真実の扉・起

27


貴子が気がついた時、周囲はなぜか不思議な光に満ちていた。


「…うっ…!」


目覚めた途端、頭にズキッと鋭い痛みが走り、意識が一瞬ではっきりした。


ここは…。


貴子はゆるゆると首を振った。

うつ伏せになっていた上半身を起こし、貴子は恐る恐る周囲を見渡してみた。


ここは…どこ…?


薄暗い。

微かに青みがかったような薄闇が広がっている。それに、何だかひどく寒気がした。空気は乾いているのに、かなり温度の低い場所にいるようだ。


かなり長い間、うつ伏せで倒れていたらしい。見ると、地面は冷たい感触のする剥き出しの石畳なのだった。雨で濡れた自分の体の跡が、くっきりと石の床に浮き出ていた。


五感が次第にはっきりとなるにつれ、途端に首や体のあちこちがジクジクと痛み出した。起き上がって自分の格好を見た瞬間、貴子は思わずはっとした。


胸をはだけた下着姿も露わに倒れていたらしい。どうりで寒いはずだ。慌てて胸の前をかき合わせて隠した。ネクタイはそのままに、ワイシャツの片方が外に出て、ボタンが幾つか弾け飛んでいる。

雨で濡れたワイシャツと下着が透けて、肌に張り付いていた。寒いはずなのに、貴子は自分の顔が羞恥で真っ赤に火照るのがわかった。忌まわしい記憶が喚起され、過去の時間と今の自分が一瞬で繋がった。


どこからか、僅かに弱い光が漏れてきている。それが自分の頭上から幾筋も細く、後光のように漏れ出した光である事に、貴子はその時になって始めて気がついた。


今は昼…? ここは…時計塔…?

でも…。


どうどうと水の流れる音が辺りから聞こえてくる。暗がりの中、貴子の周囲だけが頭上から漏れ出したスポットライトのような光で、ほんのりと明るかった。


立ち上がった途端、足がふらついて貴子は転びそうになった。再び頭に鈍痛が走り、クラクラと眩暈がした。足の指先までひんやりと冷たくなっている。

貴子は身震いした。


寒い…。


貴子は鈍い痛みのする頭を抑え、過去を思い出してみる。


あの時…。


時計塔で行われていた、あの忌まわしい儀式。あの悪魔の絵画の向こう。

吹き抜けの螺旋階段の彼方から聞こえてきた、あの常軌を逸したような狂った笑い声。

続いて聞こえてきた、あのおぞましい悲鳴。


背筋に怖気が走るような生々しい記憶の断片に、再び貴子は身震いした。貴子が由紀子の事件を連想したのは言うまでもない。


しかし…。あの声…。あれは。


貴子の聞き間違いでなければ、あれはさして間を置かずに同じ人物が発した声(!?)だったような気がするのだ。少なくとも、あの声は何か変だった。上から聞こえてきたはずなのに、何だか妙に声がくぐもっていて…。

頭の隅に何かが引っかかっている。

何か…とんでもなく重大な何かが貴子の琴線に触れている。


何だろう…。


焦りにも似たこの感じが、ひどくもどかしい。貴子は痛むこめかみを押さえた。


…駄目だ。思い出せない。


問題はその後だ。自分の身に一体何が起こったというのだろう…?

奈美は…?あの少女達は…?一条先輩は…?

勇樹は…?


わからない…。


貴子は頭を振った。

ひどい頭痛がした。喉が痛い。目を閉じてゆっくりと眼球を動かしてみると案の定、僅かに鈍い痛みがある。雨に濡れたまま、こんな寒い場所に倒れていたせいだろうか。少し熱っぽかった。

頭の中には様々な疑問が渦巻いていた。

しかし、探れど辿れど頭の中には、まるで乳白色の霧が立ち込めたように薄ぼんやりとしている。何を考えてよいのかが、まずわからない。倒れる直前の記憶が、まるで覚束ないのだ。肝心な部分がすっぽりと抜け落ちてしまっている。


この違和感は何なのだろう?

何かとんでもないないもの(!?)を見たような気がするのだが…。


しかし…。記憶が途切れている。


一体自分はどのくらいの間、気を失っていたのだろう。今は何時だろう?


貴子は懐から携帯電話を取り出して、液晶の表示を見てみた。しかし、既に電池の残量が空なのか壊れてしまったのか、電源ボタンを押してもいつものように画面は立ち上がらなかった。普段は一番身近な相棒の癖に、肝心な時には役に立たないパートナーだ。


八方塞がりの状況だった。


どうしよう…。


貴子の不安ごと、思考をかき消すような水の音だけが、どうどうと断続的に聞こえてくる。貴子は改めて、今度は意識的に周囲を観察してみた。


不思議な冷たさと異様な雰囲気の同居した場所だった。


まず広い。矛盾しているが、どこか静謐な暗がりが広がる場所だった。


上から幾筋も漏れ出した淡い光線が尚更そう思わせるのか、貴子はなぜかテレビのドキュメンタリー番組か何かで見た、どこかの古い遺跡や教会の内部を連想した。

奥の方は暗くて全く見えなかったが全面石畳の、かなり広い部屋にいる事だけは間違いない。


四周の床にはぐるりと堀のように溝が張り巡らされ、水が壁を伝って流れ落ちてきていた。脇の溝に貯まった水がさらさらと流れている。比較的、綺麗な水だ。排水溝のようなものは見当たらないが、どこかに流れていく仕組みになっているのだろう。

部屋の隅。貴子の上空の一角からは滝のように大量の水が、定期的に落ちてきているのがわかる。先ほどから聞こえていたどうどうとした音の正体は、きっとあれだったのだ。

すると、ここは地下室か何かなのだろうか?


地下…?


ふと貴子は足を止めた。今さらになって、始めてその異常に気づいた。


私はそもそも、どこから入ってきたの!?


貴子は究極に頭が混乱した。ここはどこ…!?

一体どこなの?


再びあちこちと辺りを見渡す。剥き出しの石の床を。周囲の堀を。奥の暗がりを。そして、天井を。


「…えぇっ!?」


見上げてみて貴子は今度こそ叫んでいた。


「ス、ステンドグラス!?

何でここに…これがあるの!?」


そう。それはステンドグラスだった。

赤、青、黒、黄色といった色とりどりのガラスと淡い光が織り成す鮮やかな色彩模様が、とんでもないスケール感をもって貴子の頭上に、天井いっぱいの空間に広がっているのだった。


「こ、これって…」


時計塔の天井にあるものと全く同じだった。ただし、そこに描かれていたのは、あの禍々しい悪魔の絵画とは全く性質の異なるデザインだった。


赤いローブを纏い、高々と杖を天上に掲げた人物が、ゴツゴツとした荒野に立っている。

フードに隠れた横顔で、その人物の顔は見えない。青年のようにも、老人のようにも見える。魔法使いのようなその人物の先には、巨大な太陽が地平線から顔を覗かせていた。地平の彼方からは光が溢れ、全体が温かい色合いをした茜色に染まっている。


明け方か、夕暮れの景色なのだろう。ローブを着たその人物の色も、赤というよりは黒に近い。逆光と太陽が、その人物のディテールをどこか荘厳で神々しいものにしている。


貴子は絶句していた。

頭の奥から賛美歌が聞こえてくるような、なぜか自然と涙が零れてくるような。

貴子は無条件の幸福と感動に包まれていた。


「綺麗…」


貴子は思わずそう口にしていた。ずっと眺めていたくなるような、思わず抱きしめたくなるような、愛おしい温かさに満ち溢れた絵だった。


ピチョンという水音に、貴子は我に返った。


いけない。


ぼおっとしている場合ではない。少なくとも今、見知らぬ場所に何も解らないまま一人ぼっちでいる事に変わりはないのだ。悪夢のような現実はまだ続いている。そういう事だ。


まずは自分の置かれた状況を確認しないと…。


薄闇を手探りに、貴子は怖々と奥へと進んだ。近付くにつれ、闇の輪郭と全景が次第にはっきりと見えてくる。


何か四角くて長いものが隅の方に見えた。スチール製のロッカーだった。その前にも何かがある。

近付いてみると、そこにはなぜか木製の机と椅子がぽつんと置いてあった。


何でこんなところに…?


学校で自分達が使っている白くて綺麗なものとはだいぶ違う。机の上にはなぜか、黒いデスクライトまであった。机の中に物を入れるスペースがある、いわゆる教室の机と椅子だ。それもかなり古い。埃がうっすらと表面を覆って、白っぽくなっている。机の板は木製で、表面のあちこちに傷がついていて、文字だか模様だか解らないものが、何やらごちゃごちゃと書いてある。暗くて見えにくいが、彫刻刀か何かで傷をつけたような跡が幾つもあった。


椅子も同じだ。表面の板は木製で足はスチール製。机の上の蛍光灯のスイッチを押してみたが、これは点かなかった。教科書やノートの類だろうか。

机の中にも何か入っているのが見えた。

何か手がかりになるものはないだろうか…。

貴子はその暗がりに近づいていった。


「えっ…!?」


何かどころの話ではなかった。

暗がりと埃で気付かなかったが、よくよく近付いて見ると机の周囲が真っ黒だった。何か黒っぽい液体が乾いて、机や地面のあちこちに斑点状にこびりついている。

そっと机の中を覗く。

紙の束。便箋だ。


…これは、手紙?


あちこち文字がかすれていて読みにくい。貴子は声に出して読んでみた。


「…の…紙があなたの元に届く頃には、私はもう…の世にはいないでしょう。

この世に何一つ残せないまま、死んでいく心苦しさはありますが、せめて最期は、お世話になったあなたに真実の全てを話してから去ろうと思います…」


これは、まさか…遺書?


あちこち文字がかすれている。濡れたインクが付着していて、肝心な部分が読めなかった。


次を捲ってみる。

うまく捲れない。

何だろう、このシミは?

便箋が赤黒いインクか何かで…。


…違う。


これは…血だ!


便箋には血糊がべっとりと貼りついていた!


貴子は危うくそれを取り落としそうになった。最後の一枚だけが、ぱらりと石の床に落ちた。その文末の名前を見た瞬間、貴子は凍りついた。


『武内誠』


「一体これは…。何なのよ…この場所は…」


貴子は思わず、後ずさった。顔を歪め、思わずしゃがんで頭を抱えていた。


怖い…! 悪い夢なら早く…早く覚めて…!


もちろん、これが悪夢であるはずがなかった。貴子は敢えて考えないようにしていた現実という名の覚めない悪夢を目の当たりにして、ひたすら恐怖した。


貴子は。閉じ込められたのだ。

気が焦る。

何とかしてここから脱出しないと…。


血だらけの便箋を怖々と机の中に入れ、貴子は今度はロッカーの方を調べてみる事にした。スチール製の細長いロッカーだった。

更衣室にあるものと同じタイプのようだ。


黒っぽい斑点がここにも付いている。誰かの血は、ロッカーの下の方にまで飛び散っていた。先ほどの血だらけの便箋の例もある。

怖くて堪らなかったが、中身を確かめない訳にもいかない。


鍵は掛かっていないようだが、錆びているのか開きにくかった。両手で取っ手に力を入れて引くと、いきなりバタンと外側に開いて、その物音に貴子はビクリとした。


中には白いスーパーのビニール袋に包まれた食料品が入っていた。買い物袋だろうか?

カサカサした白いビニール袋の表面には赤色の文字で『スーパーマーケット長谷川』と印刷されている。学校の近所には、こんな名前のスーパーはないはずだが…?


