第10話(過去)

 一九〇七年、パリでロシア音楽を紹介する大規模な演奏会が企画された。

 僕がその案内を受けたのは、ドイツのドレスデンでだった。一九〇五年に起こった反政府運動の余波から、国内はいまだ不安定な情勢にあった。僕は、落ち着いて作曲をするために一時的にドレスデンに避難していた。『ロシア・シーズンセゾン・リュス』と名付けられた、その大規模な音楽の祭典には、ロシアで活躍するほとんどすべての音楽家・演奏家に出演の依頼が来ていた。僕に出演を拒む理由は何もなかった。

 『セゾン・リュス』は五月に二週間にわたって開催され、パリ・オペラ座で五回のコンサートが実施された。


 初めて訪れるパリは、僕には雑然とした街に映った。そこで僕はスクリャービンと再会した。三年振りだった。

「セルゲイ・ワシリエヴィチ!」

 僕を呼ぶスクリャービンの声に気づいたロシアの音楽家たちが振り返り、彼に聞こえぬ囁きと嘲笑を漏らした。スクリャービンがロシアを離れている間に、国内では彼の前妻の取り巻きたちが彼に関する下世話な噂を広めていると、僕は人づてに聞いていた。僕は彼らの囁きを遮るように、殊更にこやかにスクリャービンの声に応えると、彼らはばつが悪そうにその場を離れていった。

 僕は、スクリャービンの華奢な身体を軽く抱擁し、再会の挨拶を交わした。

「久しぶりだね、元気にしていたかい? 今はドレスデンにいるんだっけ?」

 彼の声は弾むように快活で、この前にモスクワで会ったときとはまったく違っていた。けれど、その瞳は蒼みを帯びて淀み、焦点が定まっていなかった。

 『セゾン・リュス』の期間中、僕たちはオペラ座のすぐ傍に店を構えるcafé de la paixカフェ・ド・ラ・ぺに集い、夜通し音楽や芸術について語り合った。僕たちが店に入ったとき、すでに何人かのロシアの音楽家たちが店内にたむろしていた。

 スクリャービンは席に着くと「パリに来たならこれを頼まなくちゃ」と給仕を呼び止めた。給仕はすぐに緑色の液体を満たしたグラスを持ってくると、その上に穴の開いたスプーンを渡し、角砂糖を乗せて去って行った。スクリャービンは慣れた様子で、その上からピッチャーの水を注いで、スプーンでかき混ぜた。緑の液体はすぐに白濁し、スクリャービンはそれを僕に手渡した。彼は自分の分も同じように手際よく仕度すると、一口飲んで口を開いた。

「それで、ドレスデンでの暮らしはどうなんだ?」

「静かで良いところだ。大曲にじっくり取り組める。交響曲とピアノソナタを書き上げた」

「ソナタだって? 珍しいじゃないか、初めてだろう?」

 スクリャービンはこのときすでに四つのピアノソナタを作曲していた。僕はこのピアノソナタ第一番に、同時期に完成した交響曲第二番よりも密かな自信を持っていた。

「君はアメリカにコンサートツアーに行っていたんだろう? サフォーノフ先生はご健在だったか?」

 サフォーノフは一九〇五年、学生暴動への対応の不手際でモスクワ音楽院の院長職を追われ、アメリカに渡っていた。アメリカツアーに行っていたスクリャービンはそこで彼と再会したはずだ。僕が尋ねると彼は露骨に顔を顰めてみせた。ただならぬ様子に「何があった?」と訊くと、

「どうもこうも……彼があんな人だとは思わなかった……僕に訊かなくても君はもう知っているんじゃないの?」

 彼の口調は、普段の彼とは思えない棘があった。スクリャービンが、タチアーナを妻と認めないサフォーノフとアメリカで喧嘩別れしたという話は耳にしていた。ロシアのゴシップ記者の好きそうな話題だ。

 僕は話を変えようと「作曲の方は進んでいるかい?」と話を振った。けれど、それは逆効果だった。

「書いているよ。次の交響曲はもうほとんどできあがっている! 君は僕が仕事をしていないとでも思っているの?」

 僕は彼がこんな風にヒステリックに声を荒げるのを、後にも先にも見たことがなかった。

「タイトルも決めている。《法悦の詩(Le Poème de l'Extase)》だ。人類が神の領域に到達する過程での恍惚……僕は《法悦》で、《神聖》よりさらに進んだ神性化を実現するんだ」

「……僕は君の〈哲学〉を否定する気はない。けれど、〈哲学〉と〈音楽〉は切り離して考えるべきではないか?」

 僕は常々、考えていたことを彼に表明した。タチアーナ・シリョーツェルの兄は哲学者だった。彼女との付き合いを開始したころから、スクリャービンは哲学や神秘主義への傾倒を深めていった。

