終わる世界

31


「武内先生と二人の女生徒の死。それは奇しくも彼らが愛した推理小説のように悪夢と狂気を孕んだ物語として、この現実に残されました。様々な噂や憶測が一人歩きを始め、全ての秘密はこの地下へと秘されたまま…」


それから12年が経ちました、と来栖は再び語り始めた。


暗い地の底から響いてくるような残響音を残し、どこか不吉なトーンで繰り出される独特の声に、周囲は相変わらず水を打ったように沈黙していた。


制服姿の少女が二人。

落ち着かない様子で微かに身を震わせる鈴木貴子。その傍らで、険しい表情をしたまま探偵を見据えている成瀬勇樹。


探偵の傍らに立って様子を窺っている警察側の人間が三人。

刑事の花屋敷優介に石原智美。

そして司法監察医の山瀬拓三。


その一団からやや離れた場所には学園側の人間達が四人いた。

互いに手を握りあい、身を寄せ合う花田光次と桂木涼子。

表情をなくしたままの植田康弘。そして妹の死の真相を知らされた山内隆は放心したように俯き、その顔面は紙のような蒼白さを湛えていた。


そして一番離れた入口の近くでは静かに目を閉じ、能面のように表情を凍てつかせたまま俯く間宮愛子の姿があった。


茫洋とした探偵の赤い瞳がゆっくりと、関係者達の間を縫った。


冷たく広大な石の室。

天井のステンドグラス。

幾つもの秘密は暴かれ、霧のように学園を覆っていた闇を解体してきた、その先に待つもの。今や誰しもが、固唾を飲んで座の行く末を見届けている。


「赤く歪んだ学園の舞台裏を、今こそ皆さんに知って頂く事にしましょう」


来栖要は再び座をリードするようにそう言った。


赤魔女事件。

探偵による秘密の解明の舞台は、ついに最終局面を迎え始めたようだった。


「これを見て下さい」


来栖は何の前触れもなく、棺桶の一つをいきなり躊躇なく開いた。ギィッという音と共にゆっくりと棺の蓋が開いていく。全員がギクリと体を硬直させたのがわかった。


漆黒の棺桶の中には赤、白、黒といった色鮮やかなシルクの布が、何枚も畳んで収納されていた。


「そ、それって…。一条先輩達が着ていた、あのマント…」


勇樹の声に何かを思い出したのか貴子が即座に目を背けた。

来栖は全員の反応を今一度確かめてから、赤いローブの一枚を選んで摘み上げた。


「このローブは、つい最近になってここに収納されたもののようです。

入れたのはおそらく売春事件に関っていたリーダーの一条明日香君でしょう。

そして、彼女達に協力していたのは、校長の村岡義郎先生です」


その言葉に教師達に一斉に動揺が走った。


「ば、馬鹿な! なぜ校長が出てくるんだ!」


植田の驚愕の声が地下に響き渡った。

闇の語り部である探偵は淡々と答えた。


「これに関しては実は裏が取れているんです。校長先生が学園を留守にした際の出張記録と実際の彼の行動は、まるで一致していなかったようです。

これは警察があらゆる出張先に問い合わせて判明した事実です。実際に校長先生といたらしい一人の女生徒の証言でも明らかになった事なんですがね…」


来栖はチラリと花屋敷達に目を向けた。花屋敷と石原の二人は揃って目を丸くしていた。


「な、なぜ校長先生が、売春事件なんかに関わっているんですか?」


と桂木が問うた。


「さて、そこですよ。俺が思うに、彼女達と校長先生は互いに強力なバックアップを欲していたのではないでしょうか」


「ど、どういう事だよ?」


と、今度は大柄な花屋敷が問い掛けた。来栖は旧友である刑事に顔を向けた。


「インターネットを使った花屋があったろう?校長がわざわざ写真入りの画像を掲載して園芸部の部員達に協力していた事実からも解るように、売春グループと校長はおそらく、かなり以前から蜜月関係にあった可能性が高い。

…俺はな、花屋敷。そもそも社会的な権威ある人間ばかりを狙う女子高生の売春グループなんてものが、なぜこの学園に存在するのかずっと疑問に思っていたんだが、その影には校長が間違いなく絡んでいるんじゃないかと考えているんだ」


「な、何だと…!?」


「女生徒達による売春自体が、ある犯罪の隠蔽工作に利用された可能性があるという事だよ」


「か、覚醒剤か!」


所在をなくした花屋敷の声に来栖は落ち着き払って頷いた。


「そういう事さ。高橋聡美の死体と共に隠されたと思われていた覚醒剤…。

このモルグに今はなく、一条明日香が使用したあの覚醒剤こそ、今回起こった様々な事件の引き金になっている」


「そ、その根拠は? 催淫剤だけならまだしも、覚醒剤を売春に利用するというのでは、あまりに事件の意味合いが違ってきます。それに覚醒剤には酸化による鮮度がある。同じものが使用されたはずがありません」


石原が当然のように来栖に問い掛けた。来栖は彼女に視線だけを向けて淡々と答えた。


「もちろんその通りだ。覚醒剤ってのが共通のキーワードってだけで両者は別物さ。

12年前から今へと続くこの事件は作為的なまでに不気味な偶然と符合に彩られているから、死体を主軸にしなきゃカラクリの全貌は見えやしないのさ。

高橋聡美の屍蝋を彩るように入れられていたあの白い花はダチュラなんだ。酷く新しいもので萎れたり枯れたりしている様子もない。

となると鈴木君が棺桶を開けるより以前…つまりは誰かが、つい最近になって入れたものと考えるべきだ」


「ま、まさか、その為に棺桶の中に…?

死体の入った棺桶を、隠し場所にしていたというんですか!?」


「それもあるが棺桶の中にあった死体は、きっかけだったのだと思う。

一条明日香のカルト主義とでもいうような言動のきっかけこそ屍蝋となった高橋聡美の死体。売春グループ『ヘブンズ・ガーデン』がそもそも誕生した原因ではないだろうか?

朽ちない遺体を聖なる遺物として御神体代わりにして悪魔崇拝のような儀式を少女たちは行っていた。そう考えれば、売買春に男の側にだけ都合のよいダチュラのような強制的に女性の記憶を混濁させる薬物が使われていた理由も一層にはっきりする。ダチュラの存在と売買春と覚醒剤とそれを買うはずの上客の存在は死んだ校長なしにはありえない」


「誰かの秘密を知ってしまった。その上で自分達の犯罪に利用する事にしたって事だな?

方や悪魔崇拝のような背徳的な行いに悦びを見出だす少女達と、それを利用して利益を上げ、上客の秘密と弱味を握る校長のニーズが犯罪によって合致した。互いに利用し利用できる関係が築かれた。

…そういう事なのか?」


花屋敷の問いに、探偵はゆっくりと頷いた。


「そう…今回起こった事件の一番嫌な部分さ。他人の犯罪を知った人間が、際限なく別の犯罪を作り出す。周囲の人間達を知らず知らずのうちに巻き込む。

それぞれの事件の糸を手繰れば、別の事件の事実が転がり込む。そして起こった事件は怪しげな噂を呼び、互いに互いの目をくらましあうんだ」


探偵はなぜか、微妙に引っ掛かる言い回しで旧友へとそう告げた。


「秘密が別の事件を引き込んで再生産されるっていうのか?」


「そういう事さ。12年前の事件を探れば武内先生の噂にたどり着き、暴力事件を突き詰めれば催淫剤という薬物にぶち当たり、川島由紀子の事件を探れば学園の怪談話にさえ結びつき、売春グループを辿れば買春する大人達といった有象無象の輩まで飛び出す始末だろう?」


花屋敷はううむ、と一声唸って考え込んだ。


「これも本末転倒だ。この事件は底深くで一つに繋がっている事件なんだ。だが、それぞれの事件は、それぞれ関わった者達によって全く別々の動機で引き起こされているんだ。

人が事件を起こすんじゃない。事件が人の何かを起こして連鎖反応するんだ。そして周囲の人間達や有象無象を巻き込んで、ひたすら馬鹿騒ぎの狂態を繰り広げる。

炎上しては類焼延焼を繰り返し、さらに広がっていくような…。まるでふざけた祭りのような構造をしているのさ」


「ま、祭りだと…」


困惑する花屋敷の声をよそに探偵は再び座をゆっくりと見渡した。


「この噴水の地下室は罪を怖れる者達の、いわば伏魔殿とでもいうべきものだった事になる…。

ここにこれだけ真新しいローブが存在している以上、少なくとも棺桶に入っていた彼女の存在を一条君や沢木君、そしてあるいは校長も知っていた可能性があるという事さ…」


コツコツと石の床を歩きながら、探偵は誰にともなく続けた。


「ここで改めて確認しますが、あの『後ろの少女』の怪談話がつい最近になって頻繁に語られるようになったのは、彼女達の誰かが人知れずこの場所に出入りしていたからです…」


後ろに立つ少女。

鏡の中の有り得ない光景。

棺桶の中のローブ。

そして、怪談の目撃談は確かにエレベーターを利用した女生徒の存在を裏付けている。

周囲の者達は、意図の読めない探偵の言葉に聞き入っていた。


「売春に関わっていた女生徒達は13人…。ほぼ1ヶ月前に彼女達の仲間入りをしたのが、川島由紀子君だった」


探偵は続けた。


「彼女は売春組織の内情を追う過程で、不幸にも非業の事故死を遂げる…」


探偵は微かに目を細めて続けた。


「ここで改めて考えてみてほしいんです。

時計塔の秘密…。

地下の秘密…。

12年前の事件の秘密…。

秘密の一端を知る者は、なぜか一人また一人と消えていくんです。妙な話だとは思いませんか?

