第七話 鶏磐の八尋




 傍に駆け寄ってみれば、客人はやはり八尋様でした。

 早朝ではありますが、八尋様が来たとあっては氷雨様もすぐに起きてこられました。お二人は、およそ一年ぶりの再会でした。

 聞けば、数日前逗留していた宿で路銀を盗まれ、ここ二日ばかりは飲まず食わずでいたとか。陽に灼けた精悍なお顔に無精髭を生やし、無造作に縛った髪も櫛を通していないのかごわついています。

 お召し物もぼろぼろで汚れていたので、急遽氷雨様の普段着を出して着替えていただきました。丈が足りず手足がつんつるてんですが、本人は気にした様子もありません。

 着替えが終わるのを待って、碗飯振舞わんめしぶるまいとなりました。

 大切なお客人なので、貴重なお米が惜しげもなく出されます。

「はっはっはっ。あと一息で端瑠璃というところで唯一盗られなかった馬が潰れてしまってな。当然、替えを頼む余裕はない。仕方がないので捨てて徒歩で参った。なに、ここにさえ辿りつけばなんとかなる。事実、なんとかなった。重畳ちょうじょう、重畳。氷雨殿も紫乃も壮健で何より」

 豪快に笑いながら、八尋様は碗に盛った強飯こわいいを頬張られます。

 これで三杯目です。また「頼む」といって私に碗を差し出されました。

 炊屋との往復も追いつかない速さで召し上がるので、こちらも鍋ごと持って来て飯を盛ります。

 六尺にも届こうという大きなおからだですから、必然食べられる量も多いのですがそれにしても凄まじい勢いです。

「先生が無事で良かった。ひと月前に手紙が来て以来、沙汰がないので心配していました。難事でお困りなら一言知らせてくだされば。すぐに迎えの者を差し向けましたのに」

 向かい合った氷雨様も朝餉に箸をつけながら、それ以上に八尋様との再会が嬉しくてならないご様子です。一回り以上年上の八尋様を、師とも兄とも慕い、敬愛の念を込めて先生と呼んでいるのでした。

 お顔は輝き、声は弾み、こんなに楽しそうな主の姿は久方ぶりで私も心和みます。

 氷雨様が八尋様に親しまれるのは、八尋様が琉斌の身分やしがらみにはとらわれない異郷の方でもあるからでしょう。

 八尋様は琉斌の人ではなく、琉斌の北に位置する鶏磐けいはんという国の方です。

 鶏磐は四方を峻嶮しゅんけんな岩山に囲まれた山国で、八尋様は貴族にあたる有力部族のご出身だとか。

 鶏磐は標高が高く牛馬も飼えない厳しい土地柄ですが、大鶏おおとりというとても大きな山鳥がいて、人々はその羽毛や肉を売って暮らしているのだそうです。

 現在の琉斌は鶏磐と友好関係にあり、八尋様は遊学という形で四年ほど前に琉斌に来られました。

 当初は鶏磐の賓客として王宮の客房に住まわれていましたが、歯に衣着せぬ物言いが疎まれて居辛くなったところで、たまたま元服の挨拶で来た氷雨様と親しくなって東のお屋敷に移ってこられました。以来、端瑠璃に戻ってこられるといつもこちらに滞在されます。

 八尋様は若い頃から諸国を歴訪されて見識深く、滞在中は氷雨様に様々なことを教えられる他、剣術の稽古などもつけてくださります。

 王族ながら難しいお立場にある氷雨様にとって、気のおけない唯一のご友人なのでした。


「先生、此度こたびはどれくらいこちらにおられるのです」

 氷雨様の問いに、八尋様はやはり何杯めかの汁を啜りながら顔を顰めました。

「数日は厄介になるかと思うが長居はできぬ。実はくにから迎えが来ていてな。大鶏まで連れて北の国境くにざかいまで降りてきているらしい。高山に暮らす大鶏を平地に連れてくるのは並々ならぬことだ。絶対に俺を連れ戻す覚悟とみえる」

「郷……鶏磐に帰られるのですか」

「どうも親父殿の加減がよくないようだ。なに、病はたいしたことないのだが、やたら気弱になっておられる。あと嫁がいい加減帰ってこいとうるさくてな。四年も放っておいては無理もないが。それでこちらに挨拶に寄った次第だ」

「父君と奥方が……。それでは致し方ないですね。寂しいですが一度戻られた方がよいでしょう」

 氷雨様はくすりと笑い、八尋様もつられて笑われました。

「自由闊達な遊学の日々も、これで終わりかと思うと暗澹たる気分になる。俺も郷に帰ればそれなりに不自由な身だからな。家族、親族、領民、様々な掟やしきたりにがんがらじめにされる。賑やかだがうるさいものだ。一度戻ってしまえば何年かは出られぬだろう」

「ですが、ご家族がいるのは羨ましい限りです。私にはもう……そういった近しい者はおりませんから」

「そうだったな」

 ご両親もご兄弟もいない氷雨様の境遇を思い出したのか、八尋様は声を落とし頭をぼりぼり掻かれました。

 それから悪戯を思いついた子供のようににっかりと笑われました。

「だったら、貴殿も俺の郷に来ないか。そうだ、それが良い。俺も貴殿と離れずに済む。使用人たちも連れて丸ごと引っ越してくれば良い」

「えっ」

 八尋様の突然の申し出に、氷雨様は驚きの声を上げられました。

 私も無礼ながら八尋様をまじまじと見てしまいました。

「この数年来、貴殿には大変世話になった。ひとところにおれない根無しの俺を、いつ帰っても温かく迎え入れてくれた。今度はこちらが歓待する番だ。遠慮なく鶏磐へ来てくれ。琉斌に比べれば寂れた山里だが、人の情にはかつえぬ。何日でも何ヶ月でも何年でもいてくれ」