ロッカーの中には他には何もなかった。ハンガーや服の類も掛かっていない。

ガサガサと音を立てて、貴子は袋ごと中身をそのロッカーから取り出した。

大きな袋の中身は殆どがお菓子の類だった。

飴やガム、それに板チョコ。スナック菓子にチョコレートウェハースに駄菓子。


一人が食べるにしては、随分と量が多すぎる。なぜこんな所に、チョコレートやスナック菓子があるのだろう?

五円玉の形をしたチョコに、おまけのシールが入っているチョコレートウェハース。赤いデザインでお馴染みのポテトチップスや緑色の袋でお馴染みのチーズ味のスナック菓子まであったが、見た事もないようなキャラクターがついたチョコレートやスナック菓子も幾つか出てきた。


ふと思いついて、貴子はポテトチップスの袋を裏返してみた。


『賞味期限 94.10.9』。

『製 造 日 94. 6.9』。


貴子は目眩がした。

喘ぐように溜め息をついた。


「これって…十二年前のものだっていうの…?」


水場は近くにある。監禁されている以上、最悪の場合には手をつけなければならないが、袋を開けるのは怖かった。蛆虫が涌いて出てきては堪らない。こんなのを食べたら腹を壊してしまいそうだ。

ビニール袋の底には茶封筒を膨らませたような、四角い箱がちょうど入るようなボール紙の袋があった。


まさか、これって…。


中身を取り出してみるとそれは案の定、女性用の生理用品だった。どうでもいい事だが、貴子が使っているのとは違うものだ。何でこんなものまで出てくるのだろう?


相変わらず、どうどうと水が上から流れ落ちてきている。


待てよ。

上から…?

水…?


まさか、ここは。

噴水の…地下室…?


なぜ、今まで気付かなかったのだろう。

誰が作って、何故こんな場所が学校の中にあるのか、理由は解らない。だが、この場所が噴水に関わる秘密の地下室とでも考えなければ、水が上から流れ落ちてきている説明がつかない。

貴子は身震いした。理由はどうあれ、ここはきっと、よくない場所なのだ。


天井の荘厳なステンドグラスが相変わらず貴子を見下ろしている。


…あれは、何だろう?


どうどうという音。水がひっきりなしに周囲の堀へと壁を伝って流れ落ちてきている。一番奥の隅に何かが並んでいる。


あれは…。

箱…?


うっかりしていると見落としてしまいそうな隅の暗がり。そこには棺桶大ほどの大きさの、巨大な長方形の箱が等間隔に四つ据えられていた。

恐る恐る近付いてみる。ひんやりとした空気が怖い。ここはよくない場所だ…。


それはまさに、棺桶そのものだった。黒い長方形。銀色の十字架が表面にあしらわれ、足元の方が細い形をした。


死体を入れる箱。


「何でこんなものがここに?」


かなり逡巡したが意を決し、貴子は棺桶を開けてみる事にした。


蓋の横の凹みに手をかける。


ギィッと尾を引くような嫌な音と共に、棺の蓋がゆっくりと開いていく。


開ける瞬間、顔を背けていた。見たい気持ちと怖い気持ちの狭間で、貴子はうっすら怖々と目を開ける。


中には黒く、柔らかな布が何枚も入っていた。


「これは…あのマント!」


黒いマント。ローブと呼ぶのが正しいのかもしれない。裾が長く、頭の方にはフードがついていて思ったより軽かった。薄くて、ひらひらしている。

上の方を何枚か取り出して棺桶の中身を確認してみた。下の方にも何枚もある。

何枚も畳んで重ねてある。

赤いローブ。白いローブ。黒いローブ。

表面がさらりとして、艶やかで柔らかな絹の肌触りが手の中でするすると滑る。


間違いない。あの少女達が着ていた黒いマントと全く同じものだった。

貴子はこのよくない場所が、どんな場所なのか、だんだんと解ってきた。


次は隣だ。この棺桶にもきっと何かあるはずだ。今度は躊躇しなかった。蓋の横の凹みに手をかけて開けてみる。


しかし、こちらには意外なものが入っていた。それは、黒い色の寝袋だった。

ジッパーが開いた状態の黒い寝袋が広げて棺桶の中に入っているのだった。


「何で棺桶の中に…?」


隣の棺桶も開けてみた。こちらも同じ黒い寝袋が畳んでロール状に丸められて入っていた。このまま山にキャンプにでも持っていけそうだ。

それにしても…。なぜ、こんなところにシェラフがあるのだろう?

誰かが、こんな場所で、よりによってこんな棺桶の中で吸血鬼よろしく寝泊まりしていたとでもいうのだろうか?


それなら、これも…。


貴子は一番奥の棺の蓋を開けた。


貴子は。


再び失神した。


棺には、見慣れない少女が裸で…


死んでいた。


まるで生きている時のような驚愕の表情で。


艶やかな長い黒髪。


瑞々しい裸身。


ふくよかに盛り上がった胸から下は、真っ黒な血で染まっていた。


少女は凍りついた目で凍りついた貴子の方をじっと見ていた。


白く、真新しい花が死体全体を覆っていた。


再び遠くなっていく意識の片隅で貴子はあの時、真っ赤なマントとフードの下から覗いた、その人物の顔と服装を、はっきりと思い出していた。



※※※


人工的で無機質な蛍光灯の白い光を受け、山内の緊張した声が薬品の匂いが漂う保健室に淡々と響き渡っていた。


「一条明日香の着ていた、その赤いマントや売春していた生徒達の黒いマント…まぁこれはローブと呼ぶのが正しいのでしょうが、それらが一体どこから入手されたものかは未だに解っていません。

こちらも生徒達や警察の方に事情を聞くなりして、引き続き調査してみなければならないでしょう」


白いワイシャツに黒いネクタイをした間宮理事長は、心配な表情を浮かべて山内に視線を向けた。


「鈴木君の実家には既に連絡したのだね?

彼女の実家は確か中央町だったな…。聖カベナント教会の近くだ。母上は熱心なカトリック教の信徒だったはずなのだが…」


さすがに生徒の事をよく知っている。この学園の生徒で、知らない生徒など一人もいないというのが理事長の口癖だ。山内は鈴木貴子の実家の宗旨までは知らなかった。


老いた理事長は白いワイシャツの腕を捲り上げ、白衣を着た娘の愛子に細い腕を差し出した。リンゲル液の入った注射針が、理事長の腕に吸い込まれる。血圧を下げる為の注射らしい。山内は理事長に答えた。


「はい…。鈴木の両親には夕方頃に私も直接お会いして事情はお話してきましたが、特にお母さんの方がかなり心配しているようです…。お母さんが十字架を手にしているのを見て、胸が痛くなる思いがしました…。

お父さんの方も今日は会社を休んだようです…。娘の携帯電話に何度も連絡してるが一向に繋がる様子がないと、しきりに心配していました…。遅くなる事はあっても家に帰らないなどという事は、今までに一度もなかったそうなので…」


「鈴木君は真面目な生徒だからな…。吹奏楽部でも最後まで部室に残って掃除や後片付けをしている姿は、私も何度も見ているよ。

返す返すも心配で仕方がないな。無事でいてくれればよいが…」


皺の寄った眉間にさらに深い皺を寄せ、理事長は顔を曇らせた。


手慣れた様子で傍らの愛子は注射器を棚に収め、父親の腕に消毒薬を染み込ませた白い脱脂綿をあてがい、細いマスキングテープを貼り付けた。理事長の座った丸椅子の前には同じく白い丸テーブルがあり、上にはガラスの水差しとコップが置かれていた。


「終わりましたわ。薬も飲んだ事ですし、今日はもう家に帰って、少しお休みになられては?」


「そうはいかん。鈴木君の安否が解るまでは、死んでも死にきれんよ」


「お父様、我が儘を言わないで…。

それに死ぬだなんて、そんな縁起の悪い事を仰らないで下さい…」


「自分の体の事はよく知っているつもりだよ。私はもう長くはあるまい…。ああ山内君、すまなかったな。君も座ってくれ」


私はここで結構ですと答え、山内はただ理事長に一礼した。


山内はパタリと手元のファイルを閉じた。


「報告は以上です…。私が見たまま聞いたままの、この事件の顛末です…」


山内の報告に耳を傾けながら、間宮孝陽は注射針で射されたその部分を指で抑えた。細い枯れ枝のようなその節くれだった腕を見て、山内は複雑な思いに駆られた。

以前よりもさらに痩せたように感じる。


病床の老紳士は、深く重い溜め息をついた。


「赤魔女事件、か…。世間では早くも、そう呼ばれ始めているようだね…」


「はい…」


「悲惨で救いのない事件に、また名前と形が与えられてしまったという事か…。呪われた学園とは、よくよく言ったものだな…」


理事長は幾分、自嘲気味な微笑みを浮かべた。愛子が心配そうな表情で父親に寄り添った。理事長は続けた。


「今朝、東京都教育委員会の理事会から私の方に連絡があったよ」


山内と愛子は、はっとしたように揃って理事長の顔を見つめた。


「この学園に正式な処分や御沙汰が下るのは、また先延ばしだそうだ。

行方不明の女生徒がいる以上、殺人事件はまだ現在進行形であり学園と地域の安全管理上、警察の監視下に従って速やかに休校する旨を申しつける事…」


理事長は続けた。


「学園の教師以下、職員は悪戯に事を荒立てず、マスコミや父兄への対外的な情報公開も含め、記者会見で発表する際は特に慎重を期して行う事…。

職員も生徒も悪戯に人心を惑わせるような軽はずみな言動は厳に慎み、職員以下は手段を尽くして真相を究明するよう警察と連携して徹底的に情報収集を行い、常に委員会に定時報告する事…。

事件とは無関係な生徒達や親達には、くれぐれも行方不明の女生徒がいるという事実以外は事件のことは包み隠さずに、ありのままの事実を伝えるように連絡せよ…との事だ」


二人は何も答えられなかった。

理事長は再び表情を曇らせた。


「一週間の休校など、高等学校という子供達の将来の準備期間に直接関わる小さくとも大きな社会には、けしてあってはならない前代未聞の大惨事だな…。

恐怖と不安に怯えた生徒達が、身の振り方をそう易々と決められるものか…。

学園が完全に閉鎖される事はないようだが生徒達や親達の心情は到底そうもいくまい…」


山内は俯いた。


「残念でなりません…」


「ああ、本当にな…。

この学園はいつの間にか、人の黒い悪意と罪に染められ、歪んでしまっていたのだな…。この真新しい校舎は内側から軋み、ずっと長い間、悲痛な悲鳴を上げ続けていたようなものなのかもしれん…」


言うべき言葉はどこにも見つからなかった。山内もまさに同じ感慨を持っていたからだ。

理事長は両手で顔を覆い隠した。


「私は愚かだよ…。とことんまで無力な男だ…。生徒達の声なき悲鳴が聞こえなくなってしまうほど、自分がここまで耄碌していたとは、とことん情けない話だよ…。

罪を憎んで人を憎まずなどというが、正直私は死んでいった者達が憎い。とても憎い…。罪を咎めたいのではない。

なぜ私に一言も相談してくれなかったのだと尋ねてみたいのだよ。もちろん、死者には私の言葉など、何も届かないがね…」


失意の理事長の声は、今にも倒れてしまいそうなほどに低かった。あまり興奮させてはいけないと分かってはいても、山内に掛ける言葉は何も見あたらなかった。

理事長は喘ぐような溜め息と共に上を見上げた。殺風景な蛍光灯の光がスポットライトのように、失意のどん底にいる老人の皺だらけの顔を照らしていた。


「あの一条君に沢木君がな…。

あの校長までもが罪を犯し、天罰を受けたというのか…」


暗然とした口調で理事長はそう呟くと、皺だらけの瞼をゆっくりと閉じた。

たった数日間で、急激に老いてしまったように感じる。この人は、この学園そのもののような清廉で穏やかな人物なのだと山内は改めてそう思った。

その時、老いた理事長は突然かっと目を見開いて身を丸めると、幾度か苦しそうに咳き込んだ。


…いけない!