この学園が呪われた学園と呼ばれるようになった最大の謎といえます。

しかし、ここまでくれば皆さんも察しがついたと思います…」


探偵の言葉に石原がはっと表情を歪ませた。


「ま、まさか…。そ、そんな偶然、有り得ないじゃないですか!全ての事件は、じゃあ…この地下室のせいで起こってしまっていたようなものじゃないですか!」


全員が驚いて石原に顔を向けた。

探偵はゆっくりと頷いた。


「その通り…。

高橋聡美。山内洋子。武内誠。

川島由紀子。校長の村岡義郎。沢木奈美。

一条明日香…。

今回の事件に限らず、この聖真学園で起こった事件は過去も含め、すべて噴水の底にあるこの地下室の存在を知った人間達が、知っていった順番に死んでいるんです。唯一の例外ともいえるのが、川島君なんですがね…」


探偵は微妙に言葉尻を濁し、再び続けた。


「だから存在を知らずに、ただ催淫剤による売春遊びをしていただけの女生徒達は昨日の事件で、怪我一つ負わなかったんです。

彼女達は犯人の罪を被ってくれる為の存在。スケープゴートとして選ばれたからですよ」


探偵はそう言って間宮愛子を意味ありげな眼差しで見つめた。彼女は静かに探偵を睨んでいる。

探偵はやおら天井を見上げてから続けた。


「時計塔のステンドグラスに描かれた、あの魔術師の絵がサバトの黒山羊を模した魔術師と魔女達というのも、考えてみれば皮肉なものですね…。

自分達を自ら魔女と呼んでいた彼女達は、犯行を隠蔽してくれる存在として犯人側に選ばれた哀れな生け贄の山羊…正にスケープゴートだったのです。彼女達こそサバトの黒山羊でもあった」


「ま、待って下さい! 売春していた女生徒達は、ただ利用されただけだというんですか?

一条明日香や沢木奈美はともかく、彼女達はその…愛子先生とは一切接点のない生徒達だったんでしょう? 荷担している人間は、全員一緒にされたという訳ですか?」


と花田が問うた。来栖は彼に視線を向けてゆっくりと頷いてから答えた。


「そう。一条君以外の彼女達は、この噴水の地下室の存在を知らなかったんです。

学校の外に限らず、学校の中でも彼女達の売春は頻繁に行われていました。ダチュラと呼ばれる催淫剤は、かなり有効に機能していたと思われます。ダチュラという花のアルカロイドや薬効が齎す、意思決定が一切できない状態…いわゆる譫妄状態というのは長い時で半日以上は続くんです。

かつて中世ヨーロッパの娼館で、一方的に男の欲望を満たす為だけに使われたほどの筋金入りの催淫剤なんですよ。

それを知っている人間ならば、彼女達をアリバイ工作に利用しようと考えたのは、むしろ当然だったかもしれません」


探偵の言葉に不意に傍らで愛子が笑った。どこか諦めの籠もった乾いた笑い声だったが、全員の表情を凍りつかせるには、充分過ぎる迫力だった。


「ふふっ…確かに私は保健校医。この学園で薬学の知識に詳しいのは私くらいのものかもしれないわね。…けれど探偵さん、私は風邪気味の川島さんに解熱剤こそ渡しはしたけれど犯人じゃないわよ」


そんな愛子に探偵は即座にかぶりを振った。


「いいえ、少なくとも昨日の事件の犯人はやはり貴女以外にはありえないんですよ、愛子先生。

…というよりあの時、時計塔にいなかったと目されている女性の犯行でなければ成り立たない事件だと呼んだ方がいいでしょう」


「…あら、なぜかしら?

事件が起こった時に校内にいた女性こそが怪しいというなら、そこにいる桂木さんや成瀬さんだってそうなんじゃない?」


桂木は愛子の声にビクリと体を震わせた。花田が、そして勇樹が険しい顔で愛子を睨んだ。

来栖は不意にククク、と肩を震わせて笑った。


「桂木さんや成瀬に無理なのは、先生もよくご存知のはずだ」


探偵は薄く微笑んだ。

愛子の表情が再び歪んだ。


「苦肉の策でしたね?先生はカモフラージュするつもりの咄嗟の判断で行った行為だったのでしょう。しかし、その行為自体が貴女こそ犯人であるという動かぬ証拠なんですよ」


愛子の表情が、あからさまな嫌悪に再び歪んだ。


「動かぬ…証拠?」


貴子が問い掛けた。来栖は怯える彼女に向けてゆっくりと頷いた。


「そう…。鈴木君。君は見ていないだろうが、校長の死体は、首筋を鋭利な刃物で切り裂かれた状態で発見されたんだ。

殺害現場はそれは酷い惨状で、夥しいほど流れ出した出血で床は血だらけ…。血は部屋のあちこちに渡って飛び散っていた。

校長先生は全裸で、おまけに首輪までされ、強力な催淫剤によって前後不覚の状態に陥り、さらに無抵抗なままで殺害されたというのが警察の見解だよ」


わざわざ脅かすような探偵のどこかサディスティックな言葉に、貴子は再び恐怖に怯えながら口元を押さえ、目を背けた。

探偵は傍らにいた山瀬へと視線を向けた。


「山瀬先生、頼んでおいたアレをお願いします」


はいはい、と場違いなほど機嫌のよい甲高い声で監察医の山瀬は、大事そうに己の小脇に抱えていた黒いファイルから何枚かの紙片を取り出した。


「ええと…殺害現場から採取した大量の血液を鑑定したところ、一つ奇妙な事実が判明しました。

大量の血痕は確かに被害者である村岡義郎の血液型と思われるB型男性のものです。

しかし、殺害現場からは同時にO型RH-の特殊な血液が検出されています」


「ど、どういう事だ?」


「特殊な…血液?」


植田と勇樹が来栖に問いかけた。


「はい。pH4.5~5.0の弱酸性の粘液を含む、血液…簡単にいえばオリモノです」


探偵はそこでニヤリと微笑んだ。


「つまり大量の血痕は推理小説でよくいうところの“木の葉を隠すなら森に隠せ"というやつだったようですね」


困惑したような沈黙が生まれた。

簡単な事です、と探偵は続けた。


「愛子先生は自分自身に起こったあるアクシデントを隠さんが為に…」


校長の首を切り裂いたんです、と来栖はあっさりとそう言った。全員がはっと息を呑んだ。


「予めクロロフォルムまで用意し、電光石火の動きで女生徒達や鈴木君の自由を奪った先生に、ここでまさかのアクシデントが起こってしまった。大量の血痕はその為です」


不敵な表情をあくまで崩さず、来栖はたたみかけるようにして続けた。


「校長から流れ出した夥しいほどの血液…それは何かしらの出血をカモフラージュする為のものだった可能性が高い…。

これは簡単な消去法ですよ。

譫妄状態だった校長からは鞭で叩かれた蚯蚓腫れこそあったものの、致命傷となった頸部以外の外傷はありませんでした。

一方同じ現場で、クロロフォルムによって眠らされていた女生徒達からも出血を伴うような外傷の痕跡はない。

そして見たところ愛子先生、貴女にも出血を伴うような外傷の類はありませんね?」


「あらあら、消去法だと言っておきながら、結局は私が犯人である可能性まで消去してくれるのかしら?

