第10話

 入り口付近でいつものようにワインを取ると、ジェーンはレイチェルの姿を目で探した。不意に後ろから声がかかる。

「ナタリー」

 ナタリーは同じくグラスを手に取ると、ウインクしてグラスを少し上げた。

「どう、カーライル様とは。順調?」

 ジェーンは肩をすくめた。

「順調かどうかはわからないけど、ちゃんと話してみたらいい人だった。弓の名手だと聞いたから、稽古をつけてほしいと頼んだら、快く引き受けてくれたぞ」

 その答えに、ナタリーは苦笑しながらも嬉しそうに口元をほころばせた。

「うふ、ジェーンとそんな話が出来るようになるなんて思わなかったわ。陛下に感謝しなくちゃね」

 ジェーンは困ったように笑んでグラスを少し傾けた。

「たとえ、陛下のゲームがきっかけだったとしても、いい経験になる」

「そうそう。私たち、いつまでも、今のままでいるわけにはいかないんだもの」

 ナタリーの言葉に、ジェーンは胸をつかれる。

そうだ。いつかはレイチェルもナタリーも、そしてジェーン自身も、それぞれの道を歩み始める。王妃になったり、誰かの妻になったり、或いは他の選択肢を選び取って。

そして、いずれは敵対することだって、あるかもしれないのだ。

「やだもう、そんなにしんみりしないでよ」

 ナタリーはジェーンを肘で小突く。

「今日は、王妃の発表だと言ってもどうせレイチェルで決まりなんだから、早めに出て話してきたら?」

「まだ、そこまで親密じゃない」

 言ってジェーンは小さく手をあげる。こちらに気づいたクロムが、人の波をうまく流れてやってきた。

「珍しいな、レイチェルは?」

 二人は顔を見合わせて首を振る。

「さあ。秘密とはいえ内々に連絡があって、待機してるんじゃない? 発表なら、ドレスアップが必要でしょ」

 そういうと目で周りを見るよう促す。なるほど、王の周囲には六候や主立った貴族の娘たちがそれぞれ派手な衣装を着、落ち着きなくあたりをうかがっていた。その外側から貴族たちが、そして更に外側から、セントオール駐在の大使たちが見守っている。いよいよなのだと、ジェーンは唾を飲み込んだ。いよいよ、正式に王妃が決まる。レイチェルの望みが叶う。そして、ジェーン自身の。ナタリーはダンスの誘いを受けて輪の中に入っていった。後にはクロムとジェーンが残る。

「レイチェル、焦ってるな」

「何で」

 ジェーンは訳がわからず聞いた。

「お前さんが、陛下のお気に入りだから」

 ジェーンは一瞬絶句する。

「……目でも腐ってるんじゃないか?」

 クロムは、まさか、とワインを口にした。ゆっくり舌の上で転がしてから口を開く。

「お前、この前議会見物に呼ばれただろ」

 ジェーンは頷き、吐き捨てるように言う。

「子供のけんかよりひどい議会だった」

「気にしてたぞ」

 横目でジェーンを見ると、ジェーンはワイングラスを持ったまま腕組みして考え込んでいた。クロムは苦笑する。

「どうしてジェーンは、そこまでレイチェルに執着するんだ」

「執着?」

 ジェーンはクロムを不思議そうに見た。

「他の娘みたいに、中流だから開き直ってレイチェルとつきあってるとか、取り巻きの一人としてくっついてるとか、そんな感じじゃない。レイチェル個人に固執してる」

 あまりいい言われ方じゃないなと、ジェーンは皿に山と盛られた手のひらサイズのキッシュを頬張った。チーズがたっぷりのっている。クロムも手近なところにあった、鳩のまるごとパイ包みにかぶりついた。

「クロム」

「何だ」

「私がもし望んだら、次の航海に連れて行ってくれるか?」

「――いや」

 クロムはきっぱりと言った。

「逃げにくるようなところじゃない」

「二度と陸へ戻れなくてもいいと言っても?」

「ああ」

 そうかとジェーンは、キッシュを見つめて苦笑した。

「逃げか」

「レイチェルが王妃になったら、側にいなくていいのか」

「私は、グレイ夫人のような立場には置かれないよ。側仕えなら、もっと身分が高くて儀礼に精通した娘が選ばれる。呼ばれればもちろん来るけれど、今までのように自由にとは、いかないんだろうな」