山内と愛子がそばに寄ろうとすると、老人は顔を歪ませて苦しそうに喘ぎながらも気丈に大丈夫だ、というように山内を手で制した。

愛子が心配そうな眼差しで、痩せた老人の背中をゆっくりとさすった。


「お父様…これ以上は本当にお身体に障ります。あまり喋らないで…」


「少しだけ山内君に昔話がしたいだけだよ…。これからの学園に必要な大事な事なのだ。年寄りをそう邪険に扱わないで、お前も腰を据えて聞きなさい」


父親のそんな言葉に愛子は仕方ないといった様子で不承不承頷くと、山内の隣にやって来た。理事長は老いた目にどこか精悍な光を湛えながら、二人に向けて切り出した。


「こちら側とて手を拱いている訳ではない。真相を究明する為に、独自に動き出している人間もいる」


「お父様…それは例の探偵さんの事なの?」


「うむ…」


力強く頷いた理事長に、山内が言った。


「石原という女性の刑事から夕方の五時頃に、連絡がありました。昨日の事件の関係者は全員、六時半になったら職員室に集合するようにと…。何でも、例の探偵からそうするように提案があったのだそうで…」


山内の戸惑った声に、老人は俄かに表情を崩して含み笑いをした。


「ふふふっ…。新宿の解体屋と呼ばれる闇の住人が、いよいよ本格的に暗い穴の底から立ち上がったらしいな…」


「一体何者なのですか?その探偵は…」


「彼もこの学園の関係者ではあるだろうな…。あの幼かった少年がよもや探偵となって再び私の前に現れようとはな…。

偶然とはいえ、やや運命的な巡り合わせにさえ感じるよ」


理事長は感慨深そうに幾度か一人頷いた。愛子がそんな父親に呆れたような眼差しを向けると、山内に顔を向けて言った。


「まるで、老いた歴史家が英雄を語るような口調で話すのよ。お父様も得体の知れない、あんな妙な男の事を嬉々としてお話になさらないで…」


英雄に歴史家かそれはいい、と老人は乾いた声で呵々大笑した。


「さながら悪魔が来たりて鐘が鳴る、とでも歴史書に記すところだな…。彼に任せておけば、何も問題ないよ。

…山内君、愛子はこの通り彼をまったく信用してくれないのだが、実際にかなり腕の立つ私立探偵なのだよ、彼は…」


老人は嬉しそうに目を細めた。


「実績があるのですか?」


と山内は問うた。理事長はゆっくりと深く頷いてから己の白く長い眉毛を摘んでさすり、愉快で堪らないとでもいうように、再び微笑んだ。


「『資産家令嬢殺人事件』と呼ばれている、ある怪事件があるのだが、君は知っているかね?」


真意の読めぬ理事長のその問い掛けに、山内は従順に答えた。


「…知っています。秋田県にある、どこかの大富豪の別邸で起こった、あの恐ろしい怪事件は、まだ記憶に新しいところですよ。

まさかとは思いますが、理事長…その探偵が事件を解決したとでも仰るのではないでしょうね?」


「そのまさかなのだ。

…そう、二年前に北海道の山奥の修道院で起こった、あの神をも怖れぬ忌まわしい怪事件…。『修道女連続殺人事件』を解決に導いたのも、彼なのだそうだ」


「それも知っているわ…。何でも相当にひどい連続猟奇殺人事件だったとか…。

お父様…そんな事件まで、あの乱暴そうな男の人が解決したとでもいうの?」


愛子が怪訝な顔を老いた父親に向けた。

理事長はゆっくりと頷いた。


「これらの事件の影には、ある一人の男の存在が故意に隠されているのだ。警察の公式な記録以外には、彼の存在は一切残されてはいないそうだがね」


山内は感慨深く溜め息をついた。


「まるで推理小説に出てくる名探偵のような活躍ぶりなのですね。事件の事はうっすらとまだ記憶にありますが…。そんな人物の存在が、この世間には隠されているのですか…」


「本人の強い意向でという話らしい。金や名誉を得るよりも、ただ余計な軋轢が嫌いなのだろう」


「理事長には失礼ですが、話に聞いている分には、あまりに絵空事めいた人物の登場のようなので、私にはピンときません」


「そうだろう?都会の闇に隠れた傑物は、まだゴロゴロいるのだよ。

山内君、私はこの老い耄れた目で実際に見てから彼に事件の解決を依頼しようと思ったのだが、彼を一目見て一瞬で確信したよ。あれこそ正に天の啓示だった。

まだまだ世の中そう捨てたものではない。全て彼に任せるべきだ、とな…」


「…ですが、鈴木の行方は未だに分かっていません。理事長の目を疑う訳ではありませんが、最悪な状況であることに何ら変わりはありません」


「そう…。確かに最悪な状況ではあるが、最悪な悪夢の時にこそ最大の幸福もまた眠っているのだ。…すれ違ってばかりの男女が些細な事で微笑みあい、いつの間にか恋人同士になってしまうようにな…」


山内と愛子の二人は驚いて顔を見合わせた。


「り、理事長…」


「き、気付いてらしたの?お父様…」


「わからいでか。お前は私とは血は繋がっていない養女だが、誰よりもお前の事は気遣ってきたつもりだ。一人娘の恋心に気付かぬほど私は耄碌してはいないさ。

血の繋がりがあろうとなかろうと私はお前の父親なんだよ…」


山内は居心地が悪そうに俯いた。この人には本当にかなわない。


「ふふっ…二人ともそう固くなるな。私は咎めているのではない。むしろ嬉しくて堪らないのだよ。晩年になって、こんな恐ろしい悲惨な事件が再び私の周りで起こってしまった…。家族に恵まれなかった私の人生は、本当に悲惨なものだったよ…。

生徒達やお前がいなければ、私はとっくに世を儚んで冷たい土の中で骨になっていたかもしれん…。

悲劇と絶望に打ちひしがれ、ただ死を待つだけの老い耄れた身に、こんな立派な義理の息子の候補がいきなり現れたのだぞ?」


老人は再び豪快に呵々大笑した。


「こんなひねくれた愉快な話はないだろう?

神は我々に過酷な試練を与えもするが、時には悪戯めいた粋な祝福もなさるものなのだ」


老人はそこで二人を手招きして呼び寄せると、互いの手を取って握らせた。

二人が顔を見合わせると、慈愛と祝福に満ちた目で理事長は二人に向けて微笑んだ。


「これは神がくれた最後の希望。私への最後の思し召しなのかもしれん。二人とも…。願わくば、私が生きているうちに早く孫の顔を見せておくれ」


「まぁ、お父様ったら…。いくら何でも気が早過ぎるわ。本当にもう…」


愛子は俯いて、白く美しい顔を赤らめた。


「山内君、娘を頼む…。そして、恥を偲んでまた頼むよ。私の代わりに、君がこれから起こる顛末を見届けてきてくれ」


「ええ、わかりました。他ならぬ理事長が、そう仰るのでしたら…」


「けど、お父様が…」


「よいのだ、愛子。薬で少し楽になった。私も今は眠るとしよう…。

私の事なら問題ないよ。

お前がいれば山内君も心強いだろう。お前も共に行ってきなさい。彼が再び動き出した以上は、もう間もなく全ては終わりになってしまうという事なのだからな…」


「しかし理事長、そんな私立探偵が現れるのはいいとして、これ以上この学園に一体何が起こるというのですか?」


「それは私などには到底解らないよ、山内君…。ただね、彼が現れる以上は本当にこの学園もただでは済まない…。

そんなただならぬ予感はするのだ。

君が言うように鈴木君も見つかっていない今、絶望的な状況である事に何ら変わりはないのだが、私は彼に一縷の望みを賭けて全てを託してみたいのだ。

…いや、これはただ心配性な隅の老人の戯れ言だな。忘れてくれたまえ…」


山内は静かに頷くしかなかった。


「少し喋り過ぎたようだ。満月のせいかな。今夜はやけに胸がざわつくよ…」


そう言って老紳士は静かに、ゆっくりとした動作で白いベッドに己の老いた体を横たえた。父親に毛布を掛ける愛子と顔を見合わせてアイコンタクトをすると、山内は床上の理事長に恭しく一礼して踵を返した。


窓のそばに、主のいない車椅子がぽつんと置き去りにされていた。

颯爽とした理事長のトレードマークともいうべき派手で真っ赤なスーツが今さらのようにハンガーに架かっているのを見て、山内は再び複雑な心境に苛まれた。


その時だった。校門の向こう側の方で何かがキラリと光った。


「あれは…」


黒いRVだ。夕方頃に出て行った、確か花屋敷という体の大きな刑事の方が乗っていた車だ。黒いアスファルトの向こう側、自動車のフロントライトの光が学園の暗闇を貫くように差し込んだ。


※※※


花屋敷の乗った黒いサーフが桜並木の続く坂道を走り抜けると、静かな学園には既に夜の帳が降り始めていた。

僅かに薄暗くなった聖真学園の黒々とした全景が、フロントガラスの向こう側に次第に見えてくる。

目黒署に顔を出す目的で夕方頃に校門を出た時は、まだそれなりに周囲に人はいた方だが、マスコミ連中は取り敢えず引き上げたらしい。報道局のライトバンがない所を見ると、テレビ局のクルーも残ってはいないようだ。逆に警察のナンバーの車両とは何台もすれ違った。制服を着た交番巡査の自転車が、校門の脇の方に止められている。


校門を抜けると、がらんとした校舎の雰囲気がさらに際立った。廃墟のような校舎の足元をほんのりと照らす街灯の下に、花屋敷は目的の小さな人影を見つけた。


相棒の石原智美が職員用の駐車場で、携帯電話を顎の間に挟んで首を傾けるような仕草をしながら、忙しく手帳に何かを書き付けているのが見えた。


花屋敷は迷わずに、その場所に駐車する事にした。

車を石原のそばにつけ、サイドウィンドー越しに乗るように顎でしゃくると、石原は相手とちょうど話が終わったのか、こくんと頷いて携帯電話を閉じて助手席側の方に回った。

石原が言った。


「お疲れ様です、先輩。今のところ状況は変化なしです。特に異状はありません」


彼女の報告に黙って頷きを返すと、花屋敷はガサガサと後部座席から目的の物を取り出した。


「喜べ。柏崎さん達から陣中見舞いだ。今日の夜は冷えるから、とりあえず車の中で単独で捜査会議だ。俺達も今のうちに補給といこう。お前の好きなドーナツも買ってきたぞ。季節外れだが、温かい肉まんもある」


「わ! ありがとうございます。お腹が空いてたんで助かります」


「後でお礼をしなきゃな。…ところで今の電話は? 彼氏って冗談はなしだぜ」


「ははっ、まさか…」


花屋敷が軽く冗談を入れると、石原は笑いながら早速もこもこした雲のような形の丸いドーナツを箱から取り出し、喜び勇んで頬張った。確かポンデリングとかいう名前のドーナツだ。こんな甘い菓子を喜んで食べる甘い物好きの女性の好みが、辛党の花屋敷には未だに理解できない。