あいにく私が現場に踏み込む機会は、事件が発覚してから全くなかったのよ」


出血の可能性はいくつもないという事ですよ、と探偵は今度は傍らの監察医の方を見てから続けた。


「愛子先生に起こったアクシデント。

それは女性ならではの出血…生理出血だったんです」


「生理出血…?」


と成瀬勇樹が不審のこもった目で続けた。


「血液鑑定をここまで急がされたのは初めてですよ」


山瀬が頷いた。


愛子は再び不敵にせせら笑った。


「所詮は状況証拠じゃないの。

血液型や女だからという理由だけで私だという証拠にはならないわ。

…さあ次は何? その血液をDNA鑑定でもして私が本当の犯人だと証明でもしてくれるのかしら? 検査には多大な時間がかかるんでしょうけれどね」


「先生もなかなかしぶとい。もちろんこちら側とて、物的証拠だけで先生を犯人だと決めつけている訳ではありませんよ」


「その根拠は? ここまで来たからには聞かせてもらおうかしら」


「…お忘れですか? あの一階の廊下にあった鏡のことですよ。時計塔の鐘が鳴ると、鏡はマジックミラーになる。

しつこいようですが、あの裏側はエレベーターであり粗末なゴンドラの通り道なんです。そしてエレベーターは本来、一階に着層して呼び出された方向に上下に動くようになっている。本来は資材運搬用のゴンドラですから揺れ幅も大きく、人が乗るようには設計されていない。動き出すまで時間もかかる。これは先ほど俺が実際に乗って体験しました」


「それが何だっていうの?

慎重なのか臆病なのか、探偵さんはつくづく回りくどい人よね」


愛子は強がるようにそう返したが、顔面はもはや蒼白だった。探偵はククク、と再び肩を揺らせながら静かに笑った。


「思えばこの学園は、最初から先生にとって実に都合のいい環境ばかり整っていましたね。七不思議に売春する生徒達やドラッグ。そして、世間に氾濫するいかがわしい噂の数々はその最たるものだったでしょう。貴女はそれを利用したんです。

まぁ、この学園で度々目撃されていた幽霊談がなければ、俺も結びつけはしなかったでしょうがね…」


植田先生、と来栖は突然傍らの体育教師へと声をかけた。屈強な植田がビクリと、必要以上に臆病な反応を見せた。


「先生が昨日見たのは沢木君ではないんです。あの時、沢木君は噴水で息も絶え絶えな状態で苦しみ、かたや一条君は、この学園で最も高い場所にいたんですからね…。

しかも先生が見たのはセーラー服でしょう。この証言こそ重要な証拠です。

愛子先生は怖がりな植田先生の見間違いだと言いましたが、そもそも自分の学校の生徒が着ている制服をセーラー服だったと、ここまで正確に見間違えるはずもない」


探偵は愛子の方へちらりと視線を向けて続けた。


「植田先生…あなたが昨日見たのは棺桶の中で死んでいる高橋聡美のセーラー服を剥ぎ取り、それを着ていた間宮先生の後ろ姿だったんですよ」


「な…!」


座の者達は一斉に恐怖の表情を浮かべた。


「ば、馬鹿な! 死体の着ていた制服を着て、現場に向かったというのか!

俺はそれを見たというのか!」


植田の声に探偵はニヤリと微笑んで頷いた。


「そうです。“セーラー服を着た女生徒が、廊下をふらふら歩いていた”という証言は、見間違いなんです。

正確には“ふらふらと揺れる動き始める前のゴンドラにセーラー服を着た人間が立っていた"。

これが正確な描写でしょう。

ゴンドラが動き出すまでの間にマジックミラーで覗いた鏡の中の光景を植田先生は目撃したという訳です。一瞬で消える有り得ない光景なんですから、植田先生が見間違えたと感じるのも仕方がない。むしろ見られたのは、奇跡的ともいえる偶然です。

…中にいた愛子先生も外で見ていた植田先生も親父が仕掛けた悪戯の被害者だったんですよ」


もう幾度めかの動揺が、再び関係者達の間に走っていた。この種の混乱にはもう慣れたのか花屋敷が探偵に尋ねた。


「つまりはこういう事か?

死体の制服を着て犯行に及ぶ事で女生徒達の誰かの犯行であるかのように見せかける…。

あるいは学園の幽霊話と結びつける為だった、と」


来栖は再び頷いた。


「もちろん、それだけでは不足と考えた愛子先生はその棺桶の中から赤いローブだけを選んで纏い、犯行に及んだんだ。誰かを殺すなら殺した際の返り血を隠す必要性も考慮した上でね。当初のターゲットはもちろん、鐘を鳴らした張本人。地下の秘密を知る一条明日香君だった…」


花屋敷は神妙な顔で頷いた。

傍らにいた石原が、微かに動揺を押し殺して探偵に問いかけた。


「私達はじゃあ、ありもしない密室の中で、一条明日香があたかも犯人だと前提にした上で事件を捉えていたというんですか?

薬物を使用した人間ならそうするかもしれないと、どこかで思い込まされていた…」


静かに頷きを返した来栖に石原が、敗北感にも似た溜め息をついた。


「来栖さんが以前仰った、状況証拠の数々が私達に呪いをかけているようなもの、とはこういう意味だったんですね…」


「そう。犯人自身が現場にいたんだから最初から密室も蜂の頭もないんだよ。

密室殺人には様々な意味合いがあるんだろうが、この場合は自殺に見せかけたり誰かに罪を着せるという偽装工作以外に必然性は見いだせない。

俺はひねくれ者なんでね、密室と聞けば表面的な事実の方が逆に嘘臭いと感じるのさ。

警察はまんまと悪賢い犯人にしてやられたというところかな…」


ちょっと待て、と興奮した様子の植田が冷静な来栖に詰め寄った。


「し、死体の制服を着るなんてそんな馬鹿な話があるか! く、狂ってるぞ!

…いや、それだけじゃない!

人間の首を切り裂くなんて、そんな異常で残虐な事が女に出来るものか!」


「さあ、それは果たしてどうでしょうか…。

一見、異常としか思えないような物事こそ、何より正常で邪悪な意思を雄弁に語るもの。俺は常々そう認識していますよ。何度も言いますが、異常というのは思い込みです。

不可解な謎は常に、最大のヒントに包まれているからこそ謎たりえるのですからね。

そうした意味では、この犯人は恐ろしく冷静ですよ」


探偵は再び関係者達を見渡した。


「今度は逆説ですよ。首を切るという異常な行動は、犯人側にとって必要に迫られて行った事ではないかと考えてみるんです。

この学園と妙に縁がある、そちらの監察医のセンセイに聞いてみた方が早い。

…山瀬先生、仮に人体で出血が最も激しく、かつ鮮血の惨状が際立つであろう場所を選んで切り裂くような場合、こう言ってはなんですが、頸動脈をピンポイントで切り裂くという方法が実は視覚的にもインパクトがあり、一番都合がいいのではありませんか?」


探偵のやや突飛な質問に、医師は頷いた。


「そうですな。人間の首筋は特に太い血管が集中していますから。極端な話、鋭利な刃物で素早く一気に切り裂いた場合、天井が低い部屋ならば飛び散った鮮血が天井にまで達する事もあります」


探偵は頷いた。


「そうなると犯人はかなり冷静です。医学的な知識にもある程度明るい人間だと考えるべきですね。

そして赤いローブをわざわざ選んだのは異常者の犯行と見せかけて多数の目撃者を作るだけでなく、血塗れになっても目立たなくする為だったのでしょう。

血の付着したセーラー服も返り血をカモフラージュできると考えたからでしょうね。

そして、凶器はナイフ…。

この事からも、犯人は最初から明確な殺意を持って犯行に及んだ事になる…」


探偵は眼前の愛子を睨みつけた。彼女は探偵の視線から目を逸らした。


「事件の元々の形はおそらくこうだったのでしょう…。

鐘が鳴った事で地下への通路が暴露される危険を感じた犯人は、どうやら薬で朦朧とした中で怪しげな宴に夢中になっている様子の校長や女生徒達の犯行に見せかけ、一条君を殺害するという計画を企てたんです。

校長の相手をしている少女達はおそらく譫妄状態であり、犯行の記憶は一切ないはず…。

あるのはひたすらに淫らで異常な夢に溺れている自分達だけです。

露見すれば大衆が挙って面白おかしく尾ひれまでつけて騒ぎ立ててくれる女子高生達と校長の妖しい淫靡な宴。芸能人に覚醒剤という特大級の犯罪と未成年者の犯罪。おまけに責任能力不在のおまけまでついてくる。ここに付け込む隙はいくらでもあった。