 二人して、もぐもぐとそれぞれの料理を頬張る。料理に向かい合っているふりをしている。少なくとも、ジェーンは。

 ジェーンの中に猜疑心がなかったわけではないのだ。今は自分を必要としてくれていても、晴れて王妃になれば、レイチェルが手の届かない存在になってしまうのではないかと。崖の上に咲く花を、虚しく眺めるだけになるのではないか――そんな恐れがあった。

「じゃあ、どうするんだ」

「所領に引っ込んでるよ。男子を望んでいた父は不満かもしれないが、この際私で我慢してもらうさ」

「寂しがるんじゃないか、レイチェル」

 クロムは手を止めてジェーンを見る。ジェーンは再びグラスをとった。ぐいと口の中のものを一掃するように、ワインを流し込む。飲み干して、一呼吸おいて言った。

「中途半端だな、私は。誰の望むものにもなれない。だからせめて、レイチェルには望んだ姿になってほしいんだ」

「俺だって、お前の考えてるような自由奔放な海賊じゃない。こいつを見ろ」

 クロムは胸元のリボンを指さす。

「俺は、富と名声のために王にすり寄ってる。今度、何とか仲間連中と海軍として雇ってもらえないか交渉してるんだ」

 ジェーンは目を丸くした。

「俺たちの多くは、元々海賊になりたくてなったわけじゃない。親から資産をもらえるあてがないやつ、乗ってた交易船が海賊に遭ってそのまま紛れたやつ、いろいろいる。そいつらにもう一度キュセスの民として、キュセスの命を受けて国を治めるものの下で、異教徒と戦う兵となるチャンスを与えてほしいと思ってるんだ。家族に、胸張って会えるように」

 兄のような、そんな柔らかい表情で照れたように、クロムは言う。ジェーンはじっとその顔を見つめた。クロムが、いかにして海賊になって、どんな半生を送ってきたのか、ジェーンは詳しく知らない。海賊の頭領として立ててきた武勇伝ばかりを聞いてきた。ずっと、海が好きなんだと思っていた。

「海には、戻らないのか」

 ほとんど断定的に、ジェーンは問う。

「戻るさ。俺の居場所は、船の上だ」

 くるくるくるくると、広間では人が回る。手と手を取り合って。けれど、視線は交ざり合っていない。眩しそうに、ジェーンはクロムを見つめた。しかしクロムの視線は、遙か遠くを見つめている。

 突然、音楽がやむ。二人は広間の中央を見た。エリックが、いつものように階段を一段、また一段と降りる。広間がいつも以上に静まりかえった。これより王妃を発表する、と段上から声が上がった。正式な戴冠式は春を迎えて、キュセスの降臨祭にあわせて執り行うことも告げられる。その間に、人々の目は王妃となる人物を探した。誰もがその視線の先に、レイチェルを捉えようとする。ヴァネッサは一縷の望みをかけて、エリックの側の目立つところに陣とっていた。唇を結び、頬に緊張が走っている。

 エリックはぐるりと辺りを見回すと、ゆっくりと人混みに向かって歩を進める。その先の人々は、王を避けるように脇へと退いていった。エリックは、真っ直ぐ前を見つめて進んでくる。ジェーンはその視線とぶつかったような気がして、でもそんなはずはないと後ろを振り返る。しかし後ろは、壁があるだけで、レイチェルはいない。訝しく思いながらも、ジェーンはとりあえず周りに従って少ないスペースを脇に下がろうと体を返す。と、腕をつかまれた。ジェーンは腕を掴んだ人物を確かめるように見上げる。

「陛下……」

エリックの表情に笑顔はない。青い瞳は、ジェーンの目をかつてないほど真っ直ぐにのぞき込んでいる。エリックは掴んだ腕を引き寄せてジェーンを自らの前に立たせる。ジェーンの手にしていたグラスをそっと取ると、脇に控えていたアーノルドに押しやった。そして、右の手を取って口を開いた。

「ジェーン・オズウォルト。私はキュセスに誓う。君を、生涯の伴侶とし、共に歩んでいくことを」

 どっと、周囲が沸く。驚きと、祝福と、悲しみと。入り交じった歓声が二人を包んだ。ご冗談を、と言おうとしてジェーンは口を噤んだ。本気だ。エリックの顔が、目が、そうジェーンに告げている。血の気が引いていくような気がした。指先が震え出す。エリックはそれを握りかえした。

ざわざわと、また別のどよめきを抱えているところがもう一カ所ある。ジェーンは反射的にそちらを見た。王の席の近くに、顔面蒼白になったレイチェルが、こちらを見つめていた。見つめたまま、崩れ落ちた。

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