本店の明美からでした、と石原がもごもごと口を押さえながら言った。

本店…警視庁の方で何かしらまた動きがあったという事だろう。


「例のインターネットサイトと亀井さん達の調査で、売春していた女生徒達の実態が、かなり詳細に判明しました。夕方の捜査会議で売春事件に関しては今後、完全に本庁一課の主導でいく方針で固まったそうです」


「へぇ…それで?」


「警部以下、本庁組はまた泊まり込みになるそうです。所轄と本店を行ったり来たりで、過酷というか何というか…。忙しくて殺されそうだって明美までぼやいてました。あっちは相変わらず悲惨な状況のようです」


ドーナツを箱に置いて、石原は口直しにテイクアウトのホットコーヒーを口にした。これはスターバックスだ。花屋敷は溜め息混じりに肩を竦めた。


「俺達だって同じようなもんだ。こうやって栄養補給が出来るだけでも、まだマシな方だぜ。しかし何だな…。皮肉にも殺人事件が売買春を巡る大スキャンダルの足掛かりになったって訳か?」


「ええ。組織の名称であるへヴンズ・ガーデンという名はやはり、この聖真学園の中庭にある例の現場…。あの『楽園の花園』という噴水庭園の名前から取られていたようです。

実際は売春のメニューリストに利用されていた、例のネットのオンラインショップの方も聖真学園の名前を英語の綴りに直しただけです。…それにしても安易なネーミングセンスですよね」


「大胆不敵って事だろ? その方が買う客側もある程度分かり易くて、喜ぶ人間もきっといたんだろうさ。誰が最初に考えたか知らないが、どのみち腐った話だぜ」


顔をしかめた花屋敷に石原がドーナツを勧めてきたが手を振って断った。甘い物は脳にいい特効薬とは彼女の持論だが、これ以上身体がデカくなっては堪らない。石原が手元の手帳を開いた。


「朗報もありますよ。メンバーの中に園芸部員が二人いて、この二人が事実上、組織の裏方の仕事を任されていたようです。

共に三年生の女子生徒で名前は安田由里と吉岡香澄。…今さらですが、共に年齢は18才と17才です。ダチュラの花のプランターや種や株は無事、彼女達の自宅の庭から押収されたそうです」


「そいつは何よりだ」


花屋敷はコンビニで買ったチャーハンおにぎりをぱくついた。コーヒーはいい加減に胃にキツかったので、こちらは烏龍茶にした。


「インターネットを使ったオンラインショップの花屋を実際に展開していた人物も判明しました。

こちらは江東区でフラワーショップ『エッジウェア』を経営している店長の石垣良介という31才の男です。コンピューター系の専門学校を出ている、まだ独身の男性です」


「そいつがまさか、売春の美人局(つつもたせ)の片棒を担いでたっていう内容じゃないだろうな?」


「さすが、先輩。よく分かりましたね」


花屋敷は呆れた。半分は冗談で言ったつもりだったからだ。とことん人を食った事件だ。


「表向きは普通の生花店を親から継いだ花屋の経営者なんですが、裏の仕事はお察しの通り、ネットを使った美人局を女生徒達から無理やり委託されて行っていたという事のようです。

明日にも正式に本店からガサが入ります」


「やれやれ…。いろんなのが出てくるな」


花屋敷の言葉に、今度は石原が肩を竦めた。


「先輩もこの後を聞いたら多分、もっと呆れますよ。

彼女達から齎された花の株や種子を催淫剤として精製し、出来た薬やアッパー系のラブドラッグを彼女達に提供していた人物も判明したんです。

こちらは株式会社Y製薬の関連会社の研究所に勤める32才の男性研究員で丸山貴文という男です。

調剤師の資格も持っていて幼い娘さんまでいる立派な妻帯者です。職場では、かなり優秀で通っている若手の有望株だそうです」


石原は優秀と有望株という部分をわざと強調した。何が言いたいかはその一言で判ったが、花屋敷は呆れて突っ込む気にもなれなかった。


石原は続けた。


「生花店の経営者も、その研究員も、少女達がこっそりラブホテルに仕掛けていた盗聴器やビデオカメラの映像をネタに、脅迫されていたそうです」


「援交で、ハメたつもりが嵌められたって訳か」


「下品です先輩。セクハラです。最低な俳句です」


「最低で下品な事件なんだよ。…それで?」


「あとはお決まりの脅し文句ですよ。

『アンタが未成年に手を出した、この証拠の数々を家族や世間にバラされてもいいのぉ?』

…と、彼女達にやられたんだそうです」


石原はわざわざ少女達のモノマネまでした。この童顔で幼児体型の女刑事が言うと、やたらとリアルだ。童顔の女刑事は続けた。


「その男達の方はというと

『奴らに脅されて仕方なく協力しただけだ。俺の方が被害者だ』

と、そう供述したそうです。

…男って最低ですね。殴ってやりたいです」


「俺を見て言うなよ。女だって最低だろうに。

…まぁ、まずは一区切りってとこだな。インターネットを使ったオンラインショップが実は売春の温床だったとはなぁ。

しかし、こうなるとコイツら、売春組織どころか立派なカルト集団だぜ? ネット担当に薬物担当の男共まで裏で操っていた訳だ。生花店や製薬会社の人間まで利用するとはな…。

悪知恵の成績だけなら、一流大学にこのまま現役合格間違いなしだな。何でこういう才能を他に生かそうとしないのかねぇ…」


「ええ、かなり組織だった売春グループという事になりますね…。

例によって本庁にいなくて却ってよかったかもしれませんよ。あっちは相変わらず、すったもんだの大騒ぎのようでしたから。

明美は野次馬だから喜々として喋りまくっていたんで、報告を受けたこっちとしては大助かりですけど…」


「他人の不幸は蜜の味ってか。ドサクサ紛れに何やってんだって磯貝警部に、またどやされるぞ。…全く盲点だったよなぁ。

この間、傷害とヤクの現行犯で捕まえた悪ガキ共が可愛く思えてくるレベルだぜ。

いやはや…禁断の箱の蓋を開けてみれば全員、現役の女子校生だってんだからな。

…今さらだが、女ってのは恐ろしいもんだな」


女を甘く見てると痛い目を見るって事です、と石原はすかしてから続けた。


「死亡した一条明日香をリーダーとしてメンバーは全員で十三人。

これには死亡した二年B組の沢木奈美と川島由紀子の二人も含まれています。

時計塔で確保された三人のメンバー以外に、新たに七人が判明したという事になりますね。嫌でも後で供述調書を取る事になるんで、ここで残りの女生徒達の名前はいちいち挙げませんけど」


「まさに芋蔓式だな。…こりゃ一大事だ。

聞く所によれば、客筋には他にも大手広告代理店の重役だの近々名前が変わる防衛庁の職員の名前だのも出てきてるらしいじゃないか?

きっと、まだまだゴロゴロ出てくるぜ。有象無象の輩共がな。しばらくは大騒ぎだな。話のネタをおかずにして飯が食えそうだ」


「実際、食えない事件ですよ。女生徒達はかなり従順に、口を出すのも憚られるような証言を色々としてくれてるようですから…。

芋蔓を辿っていったら地下にはとんでもない大物が、うようよ潜んでたって訳です」


石原は、コーヒーを一口飲んでから続けた。


「彼女達にしてみれば買う側の男なんて全員、目的は自分達の体が目当ての腐った連中だと、そう割り切っていた訳で、どんな偉い肩書きを持ったどんな性格の人間だろうと、結局はどうでもよかったんでしょうね。

恐喝行為は薬物を好色な客にちらつかせ、さらに相手の弱みを握る為のついでの悪事だったんでしょうが、結果的に組織の土台がしっかりしてきたんで、組織の枠組も広げる形に軌道修正したんでしょう。

地位もお金もある人間達をターゲットに売春や飛ぶ薬を餌にして、おまけに恐喝行為までする訳で、男性側との金銭の授受の面でも普通の相場よりケタ一つは違っていたようです。…女子高生なんですよ?

ムカつく話ですよね…」


「心温まるような素敵な恋の話ではないな」


「相当な金が動いていたようですね。分け前は口止め料として、脅されて関わっていた人間達にまで渡る仕組みになっていたようですから、これは文句の出ようもない訳です。

…まったく邪悪な組織ですよ。この不景気な御時世にボロい商売もあったもんですね。とんだセレブなお嬢様達だった訳です」


「結局は空中崩壊したんだから因果応報さ。やはりそこは、稚拙で下手なやり方のガキの犯罪なんだよ。こんな取り返しのつかない事が起きなきゃ、どうなっていた事か、呆れて物も言えないぜ…。

ガキの悪い遊びだと嘗めてかかっていたが、ここまで本格的に展開してたとなると、サツ庁もさすがに無視できないだろうな」


「きっと彼女達も怖かったんですよ。

雪だるま式に悪事が膨れていくのに、大人達は簡単に自分達の操り人形になる…。

誰一人として彼女達を止めようとしなかったんですから…」


自然と二人は沈黙した。


こうした事件が起きる度に、つくづく人間の業の深さを思い知らされる。

警察になるのは人間性を失う事と道義だと、ある物理学者は言ったそうだが、その理由がよく解る気がした。


駐車場の街灯の光がスポットライトのようにぼんやりと花屋敷の車を照らす中、二人の刑事の間には言い知れぬ沈黙が訪れていた。

最初に口火を切ったのは石原だった。


本当はこういうのは嫌なんですけど、と石原が呟くように前置きをしてから言った。


「敢えて動機を口にするなら彼女達は大人や社会や男性に、とことん絶望したんだと思います…。

同年代の男のコ達なんて下半身で生きてるような退屈な連中ばかり…。

周りの女のコ達は自分の色恋沙汰ばかりしか喋らない…。

親や教師は口うるさいだけで自分の仕事ばかり…。

退屈な勉強や、ただただ比べられて抑圧されて磨り減っていくだけの将来や世の中なんてうんざり。

そう思ったのかもしれません。

まあ、犯罪や自殺の動機なんて結局は社会を納得させる為のものなんでしょうから、私がここでどうこう言ってもそれこそ意味はないんですけど…。

ある意味で、人間的で純粋だと思いますよ。黒い悪に染まりきるのって…」


花屋敷はもう何度目かの深い溜め息をついた。


「考えてみれば人生、のるかそるかの連続だよな…。日常と非日常の間で葛藤するのが人なら、取り返しのつかない犯罪と退屈な人生を天秤にかけて、ギリギリの境界で選んでしまうのもまた人って事なんだろうな…」


花屋敷は石原にそんな話をしながら、心の中で身も蓋もない想像をしていた。


暗闇に妖しげに艶めいた黒いマントの一団が、夜の花が咲き乱れた噴水の前でくるくると舞い踊り、仮面の下に泣き笑いの素顔を隠して、高らかに愚かな人間達を嘲笑するのだ。そんな無茶苦茶な光景を、花屋敷は夢想した。


そして、思う。黒いマントや銀色の仮面という怪しげな道具立ても、彼女達の間では何かしら大きな意味を持っているような気がしたのだ。花屋敷はまた溜め息をついた。


「全くやりきれない事件だよな。何か他に事件について目新しい情報はないのか?」


「月に一度だけ、満月の晩にリーダーの一条明日香が黒いスーツを着て仮面をつけた特別な男性ゲストを連れてきて、学園内で売春させるという事があったそうです」


「学園の…中で?」


「ええ…。メンバー一同が全員集まる定例会も、その時に行われます。

夜の学園の、あの噴水の前に集まる習慣になっていたんだそうです。

これが何とも妖しげな定例会だったんだそうで、全員が例の仮面と黒いマントを身に着けて、午前二時に集まるというもので、客側のその特別な男性が直にメンバーから一人の女生徒を選ぶんだそうですよ。

彼女達は売春行為をサバトと呼んでいたそうなんですが、何とも妖しげで背徳的な丑三つ時の仮面舞踏会だったと女生徒の一人は供述したそうです」


自分の妄想がある意味で的を射ていた事に驚いた。花屋敷は怪訝な表情で、石原に再び尋ねた。


「じゃあ売春していた女生徒達は校長の事件の時のように、なぜ危険を冒して学園の中で売春させられていたのかは、本当に何も知らなかったって事になるんだな?」


「ええ…。そんな怪しげな定例の儀式に、そもそも何の意味があったのか、真意の程は測れません。

本人達が言うように、背徳的な行為に浸っていただけだと言ってしまえばそれまでなんですが、これも何か怪しいですね…。

本当に様々な事が、一条明日香や沢木奈美、それに川島由紀子の命と共に奈落の闇に消えてしまったという事です…」


石原は再び沈黙した。花屋敷は考えた。


肥大化して暴走する組織の悪事を食い止めようと二人の女生徒が命を賭して、内部からその邪悪な組織に挑んだ。


一人は志半ばで事故で死に、もう一人は首謀者を巻き込んで死んだ…。これはやはり、そうした事件ではないのだろうか?


