第12話(過去)

 神秘主義の傾向を強めていくスクリャービンと、あくまでロシア的音楽を追求しようとする僕とは、進むべき方向性がまったく異なってしまった。スクリャービンの音楽は、ある種の宗教に似て、彼の〈哲学〉を熱狂する一部の人々に称賛され、加えて彼の調性を無視した音楽は、新しい響きを求める芸術家や批評家たちから信奉された。

 そうした新しい流れについていけない保守派や大多数の聴衆は、彼の音楽を非難すると同時に、僕の音楽をロシア的だと言って讃えた。それだけならまだしもゴシップ好きの記者たちは、僕たちの間に感情的なもつれがあるのだと書き立てた。モスクワ音楽院時代の教師間の対立のことまで話を掘り起こし、僕とスクリャービンの仲の悪さを強調した。スクリャービンが僕の音楽を〈茹でたハム〉と言ったというゴシップまで流れた。そうした記事は、それぞれのファンの溝をますます深めていく結果となった。

 一九一一年の年末、そうした派閥間のスキャンダルを和らげようと、僕らはジョイントコンサートを企画した。


 そのころのスクリャービンは、クーセヴィツキーと仲違いしたばかりで、演奏会に次ぐ演奏会の日々を過ごしていた。クーセヴィツキーは彼に、莫大な契約違約金を請求したらしい。スクリャービンが泊まるホテルで久しぶりに会った彼の顔には、疲労が色濃く浮かんでいた。

「僕の音楽は〈茹でたハム〉らしいな」僕は努めて明るい声音で軽口を言った。「僕が君の交響曲第一番のモスクワ初演で〈豚野郎欲張り〉だと言ったことへの当てこすりか?」

 一九〇一年にモスクワで初演されたスクリャービンの交響曲第一番は、芸術を賛美する若者の気負いと仰々しさが表れた合唱付きの全六楽章からなる大曲だった。当時の評判は芳しいものではなく、それにスクリャービンは不満を感じていると聞いた。僕は、彼のシンフォニーに漂うワーグナー風のロマン主義を好ましく思ったが、初めての交響曲で大成功を収めようなどと考えていた彼を傲慢だと感じた。僕の口をついて出た呟きは、尾鰭がついて彼と彼の取り巻きの元に伝わった。僕はすぐに自分の発言を撤回したが、あとの祭りだった。互いのファンたちの間に険悪な空気が漂った。……スクリャービンは彼の取り巻きたちに詰め寄られて、国民主義だという理由でショパンの音楽まで否定したと聞く。

 スクリャービンは、ふふふ、と苦く嗤って、軽口で返した。

「君の音楽はすごく物質的で生身の人間だからね。美しい……、美しい赤色だ。……君が〈茹でたハム〉で、メトネルは〈ごちゃまぜ〉、……プロコフィエフは〈ゴミくず〉だ」

 彼は室内でもきっちりと上着を着込み、わずかな隙も見せなかった。彼の僕を見る落ち着きのない目線に、どこか以前にはなかった神経質さが垣間見られ、僕は少し寂しく感じた。

 僕がジョイントコンサートのことを持ちかけると、彼は二つ返事で承諾した。


「演るなら《プロメテ》がいい」

 演目を決めるとき、スクリャービンはそう言った。彼の《プロメテウス―火の詩(Promethée le Poème du Feu)》は、協奏曲ではないがピアノが重要なパートを担っている。確かに協演する曲の候補に違いなかった。……一瞬、返答に詰まった僕に、彼は苦笑した。

「冗談だ……僕のコンツェルトでいいだろう」

 音楽界は僕とスクリャービンのジョイントコンサートに沸き立った。当日のコンサート会場にはあふれるばかりの人が押し寄せた。前半は僕の指揮、スクリャービンのピアノで彼のコンツェルトを協演し、後半は僕が自作を演奏するプログラムだった。

 スクリャービンの協奏曲は、まだ彼がロマン主義に心酔していた時期に書かれた作品だった。静かな管と弦が、抒情的な旋律線を奏でるピアノを迎え入れる冒頭から、曲全体を通して憂愁を孕んだ音楽が展開される。

 彼がピアノ協奏曲をもっと書いていたら、僕の協奏曲は見向きもされなかったかもしれない。スクリャービンのピアノが紡ぎ出す甘美なメロディを背中に感じながら、僕はタクトを振るう。抑揚をたっぷりつけた弦を大胆なルバートで響かせて、スクリャービンのピアノを煽る。スクリャービンも負けじと華麗で超絶技巧ヴィルトゥオジックなアルペジオを、これでもかと掻き鳴らす。これほどにも〈歌〉に満ちているのに。僕は目を閉じて、全神経を集中させる。抑制を保ちながらピアノの邪魔にならない最大の音量で十二分にオケを歌わせ、彼から旋律を引き出す。それに応えるようにスクリャービンはきらびやかで力強い和音を連打し、僕はそれに勇壮なトランペットの調べを重ねて、クライマックスへと駆け上っていく。それはロシアの空を覆う厚い雲間から射す一筋の光となり、薄暗い会場内を感嘆と陶酔の吐息で満たした。


 後半のプログラムが終わると、僕は急いでスクリャービンを探した。まだ身体は演奏の興奮から冷めやらず、額からは汗が滴り落ちた。会場は間違いなく喝采の渦にあり、このコンサートの成功を裏づけていた。僕は、観客席を見渡したが彼の姿を見つけられず、ホワイエに出た。

「ラフマニノフさん、大盛況でしたね」

 男の声が僕を呼び止めた。見覚えのある音楽評論家だった。

「まあ、当代随一の音楽家が二人も揃ったコンサートとなれば、成功しないはずはありませんが。スクリャービン氏の演奏も魂がこもっていたし、貴方も今日は一段と凄みを増して、心が動かされました」

 僕は彼のおべっかにうんざりしながらも、「スクリャービンを知らないか?」と尋ねると、「スクリャービン氏はもう帰りましたよ」と彼は答えた。

「帰っただって?」

「ええ、ついさっきまでは会場にいたのですが」

 僕は二の句が継げなかった。

「帰り間際に少しスクリャービン氏と話しましたが、こんなことを言っていましたよ。『ロシア的な音楽が好みならラフマニノフを聴けばいい。疑いもなく美しいし、説得力がある。僕だってロシア人でありロシアの音楽家だがね』とね」

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