「ですが、私は……」

 氷雨様は声を詰まらせました。

 俯いてしばらくの間逡巡し、やがて決意したように顔を上げられました。

「いいえ、折角のお話ですが鶏磐には行けません。私は……末席とはいえ琉斌の王族です。それに新年明けてより翠嵐様の近習を仰せつかっていますし」

「近習など皇太子の多勢いる傍仕えの一人ではないか」

「それは……。そうはいっても大事なお役目ですし」

「元服してより四年もの間、何の官位も与えず放置して今更皇太子の世話係とは。呆れたものだ。氷雨殿、人の良い貴殿もいい加減わかっているのではないか。琉斌は貴殿を重用する気はないと。ていのいい真綿でくるんで飼い殺しにしているだけと」

 飼い殺しと言われた瞬間、氷雨様の顔はさっと青ざめました。

 私が知らないだけで、お務めする中で思い当たることがあるのかもしれません。

「随分つけつけと仰るのですね」

「それは許してくれ。鶏磐人の短所でもあり長所でもある。俺はこの率直さゆえに王宮にいられなくなったのだ。この国は、正直にものを言わないことが美徳であるからな。嘘でさえも色水に隠して出す」

「確かに、私は王家から厚遇されているとは言い難いですが……」

「厚遇されてないどころじゃない。明らかな冷遇だ。俺は貴殿のことを知るにつけ、王家に対しては憤りばかりが涌いてくるのだ。母御のことにしても、どこまでも侮られ見下されている。それが悔しくてならぬ。血統ばかりを重んじて、気のいい友を馬鹿にし続ける奴らが許せない。これからも理不尽な仕打ちを受けるなら、いっそ国を出てしまえとすら思うのだ」

「……」

 氷雨様は杏奴様のことを思い出したのか、ぎゅっと唇を噛みしめました。

 朝の涼しい時間なのに、額には薄らと汗が浮かんでいます。

「ですが、先生。私も琉斌に希望がないわけではないのです。母の血は賎しくとも、父は確かに陛下の弟。先日、披露目があった艶夜様をいただければ或いはと」

「艶夜……? ああ、人の舌を食べるとかいう皇女か。後宮から一歩も出ずに育ったという」

「ご存じなのですか」

「存ずるもなにも、人の噂は一日で百里を走る。市井は艶夜姫の噂で持ちきりだ。ここに来る間に嫌でも小耳に挟んだ。大層美しく、鶯のような美声を持っているが人の舌を好んで食う鬼姫だとな」

「なるほど。世間ではそう思われているのですね」

「人の舌を好む……およそ尋常じゃない。舌を食らう様を披露目た皇王陛下や皇太子もどうかしている。こんな娘を妃として欲しがる王家、諸侯なぞあるものか」

「ですから、元々陛下は艶夜様を諸外国に出す気はなく内々にかたずけるおつもりなのかと」

「にしても、貴殿に与える理由にはなるまい」

 八尋様はにべもなく言いきり、氷雨様は大きく溜息をつきました。

「やはり私が、艶夜様をいただくのは大それた望みなのでしょうか……」

「それ以前に俺は不思議でならん。いくら美しかろうと人の舌を食う娘など……貴殿はどうして妻にしたいなどと思うのだ」

「それが出世栄達に一番近い道だからです。そして、私が男だからです。女に生まれたならば家庭に収まって平穏に生きる道がありますが、男と生まれたからにはそうはいきません。なんとしても出世しなくてはなりません。艶夜様をいただいて陛下の覚えをめでたくし、宮廷内で足場を固め、琉斌のために尽くしたいのです。国のために働くにも、まずは相応の地位が必要です。艶夜様は尊い方ですが、手の届かない位置にあるわけではありません。舌を食べる件も、話せばわかってもらえると信じています」

 あくまで琉斌での立身出世を望み、熱っぽく訴えかける氷雨様を八尋様は真剣に見つめました。八尋様は異郷の方ゆえに、氷雨様の願いを叶えることはできません。その分遠慮なく本音が話せる方でした。

 やがて切々とした訴えが終わると、八尋様は肯定とも否定ともつかずゆっくりと首を振りました。

「やはり、貴殿も生まれに縋るか。いや、責める権利はないな。俺とて運よく郷の上層に生まれただけに過ぎぬ。まあよい。鶏磐に来てくれぬのは残念だが、困ったときはいつでも手紙をくれ。万事力になろう」 

 そう言うと、八尋様は再び豪快に箸を動かし始めました。

 私は黙々と給仕を続け、穏やかなひと時が流れました。


 もしこの時、氷雨様が八尋様の言う通りにしていたなら……。

 王宮でのお役目を辞して鶏磐へ行っていたならば、主には違う道が開けたはずでした。

 きっと別の運命が待っていたのです。

 しかし、氷雨様は琉斌に残る道を選んでしまわれました。

 その脳裏に、艶夜様のお姿があったからです。

 美しい姿態と声が、それ以上の遥かな希望があの方には詰まっていました。

 まだこの時は、氷雨様も私も艶夜様の真なる姿を知らなかったのです。

  

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