第7話(現在)

 スクリャービンの死から一年が経っていた。スクリャービン協会は一周年の追悼ツィクルス演奏会シリーズを企画し、僕にもオファーが来たが、すべて断った。クーセヴィツキーからも演奏会の話を持ちかけられたが、気が進まなかった。

 もう一年近くも、まともに音楽に立ち向かえていなかった。スクリャービンの追悼コンサートで演奏しただけで、自作の演奏も作曲もまったく手につかなかった。僕はこれまでどのように音楽と向き合っていたのか、さっぱり思い出せないでいた。

 それに加えて、父が死んだという報せが舞い込んだ。僕に父の記憶は少ない。一緒に暮らしたのもわずかな期間だけだった。それでも肉親だった。いっそう僕の気を滅入らせた。

 僕はシャギニヤンに「会いたい」とだけ書いた短い手紙を送った。


 シャギニヤンから最初のファンレターを受け取ったのは、もう四年ほど前のことになる。当時、そんな手紙は山ほど送られて来ていた。海外や地方都市も含めたすべてのコンサートにライラックの花束を送りつけてくる熱狂的なファンもいた。そんな中でシャギニヤンの手紙には、僕の音楽がロシアの聴衆にとって、そして歴史的にどれほど重要かということが訥々と理知的に書かれていた。紙面に彼女の誠実さが滲み出ていた。

 僕の人生のすべてにわたって、自分の音楽に対する自信は波のように揺らいだ。些細なゴシップや批評が、さざ波のように僕のささくれた精神に触れては掻き乱し、それは年々、僕の心を深く浸食した。そんなころに受け取った彼女の手紙は、僕の心底に潜む自負の熾火を掻き立てる一陣のそよ風だった。僕は珍しく返信を書き、何度か手紙でのやり取りが続いた。

 彼女は特に詩について優れた知識を持ち、自分でも書いていた。彼女が選んだ詩を元に僕は歌曲を書き、プーシキンの詩《ミューズ》に付けた一曲を彼女に捧げた。


 シャギニヤンはアパートを訪れた僕を少し驚いた眼で見つめたが、何も言わずに迎え入れた。

「すぐにお茶の用意をしますわ」

 リビングの端のテーブルの上には、繊細な細工を施したサモワール湯沸かしポットが置かれていた。

 僕はソファに腰掛け、彼女は僕に紅茶のカップを手渡すと、僕の向かいに座った。彼女は静かに自分のカップに口を付け、僕はカップから手のひらにじんわりと熱が伝わるのを感じていた。

 彼女は黙ったままの僕には何も訊かずに、ことさら朗らかに自分や詩人たちの近況を語って聞かせた。

「ブロークは今、施設部隊の事務官として勤務しているそうよ……ああ、そういえば、もうすぐバリモントが帰国するそうですわ。なんでも彼は最近、日本の〈俳句〉に興味を持っていて、翻訳を試みているんですって……」

 彼女の声の半分以上を、僕は意味のある言葉として認識できなかった。

「……」

 彼女は、口を閉ざした。

 蒼い澄んだ瞳が、じっと僕を見つめる。

 やにわに彼女は立ち上がると、ゆらりと心もとない歩調で僕の傍に歩み寄り、足元に跪いて僕を見上げた。

「ああ、セルゲイ・ワシリエヴィチ……私は貴方のために何ができるでしょう?」

 彼女の細い指が、僕の頬に触れた。その指の腹で、僕の目からこぼれた雫を拭った。

「仕事がまったく手につかない……」

「……」

「以前は音楽が自然と生まれてきた。それなのに今はどんなテーマも出てこないのです」

 僕が顎を引くと、彼女の手は僕の頬から離れ、所在なげに漂った。

「このままではピアニストとしては知られても、作曲家としては凡庸のまま終わってしまいそうです」

「セリョージャ、そんなことは」

「そうなのです。僕には新しい音楽を生み出すことができない。……貴女は僕の音楽がこの世の中に必要だと言ってくれるでしょう。それがわかっているから僕は貴女のところに来たんです。でも、それは単なる気休めでしかない。僕に才能がないということは、こんなにも自明なことだ」

「……」

「不朽の名声などを望んだことは一度だってない。誰でも年を取り、老いて古くなっていく。僕だって、もう自分が厭になって、飽き飽きしています。……初めからそうだとわかっていれば、まだ良かった。けれど、若いときには曲がりなりにも才能があると思ってしまったものだから、いたたまれない気持ちになるのです。……この先にいったい何があるのか、こんな状態で生き続けることに、どれほどの意味があるのか……」

 室内は重たい静寂に支配され、外の喧騒が二人の間を流れた。またどこかでデモが行われているのだろう。戦争が長引くにつれて、食糧と物資の不足は深刻になり、人々の不満は澱のように溜まっていくばかりだった。

「セリョージャ」

 シャギニヤンの毅然とした声が沈黙を破った。彼女の顔は青褪めて見えたが、瞳には確かな光が宿っていた。

「貴方が凡庸な作曲家かそうでないかを決めるのは貴方じゃない。でも新しい音楽を書きたいのなら、もっと新しい世界に触れるべき」

 彼女はその小さな細い手で僕の手を包み、揺るぎない口調で告げた。

「そのために私は助力を惜しみません」

 彼女は僕のために、象徴主義詩人の詩をいくつか選んだ。「それで新しい音楽を書いて。いえ、貴方なら書けるわ」と。


 僕はシャギニヤンが選んでくれた詩と対峙した。幾度となく、シャギニヤンからは励ましの手紙が来た。僕は、昨年聴いたニーナ・コーシツを思い出していた。彼女が歌う、スクリャービンの《歌曲》を思い出していた。

 僕はニーナ・コーシツに手紙を書き、彼女の元を訪った。

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