凶器にボーガンを使用したのも、彼女達自身が使っている道具ならば指紋が残っているし、自らの犯行を確実に隠蔽できると考えたからでしょう。

彼女達がサバトと呼んでいた悪い遊びは、本来はあらゆる呪詛の言葉を吐き散らし、主である神を蔑み、あらゆる禁忌とされる行為を行うという反キリスト教を模した黒ミサの事なんです。遊びとはいえ、売春は彼女達にとって秘中の秘。

自らの秘密は彼女達の秘密によってカモフラージュすればいい…そう考えた。

売春していた女生徒の誰かが、殺人行為を行ったのは間違いない。しかし、犯行は誰によるものなのかはわからない…。

凶器は現場で発見され、いずれ心神喪失状態の未成年者達の犯行となる…。

最初の計画ではそういう筋書きになるはずだった」


間宮愛子の周囲を歩きながら、探偵は淡々と続けた。関係者達とは離れた位置で、俯いた彼女はもはや視線だけで探偵の動きを追っていた。


「しかし愛子先生、貴女にとって思わぬハプニングが幾つも起こった…。

まず鈴木君の存在です。鈴木君は売春に巻き込まれただけの被害者でした。

全ては彼女を仲間に引き入れる為に、大胆にも学園で売春しているグループが事に及んでいたのだとは貴女も知り得ない事実だったでしょう。

嵐の日の学校でまさか、あんな異常なパーティーが行われる事も予測しえなかったはずです。

沢木君は中庭でボーガンを使い、鈴木君を校内へとおびき寄せる役割まで負っていた」


確かにこんな悪事などそうそう予測出来る事ではあるまい。無表情な探偵は、再び淡々と続けた。


「鐘が鳴って中庭に現れた以上、どうやら彼女は地下室の存在まで知っている。

貴女にとっては地下室の存在を知る人間は、等しく邪魔な存在…。

計画の変更を余儀なくされた貴女は、彼女が中庭に仕掛けたボーガンを奪い、回収にやってきた彼女に躊躇わずに撃ち込んだ…」


鈴木貴子が目を背け、成瀬勇樹が沈黙する犯人を睨んでいた。愛子は静かに目を閉じて、探偵の次の言葉を待っている。


「そして、ターゲットのはずの一条君が覚醒剤まで使用していた事…。これにはさすがの貴女も驚いた事でしょうね。

しかし貴女は持ち前の冷静さで、大幅にズレた当初の計画を彼女の犯行に見せかける方向へと軌道修正し直したんです。これは何かと邪魔な売春生徒達を根こそぎ一網打尽に出来る計画でもあった。犯罪者が犯罪者達に鉄槌を下す。これはそうした事件でもあった訳です。褒められた事ではありませんが、その発想の柔軟さには俺は正直、敬意を表していますよ。彼女達の狡猾さは、貴女にはとても及ぶべきものではない」


愛子はもはや何も言わなかった。


「栄光の階段を上り詰めても尚、罪を犯し続ける一条君には、最終的に殺人犯の役が振られた…」


あとは皆さんも知っての通りです、と真相を見抜いた探偵はそう言った。


「貴女は巧妙に偽装して自分の犯行を隠蔽した。現場の時計塔では胸に矢が刺さり、裸で倒れている校長先生…。

その傍らには夥しい血の海に横たわっている少女達…。

一条君が自分で自分に打ち込んだ覚醒剤のアンプルは確かにとんでもない偶然でしたが、これは貴女にとって思わぬ幸運を齎した。

彼女をただ殺害するより、放っておいても組織は勝手に空中崩壊を始めると踏んだ貴女は鈴木君を一端監禁し、事態の収集を見守る方向にして事件に巻き込まれた関係者達の間に紛れたんです…」


探偵は静かに、そう言って結んだ。


「罪を怖れる彼女達によって捕らえられた鈴木君という存在と、体調不良による生理の遅れ…。そして友達を守る為に命がけで地下への入口を示唆した沢木君…。

この幾つもの偶然がなければ、全ては完全に愛子先生…貴女の思いのままだった事でしょうね」


「ふふっ…。一番のアクシデントは警察に捕まった間抜けな私立探偵の予期せぬ復活ね。こんな呆れた展開、私なんかには読める訳もなかったわ…」


愛子は静かにそう言って笑った。事実上の敗北宣言を前にしても、探偵は無表情な眼差しで愛子を見つめていた。


「貴女自身のアクシデントを隠す為に、校長先生は殺されました。

そして、この地下室のエレベーターを使おうとしたという理由だけで沢木君は殺された。

こんな場所に幽閉され、万が一の際には一条君に代わるスケープゴートの殺人者として選ばれるはずだった鈴木君は、甚だいい迷惑だったでしょう。

…凝りに凝った演出の方は完璧でしたがね」


「ふふっ…褒めてもらえて光栄だわ。

これでもない知恵を絞ったのよ。

この現代の日本で誰もが口を噤む狂気や、未成年の犯罪という後ろ盾を使わない手はなかったものね。

キの字。狂っている。精神異常者…。

カタワにツンボにメクラにキチガイ…。

いつだってそう…。どうして世間はそうした言葉や行動や人そのものに向けられる端的な言葉を必要以上に差別と受け取り騒ぎ立てるのかしらね?

私にとっては全部誉め言葉だわ。

どれだけ境界を踏み外せるイカレた殺人者になりきれるかが、この劇場化した犯罪の見せどころだったのに、残念ね…」


愛子は。殺人犯は探偵を静かに見据えた。


「これだけややこしい事件を、たった一人で見破るとは恐れ入ったわ。こんな愚かで救いのない世の中で、報われない事件の後始末の為に、貴方のような人が埋もれているなんて本当に勿体無いわ」


「最初に言ったでしょう、愛子先生。俺をなめてもらっては困ります。

殺された人間や、死んだ人間達の死因に別の意味づけをする事で偽装し、周囲を取り巻く環境を過剰な演出でもって操り、真相をカモフラージュするという貴女の手法は、確かに見事というしかない。

…ですが、やはりあなたはそんな風に罪を抱えた人間達を軽蔑するあまり、その陰に己を殺してはいませんか?

俺は真相を見抜くだけしか能のない役立たずですよ。

理事長はそんな俺に事件を依頼した…。

理事長のお心は察してあげるべきでしょう」


探偵のその静かな言葉に、愛子はどこか寂しげな溜め息をついた。


「私の…完敗よ。そこまで見抜かれているんじゃ仕方ないわ…。貴方は本当に恐ろしい人…」


愛子はそう言って、寂しげに口元に笑みを浮かべて探偵を見据えた。


「ふふふっ…。今にして思えば、優しい性格の老いたお父様が恨めしいわ。私は貴方という人間を完全に見くびっていた…。

この事件をお父様が依頼すると言い出した時にはもちろん私も側にいたけれど、あの時はまさか貴方がこれほど優秀な私立探偵だとは思わなかったわ。

新宿の解体屋、名探偵の来栖要さん…。貴方がまさか、私の天敵だったとはね…。

私は知らぬ間に眠れる獅子を…いえ、自分の天敵となる人間を起こしてしまっていたのね」


「人の天敵は結局は人なんですよ愛子先生」


探偵は笑った。


愛子も笑った。


二人は暫し静かに見つめ合っていた。どこか穏やかともとれる二人の微笑みには、不思議と嘲笑や悪意の類は一切感じられなかった。


言い知れぬ沈黙を前に、赤い羊はついに黒い狼の前に屈した。


地下のモルグには静寂だけが横たわっていた。誰もが皆、一様に俯いていた。

誰も一言も発しなかった。

発するべき言葉など、もはやどこにも見つからなかったのかもしれない。


あらゆる非常識な展開を見せた事件の故か。

棺桶に眠る、物言わぬ躯がそうさせるのか。

はたまた探偵の膨大な言葉に巻かれたのか。

閉ざされた世界は、静かに終わりの時を迎え始めようとしている。


沈黙の後、愛子は静かに探偵へと問い掛けた。


「探偵さん…私がどうして犯罪者と呼ばれる人達をこれほど憎むか解る?」


「罪を犯さない人間などいませんよ、愛子先生…」


「そうね。罪を犯さない人間などいない。同じ理由で人を傷つけない人間というのもいないわ…」


そう言うと愛子は、諦観と悲壮感が混じり合ったような、どこか悲しげな瞳で探偵を見据えた。


「探偵さん、どうして人はここまで悪意に満ちているのかしら…。

他人の不幸や死を悪戯に騒ぎ立てて、誰かの死を過剰に悲しんだり、他人の罪や無慈悲な事に対して怒りや悲しみをどれだけ感じて叫んでみたところで、人そのものは何も変わりはしないわ。

この世に人が存在する限り、この世から悪意が消えてなくなる事なんてないもの…。

探偵さんや刑事さん達は仕事だから他人の秘密を暴くんでしょうけど、別に正義だの人間愛だのといった思想を後ろ盾にしている訳じゃないでしょう?

