第24話

どろりどろりと、頭に不快なもやがかかっている。砂を掴むような、不確かな感覚が、全身を包んでいた。

――俺は、このまま死ぬのか。

ふと、エリックは思う。結局、自分は呪いに克てなかったのかと、エリックは失望した。自分では、もがいてきたつもりだった。けれど、まだひとつも達成していない。耳をそばだてると、微かに女の声が聞こえた。

 ロザリー。

 聞き慣れた声だ。いや、正確には違う。実際にその声を聞いたのは一度きりだ。けれど、鮮烈すぎるその一度の邂逅は、エリックの中に深く刻み込まれていた。

 何度も何度も、眠りに落ちたエリックの中でそれは現れ、繰り返す。

(あなた、エリックね。初めまして)

 印象深い真っ赤な色で、女は笑った。

(私は、ロザリー。よく覚えておいて。あなたを呪う人間の名よ)

 呪うのかと問い返すと、ロザリーはやはり笑った。

(あなたのお父様は、長くないわ。あなたも、三十までは生きられない。セントオールは、貴族たちに蹂躙されて、没落の一途を辿っていくわ)

 そう、言われたのだ。幼い自分には、意味がよくわからなかった。しかし、呪いという言葉とロザリーの身体を圧迫するような眼が、心に爪をたてる。

(私は知っていたわ。こうなることを。こんな未来を描きたくなくて、何度も確かめたわ。彼に、永遠を。私は裏切ったりしないって。でも、彼は私を疑った。そして裏切った。……変えられなかったのよ)

 ヒステリックに、ロザリーは叫ぶ。何が、と問わずとも、その憎しみが彼にぶつけられているのがわかった。あまりの恐ろしさに、体は硬直して動かない。

 何度繰り返しても。彼女の一言一句が、残らず体に染みこんでいる。

 自分は呪われているのだと、怯えずにいられなくなる。

(周りを疑って、疑って死になさい。あなたたちが、彼にそうして死なせたように。私の影に怯えながら、一生を終えればいい!)

 ロザリーは壊れたように笑う。深紅の瞳。深紅の髪。血のような、赤。

 ――助けてくれ、と心は叫ぶ。けれど、喉より先には出て行かない。巻き込むわけにはいかないという自制の心が、阻んでいる。助けてほしいのに。

 ジェーン。

 真っ直ぐな、青い瞳を縋る気持ちで思い出す。

賭けてみようと思ったのは自分だ。影のように自分を捕らえて離さない彼女の言葉を、必死に呪いなど無いのだと自分に言い聞かせて目を背けてきた。そして、笑い飛ばしてもらおうと思っていたのだ。そのつもりで、レイチェルの噂を引き合いに出した。けれど、ジェーンは自分の望み通りの答えを持ってはいなかった。代わりによこしたのは、変わらずに精一杯のことをしたいという、くそまじめな回答だった。ならばと、試したのだ。自分が受けたかもしれない呪いと、共に戦ってくれるのかと。あわよくば、自分の呪いを解いてくれないかと。そして、彼女はその言葉通り、その賭けに乗ってくれたのだ。

不遜だな、とエリックは自分で自分を嗤う。これほど弱い人間のくせに、他人を試そうなどと。無関係の人間を巻き込んでおいて、高見の見物などと。自分だけ、逃げられない。    

ロザリー。

心の中で、エリックは呟く。

疑って死になさいと、彼女は言った。

――俺は、その通りに死ぬつもりはない。

赤く笑う彼女に、そう告げる。背筋を通っていた寒さが引いていく。意識の海で、懸命にもがいた。

「陛下」

 ジェーンとエリーの顔がぼんやりと映る。口の中がからからに乾いていて、エリックは唾を転がした。すぐさま、エリーがお茶を持ってくる。そしてゆっくりと上半身を助け起こすと、口に含ませた。口の中を湿らせ、息をゆっくり吸い込むと、部屋でこれでもかとたかれた魔除けの香が、むんと鼻から入ってきて、エリックは顔を顰めた。気分が悪い。それでも、まだ自分は生きているらしいとわかると、ほっとした。ちらと、脇のジェーンを見やる。

「何だそのきれっぱし」

 ジェーンの手には、布と針と糸が握られている。眠っている間に、刺繍をしていたようだ。が。エリックはその出来に、わざと大きく溜息をついた。ジェーンは口をへの字に曲げる。