しかし、あの男の推理はその説を完全に否定したのだ。これをどう捉えればいいというのだろうか。


夕方頃、花屋敷の携帯電話に二人の人間から続けざまに連絡が入った。

一人は、今の花屋敷達を直接動かしている最高の指揮監督権を有する捜査責任者その人…本部にいる早瀬一郎警視からだった。

本部長は言った。


『六時半になったら警察やマスコミは学園から引き上げたという形にするが、これはフェイクだ。お前達は引っかかるなよ。

校門の前に所轄の人員を何人か休憩がてら、秘密裏に待機させておく。この事は例の関係者達には絶対に知らせるな。お前も監視がてら、石原君と交代で休んでおけ。

山瀬医師が到着次第、そちらの方に向かう手筈になっているから、後はよろしく頼む』


早瀬は相当忙しいのか、用件だけを早口で告げて早々に電話を切った。一切の疑問や質問を差し挟む暇も、そんな余裕すらも与えてくれなかった。


その時、まるで測ったようなタイミングで非通知で電話をかけてきたのが事実上、花屋敷達を陰から操っている、あの男だった。


『職員室の付近に、奴らを集めて目を離すな。夜の7時に人が降ってきて死んだ、例の場所で待ってろ…』


探偵はぶっきらぼうで粗野な口調の、例の不吉な雰囲気のする低い声で、わざわざ不気味な言い回しで用件だけを告げ、こちらも早々に電話を切った。


どいつもこいつも…。


花屋敷がまず考えたのはそれだった。ここに至って次々と明るみになっていく事実を前にして、自分には考える余裕すらも与えてくれないというのか。


はっきりしているのは、花屋敷の知らない水面下で着々と何かが進行しているのだという、その事実だけだった。


花屋敷はカーナビについた時計のデジタル表示を見た。

時刻は『18:59』。

約束の時は迫っている。


「無駄に外堀だけは埋まっていってるようだな…」


「完全に焦点はこの学園に絞られましたね…」


二人はそう呟いて、淡い月光に照らされた夜の学園を見上げた。


その時。


冷たい夜の闇と月の光をたっぷりと吸い込んだ灰色のアスファルトに、コツッ、コツッ、という乾いた音が突然響いてきた。


二人は振り返った。


校庭の桜の枝葉が、ざわざわと不安な風に靡いている。頼りない街灯と淡い月光が、ほんのりと校舎の夜陰を照らす中。

そこに。

一際黒く、長い影がアスファルトに浮かび上がった。


「死神のご登場だな」


二人は車を降りた。


花屋敷は見た。

まるで、自分の足音を確かめるようにして花屋敷達の方へと徐々に近付いてくる、その影のごとく黒き男を。


左手には、艶やかな黒のレザーグローブ。

黒色のシャツにスラックス。

夜の闇をそのまま溶かし込んだような漆黒のスーツをその身に纏い、血のような色をした赤いネクタイをして、妖しげに輝く猩々緋色の瞳を前方の闇の塊に向けた。


黒服の探偵。来栖要を。


さあっと冷たい夜の風がサラサラとした男の黒髪を靡かせた。

蝋人形のような白い肌。

ぞっとするほどに冷たい表情をした端正な顔立ち。


花屋敷は思わず息を呑んだ。

死神のような不吉な雰囲気を全身から漂わせたその男の姿に、花屋敷はぞくりと身の毛がよだつような不安感を覚える。訪れるべき最悪の終末を予感する。


この男が現れた以上。

ただでは済まない。

そんな気がした。


「来栖さん…」


石原と花屋敷が駆け寄ると探偵は歩みも止めず、真っ直ぐに校舎の全景を見上げながらぼそりと、


「…首尾は?」


とだけ問うた。朴訥な探偵のそんな問いに、花屋敷は従順に答えた。


「言われた通りに関係者は全員、職員室に集まってもらってるぜ。

高齢の理事長はあいにく不参加だ。保健室で休んでもらっている。今は愛子先生と山内先生が付き添っているそうだ。先方には既に話は通してある。お前のご要望通り、場所は時計塔でいいんだよな?」


「問題ない」


きわめて短切に黒衣の探偵はそう答え、そのまま花屋敷達を追い越して歩みも止めず、校舎の表玄関の方へと歩き出した。花屋敷と石原は慌てて足早な彼に付き従った。


花屋敷は再び聖真学園の校舎を見上げた。黒々とした巨大な影は、不気味なほどひっそりと静まり返り、訪れる最後の審判の時を待ち続けている。

奇しくも今夜は満月の夜だった。淡い月の光だけが煌々と照らす校舎の頂上には、まるで鋭利なナイフのように聳えた件の時計塔が控え、侵入者達を見下ろしていた。


太陰の光を背に、逆光の黒々としたその影と肌を突き刺すような夜風の寒さにあてられ、花屋敷は思わず身震いした。

或いは鈍感で野暮な花屋敷自身、肌で感じているのかもしれない。花屋敷は黒い背中に付き従いながら、この期に及んで再び身も蓋もない空想をする。

この学園には何かしら、強力な磁場のごとき目に見えぬ結界が張り巡らされているのだ。その結界は粘性で、境界を踏み越えてきた人間達を否応なく闇の舞台に引きずり込む、そんな悪しき力を持っているのだ。


そんな無茶苦茶な妄想を花屋敷は抱いた。


三人は玄関に至った。


ついに最後の境界を闇の住人は踏み越えた。


夜の校舎の内部には薄い闇が広がっていた。

窓から差し込む月の光が、そこかしこに控えている黒々とした暗闇の全景を照らし出す。


下足棚。柱時計。緑色の公衆電話器。暗い廊下へと一歩踏み出せば、それらは誠に妖しき夜の顔をした魑魅魍魎にすら思えた。

一寸先すら覚束ない足元の、その向こう側に、仄かに明るい殺風景な蛍光灯の明かりが見えた。


コツッコツッという足音を響かせて、影は躊躇う事なく真っ直ぐにそこへと向かった。

闇の中でも尚、黒々とした夜の影は、今や暗闇と一体化したかのように完全に馴染んでいた。


やがて来栖は職員室の前に至ると、何の躊躇もなくガラリと扉を開け放った。


職員室には、既に六人の人間達が集まっていた。


それらの視線が一斉に、影法師のごとき黒服の探偵に集まった。


職員室の一番奥の正面の椅子に教頭の芳賀亮一が頬杖をつきながら闖入者をねめつけている。


左側の窓の前には、白衣を着た花田が姿勢よく立っている。彼は首に下がったペンダントのようなものを弄っていた。


右側の椅子には赤いジャージを着た体育教師の植田康弘が腕組みをしながら座り、三人を威圧するように睨んでいる。


同じく自分のデスクの椅子に座った山内隆が、感情の読めない無表情な視線を送ってきた。


そのそばに地味な紺色のスーツを着た、事務員の桂木涼子が不安げな眼差しで首元の辺りをせわしなく抑えながら立っていた。


白衣を着た人間がもう一人いた。赤いフレームの眼鏡をかけ、長い髪を後ろで一つに束ねた間宮愛子がゆっくりと三人の方に近づいてきた。


「随分と物々しい登場の仕方をなさるのね…」


間宮愛子は眼鏡のフレームをくいっと上げた。花屋敷から見ても相当に美人の保健校医なのだが、探偵を咎めるように見つめるその視線には、独特の冷ややかな毒があった。


「探偵さん…。これは一体何の真似ですの?」


冷ややかな間宮愛子の口調にも構わずに、探偵はまずは彼女に恭しく一礼した。


「これはこれは愛子先生。

この間、お会いしたばかりだというのに随分と久しぶりのように感じますね…。

ご健在で何よりです」


「お父様は秘密裏にあなたに依頼したはずです。教師の一部を集めて職員室に一斉に集めるなど、一体どういうつもりなのです?

依頼人の守秘義務すら守れないなど、探偵として非常識極まりない行為ではありませんか」


眉をひそめて咎める間宮愛子の後ろから、教頭がいそいそと近づいてきた。


「き、君は一体、何者だ!

警察の人が二人もいる前で無礼だろう!

ま、まずは自分の名を名乗ったらどうなのかね!」


教頭の甲高いそんな言葉に、来栖の後ろにいた花屋敷は彼の背中越しに心の中で苦笑した。

この男が無礼で非常識なのはよく知っている。無礼は礼が無いと書くが礼を尽くした、こんな言葉遣いをする姿の方が本当にめずらしいのだ。


私の名前ですか、と探偵はニヤリと笑った。


「名前など、ただの記号にしか過ぎません。そんな事はどうでもいい事…。

離婚する前の旧姓を高橋亮一…。そして、現在のあなたに芳賀亮一という名の呪いがかかっているように、私には来栖要という名前だの私立探偵だのという肩書きの呪いがかかっているだけの事です」


教頭は一瞬、怯えたような目をしたが、即座に権威主義的な高圧さを取り戻して探偵を睨みつけた。


「し、私立探偵だと?

ふ、ふん…何をしに来たのかと思えば、人の離婚話や秘密を、コソコソ探る興信所の回し者だったか。おおかた事件を解決して世間に名前を売ろうと考えたのだろう?