仮に社会正義や人間愛を建て前に、ひたすら誰かの罪を暴き立て、糾弾して、憎しみの感情をひたすら他人にぶつけて、概念の権化のような存在になって生きてみたところで、果たして何かが救われるのかしら?」


石原と花屋敷は殺人者の問い掛けには何も答えず、ただ石の床へと視線を落として俯いている。来栖は真っ直ぐに愛子へと視線を向けたまま答えた。


「何も救われませんよ…。救われるのは、何かを信じている者だけです。

過ちを繰り返すのが人。

道を踏み外してしまうのも人…。

悲しいかな、それが人間だとしか俺には答えられません」


愛子は頷いた。


「その通りね…。人は愚かで、ひたすら悲しい存在なんだと思う。犯罪者の私が言うんですもの。多分、間違いないわよ」


物音一つない静寂が再び地下を満たしていた。犯人の独白を前に、やはり誰も何も言わなかった。


深閑とした長い沈黙を愛子の声が再び破る。


「…ふとした悪意や人に言えない嘘や快楽を心に宿してしまった人達はね、その些細な悪意や秘密が、いずれ自分や他人の世界を修復出来ないほどボロボロに傷つける事になるかもしれないなんて考えないわ。

“バレなければ別にいい"。

“自分を捕まえられない方が悪いんだ"。

“こんな風にしたのはアイツらのせいだ"。

“貧しいせいだ”。

“社会のせいだ”。

そうした数限りのない言い訳や逃げ場を用意して怯えるわ。

自分が帰る場所さえ壊しておきながらね…。

…愚かでしょう?

憎むべき対象を作る事で自分を騙し、己の浅ましさを何かとすり替えて取り返しのつかない罪を重ね、いつしか踏み越えてはいけない境界まで踏み越えてしまうのよ。

…けどね、踏み越えてしまっても、そこにあるのは、ただの日常なの。

別に悪魔になる訳でも鬼に変わってしまう訳でもない。劇的に世界が変わってしまう訳でもない。普通の人なら出来ない事をしたという事実が現実に残るだけ…。

隠せない己の心に残るだけ…。

その事実が自分の世界を変えたと勘違いするのが犯罪者なのよ…」


そう言って愛子は天井を仰いだ。周囲の者達はただ俯いていた。壮大な赤色の荒野に立つ魔術師は、ただ静かにそんな世界を見下ろしていた。



「私が初めて人を殺したのは…10才の時よ」



愛子は静かに、物語でも始めるようにそう言った。

周囲の者達は一斉に目を見開き、驚愕の眼差しで愛子を見つめていた。来栖は片手で素早く後ろにいる者達を制し、ただ無表情な眼差しで愛子の目を見つめている。


言い知れぬ深い沈黙が再び周囲を包む。

ちらりと探偵を見据えてから、愛子はどこか遠くの方へと目を投じた。


「私は孤児だったわ…。

私のこの愛子という名前も、孤児院にいた老婦人がつけてくれたものなの。

その人に聞いた話では私は五月の、そう…ちょうど昨日のような嵐の日に毛布にくるまれて、孤児院の門の脇に捨てられていたのだそうよ…」


「何か身許の証になるようなものはなかったのですか?」


探偵は静かに尋ねた。愛子は落ち着いた動作でゆっくりとかぶりを振った。


「さあ、どこかになくなってしまったのか、始めからなかったのか…。

本当の親の手掛かりになるような書き置きや、形見になるような品物はどこにも見当たらなかったらしいの。木の股から生まれてきたようなものね…」


愛子は寂しげに微笑み、両手を白いスカートの前で組んで天井を見上げた。


「11の時に今のお父様が私を拾って引き取るまで、私はそれまで一度として育ててくれた家の親から情けを掛けられた事なんてなかったわ…。

物心がついてから、人の情けさえろくに受けずに育った子供だったから、こんな人でなしになってしまったのかしらね。ふふっ…」


愛子はそこで成瀬勇樹の方を見つめた。


「成瀬さん、結局こんなのは全て言い訳になるんでしょうけど、貴女も聞いてちょうだい…。貴女に聞いていてほしいの」


勇樹は不安と困惑が入り混じったような複雑な表情で、愛子の顔をじっと見つめている。


「7歳の時に、私を養女にしたいという話が孤児院に持ち上がったの。

引き取りたいと言ってきたのは白金台にある、綺麗な家に住むお金持ちの夫婦だったわ。年が凄く離れてから結婚した夫婦だったの。子供に恵まれない夫婦だったから、私を養女に引き取る事にしたのね」


花田と桂木が身を寄せ合って愛子を見つめていた。愛子は続けた。


「孤児院の先生達も良縁だと喜んでくれたわ。私はめったに笑わないような無愛想な子供だったから、その話を聞かされた時も、どこか他人ごとみたいに構えていたわ。

不安と幸福が入り混じったような心境で、年下の子達と砂場で遊んでた…」


「孤児院を離れるのは、寂しく感じなかったのですか?」


探偵の問いに、愛子は静かにかぶりを振って、少しだけ寂しそうに笑った。


「孤児院の先生や同じような境遇の子達が私にとっての家族だったから、離れていくのはもちろん辛かったし悲しかったわ。

けど、必ずどこかで諦めなきゃいけない事だというのは子供心に伝わってきたの…。

私に選択の余地なんて最初からある訳もないから、諦めていたのね…」


四周を流れる水音だけが微かに聞こえる。周囲はただ固唾を飲んで愛子の一挙一動を見つめていた。

まさに水を打ったように静まり返った沈黙の世界を、愛子の過去の時間だけが支配していた。


愛子は暫しの間、目を閉じて眉をひそめた。


「けれど今にして思えば、その時に孤児院を泣いて逃げ出してでもそんな話は断るべきだった…。それが私の不幸の始まりだったなんて、その時は何も知らなかったものね…」


探偵は目を細めた。


「先生、それ以上は貴女が辛くなるだけだ。その先は言わなくていい…」


「探偵さんは何でもお見通しのようね。

けど来栖さん、ここはやはり聞いて…。

私をただの人殺しにしたくないと思うのなら…」


来栖は微かに目を伏せ、ゆっくりと身を引いた。


「引き取られてからも平穏な日が続いていたわ。

年配の養父も養母も、最初はお人形さんでも扱うみたいによそよそしかったけど凄く優しかったし、通いの家政婦のおばさんも何かとマメに私の世話を焼いてくれた。けど…」


腹の底に溜まった膿を絞り出すような、どこか苦渋と暗鬱に満ちた声で彼女は続けた。


「あれは忘れもしない…。

私が7才の時だった。誕生日の日が近づいてきた日の事だった…。

私は突然普段は出入りを禁じられていた養父の部屋に呼び出されたの」


愛子は眉をひそめ、きつく瞼を閉じた。


「養父はいきなり私に何て言ったと思う?」


『お前は本当なら死ぬはずの子だったんだ』。


『施設で育った人間が、まともに扱われると思っていたのか?』


『捨てられた癖に…』。


『本当なら死んでいたはずの子供の癖に…』。


『生き意地の汚い子だ』。


『お前のような子は、お仕置きしてやる』。


『この人形め』。


『仕方なく生かされている人形は大人しくしているんだ』。


恐怖に表情を歪めると、愛子は瞼を見開いた。


「そして私は…!」


「愛子先生、もういい!

もう止すんだ!」


来栖が厳しく咎めた。愛子は探偵を突っぱねた。


「いいえ、止さないわ! 探偵さん、あなたはきっと知っていて黙っているわね。

そうよね、誰にだって予測できる事ですもの! だったら教えてあげるわ! 何もかも!」


そう言って愛子は、世界を呪うような眼差しで言った。



「養父はまだ小学生の私を犯したのよ! 何度もね…!」



愛子は瘧に罹ったように震えた。


「獣のような男だった。私は愕然としたわ…!いつも笑顔を絶やさない温厚で人あたりのいい人格者の養父の顔は、実は仮面にしか過ぎかったの。

私はそこで始めて自分が引き取られた本当の理由を、自分の体で理解したわ!