「起きるなり何ですか。寝ててくださいよ、もう!」

 ごそごそと、ジェーンは刺繍もどきを脇へ押しやった。

「指に穴開けて怪我だらけにするなよ、みっともない」

 エリックは憎まれ口を叩く。

「穴なんか開きませんよ!」

 ああ、やはり現実に帰ってきたのかと、エリックは安堵する。そして、傍らにいるのがジェーンだということにも。

「お前、ずっとここにいたのか?」

「違います。アーノルドが、ずっと看病してたんです。熱が下がって、大丈夫そうだからと呼ばれたんです」

 エリックは少しおもしろくなさそうな顔をする。

「アーノルドは?」

「休ませました。寝ずに看病してましたから」

「責任を感じてるんだろ。自分が止めていれば、俺がロザリーに会わずに、呪いを知らずに済んだかもしれないから」

 ジェーンは、目を丸くする。しかしすぐに、厳しい顔つきになった。

「陛下も、そうお考えですか」

「まさか。それよりお前、俺に話しかけるときに、敬語使うのやめろよ」

 強引に話をそらされる。が、これまでのように頭から関わることを拒絶されていない。ジェーンはそれ以上深追いせずに乗った。

「どうしてですか?」

「似合わないからな」

 ジェーンは呆気にとられる。すぐさま背後にエリーが寄ってきて、耳元で補足した。

「妬いてるんです。私と仲良くしてるのを」

 何だそれはとジェーンは言い、エリックは片眉をつり上げた。

「そんなわけあるか。とにかく、そういうことだからな!」

 そう言うと、エリックは再び布団にくるまる。

「待ってください、じゃない、待て!」

 ジェーンは律儀に敬語を直す。

「もう少し暖かくなったら、お茶会をしようと思う。アーノルドに言って時間はとってもらうから、出席してくれ」

 そんな余裕があるものかと言い返そうとして、そうしてエリックは口を噤んだ。

「――式は延びたのか」

 少しすまなさそうな声で、エリックは問う。

「ああ。貴族連中がいそいそと決めていった。まったく、こういう時だけ団結するのが早い」

 テレサにもジェーンにも断りもせず、エリックが熱を出した翌日に彼らの議会は通告してきた。思い出しただけでも腹が立つと、ジェーンは頭を振った。

「よっぽど俺に、早くくたばってほしいんだな」

 布団を被りながら、エリックはジェーンの手をちらと見る。なるほど、その準備かと、布団の影で笑んだ。

「俺は、お茶にはうるさいからな。覚悟しておけよ」

それだけ言うと、向こう側を向いて寝てしまった。ジェーンはその背中を睨んだ。相変わらず、わけがわからない。

「まったく、素直じゃないんですから」

 エリーが肩をすくめる。

「ほんとにな。あれだけレイチェルたちに、歯の浮くような台詞を言ってた男とは思えないな」

 デートのたびに、メロメロになって帰ってきたレイチェルを思い出す。少しだけ、胸の奥が疼いた。その気持ちを知ってか知らずか、エリーは手を打つ。

「それは、違うんですよ、ジェーン様。それ、ほとんどが陛下の影武者です」

 ジェーンはあんぐりと口を開ける。

「エリック様は、政務で忙殺されてましたから。貴族連中向けに影武者が、みっちりとデートの予定を詰めて遊んでました。ハリーって言うんですけどね。トレヴィシックの一員です。女ったらしなんですよ」

 言ってませんでしたかね、とエリーはからから笑う。ジェーンは項垂れた。道理で、話に聞くエリック像と目の前のエリックが食い違うはずだ。

「さすがに、ステュアート嬢やブラッフォード嬢は陛下が出向くこともありましたけどね。婚約発表からこちらは、遊んでいるのは百パーセント、ハリーです。たぶん、ご自身ではおっしゃらないと思うので、陛下の名誉のためにお伝えしておきますね」

 思わず、溜息が出る。一体どこからコメントすればよいのか、ジェーンはわからなくなった。

「――他にはもう無いか」

「たくさんあると思いますけど、あとは陛下自身から聞けるのを、待っていらっしゃるのでしょう?」

「そうだな。そういえば、エドガーの行方は掴めたのか」

「申し訳ありません。まだ掴めていません」

 まったくか、とジェーンは問う。

「いいえ、これまでに姿を現したところはいくつか判明しました。高名な占い師、赤い髪の女、巫女の噂の立ったところを、しらみつぶしにあたっています」

 ジェーンは唸る。

(呪いの巫女は、エドガー自身が手にかけたのだろう? なぜ探してる。また現れるってことか? 呪いを解かせることができると思っているんだろうか)

「他に、その条件に該当する場所で、エドガーが訪れていない場所はあるか」

「はい」

「先回りして、調べてくれ。陛下の容態が落ち着いたら、私も行こう。エドガーと、何としても直接話をしたい」

 承知いたしましたと、エリーは深々と頭を下げた。そそくさと、部屋を退出していく。ジェーンはそれを見送って、再び刺繍に手をつけるべく布を広げた。

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