…だいたい君は何だね、その人を小馬鹿にしたような服装は?賤しいホストか狂った宗教団体の人間かと思ったよ」


教頭のそんな言葉に、探偵は鼻でせせら笑った。


「生憎と私は無神論者ですし、教頭先生と違い社会的な地位や名声など最初から全く興味などありませんよ。そんなのは足枷になるだけで、あるだけ面倒くさいと感じます。

それと付け加えておきますが、賤しいという言葉も狂ったという言葉も共に差別用語です。テレビの報道番組では、アナウンサーは決して口にしてはならない、放送コードに引っ掛かる言葉…。仮にも教職におられる身の上ならば、よく覚えておかれた方がいい…」


探偵さん、と間宮愛子が再び咎めるような眼差しを旧知の闖入者に向けた。


「我々は何をしに来たのかと、先ほどから尋ねているのです。あなたの主義主張や御託に付き合いたい訳ではありませんわ」


「手厳しいのですね、愛子先生。では、単刀直入に申し上げましょう。

今日はそう…ある黒魔術を使って、この学園に携わる皆さんに数々の事件の真相を知って頂くと共に、あなた方の世界を粉々に壊しに参りました。ここは一つ、私のつまらない話にお付き合い頂きましょうか…」


愛子はこれ以上ないというほどの呆れた顔をした。他の教職員達も一斉に、奇態な探偵の突然の言動に奇異な視線を向けていた。


「黒魔術ですって?馬鹿馬鹿しさも、ここまでくれば立派だわ…。私はお父様が心配ですので、ここで失礼させて頂きます」


愛子はつかつかと部屋から出ていこうと、眼前の探偵を追い越そうとした。


「残念ですね…。愛子先生にもけして無関係な話ではないのですが…。間宮理事長の為ならば、まぁ仕方がないでしょう」


愛子は何も言わずに探偵を追い越した。


「十二年前の話もしなければなりませんしね…」


すれ違い様に、ぼそりと探偵は呟いた。

ピタリ、と愛子は足を止めて不敵に微笑んだ探偵の顔を窺った。愛子は苦々しい表情を見せてから、仕方ないといった様子で部屋の隅に立った。


探偵は改めて全員を見渡して言った。


「タロット1番目のカード…。

『魔術師』は捉えどころのない存在です。

その姿を捕まえようとすれば新たな影に囚われ、無関係な位置で俯瞰しようと目論んでも対象はスルリと形を変え、姿を眩まし、全く違う方向へと引きずられる。

捉えられた因子である事件の関係者達は、度重なる偶然の集積と事件の山積に、ただただ居心地の悪い思いしかできない。

魔術師の事は、知れば知る程にわからなくなります…。

一つ一つを片付けようとして私は取っ掛かりに失敗しました。

だから処理しようとするならば器の中身を構成する要素を、その境界ごと一気にまとめて解体してしまうよりなかったようです」


探偵の思わせぶりな口調に、腕を組んで座っていた体育教師の植田が、ゆっくりと探偵を威圧するように椅子から立ち上がった。


「解らないな。君は来栖君というのか?

聞けば理事長の雇った私立探偵という事らしいが…この期に及んで、この茶番は何だ?

テレビの二時間ドラマに出てくる名探偵よろしく、秘密の解明にでも参上したという訳か?わざわざご苦労な事だが、一条明日香は死んだ。川島由紀子の件も含め、この事件はとっくに終わっているはずだ」


長身の来栖よりも僅かに背の高い植田が、スポーツでならした頑健な肉体を誇示するかのように探偵の眼前に立ちはだかった。

素行の悪い生徒達を何人も停学させてきた、威圧的なその風貌と態度は、大抵の者なら身が竦んでしまう事だろう。


植田は探偵を見下ろした。


「生徒指導部顧問の名の下に、学園の秩序を乱す不穏分子は直ちに排除しなければならないのが私の仕事だ。貴様のような、どこの馬の骨とも分からぬ無頼な輩は強引につまみ出しても構わないんだぞ?」


「ほぉ…出来るのでしたら、どうぞやってみて下さい。

こちらは国家権力である警察の肩書きと学園代表の間宮理事長から一任されているという、その事実を持ち出すまでの事ですが…?

強引な実力行使に訴え出るという面白い手段をとられるのなら、正当防衛の名の下に少し抵抗はさせて頂きます。多少腕に覚えはありますのでね…」


無法な闖入者を上から睨めつける体育教師と、薄笑いを浮かべてそれに対峙する探偵の視線が交錯する。

植田は探偵とはまた種類の違う不敵さで微笑んだ。


「よくもまあ、ズラズラとよく喋る探偵だな。貴様のようなモヤシのような優男をどうこうするつもりは今はないが、その挑発的な態度は気に入らんな」


恐らく植田は知るまい。

この学園の問題生徒と呼ばれていた生徒達を始め、警察も手を焼いていた十数人からいる不良グループを軒並み病院送りにしたのが、目の前にいる、この男だという事を。


植田はあくまで挑発的な探偵に背中を向け、振り向きざまに彼を睨みつけた。


「今、この学園は大変な時期を迎えているんだ。用件だけを済ませて、とっとと帰るがいい」


植田は忌々しいとでも言いたげに探偵を一瞥してから踵を返した。

植田に同調するようにして、態勢を立て直した教頭が顔を真っ赤にして得体の知れない黒服の男を、これまた無礼にも指差した。


「そ、そうだぞ君!植田先生の言う通りだ!

今の学園がどんな状態にあるのか…し、知らないとは言わせん!

こ、この通り、君の御託に付き合っている暇は我々にはないんだ!迷惑だというのがわからないなら然るべき手段を通して…」


「生憎ですが教頭先生…。

警察の方々なら、そこにいる花屋敷刑事と石原刑事以外にも、とっくに、この学園の外で何人も待機してもらっています」


「な、なんだと!?」


教頭と植田の二人は揃って目を剥いた。警察は今日の捜索を終え、とっくに引き上げたとばかり聞かされていたのだ。

いきなり現れた黒服の男は、相手が何者だろうと全く動じていない。探偵は冷然と微笑んで続けた。


「まぁ、今さら逃亡の心配はないのですが逃亡幇助の懸念がない訳じゃない。

ですから植田先生に教頭先生…。無駄な行動はするだけ無駄です。あなた方にとっても、無駄な話ではないのですから…。

ここは一つ、黙って私の無駄な昔話を聞いておいた方が身の為ですよ?」


「む…むぅ…」


教頭は口ごもり、植田はなぜか歯ぎしりして押し黙ってしまった。

初対面にも関わらず、学園の難敵ともいうべき手練れ二人をあっという間に手玉に取る辺りが、この男の狡猾さを物語っている。

手慣れた様子で教師二人を黙らせた来栖の手並みに、花屋敷は改めて溜飲が下がる思いだった。


刑事である花屋敷達の名前まで使い、さらにやたらと無駄という言葉を多用したのは権威主義の塊のような教頭と、功利主義の権化のような植田の性格を見抜いての事だろう。

無駄な昔話という言葉はなぜか、この二人には特に効いたようだった。


この男はどの言葉が相手を黙らせるのに効果的か、瞬時にして見抜く狡猾な知恵と底意地の悪さを兼ね備えている。


考えてみれば、この探偵は最初の段階で密かに花屋敷達の目を掠め、堂々と学園に入り込んで情報収集までしているのである。花屋敷はその事を半ば忘れかけていた。


白衣姿で窓辺に立ち、静かに座を見守っていた老教師の花田がここで初めて反応した。


「妙な口振りですな…。たった今、あなたは逃亡幇助と仰られましたか…?

先ほどの魔術師というのは、この学園の怪談話にある時計塔の魔術師の事なのでしょうなぁ。…ああ失礼、申し遅れました。私は…」


「この学園で物理と化学の教科を担当しておられる、花田光次先生ですね?」


「え…? あ、あの…は、はぁ。どうも…」


白髪頭を下げた花田に向け、探偵は恭しく一礼した。


「初めまして。私は新宿で私立探偵業を営んでおります来栖要と申します。

以後お見知りおきを…。

…こんな事件の最中ですが花田先生、この度は本当におめでとうございます」


「…は?」


老教師の花田は、いきなり目を丸くした。初対面の男にいきなり祝いの言葉をかけられた上に深々と頭まで下げられたこの場合、これ以外に受けはあるまい。


「そちらの桂木涼子さんとは恋仲なのでしょう?

不調法なもので、今日は何も持たずに出向いてしまいました。ご無礼の程をお許し下さい…。ご結婚ご出産の際にはぜひとも、お二人には花なりご祝儀なりと贈らせて頂く事にしましょう」


「えぇっ!?」


花屋敷の隣にいた石原が驚きの声を上げた。花屋敷が慌てて肘で小突くと、石原はまだ何か言いたそうにせわしなく花屋敷と当の二人を交互に見つめた。


教師達の様子に一斉に動揺の色が走った。

座は一瞬にして妙な沈黙に静まり返っていた。無論、花屋敷とて十分に驚いていた。

一見したところ、まだ二十代もそこそこの女性事務員と六十も間近なように見えるこの老教師では、いくら何でも結びつかない。


「は、花田先生と…。か、桂木君が…。

こ、恋人同士…なのですと?」


教頭は開始早々、早くも壊れてしまった。地味な紺色のスーツを着た桂木涼子が、探偵に驚愕の眼差しを向けて言った。


「あの…ど、どうしてその事を? まだこの学園の人達には誰一人として知らせていないのに…」


これでは二人の関係を認めたも同然である。

探偵は少し肩を竦めた。


「またまた…。花田先生はともかく、あなたは気付いてほしかったのでしょう? 桂木涼子さん。お二人が深い関係にあるというのは、お二人の首に下がった、その真新しいお揃いのネックレスを見れば誰にでもわかる事です。…失礼ですが、そのティファニーのオープンハートを花田先生ぐらいの年の方がするには、かなり勇気のいる行為だったかと思われますよ…」


花田はきまり悪そうに俯き、桂木涼子は顔を真っ赤にして俯いた。図星なのだろう。

からかうでもなく、咎めるでもなく、あくまで慇懃無礼な口調で来栖は続けた。


「老婆心ながら今後も隠しておかれるつもりなら、少なくともどちらか一人は外しておかれた方がよいかと思います」


探偵の視線は、なぜか黙ったまま傍らで騒がしい座を傍観していた国語教師の山内の方へと向けられていた。


「近頃は我々が思っている以上に、こうした事に敏感に反応する方々もおられるでしょうからね…」


駄目押しのように探偵はなぜか上目使いでそう言った。

気のせいだろうか。探偵の思わせぶりなその態度に、山内の表情が俄かに緊張感を帯びたように花屋敷には思えた。

国語教師は、どこか敵にでも出くわしたような表情になっていた。


それにしても狡猾だ。花屋敷は舌を巻いた。

半ば絵空事じみた非常識な探偵の立ち振る舞いとその舌鋒に、教師達はまるで蜘蛛の巣にかかった獲物のように、完全に絡め取られてしまっている。登場から、ものの五分としないうちに、場の主導権はあっという間にこの男の手に落ちていた。


非常識な探偵は、さらに非常識な提案をした。


「これから皆さんに面白い黒魔術の儀式をご覧頂こうと思いましてね。

時計塔の魔術師に対抗する訳ではありませんが、私も今日は探偵であると同時に魔術師でもあるという妙な役所なのです。

ぜひ皆さんに、あの時計塔までご同行して頂けると助かるのですが…」


探偵の意味不明な提案に教師達は互いに視線を交わし、ある者は意図のまるで読めない探偵を訝しげに見つめ、またある者はさらに警戒感を強めたようだった。

二の足を踏む教師達を尻目に、探偵は黙って背を向けた。


「女生徒達に脅されていた校長先生は、どうして時計塔などに誘い出されたのでしょうね…?」


はっとしたように教師達は、探偵の黒いスーツの背中を見つめた。探偵はそこで僅かに振り返った。


「時計塔から忽然といなくなってしまった、鈴木貴子君の行方…皆さんも知りたいと思いませんか?」


探偵の思わせぶりな言動に、教師達は三々五々に椅子から立ち上がり、不承不承といった様子で探偵に付き従った。花屋敷と石原も、まるで意図は汲めないながらも教師達に紛れるようにして従った。