経営する会社や周囲の人達を狡猾に欺いてきた好色で薄汚いゲスな男…。

私を引き取った父親はね、この世で最も最低な、蛆虫にも劣る男だったのよ…!」


愛子は震えていた。


「汚らしい最低な台詞を吐いて私を裸にして何度も辱めて、ビデオカメラの映像に収めては、それを眺めて一人で楽しむような変態だったのよ!」


忌まわしい記憶の檻を、愛子は自らの手で開けた。


「誕生日やお祝い事が来るのを、私はこの世で誰よりも恐れていたわ…!

だって…だってその日は私が犯される日!

“成長記録"として養父の“コレクション"に収められてしまう日だったんですもの!」


心の闇。

奈落の底の。

秘密。


「人間性など欠片もない、下劣で最低でケダモノ以下の父親だった。探偵さんの言葉を借りるなら、化けの皮を被った赤い羊が、私の養い親だったのよ!」


愛子は目を逸らし、今度はふっと己を嘲るような微笑を浮かべた。


「嫌がれば煙草の火を押し付けられたり、足に熱湯をかけられたりした…。

今でも跡が残ってるわ…」


愛子はちらりと己の白いヒールの底を上げた。確認する者は誰もいなかった。探偵以外の者は全員俯き、目を逸らしていた。


「養母は何も知らなかったわ…。いいえ、知っていたけど黙っていたの。

…そりゃそうよね。

苦労して捕まえた年老いた金蔓にわざわざ楯突くような馬鹿はいないわ。黙っていても先に死ぬのは、財産を残してくれる旦那の方なんですもの。

それに養母は養母で、こっそりと外に男を作って遊んでいたんですものね。

子供の出来ない体なのをいい事に、引き取った私は雇いの家政婦に任せきり。

着飾って夜遊びをして、他人の財産をただ貪って生きているだけの淫蕩な雌犬だったわ」


壮絶な愛子の呪いの声はやむ事なく続いた。


「大ッ嫌いな食事の席で会う度に、私は香水臭い養母に言われたわ」


『何でそんな可愛らしい顔をしてご飯を欲しがるのかしら?』


『7つのお祝いに女になれたなんて凄いわね』。


『人形の癖に…』。


『お人形さんだったら良かったのにねぇ』。


『お人形さんなら苦しまなくても済んだのに…』。


『哀れよねェ…』。


『かわいそうよねェ…』。


「そんな風に私を蔑んで、養母はよく笑ったわ。私は心の底から養母を軽蔑していた。

御乳母日傘で育った女。世間や実家の両親への体面で仕方なく結婚した女。

子供の産めない女…。

貞淑な妻の振りをして、男を喜ばせる為に尻尾を振って生きてきたような雌犬には、何も考えずに年老いた夫に玩具にされるだけの私なんて、ただの人形に見えたんでしょうね…」


愛子はそこでゆっくりと、周囲の者達を見渡した。


「理解してくれなんて言わない。同情なんてまっぴらですもの。ただ昔話がしたいだけ。

それだけよ…」


人形、と暗い瞳に深い闇を湛えながら、愛子はぼそりとそう呟いて続けた。


「そう…。養父や養母は自分達の都合のいい、ただの人形を欲していただけ。

経営する会社や世間への体面や自分達の親達に言い訳をする為だけに、比較的ましな顔で利口そうに見える私を引き取っただけだったのよ…。

性教育もろくに受けないうちに訳も分からず養父に犯され、養母からは口汚く罵られる。そんな狂った生活なんて、もう我慢出来るものじゃなかった…。

今なら児童相談所だの近所の人達だのが、何もかも手遅れになった頃に異変を聞きつけて大騒ぎするんでしょうけどね…」


植田がなぜか押し黙って拳を握りしめている。

愛子は再び笑った。


「皮肉なものね…。世間はどんな悪党でも金持ちに楯突くような真似なんてしない。そして、本当の悪人は笑顔まで巧妙な人間の事なのよ。

私は人間として扱われないただの人形…いいえ、ただ生かされて犯されるだけの家畜のような生活を強いられた。自分の感情を消す事でやっと生きていたわ」


待ってくれ、と花屋敷が恐る恐る遮った。無骨な刑事の表情は険しかった。


「そ、その養父達は…?

さ、さっき殺したって…」


ええそうよ、と愛子は冷淡に微笑んで答えた。


「二人とも死んだわ。この手で焼き殺してやったの」


まるで化け物を見るような恐怖に満ちた目で、周囲は愛子を見ていた。


「救いのない悪い大人達に地獄を見せてやろうと思ったのよ。ついでに家族も誰もいない、生きていたって意味のない悲惨な私の人生なんて終わってしまえばいいと思った。

子供でもそんな風に考える事が、どれほど恐ろしい事なのかはよく知っていた。

今思えば稚拙な子供の邪な思いつきだからこそ出来た事かもしれないわね…」


己の暗黒を静かにさらけ出した愛子は、再び頭上を見上げて目を閉じた。


「狂った白い家は、二つの死体を中に残して綺麗に焼けてなくなってくれたわ。

私も本当に死ぬつもりだった…。けれどつくづく運命とは皮肉なものね…。

私の目の前で養父達は呆気なく焼け死んで、捨てられた人形みたいに焼かれても構わない、死んでも構わないと思っていた私は、傷一つ負わずに助かっていたのよ。

その時からかしらね…。私に妙な悪運がついて回るようになったのは…。

いいえ、本当に私の人生は生まれながらにして悪魔か魔女か…何か邪悪な存在にでも魅入られていたのかもしれないわ」


どこか歪んだ自虐的な笑みを湛えながら愛子はそう言った。

来栖の死神のような眼差しがさらに険しさを増したように思えた。


「誰も10歳の私がタバコの不始末を装って内側から火をつけたなんて思わなかった…。

火災現場で消防士の人に背負われながら、私はひたすら震えていたわ。

全部なくなってしまえと思った癖に、その時は自分のした事がもう、ただ怖くて恐ろしくて堪らなかった…」


誰も。何も言わない。


「再び違う施設に入れられたけれど、そこには当然、私の知っている顔なんている訳もなかった…。

悪夢に夜毎うなされては大騒ぎする、私のような人殺しの子供が馴染める居場所なんてもうなかった…。

やがて逃げ出すようにしてそこも出たわ。私が11の時にね…」


沈黙。


「生き延びてはいたけど、私はただ生きていただけ。

ただ罪に怯えて死ぬ瞬間の為に生かされていただけ…。

今となっては、生きていたのかどうかさえ怪しいわ…」


あまり覚えていないものね、と愛子は感情のない声でそう言った。

ピクリと探偵の眉間が動いた。


「空腹と疲労と恐怖で私は朦朧としていたわ…。本当に死にかけていた…。

世間はバブル景気だか何とかで呆れるほど食べ物が溢れていて、テレビをつければ毎日のようにグルメ番組をやっているっていうのに、私は飲まず食わずで、あてどもなくただ街を歩き続けた…。

