったのなら、もしかしたらこのような事態は避けられたかもしれない。エリックを、呪いの中から救い出してやってほしい』と。かつて呪いの巫女を手にかけた時、彼女は私の耳元でささやきました。『十五年後、私はまたあなたの前に現れる。新たな王妃は私に祝福され、志半ばのエリック王の最期を見届ける』と。私は、一人生き長らえ、静かにその時を待っていました。エリック様に魔の手が伸びる前に、呪いの巫女を消すために。そして、やっと見つけた」

 声音に、怒気がこもっていく。

「エドガー、ここにいるのは、ロザリー・コルベールではない」

 ジェーンは強い口調で言った。

「ここにいるのは、レイチェルだ」

 いいえ、とエドガーは唸った。

「呪いの巫女です」

 ジェーンは一歩も引かずにエドガーを睨む。

「ここにいるのは、レイチェルだ。もし、呪いの巫女となった時は、私が命をかけて消そう。だがそれまでは、私がその命を預かる。手出しはさせん」

 ふっとひとつ息を吐く。そして、説き伏せるように言った。

「エドガー、お前の気持ちが収まらないのはわかる。お前にはレイチェルの娘を預けよう。もしレイチェルが弓引いたときには、お前に任せる。どうだ」

 レイチェルは、静かに自分を殺そうとしている男を見つめている。エドガーは地に頬をつけたままその様子をうかがった。深紅の瞳は、炎のような強さを持たず、ただ淡々と水をたたえた泉のようにエドガーを映している。ロザリーは、どうだっただろう。エドガーはまるで昨日のことのように忘れ得ない、あの一瞬を思い出す。自分と、最初にして最後、視線が混じり合った瞬間。激しく燃え上がるような憎悪を、瞳の奥に閉じ込めた血の色が、目に焼き付いて離れない。あの瞬間、自分は捕らわれたのだ。そう、エドガーは思う。その時感じたような感覚は、レイチェルから感じられない。あるのは、この世に存在するべきでない者に対する恐怖のみだ。

「お前はやはり、死期が見えるのか」

 レイチェルは肯定も否定もしない。まだ完全に、この目を使いこなせているわけではないけれど、と前置きして、

「あなたの未来に私やサラの命を奪うシーンは見当たらないわ」

と物語を読むかのように言った。

「お前の見える未来でも、セントオールの破滅は変わらないか」

 レイチェルはじっとエドガーを見つめる。ジェーンはゆっくりと頭を振った。

「エドガー、もう、呪いはおしまいにしよう。エリックや私とともに、抗ってほしい。お前の力を貸してくれ」

 エドガーは体の力が抜けたかのように、地に体を預ける。エリーは縛めをそっと解いた。それでももう、エドガーはレイチェルに刃を向けることなく、地に伏せている。背中が、泣いているようだと、エリーは目を背けた。

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