花屋敷は暗い廊下へと再び足を踏み出した。桂木涼子がパタパタと足音を立てて、一塊になった列の最前へとやってきた。


「あの、廊下の電気を…」


その必要はありませんよ桂木さん、と探偵はやんわりとした口調で言った。


「け、けど…」


「こうした事にも、それなりに前置きが肝心なのですよ。明かりがないと不便ですし何かと奇異に思われる事でしょうが、その辺は何卒ご理解下さい…。幸い今夜は満月です。

私が先導しますので皆さんは付いてきて下さい。桂木さんは特に大事な体です。月の光があるとはいえ、どうか足元には、くれぐれもお気をつけ下さい…」


そう言って探偵はふと立ち止まると、


「暗闇に足元を掬われないようにね…」


と言った。


いちいち引っ掛かる物言いをするこの探偵の言動が、果たして桂木に向けられたものなのかどうか、花屋敷はどうも訝しく思った。


少し前の暗闇を悠然と先導する探偵の足音が、コツコツと学園に響き渡る。少し離れて教師達の上履きやスリッパのひたひたという音が、夜の校舎に乱雑に響き渡った。


相変わらず周囲は不気味なほどひんやりした空気に包まれていた。

闇の中で探偵は言った。


「幾度となく、視界を曇らせる虚飾や嘘の霧に阻まれてきたようですが、そろそろこんな事件は終わりにしましょう…。

川島由紀子君から数えて四人…。何にせよ人が死に過ぎました…。脅かす訳ではありませんが、このまま放っておけば同じ事が繰り返される事になる…」


闇の底から響いてくるような、よく通る低い声で探偵は言った。

廊下を先導する彼の足音が、周囲の暗闇に一際強くコツコツと反響する。


「…皆さんは、人の秘密を覗いてみたいと思いますか?」


探偵は不意に廊下のど真ん中で立ち止まると、誰にともなくそう言った。

まるで意図の読めない探偵のそんな行為と思わせぶりな態度に周囲の者は立ち上まり、ただ水を打ったように沈黙するしかなかった。


廊下の奥のどん詰まりに、あの鏡が見えた。花屋敷の隣を歩く植田の顔が、露骨に険しくなるのを花屋敷は見逃さなかった。


探偵は再び歩き出した。

左手の階段へ続く暗がりへと巡礼のような一行は足を踏み出した。西側の階段を通って時計塔へと向かうつもりのようだった。

探偵は続けた。


「秘密とは隠された物事…。理由はどうあれ、そこには秘密を持つ者と知らせたくない者の存在なくしては成立しません。

隠されたモノがあり、それを覗きたい、隠したいと思う人の心がある。隠したい存在と見たいという存在がある。

ならば、そこには呼応する窓としての触媒を果たすものが必要になる…」


コツコツと足音を響かせながら、探偵は淡々と闇の中の階段を先導した。


来栖さん、と巡礼のような一団の最後尾にいた石原が一際黒い最前の暗がりへと呼び掛けた。


「それは、この学園に伝わっている七不思議の噂…。

そして薬物を使った生徒達の売買春という犯罪に関する噂。そしてインターネットや学園内外での数々の噂だというんですね?」


「馬鹿馬鹿しい!

世間がどう公表していようと売春していたのはごく一部の不信徳な生徒達だ!

犯罪に関係のない生徒達や、教職員まで下らない噂で取り沙汰されるのはいい迷惑だ!」


植田の獰猛なダミ声が寂とした闇を震わせた。石原が怪訝な顔をそんな体育教師に向ける。


「けれど、そんな無関係な生徒達が流している噂があるというのもまた事実でしょう?

たとえどう口止めされても身内が流す噂が広がっていくというのは何も、この学園に限った話ではないはずです。秘密があろうとなかろうと、何もないところに噂は立ちません」


「それこそ根も葉もない中傷だ。自分達の首を絞めるような馬鹿共の言う戯言に耳を貸して困窮するほど、警察は暇ではないはずだろう! こんなセリフは責任転嫁だが、被害者は我々の方だ!」


石原は何も言わず、ただ憮然とした顔をした。


噂とは何か、と探偵の闇に馴染む声が再び周囲に響き渡った。


「噂とは、世間で言いふらされる不確かな話題…。風説であり風聞です。

七不思議のような怪異に、妖怪や悪魔という名前と形を与える事で成立していた昔の古きよき約款は、およそ現代では理解されにくい。

…というのも、現代の巷間に伝わる怪しげな都市伝説と昔の妖怪話とでは根本からして受け入れられ方の土台が違っているからです」


「何が言いたい?」


植田が問い掛けた。

階段の踊場の窓から差し込む淡い月の光を受け、前方にいる探偵は答えた。


「例えば、不可解な出来事がいきなり自分の身の回りで突然起こり、そこに何らかの理由をつけなければならない状況が生まれたとしましょう。

オカルトに都市伝説に妖怪の仕業と三択の解答が並べられていたとしたら、植田先生はどの理由を選択しますか?…いずれも妙なラインナップではありますがね」


ふん、と馬鹿にしたように植田が鼻を鳴らすのがわかった。


「くだらない選択問題もあったものだな。

この科学が発達した世の中で、そんな荒唐無稽な説など信じるにも値しない妄言だ。

私が生徒ならばそんな問題を出すな、お前は頭がおかしいと逆に答案用紙に書いてやるだろう」


そうなんです、と探偵は言った。否定するどころか逆に強く肯定されたので植田は押し黙った。押しには強いが、意図の読めない肯定には弱い。この男の出現以来、植田は手玉に取られてばかりいた。


「それがひとえに、科学技術は万能だとしてしまう現代人が抱えてしまったジレンマなんですよ。

得体の知れぬ怪異がまずあり、それに理由や意味づけをするだけでは、現代に生きる人は安心できなくなってしまった。

氾濫した情報を整理統合して、最もらしい科学用語や専門用語を羅列して不明の事実を解き明かす事を科学は可能にします。

有り得ない事は科学は基本的に認めません。

通常では起こり得ない怪異を埒外のものとして、或いは未だに解明できていないものとして思考の外へと予め除外する、という選択肢が科学には始めから道筋として残されているからです」


「それが常識というものだ。妖怪だの悪魔だのと本当に馬鹿馬鹿しい。科学のない世の中では、そうした無根拠な妄言で道筋をつけるしかなかったという事だ」


果たしてそうでしょうか、と探偵は言った。植田は顔をしかめた。


「ふん、先ほどお前は自分は無信心だと言ったばかりではないか。神や仏を信じぬ癖に、悪魔や妖怪だのの噂や怪異は認めろというのでは納得がいかんな。私には、お前の言動は気が狂れた者の所行としか思えん」


「そうした怪異…悪魔や妖怪が実際にいると申し上げているのではありません。この学園の七不思議のように、世に怪異譚の類は溢れています。記録にあり、形に残されているものは数多い。神話や記紀、伝説、地方の民間伝承などもそうです。

或いは絵画や美術品。記録や文献や書物といった形で怪異譚の類は様々な形で現代に残されている。まずはその厳然とした事実は認めなくてはなりません。

無根拠な妄言で道筋をつけるしかなかったと植田先生は仰いましたが、それは怪異の捉え方としては誤りです。

科学を持ち出して怪異の存在の是非を考えるならば、まずこう考えなければおかしい。

現代に生きる我々には既に、この怪異の真意を読み解く論理の方が圧倒的に欠落しているのではないか、という反証の方です」


「噂が無根拠なものではない、と言いたいのか?」


「無根拠な噂には何らかのオリジナルとなる出来事や意図が必ずあるはずだと、そう申し上げているんですよ植田先生」


「つまり、あなたはこう仰りたいのですか? 何者かが何らかの隠蔽工作に不可解で意味不明な噂までをも利用していると?」


花田が来栖に尋ねた。探偵は頷いた。


「ええ、花田先生。突拍子もない発想と思うかもしれませんが、恐らくそう考えた人物がこの学園にいるはずなのです」


コツコツと探偵は階段を上へ上へと、ゆっくりと進んでいった。周囲の者は自然と彼にリードされる形になっていた。

探偵は続けた。


「噂が広まっていくのも、事が最悪の方向へ滑り出していくのも事件が際限なく増えていくのも、結局は全て自分達が招く事…。

人の狂態や馬鹿騒ぎは、ただそれだけで阿鼻叫喚の最高のエンターテイメントになる…。

それこそが人々が知りたがる自分達の本当の姿であり、口さがない世間の正体であり、同時にこの世界の真の姿でもある。

ならば、とことんまで利用してやればいい。

その人物はそう考えた…」


相変わらず探偵の意図は全く読めない。完全に闇と一体化した彼の言葉は続いた。


「この場合、胡散臭い噂であればあるほど、ありえそうもない噂であればあるほど都合がいい。他人の秘密を巡って暴いては暴かれ、混乱する過程で事件の噂は様々な人々の口の端に上り、様々な人間を雪だるま式に巻き込みながら、事件は勝手に自己増殖を繰り返し始める…」


周囲が闇に包まれた。月が雲に隠れた。


「そんな中で、人が死ぬような事件が起こる…」


暗闇の中で、探偵の低い声だけが不気味な夜の沈黙を破った。


「死を弄び、死を高らかに騒ぎ立てるような連中が存在する限り、秘密は勝手に意味を持ち、ますます深奥へと追いやる事が出来る。

人の噂自体が格好の隠れ蓑になってくれる。

そう考えた人物がいるのです。

でなければ巷間に、これほど異常な速度で噂が伝わるという事はありません。

予め意図的に情報をリークする存在をも作り出し、秘密の隠蔽工作に利用するという手法は、情報化社会の抱える矛盾や弱点を巧みに突いているともいえます」


「ひどい…」


石原の声がした。


「そう、こんなひどい話はないですね。植田先生の仰るように、あなた方は知らず知らずのうちにそうした噂によって歪められた、この学園の真の被害者であるといえます。

…ですが、それこそがやはりその人物が目論んだ真の意図なんですよ。

加害者こそが被害者。被害者こそが加害者の一翼を担うという過程を、その人物はこの学園という箱庭に作りたかったんです」


馬鹿な、と教頭の甲高い声が狭い階段に響いた。


「ただの世間話を利用するというのかね?