自分と同じくらいの子供が家族で食事をしていたり、手を引かれて歩いているのを見た時が一番辛かったわ…。

すれ違うだけの、人だらけの都会の雑踏は誰一人として私の事なんて気にかけてなんかくれない…。

何も入っていないナップザックを背負って誰もいない場所ばかり選んで、死に場所だけはせめて綺麗な場所がいい。ただ、それだけを考えて歩いていた…」


愛子は暗い瞳で再び宙を見据えた。魔術師はただ静かに天を仰いでいる。


「これは神様からの罰なんだと思ったわ。

餓死してガリガリの亡者のような姿をいろんな人に惨めに晒して、孤独に死ぬのがお前の罰なんだって…。

私もそれが当然の事だと思った。どんな理由があろうと人殺しがまともに生きられる訳がないもの…。そう考えて、いつしか私は気を失っていたわ…」


「それを理事長が見つけて保護したのですね。…愛子先生、もしや貴女は、この学園で目を覚ましたのではありませんか?」


来栖はなぜか目を細めて愛子に問い質した。勇樹が微かに眉をひそめて来栖の方を伺っている。愛子は静かに頷いた。


「目が覚めた時には、私は保健室に寝かされていた。今でも思い出すわ…。見知らぬ天井に見知らぬ壁…。周りは全部真っ白で…。

ついに私もあのまま死んじゃったのかと思った。…けど、そうじゃなかったわ。

目の前には派手な赤いスーツを着た一人の男の人が立っていた…」


「それが、間宮理事長…」


花屋敷が呟いた。愛子は頷いて微笑んだ。


「凄く優しそうな人だったわ。

目の前には温かいスープとパンがあって、私はそれこそ文字通りの欠食児童で飢えを満たした。不思議な事に、その人はそんな私を見ても何も聞こうとはしなかった。

『どうして生きてるの?』

私がそう言うと、その人は私に優しく微笑みかけて、言ったわ。

『君は今日から私の娘になるんだよ。忘れなさい。今までの事は全て…』

そう言ってガリガリに痩せた私を抱きしめてくれた…」


勇樹が唇を噛み締めている。

貴子が目に涙を溜めてクスンと鼻を啜った。


「けど私は泣き叫んで暴れたの。

あの時の事が…養父の獣のような手の感触や、火のついたタバコを押し付けられた時の記憶が閃光のように蘇って…。

フラッシュバックというのかしらね…。

お父様も驚いていた。本当に馬鹿馬鹿しい話だけれど、大人の男は子供を犯す生き物なんだと私はそう思い込んでいたから…」


押し黙っていた山内が、血が滲み出そうなほど拳を握り締めて震えている。


「けれどお父様は私が泣き止むまでずっと抱きしめていてくれた。お父様の体は凄く温かくて…。人の体温って、こんなに温かいのかって生まれて初めてそう思ったわ。

私はお父様がいなければ本当に死んでいた。お父様の娘になれたからこそ、私はようやく人になれたの…。それまでの私はきっと訳のわからない何か…。人の形をしているだけの違う生き物だった…」


石原が割り込むようにして愛子に問い掛けた。


「り、理事長先生は知っているんですか…?

あ、貴方が、そ、その…殺人者だという事を…」


愛子は毅然と石原を睨みつけた。


「いいえ刑事さん! お父様の名誉の為に言っておくわ!お父様は本当に何も知らない!

これは私だけで行った犯罪!

お父様は一切関係ないわ!」


愛子ははっきりとした厳しい口調でそう言った。桂木がぶるぶると震えながら愛子に問いかけた。


「あ、愛子先生…。あ、貴女が犯罪者だったなんて。さ、殺人だなんて…」


愛子は俯いた。


「桂木さん…今まで騙していて本当にごめんなさい。探偵さんが言った事は全て本当の事よ。ひどい女ね…」


桂木の表情が今にも泣き出しそうなほどに歪んだ。

だから、と探偵は語気を強めて言った。


「だから貴女は許せなかったのですね。

理事長の経営する学園で、次々と犯罪を犯す者達が…」


「ええ、本末転倒とは正にこの事ね…。

何を言われても、もはや弁解する気なんてないわ」


愛子は毅然として刑事達の方を振り向いた。


「さあ、犯罪者の告白はもうおしまいよ…。早く私を捕まえてちょうだい」


愛子は石原に両手を差し出して、静かにそう言った。


待ってくれ、と山内が突然割り込んだ。


「あ、愛子…君は…!」


愛子は目を閉じて静かにかぶりを振った。


「わかったでしょう? 私はただの人殺し…。

貴方を欺いていた悪い女…。

ただの悪辣な魔女よ」


「愛子…嘘だろう?

嘘だと言ってくれ! 君は洋子をかばっていたんだろう? 俺との事だって…」


必死の形相で山内は愛子に詰め寄った。

愛子はふっと、どこか嘲るように笑って山内から目を逸らした。


「何を言ってるのよ…。私は自分のアリバイ工作の為にタッ君…貴方を利用していただけ。12年前の事だって同じよ…。

お父様の学園で犯罪が行われるなんて許せなかっただけ。何を考えているのか知らないけど、勘違いしないでちょうだい」


唖然とする山内を尻目に、愛子は背中を向けた。その視線の先には探偵がいた。


愛子は静かに探偵に微笑んだ。


「賭けに敗れたその時は、衆人に恥を晒してでも堂々と退場する。そうだったわよね? 探偵さん」


来栖は愛子を見つめている。


「狂った犯罪者の異常な世界なんて、この静かな学園には必要のない茶番だわ。

イカレたパーティーはこれで終わりよ。

さあ、行きましょう、刑事さん…」


愛子はそう言って刑事達二人を促した。


果たしてそうでしょうか、とすれ違いざまに探偵は言った。


「他人は欺けても、自分の本心はやはり欺けるものではありませんよ、愛子先生」


ぴたりと愛子の歩みが止まった。

探偵は続けた。


「確かに貴女のやり方は間違っていたのかもしれません。しかし、そこはそれ…。

貴女が頑ななまでに、押し殺してきた感情に嘘はつけないはずです」


来栖は山内の方を見ながら、静かにそう言った。


「十二年前のあの日…。

誰かを愛するが故に死んでいった人間達を目の当たりにして、貴女が何も感じなかったはずがない。悲しい恋にすれ違った洋子さんや聡美さん…。そして、いずれ病で死んでいく自分の命を賭けて、それでも彼女達を守り抜いて死んだ武内先生…。

俺は歪められた事件の真相を暴く為に、彼らの死の真相まで暴いてしまった…。

そして、こう言ってはなんですが愛子先生、貴女の今の気持ちも知っている…。

彼らだけでなく貴女や山内先生の心まで暴くような、そんな野暮な真似をこれ以上、貴女は俺にさせるつもりなんですか?」


探偵は振り返った。


「探偵さん…」


意外にも来栖は、今までとは打って変わった物柔らかな態度で微笑んだ。


「誰がどんな秘密を持とうと好奇心のままに真実を探ろうとするのが探偵であり、そして誰かの気持ちを知りたいが為に不安になるのが人なんですよ。

確かに人の気持ちを弄ぶような嘘と噂だらけの世の中は、貴女が忌み嫌っているこの世界の姿…。人のある意味で、真実の姿でもあるでしょう。

…ですが、そんな世界はいつだって己の在り方でいくらでも変わるものです。環境が人を変えるのなら、その逆もまたしかり…。

カウンセラーでもある貴女は最初からそれを知っていたはずです。

自分の守るべき者達が罪を犯す。忘れられない思い出や自分の大切に想っている人達への感情が、自分自身を責め苛む。その矛盾に誰よりも苦しんできたはずです。

噂と欺瞞に満ちた世界は、いつだって貴女を苦しめ続けた。…ですが、そんな世界もそろそろ終わりです」


愛子はぶるぶると必死でかぶりを振った。


「駄目…! 駄目よ!

私は…私は人殺しなのよ…!

生きている限り苦しまなくてはいけないの!

死刑にしてくれないなら、いっそ死んでしまった方がいいのよ! そうでしょう!」


愛子は自ら世界を閉ざすようにして、耳を塞いだ。


「ならばなぜ悲しむのです?

貴女がたった今流しているものは何ですか?

その涙こそ嘘偽りなどない、今の貴女の心を象徴しているものではないのですか?」


「いや…嫌よ…!」


「愛子…もういい…。もういいんだ…!」


山内は後ろから愛子を静かに抱き寄せた。

探偵は二人に背中を向けて言った。


「始まりがあるところにはいつか必ず終わりは来る。悪夢とて同じです。貴女は過去に縛られた人形や、ましてや魔女なんかじゃありません」


「駄目…駄目よ…。そんな未来は私の妄想なの。人殺しの私が勝手に描いていただけの幻想よ…」


「たった今、貴女を惑わせているその感情がたとえ幻想や妄想であったとして、たとえ貴女が殺人者でも、そうした感情を抱くことの何が悪いのです?