 スクリャービンは僕を憐れむように微笑んだ。

「なぜ? 〈哲学〉は実践されるべきだ。僕は〈音楽〉という実践の手段を持っている。だから僕は〈音楽〉で人類の進化に積極的に貢献しようとしているだけだ。……いや、〈音楽〉だけでない、もっと人間の五感すべてを総動員することが必要だ。なかでも色覚、〈光〉は重要なファクターなんだ」

「新しいシンフォニーの話か?」

 耳に心地よい深いバリトンが、会話に割って入った。リムスキー=コルサコフだった。

「スクリャービン、君はいったいいつ交響曲を仕上げるつもりなんだい? せっかくニキシュが君の新作を振るのを楽しみにしていたのに、結局、今回は間に合わなかったんだろう?」

 著名な指揮者であるアルトゥール・ニキシュは最終日にスクリャービンの交響曲第二番を演奏するプログラムになっていた。

「ベリャーエフ出版だって、君の新作には金を出すと言っているんだ」

「……もうほとんどできあがっているんです」

「ああ、君の頭の中ではね」

「作曲に専念するには先立つものが必要です。……支援を打ち切ったのは貴方たちの方だ」

「でも君にはモロゾーヴァ夫人パトロネスがいるだろう。ミトロファンの存命中から彼女に援助してもらっていたじゃないか?」

「……」

 スクリャービンは「すぐに仕上げます」と言って、グラスの酒を一気に呷った。リムスキーの表情も苦々しく、同じ会話が何度も繰り返されているのが想像できた。

「色覚の話をしていたんです」

 気を取り直した様子で、スクリャービンは話を元に戻した。スクリャービンは共感覚の持ち主で、音や調性に色を感じた。それは、リムスキーも同じようだった。

「変ホ音(ミ♭)は青色だ」

 リムスキーのバリトンが言った。

「僕はそうは思いません。僕には変ホ音(ミ♭)は金属の輝きに過ぎません。変ホ長調は、赤みを帯びた紫です」

 僕には理解しがたかった。旋律や和声にイメージが浮かび上がることや、その逆は確かにある。でも彼らのように音や調性が直接的に色に結びつくという感覚はわからなかった。そう言うと、リムスキーは、さも意外そうな顔をした。

「でも君のオペラの《吝嗇の騎士》の地下室のシーン――年老いた男爵が金や宝石の入った宝箱を開けるシーン、あそこにはなぜ、ニ長調のサブドミナント下属音を用いたんだ? 君にはこの音が金銅色に見えたからじゃないのか?」

 スクリャービンも重ねて言った。

「君は理解しがたいと言うけれど、本能的に感じているんだ。本当はわかっているはずだ」

 僕は何もわかっていない。嘆息して言った。

「……確かにあのシーンに僕はニ長調を使いました。けれどあれは、リムスキー、貴方のオペラの《サトコ》の中で、民衆が『金だ! 金』と騒ぎ立てるシーンでニ長調を使っていたでしょう、あれを思い描いて書いたんです……」

 二人は、教育のしがいのない出来の悪い生徒を放り出して、再び、色と音の議論を始めた。

「ハ音(ド)は白色だ」

「いえ、赤です」とスクリャービンは素早く反応した。

「リムスキー、いくら貴方でもこれだけは譲れません。ハ音(ド)は赤以外の何ものでもありません」

「君もいい加減、頑固な人間だ。ハ音(ド)は、すべての音の根源だ。すべての光を包含する白が最もふさわしい」

「貴方も大概です。赤だと言っているじゃないですか。赤は最も物質的な色なんです。その物質的な赤が、音楽を通して、最も精神的な青に、すなわち嬰ヘ音(ファ♯)へと転換されていく。その過程で人類は神へと近づいていくのです!」

「私は音楽の話をしているんだ。君のその誇大妄想にはもううんざりだ」

「リムスキー!」

 ガチャンと音を立てて、スクリャービンが立ち上がる。僕は咄嗟に彼の腕を掴む。あたりを見渡す。目が合ったグラズノフが、慌ててリムスキーの傍に駆け寄る。僕は後ろからスクリャービンを羽交い締めにし、グラズノフは立ち上がったリムスキーとスクリャービンの間に入った。

「二人とも落ち着いてください!」

 カフェ内はざわついた。『セゾン・リュス』の期間中、あちこちでこんな議論が交わされ、その中心的な人物として、スクリャービンの姿を頻繁に見かけた。


 翌年の十一月、僕は交響曲第二番で再びグリンカ賞を獲得した。スクリャービンの《法悦の詩(Le Poème de l'Extase)》は、彼が最初にグリンカ賞を受賞してから初めて、選を逃した。

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