そんな偶然に支配された馬鹿な計画があるものか!」


来栖がちらりと後方へと目を向けて言った。


「どんな噂でも最初は世間話にしか過ぎないのです。先ほど石原刑事が言ったように火のないところに噂は立ちません。

不可解な七不思議ならまだしも、この事件の噂は催淫剤やアッパー系のドラッグまで使った少女達の売春行為。

到底、隠しきれるものではない。全くの嘘なら、それは噂にはなりません。隠された存在と秘密を覗きたいという心理に呼応するように、この学園にはありとあらゆる怪しげな噂が流布し、混乱は頂点を究めた…」


探偵はコツコツと再び淡々と歩き出した。


「ある犯罪という秘密があったとしましょう…」


ぼそりと探偵は呟いた。


「決して誰かにこの秘密が漏れてはならない。この犯罪が露見してしまう事は即ち、自らの人生の破滅を意味する。

何が何でも秘密は守られなければ自分の未来は闇に包まれる。

…さあ、教頭先生ならば、この場合どうします?」


「ふん、そんな犯罪を冒すような人間の心理など、私は理解したくもないね」


ふてくされたような教頭の言葉に探偵はニヤリと微笑んだ。そら引っ掛かった、とでも言いたげな表情のように花屋敷には思えた。


「このように人は簡単には分かり合えません。そして、生きているうちに分かり合える人間の数には限りがある。しかし人間は、手に余る程の他人を様々な情報によって理解しようとします。

共有する情報や話題、科学をベースにした情報や知識のキャパシティーは、多ければ多いほど注目されるだろうと考えてしまうのが現代人の悪い癖です。

確かに他者とコミュニケーションを取る為の情報の取捨選択は、多ければ多いほど我々は様々な枠を形成できるし、共有化した情報という境界の中で互いに話題にもし易い。

そうした限られた時間、限られた枠の中で現代なりの理屈は構築され、また新たな文化が形成され、育っていきます。

しかし、過多な情報が圧倒的多数の人々の間で氾濫する一方で、そうした情報からは疎外される人間もまた作ってしまうというドーナツ化のような現象が、現代では平気で起こり得てしまいます。

パソコンや携帯電話を使ったインターネットなどは、その最たる例でもあるでしょう。

それはひとえに、局限化された情報が一方的に配信され、それを受け入れているうちに新たな情報が配信されてしまう、というのが現代の情報化というシステムだからです。

情報過多の情報疎外などといわれるように、あらゆる情報を取捨選択し、それを操る術を持たなければ立ち行かないのが現代だからです。世界にはありとあらゆる情報が溢れ…」


人の数ほど世界が出来てしまった、と探偵は暗然と呟いた。


「噂…ただの世間話は現代のこの日本という国では、最終的には個人主義に還元されてしまいます。口さがない噂はただの世間話の枠を越え、他者と比較を繰り返し、差別化し、ランクをつけて誰かを見上げたり見下げたりしながら、時に自分を定義したりするものでもあるのです。

犯罪や事件の噂もまた然り。

容疑者の供述…。被害者の心情…。

そして、動機の解明…。

加熱する報道での議論…。氾濫する情報の中での事実や個人の認識…。

そして様々な誤認…。

その中で犯罪は作り上げられ、一つの事件記録として後世に残されます。そこで生まれる個人の理屈もまた様々です。

教頭先生の仰るように、犯罪は確かに身近なものではあるけれど、そもそも自分には関係ない。何が何でもそう思い込まなければ自分達、無関係な人間の生活は立ち行かない。

遠ざけておかなければならない。

…そこには、そんな心理が隠されていて当たり前だともいえます」


探偵は最後の階段の踊場へと辿り着いた。屋上のひんやりとした外気が直接伝わってくるような場所だった。

探偵は闇の中で振り返った。


「ですが、実際の所はどうでしょうか?

報道番組の、ある事件を見ていて犯罪について誰かと議論する際は実のところ、お互いに興味深々というのが本音である場合が多いのではないでしょうか?」


これには花屋敷が答えた。


「犯罪の手口そのものや、なぜ犯人はこんな犯罪を犯したんだろうか、と容疑者達の動機や心理は知りたいと思うだろうな。これは、自分の身を守る上でも役に立つ情報だ」


「そう。そうした後付けにしか過ぎない動機を作りたがる心理と秘密を暴こうとする心理、噂を辿ろうという心理は行為としては全く同じ…。ただの好奇心という感情に根差しているのです。

犯罪のきっかけは自分達の身近な感情の振幅であり、その延長である事は自分達自身が一番よく知っているからです。

犯罪者は道を踏み外した困った人間達ですが、同時にそれは未知の自分の姿であるともいえます。詰まるところ、この日常は不安で退屈で仕方がない…。だから噂が必要とされるのです」


探偵は十三階段と呼ばれる階段を、何の躊躇もなく登っていった。


「そして噂はまた別の噂を呼び、誇張され、尾鰭がついて、また別の噂へと変容する。

自己増殖と変異をウィルスのように繰り返した噂の真意は既に大多数の人に隠され、巷間には怪しげな噂が流布し、そして本末は転倒する…」


キィ、と屋上へと続くドアが開かれた。月の光が再び黒衣の男のすらりとした痩身を照らし出した。


「この学園の環境は予め、そうしたお膳立てが全て整った、究めて好都合な環境下にあったんです。

胡散臭いネタであればあるほど、背徳的な犯罪を背景にした内容であればあるほど、その人物は喜んだに違いありません…」


「私はそんな人間の思惑通りにはなっていない。好奇心だの何だのに左右されてはいない」


それもまた一つの結果ですよ植田先生、と探偵は言った。


「好奇心の結果、見たいものだけを見て、見たくないものは見ない。自分が信じたいように信じる…。第三者的な視点の多くは対象を変容させ、構造そのものを時に歪ませる…。

この事件は、そうして出来上がっていったんですよ」


探偵さん、と闇の中から咎めるような若い男の声がした。長い沈黙を破り、山内が始めて発言した。


「先程から聞いていれば、あなたは極論化した詭弁ばかりを弄してこの学園をただ中傷し、否定しまくっているだけだ。あなたの言う事が事実なら、群集心理やこの社会こそが真犯人。真実など、どこにもないという事になるじゃないですか?」


山内の言葉に探偵は真実ですか、と呟いてクク、と微かに笑った。


「真実はいつだってあなた方と共にありますよ」


探偵のその言葉に、山内の顔から表情が消えた。


「真実とはいつだって自己言及的なもの。

自分が直に見て、考えて、自ら選んだ所にだけ立ち現れるもの…。幻想と大差などないんです。ですが真実と幻想の境界なんて、実は曖昧で、いい加減で…そして、それは表裏一体で相対的なものなんですよ。

境界の狭間から何かを、あるいはいずれかを選択するというターニングポイントでもある。自分の行くべき先に繋がる道があると信じる事…。

それは真実だが、しかし同時に幻想でもあるという事なんですよ、山内先生」


ついに舞台は、時計塔の内部へと至った。

成瀬勇樹と山内によって破壊された鉄製の扉の取っ手に、探偵は片手を添えた。


「虚構と真実に違いはないのに、人はそれでも真実を知りたがります。それが実は、誰かが仕掛けた巧妙な罠だとも知らずにね…」


ギィッという軋んだ音と共に扉が開かれた。


来栖に促された一行が次々と暗い時計塔の内部へと通されていく。最後尾の花屋敷が入るのを確認してから、来栖は押さえていた観音開きの扉を手離した。


ガシャンと鋼鉄製の扉が後ろの方で閉まる音に、花屋敷はビクリとした。

ひんやりとした薄い暗がりが部屋全体に広がっていた。

暗闇の中、さあっと四角く切り取られたような月光が差し込んだ。そこに花屋敷はとんでもないものを見た。


「あぁっ!」


月明かりに照らされた逆さ十字の影が、ぼんやりと床に映り込んでいた。

百本以上は軽くあるだろうか。

部屋の中央を覆い尽くすように、周囲の地面には蝋燭が何百本も立っている。

赤い絨毯の敷かれた地面には、夥しいほどに真っ赤な花びらと、黒い鳥の羽根が散らばっていた。


「う、嘘でしょ?」


「何だ、これは!?」


「ば、馬鹿な! だ、誰がこんな事を…!」


花屋敷は背中に冷たい何かが走るのを感じた。


「い、いつの間に…」


石原も色を失している。

花屋敷とて同じだった。

花屋敷達の監視下で、一体誰にこんな事が出来たというのだろう?少なくとも、こんな事をする人間は警察にはいない!こんな手の込んだ悪戯など誰も出来ないはずだ!


花屋敷は、逆さ十字の真ん中に悠然と立った蝋人形のごとき男を見た。男は口の端を引き吊らせるようにして、ニヤリと笑った。


「この通り、全ての準備は整っています…」


ひんやりとした不確かな白い気体が、ゆらゆらと石造りの床を漂っている。肌を刺すような冷気が石の床から伝わってきた。


「それでは皆さんお待ちかねの黒魔術…。

悪魔召喚の儀式を始めましょう。

最初に申し上げましたが、私は探偵ですが、今日この度は天上より魔を使役し、秘密を開示する役目の魔術師でもある。

…ただし、この秘密の儀式は何が現れるか、私も全く予測がつきません。皆さんもくれぐれも覚悟しておいて下さい…」


黒衣の男は逆さ十字の影の中央に立ち、上を見上げた。自然と全員が上を向いた

ステンドグラスに描かれた黒山羊の悪魔に語りかけるように、来栖要は両手を広げた。


「我は聖なる復活と地獄に堕したる者の苦悩により汝、復讐の炎の悪魔の霊をここに召喚し、命ず。

我の欲求に応じ、永久の苦悩より逃るるため、この聖なる儀式に従わんことを。

ベラルド、ベロアルド、バルビン、ガブ、ガボル、アガバ、立て、立ち上がれ…」


エロイムイッシームエロイムエッサイム、と魔術師は幾度かそう言った。


『黒い雌鳥』だ。

花屋敷はなぜかその呪文を知っていた。悪魔を召喚し、誰かを呪う為の呪文。


「我は求め訴えたり。

今宵、古の約定に則り、混沌の赤き月より黒い霧は舞い降りた…」


まるで何かの一説を諳んじているような、何かに語りかけているような来栖の声が朗々と、次第に高くなっていく。


「深淵の底より這い湧き出でし者達よ…。腐敗の死をその手に携える者達よ…。

奈落の王と蠅の王の名において命ずる。今こそ汝ら、闇の淵より集え!」


ボッという音と共に、いきなり周囲が赤い炎に包まれた。

何百とあった蝋燭に一斉に火が灯った!


「ば、馬鹿な…!」


「な、何だこれは!?な、何が起こるんだ!?」


植田が驚愕に目を見開いた。教頭は頭を抱え、ひたすら怯えまくっている。


「我は求め訴えたり。

来たれよ混沌!

来たれよ! 復讐を司る、赤き炎の化身よ!」


その時。


ガラン…ガラーン。

ガラン…ガラーン。


頭上から、けたたましい音を立てて時計塔の鐘が鳴った。

花屋敷は世界の終わりを告げるようなその音に、ただひたすら恐怖した。

塔全体が鳴動しているようだ。


「我は求め訴えたり。

今こそ時は来たれり…!

汝の名はスルト。汝の名は復讐の炎。赤き剣を持ちて、胡乱なる名の下に集いし軍勢に、最後の破壊と殺戮の炎を与えし者!」


耳をつんざくようなけたたましい鐘の音が断続的に鳴る中、まるで数多の蝙蝠が地の底から鳴くような声で、キィキィという薄気味悪い音が聞こえてきた。


「ああっ! この音は…。

こ、この音はっ…!」


植田の驚愕の声。


バサリという音がしたと見るや。


石の床に、鈍く黄緑色に光る奇怪な模様が現れた。


「ま、魔法陣!?」


石原が叫んだ。

花屋敷は見た。


いつの間にか黒いローブを纏い、すっぽりと頭にフードを被った来栖の手には銀色のステッキのようなものが握られていた。

ふしだらな色をした真っ赤な炎と四角い窓から覗く妖しげな月の光を受け、銀の杖は煌りと輝いた。


今や赤々とした蝋燭の炎に照らされた黒衣の魔術師は、猛々しく揺らめく炎の赤と漆黒に艶めく闇の黒の境界にいた。


フードから妖しく覗いた赤い双眸が、頭上の彼方をきっと仰いだ。


片手で魔法陣を指差し、魔術師は銀色の杖を高々と天上に差し上げた。


「我は求め訴えたり!今こそ奈落より蘇れ!

混沌の破壊をその身に宿す、猛き炎と闇の眷属よ!」


ガタンと音がして。


「ふふふっ…はははは!

きゃははははははは!

あーっはっはっはっはっは!」


頭上のステンドグラスの向こうから、甲高い女の狂った笑い声が聞こえてきた。

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