…もういい加減に自分を騙すのはやめる事です。愛情と憎しみと、そして罪悪感の狭間で揺れている自分に、貴女はそろそろ嫌気が差しているはずだ」


「愛子…もういい…。もういいんだ…」


山内は愛子をきつく抱き寄せた。愛子は涙を流して震えている。ようやく解りました、と探偵は二人に背中を向けながら言った。


「愛子先生…貴女が本当に守りたかったものは、この場所に封じ込めたもう一人の貴女自身…。そして貴女のそうした心だったのではありませんか?」


二人は探偵の方を振り返った。探偵は首だけを向けてニヤリと笑った。


「いくら隠し通そうと、何重にこの場所に封をしようとも駄目なはずです。

なぜなら、それはずっと貴女自身の中にあったものだからです…。そう…」



「真実はいつだって貴女と共にあるんです」



そう言って探偵は再び二人に背中を向けた。


「愛子!」


「た、隆…!」


殺人者と殺人者の兄。

二人は強く強く抱き締め合った。まるで互いの温もりを確かめあうように。

とめどなく溢れる愛子の涙が頬を伝い、雫となって硬い石の床に零れ落ちた。


拳を握り締め、涙を堪えるように俯く成瀬勇樹。

花屋敷と石原がその光景から視線を逸らす。

桂木が。花田が。鈴木貴子が。植田までもが泣いていた。


刹那。愛子は突然、山内をどんと突き飛ばした。


「あ、愛子…?」


「もう嫌…。もう嘘に嘘を重ねて生き続けるなんて厭…。隆…貴方はきっとこんな私でも愛してくれるのかもしれない…。

それでも駄目! 私は殺人鬼…。

ただの人殺しなんだから!」


「あ、愛子…!」


愛子は山内から距離を取るように、後ずさった。


「駄目…! もう私になんて構わないで…!

貴方は私なんか見ていちゃ駄目!

こんなの…こんなのもう嫌…。

厭よ…。私は…」


全員が俯いて目を逸らした。


その時だった。


階段の近くにいた石原智美の背後に、すっと黒い人影が差した。

そこには鍔広の黒い帽子を目深に被り、黒いヴェールに顔を隠したモーニング・ドレスの女が幽鬼のごとく佇んでいた。


石原を除く全員が愛子と山内に気を取られていた。



「あ、貴女は…だ、誰?」



全員が振り返った。


「見つけたわ…。そういうことだったのネ」


女はそう言った。


「あなたが…私達の人生を滅茶苦茶にしたのよネ…?

あなたが…お前が…アタシの由紀子を殺しのネェ…?」


「まずい! 離れろ!」


来栖が叫んだ。


黒衣の喪服を着た女は網目のついた、薄絹のヴェールを外し。


ニタリと笑った。


「あなたは…か、川島さん!」


「お、おばさん…?

まさか…おばさんなの?」


山内と貴子が叫んだ。

川島だとッ、と植田が叫んだ。


呆気にとられている一同を前に、中年の女はびくりと一度苦しげに体を蠕動させて俯いた。荒い呼吸。ひくひくと体が震えている。


「離れるんだ!」


来栖が再度叫んだ。


「由紀子を返せぇッ!」


狂気の川島厚子はそう絶叫すると間宮愛子目掛けて一直線に突進した。


「愛子先生ッ!」


勇樹が慌てて二人の間に飛び出した。川島厚子は間に挟まれた勇樹ごと愛子にぶつかると、三人は縺れたまま大きく飛んで石の床に転がった。

女の首に下がった真珠のネックレスがバラバラと辺り一面に飛び散った。


スローモーションのように。


ガラスの奥の万華鏡のように。


世界が踊っていた。


女とぶつかって跳ね飛ばされた勇樹が呻く。喪服の女が必死で立ち上がる。

花屋敷が女を取り押さえようと覆い被さる。僅かに離れていた来栖が飛びかかり、そのさらに後方から石原が駆け寄る。


ぐふぅッ、と押し殺したような悲鳴が辺りに響いた。


「き、貴っ様ぁッ!」


花屋敷が強引に体落としで女の軸足を刈り、地面に組み伏せた。

倒れても尚、狂気の中年女は口角泡を飛ばしながら怖ろしい奇声を上げ、まるで何かを払いのけるように辺り一面を。空中を。地面を。自らの爪で滅茶苦茶に引っ掻いていた。


ユラリと間宮愛子が立ち上がる。

白いセーターの一点だけが赤い。

愛子は呆然と自分の胸に突き立った“それ"を見つめていた。


愛子の左胸には、まるで樹木でも生えたように柄の黒いダガーナイフが深々と突き刺さっていた。


「愛子先生ッ!」


来栖が怒声を発して喪服の女を裏拳で殴りつけた。彼はよろける愛子へと素早く駆け寄った。ぎゃっと甲高い悲鳴を上げ、白髪の女は地面に仰向けに倒れた。


花屋敷と石原の両刑事が、すかさず女を両側から取り押さえた。


「た…」


「愛子先生…!」


「た、探偵さん…。あ…あ、あな、た…」


愛子は驚愕に目をこぼれそうなほどに見開き、ぶるぶると震える右手で探偵を指差した。刹那、糸の通った操り人形をぐしゃりと落としたように、愛子の足があらぬ角度で内側によろけた。来栖要は慌てて女の体を抱き留めて支えた。


「あ、あなたは…お、お父様が…言った通り…」


「愛子先生っ! おい花屋敷! 今すぐ保健室にいる理事長を…!」


来栖が花屋敷を呼ぶ。

貴子がぺたりと地面に手を付いていた。

額から血を流した勇樹が両手で口元を抑え、涙を溜めてその光景を見つめていた。


「お、お父様…ご…」


白面の殺人者は、天井のステンドグラスへと震えるその手を伸ばした。



「ごめん…なさい…」



「愛子…。愛子ォっ!」


山内が呆然と愛子の名を叫んだ。


「た、か…」


愛子は山内へと震える手を伸ばした。だが、その手は立ち竦んだままの彼には届かず、そのままガクリと石の床に落ちた。


山内は信じられない光景に、ただただ茫然自失したままだった。


緩慢な動きだったが、全ては一瞬の出来事だった。


愚かな殺人者は勝負に敗れ、ついに息絶えた。


「あ、愛子先生ッ!」


貴子と勇樹が叫びながら愛子に駆け寄った。

先生、愛子先生ェッ、と彼女達は己を殺そうとした女の死骸にすがりつき、泣きながら何度も女の名を呼んでは揺さぶった。


しかし、かつて颯爽と白衣を纏っていた美しい保健校医は、濁ったガラス玉のような虚ろな目を開け、口の端から細く一筋の血を流したまま一切動くことはなかった。


来栖要は“間宮愛子だったモノ”を抱えたまま固まっていた。


…意外だ。

酷く悲しそうな貌をしている。


くッそォ! と花屋敷の怒声が辺りに響き渡った。


「何てことするんだよ! 聞いてるのか、おい、コラァ! アンタなぁ!」


花屋敷は幾度か川島厚子の頬を叩いた。しかし唐突に現れた白髪の中年女は、肉体刑事が幾らぶっても揺すっても全く反応を示さなかった。眼の焦点が暈け、視点はあちこちに飛んでいる。

川島厚子は口の端から涎を垂らしながら、言葉にならない何かを発してアハアハと笑っている。


監察医の山瀬卓三は狂った喪服の女に駆け寄ると、素早く瞼をまくって瞳孔を調べ、脈拍を測った。


「間違いない。薬物患者ですよ。それも、かなり重度の…。覚醒剤でしょうな…。

多分もう現実と幻覚の区別すらついていない…。末期の禁断症状です…」


医師はそう言って探偵を見上げ、ゆるゆると首を振ってみせた。


探偵は壊れた人形のような女の目を閉ざし、ゆっくりとその亡骸を石の床に横たえて立ち上がった。


「全て掌の上の出来事か…」


ぼそりと探偵は呟いた。


「え…?」


石原が来栖に問い返す。

探偵は何も答えず、“こちら"がぞっとするほどの冷たい殺気に満ちた視線を天井へと向け、睨みつけてきた。


思わず“こちら"が気圧されてしまいそうなほどに整った冷たく、そして暗い暗黒をその内に宿した赤い瞳…。


…そうだ。


それこそが…。

お前の真の素顔だろう。


私は微笑んだ。


世界が歪んでいる。


人間は狂っている。


…見るがいい。

阿鼻叫喚のこの、地獄絵図を。


…聞くがいい。

壊れた世界の断末魔の叫びを。


ふらふらと迷い、ゆるゆると狂い続けた、これが閉ざされた世界の完全なる終わりだ。

滅ぶべくして彼らの世界は滅んだのだ。


そして…。


今こそ悲劇の頂点は悲劇の原点へと帰る。

たった一つの謎だけを残して…。


来栖要は、死神のような赤い瞳を一際妖しく輝かせ、闇の向こう側で“私”を睨み据えていた。


…さあ、眩惑の天才が遺した忘れ形見よ。

性根を据えてかかって来るがいい。


私はゆっくりと噴水の隠し窓からこの世ならざるその光景を眺め。



大いに笑った。

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