第2話(過去)

「九歳のときに両親が離婚。ペテルブルク音楽院に入学して、三年目の学期末で必須科目をすべて落第。……それがこの春のことで間違いないね?」

 タネーエフ先生は、手にした紹介状から視線を僕に移した。彼が当時まだ三十歳にもならない年齢ながらモスクワ音楽院の院長を務めていることは、従兄のジロティから聞いていた。彼が手にする紹介状も従兄が書いたものだ。

 タネーエフ先生の眼には厳格さの中に深い慈しみが漂い、亡くなった祖父を思い起こさせた。僕がしばしその眼を見つめていると、もう一度、やや鋭さを増して同じ問いが投げかけられる。

 僕は無言で彼の言葉に頷き、わずかに身震いをした。

「君のことはジロティからよく聞いている。彼はこの音楽院の誉れ高き卒業生だ。なにしろ名高きリスト大先生の高弟だからね。よもや彼が君の才能を見誤るとは思えない。気を楽にしなさい」

「……」

「どうやらペテルブルク音楽院では、君の才能を伸ばすシステムがなかったようだ。ここでは、年齢に関係なく、完全な実力主義を採用している。君はこの秋から初等科の三年に所属することになる。うまくいけば三年で本科だ。もちろん、うまくいけばの話だが」

 彼はそう言うと、僕と向き合うソファから立ち上がり、部屋の中央に置かれたグランドピアノの傍へと歩み寄った。

「優秀な生徒には潤沢な奨学金が与えられる。……こちらに来なさい」

 彼は僕を招き、椅子に座らせると「弾いてみなさい」と譜面台に置かれたバッハの《インヴェンション》を示した。

 僕は言われた曲を演奏した。それを聴いたタネーエフ先生は、僕の演奏が終わる前に壁際の棚へと向かい、別の教本を手にして戻ってきた。「この曲を弾いてみなさい」と指し示した曲を、僕は楽譜どおりに弾いてみせる。彼は黙って僕の演奏を聴き、次の曲を指定する。僕は指定された曲を弾く。

 コンコンコンコンと、扉をノックする音が響いた。

「タネーエフ先生、お約束の時間ですけど、よろしいかしら」

 滑らかな女性の声は、タネーエフ先生の応えも待たずに扉を開いた。

「もうそんな時間でしたか。どうぞ、リュボーフィ・スクリャービナ」

 声の主は母親と同じくらいの年齢の女性で、そのあとに、小さな人影が続いた。

 スクリャービンは、陸軍幼年学校の制服にその小柄な身体を包み、リュボーフィの後ろに黙って立っていた。黒い軍帽の下から、額にかかる柔らかな栗色のくせ毛がのぞき、ヘイゼル色の瞳はどこかぼんやりと虚空を漂っていた。その表情は年齢より幼く見え、実際そのとき僕は彼が自分よりも年下だと思った。彼が僕より一歳年上であることを知ったのはもっとあとのことだった。

 リュボーフィは僕の不躾な視線を感じ取って、「タネーエフ先生?」と彼を促した。

「彼は、この秋から初等科三年に転入するセルゲイ・ラフマニノフ……こちらは、休日に音楽院に通学しているアレクサンドル・スクリャービンと彼の叔母のリュボーフィさんだ。年齢も近いし、音楽院で会うこともあるだろうから仲良くしたまえ」

 僕は椅子から立ち上がって、彼に右手を差し出した。彼はおずおずとその手を握り返した。その手は、僕の手の中にすっぽりと収まるくらいに、小さかった。

「タネーエフ先生、少しよろしいかしら……」

 リュボーフィは密やかにタネーエフ先生に囁き、「何ですか?」と尋ねる彼の袖の端を掴む。「……ここでは少し……」とスクリャービンに気遣うように目配せし、タネーエフ先生は「わかりました、隣室へ」と彼女を案内した。

 部屋には僕とスクリャービンが残された。

「……君はピアニストをめざしているの?」

 しばらくの沈黙のあと、スクリャービンは僕に話しかけた。

 僕はその問いにすぐに答えることができなかった。

 幼いころから音楽は好きだった。アマチュアピアニストだった祖父は僕がピアノを弾くといつも褒めてくれた。褒められると嬉しかったし、体の中から自然と音が生れてきた。

 けれど、将来は軍人になるものだと言われて育てられてきた。貴族の子弟のための士官学校に通い、引かれたレールはそのままずっと続くものだと思っていた、ほんの数年前まで。

 九歳になったとき、人がいいだけで才のない父親は、母親の持参金代わりの土地も含めてすべての所領地を人手に渡してしまった。僕たちは親戚を頼りにペテルグルクに引っ越した。金のかかる貴族士官学校は退めざるを得なく、官営の軍学校に行かせるのを忍びなく思った両親は、奨学金がもらえるペテルブルク音楽院に入学させた。

 ペテルブルクは、僕たち兄弟の肌に合わなかった。

 引っ越してすぐに下の妹が病死し、両親の仲は決定的になった。次の年、僕と仲の良かった三歳上の姉も妹のあとを追うように死んだ。学校はサボりがちになり、とうとう落第した。

 ペテルブルクには良い思い出が何もない。

 従兄のジロティはモスクワ音楽院への転学を勧めた。同時期、一番上の姉がモスクワのボリショイ劇場で歌手になることが決まった。僕は従兄の勧めに従った。けれど、その姉もモスクワに来る直前に亡くなった。歌が上手な人だった。僕は音楽を学ぶ意味を見失っていた。

 俯いて黙り込んでしまった僕に、彼は何も言わなかった。無言でピアノの前に座り、弾き始めた。ショパンのハ短調ノクターンだった。

 冒頭のレントゆっくりとを彼はひどく軽やかなルバート自由な速度で弾き、中間部のコラールでは荘厳さの代わりに浮足立ったテンポでふわふわとした高揚感を煽る。そして、〈二倍の速度でドッピオ・モヴィメント〉と指定された再現部は清冽で、けれどその小さな身体から生み出されるとは思えない激流があふれ出す。

 僕は呆然とその演奏に聴き入った。これほど誰かの演奏に心を動かされたことはこれまでなかった。

「僕の母親ママーシャはピアニストだった」

 最後の和音の響きが部屋の隅にまで拡散し消えていったあと、彼は囁くように呟いた。

「ママーシャは僕が生まれるすぐ前まで舞台に立っていた……ねえ、君には母親の胎内の記憶があるかい?」

「……」

「僕は覚えている、ママーシャが弾くショパンを」

 のちに僕は、彼の病弱な母親が彼を産んですぐに死んだことを知った。

 スクリャービンは、僕が無言で彼を見つめているのを横目で見て、再びピアノに向かった。

 先ほどの演奏とはうって変わって、柔らかな月の光に照らされて春の花々がきらきらと輝いていた。月光は芽生えたばかりの新緑にも降り注いでは彼の額にこぼれ瞬き、春を待ちわびる人々の弾む心が、彼が触れる鍵盤からあふれた。

「これは僕が書いたノクターン」

 僕とスクリャービンとの関係はこうして始まった。

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