第26話

 降臨祭を終える頃には、ぐっと気温が上がり、夏が訪れる。ジェーンは、相も変わらずエリックのスパルタ教育と、エドガー探索に追われていた。エリックの容態は完全に快復し、貴族たちは影で苦い顔をしている。春先の出来事が、まるで夢のようだとジェーンは思った。テレサや自分の祈りは通じ、悪夢は覚めたのだと。そう思うと、気になるのはレイチェルのこと。

 レイチェルと離れて初めての夏だ。ピンクやオレンジの、目の覚めるような鮮やかなバラが庭を飾る。しかしジェーンの気は晴れなかった。どうにも、頭が重い。体もだるい。そんな日が続いて夏も終わろうとする頃、ジェーンのもとに、待望のレイチェルの近況がもたらされた。

「無事、お生まれになりましたよ。経過も順調だそうです」

その知らせにジェーンは安堵した。

「そうか。クロムももう戻ってきているのだろう? 会わせてくれるように頼んでみてくれないか」

「承知しました」

 そんな会話をしてから数日後。エドガー探索で城外に出ていたジェーンの元に、一報が入った。

「クロム士爵が、捕らえられました」

「誰に」

 ジェーンは怪訝な顔をした。クロムが、王室への献上品を山と積んで帰港したという報は聞いた。そろそろ都に到着しても不思議ではない。しかし、捕らえられたとは。

「陛下にです」

「どうして」

「私にもわかりません」

「とにかく、戻ろう」

 ジェーンは、馬にひらりと飛び乗ると、馬の腹を蹴った。エリーも、それに続いた。

 城に戻ると、ジェーンは旅装も解かずにエリックの元へ直行する。しかし、部屋にエリックはいなかった。執務室にも、勿論いない。ジェーンは振り返ってエリーを見た。エリーも眉間にしわを寄せる。

「もしかすると、塔かもしれません」

「塔? あの、封鎖されている?」

「はい。隠し通路があります。ご案内しましょう」

 エリーは先に立つと、手を取ってジェーンを部屋の奥へと導いた。ひんやりとした暗い通路を進んでいくと、塔の入り口前に出た。辺りを確認して素早く塔の中へ滑り込む。かび臭い中を進んでいくと、小さな部屋があった。中から、微かに音が聞こえる。エリーは聞き耳を立ててからジェーンに目配せすると、そっとドアを開けた。

 小さな部屋の中には、黒の服を纏った男が二人と、エリックがいた。エリックは古びた木の椅子に、腕組みして腰掛けている。不機嫌そうに、エリーを睨み、そしてちらとジェーンを見た。その奥には、後ろ手で縛られ、跪かされている男がいる。

「クロム?」

 ジェーンは声をかける。縛られている男は顔を上げた。頬に痣ができている。それを我慢するように顔を歪めて笑みを作って、久しぶりとクロムは挨拶した。

「どうした、何があった」

 クロムとエリックを、交互に見る。エリックは答えない。

「エリック、どういうことだ」

 ジェーンは声を荒げた。

「ジェーン、聞いてくれ」

 クロムが声を上げる。

「俺の怪我は、陛下がさせたんじゃない」

「じゃあ、どうしたって言うんだ。それに、なんで縛られてる」

 クロムは、ちらとエリックを見る。エリックは、諦めたように、話してやれと言った。

「それは、順を追って話す。落ち着いて聞いてくれよ。俺もまだ、混乱してるんだ」

 な、と説くように言うクロム。ジェーンはひとまず頷いた。

「事は、レイチェルの結婚が決まったことから始まった。身分相応のだ。子どもが産まれてすぐに、ステュアート候の使いが伝えに来た。産まれた子どもは取り上げられたよ。なかったことにするために。俺は、それに抵抗してやられた。レイチェルは一人で今、ステュアート候の監視下にいる」

「そんな」

「そこまでは、予測できないわけじゃない。問題はそこからだった。呪いの巫女が、現れた」

ジェーンは息をのんだ。

「どこに」

 クロムは、ゆっくり一呼吸置く。

「レイチェルだ」

「レイチェルのところにいるのか? レイチェルが危ない」

 途端にジェーンの顔から血の気がひく。

「待て、ジェーン!」

行こうとするジェーンを、クロムは引き留めた。止めてくれるなと言わんばかりの表情で、ジェーンはクロムを睨む。しかし、クロムの様子がおかしい。ジェーンは訝しんだ。

「話を最後まで聞いてくれ。――呪いの巫女は、レイチェル本人なんだ」

「何だそれは。そんなわけないだろう!」

「俺だって、目も耳も疑ったさ。ステュアート候に連れて行かれるまでは、何の変化もなかったんだから。でも、乳母から使いが来て非常事態だって言うもんだから、渡りをつけてもらって、ステュアート候の屋敷に潜入したんだ。そうしたら――聖典通りの真っ赤な髪で、真っ赤な目をしたレイチェルが、いたんだ」

「そんな馬鹿な。見間違いだろう」

 クロムは、黙ってジェーンを見つめる。ジェーンは小刻みに首を振った。

「嘘だ」

「本当だ。こちらでも確認している」

 エリックは、押し殺したような声で言う。目の端でクロムを睨むと、冷酷に言い放った。

「お前には、人質になってもらう。呪いの巫女を、間違いなく始末するまでな。その後でゆっくり後を追わせてやる」

「俺はかまわない。レイチェルを助けて欲しいってのも、難しいのはわかってる。でも――子どもだけは助けてやってくれないか。頼む」

 クロムが頭を垂れる。しかしエリックはにべもない。

「余計なことを言うなら、お前が先でもいいんだぞ」

ジェーンは立ちふさがった。

「待て! クロムや子どもに手を下して何になる!」

「そこをどけ、ジェーン! 呪いの巫女に関わる者は全て潰す!」

感情をうまくごまかせるはずの彼が、これほどまでに敵意を剥き出しにしている。けれど。高ぶる気持ちを、ジェーンは必死に抑えた。

「落ち着け、エリック。ここでクロムを失えば、一大戦力を――せっかくエリックの積み上げてきたものを失ってしまう」

「違うだろ! お前が友人だから庇っているんだろう。それとも何だ、クロムのことを愛してるからか?」

「……何だ、それは。私は――」

 怒ろうとして、ジェーンは言葉を飲み込んだ。頭が混乱して、目眩がする。理由はどうであれ、自分が選ぼうとしているのは、エリックの意に沿うものではない。

「すまない、エリック」

「行くのか」

 ジェーンは、自分にも言い聞かせるように大きく頷いた。

「お前は王妃になる人間だ。それでも、レイチェルをとるのか。災厄を運ぶ呪いの巫女を――父上や俺を呪った巫女を、選ぶのか」

「私は――」

 エリックの言うとおりだった。自分は王妃に指名された人間だ。その椅子に座るだけの責任がある。それなのに、これまでエリックが、テレサが、エドガーが、苦しんできた元凶を生かそうとしている。

「状況は変わったんだ、ジェーン。お前が助けに行こうとしているのは、レイチェルじゃない。呪いの巫女だ。行ってどうする」

 エリックは、宥めるように言う。正直なところ、ジェーンはまだ、レイチェルが呪いの巫女だという実感がわかない。話に聞いただけだ。けれど、エリックの狂気にも似た光を宿す瞳が、その考えをかき消す。ジェーンは、心の中で溜息をついた。自分が救いたいと思うひとはここにもいて、そしてその思いは相対している。ただしここで自分が退けば、ナタリーの時と同じことを繰り返してしまうのだ。あの、無力感をもう一度味わわねばならなくなる。

 ジェーンは考えて、考えた。

(私だけの騎士になってくれる?)

 その問いに、自分は誓ったのだ。かっこいい騎士にはなれそうにない。信念も、貫けそうにない。でも、それで目的に達することができるなら。

自分のこれまでの覚悟だとか、たぐり寄せようとしていた信頼だとかが、霞んでいくような気がする。それでも。

「私は」

――あなたが祝福を受けるの?

脳内に、声が響き渡る。目眩がして、ジェーンは頭を押さえた。

「ジェーン?」

 異変に気づいたエリックが、体を起こす。エリーが肩を抱いて体を支えるが、ジェーンは膝を折って頽れる。しかし声は、ぐわんぐわんと包み込むように、次々とジェーンを襲う。

(どうして? どうして?)

吐きそうなほどに、意識が回る。ジェーンは必死に、抗おうとした。

(返して、

わたしの、

大事な

 ――たすけて、ジェーン)

 瞬間、自分のものではない感情が、洪水のように自分の意識をさらう。

 まぶしい夏の日差し。笑いあうレイチェルと、ナタリーとが、きらきらときらめいている。深い森のむせかえるほどの葉のにおい。馬と駆けたときの頬をきっていく風。幼い頃過ごした古びた居城。どれもこれもが、ジェーンの手を、髪を掴んで引き寄せようとする。その力は強いのに、あまりにも甘美だ。

 委ねてしまえ。

 意識がそうささやく。小さな領地の中で、気ままに馬を駆って、広い空を見上げる。ずっと、想像していた未来だ。しかし。

 強く腕が掴まれている。こちらをじっと見つめているのは、深い青い瞳。

 そして、その後ろに見えるのは、紅。

「――っ」

 呻いて、ジェーンは気を失った。

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