第21話
『現在、都内は先日の元旦に起こった事件と酷似した状況に陥っているとのことです。まだ詳しい情報は入ってきていませんが、恐らく例のウイルスが関係していると考えられます。感染方法も未だ不明です。異常行動を起こす人を見つけた際には、近寄らず、まず自身の安全を確保して下さい。繰り返します、異常行動を――……』
楽屋の中に、外まで響かない程度の音量に絞られたニュースキャスターの声が響いていた。
汀が握りしめる携帯端末に杏奈も身を寄せている。
「うわ、マジだよ……」
「どうしよう、こんな……」
雫は何も言わなかったが、彼女も携帯端末の画面を険しい顔で見つめている。画面にはSNSの画面。どこまでがデマかは分からないが、良くない文字ばかり連なっているのは確かだ。
上野はどこかに電話をかけているようだが、幾度挑戦しても繋がらないようだ。今回もやはり回線は込み合っているのだ。
一人ひとりの不安と恐怖は次第に共鳴するかのように膨れあがってゆく。
「ふ……っ」
呆然と突っ立っていた神楽が声を漏らした。
たった一粒の小さな雫が瞳から零れ落ちる、それが引鉄だった。
ぐすぐす泣き出す神楽を見て、汀が唇を戦慄かせ吐息を震わせ始める。杏奈は唇を噛んでいるが瞳には涙が浮かんでいるし、一見平静そうな雫も僅かに呼吸が浅い。上野の顔色もどんどん青くなっていた。
「泣かないで!!」
姫が大声を出した。
まるで責任感の強い幼稚園児が大泣きするクラスメイトに対し、僅かな焦りと苛立ちのもと相手の気持ちも慮らず正しいことを遂行するため即物的に叱咤している姿に似ている。
風船の割れるような甲高い声に怯み、二人は思わず息を呑みこむ。
「泣かないで」
姫はもう一度、凄んだ目つきで強く言い聞かせた。
今この場で最も冷静な判断と指示をしているのが、本来であれば真っ先に泣き喚いていそうな姫であることに、皆はこの時ようやく気づいた。
彼女も顔色は悪く額に脂汗を滲ませているが、それぞれが焦燥と恐怖に駆られている中、姫だけは扉につけた机に背を預け続けていた。両手を後ろに回し、机の縁をしっかりと握り、いつ扉に衝撃がきても抵抗できるようにしていた。
動けないから、やむを得ず叫ぶしかなかったのか、それとも身体だけはなんとか状況に対応させようとしても、精神が追いつかずに思わず声を荒げたのかは分からない。しかし少なくとも、この場で最も冷静でいようとしているのは彼女だった。
(ああ、私は何をやっているんだ)
上野は自身を恥じた。
我が子に連絡がつかない今、目の前のできることをしなければならない。上野にとってHeroineSだって我が子のような存在だ。最年長でもあるのだし、彼女たちを守らなければならない。
けど今の自分に一体何ができるだろう?
サバゲー経験者だからか、幾度か異常行動者と遭遇して危険な目に遭っているからか、はたまた元から度胸があるのか。先ほどから今にかけての姫の指示は的確で、上野にはそれを上回るだけのことができるとは思えなかった。
「…………」
「……!」
上野は姫が体重をかけている机に、同じように背を預け両手を後ろに回した。
それが今、上野にできる唯一のことだった。
驚いたように姫に見つめられ、上野は頷いた。
姫も頷き返し、そっと机から離れる。
全員の視線が自分に集中しているのを感じ、姫は背筋を伸ばした。鼻腔からいっぱいに息を吸い込み、意を決して口を開いた。
「いいですか、これからの話をします。意見は後、とりあえず姫の話を聞いてください」
有無を言わさぬ強い口調と視線の圧に、全員はおずおずと頷いた。
「いくつかの可能性を考えて、行動する必要があります。最善策より、最悪の場合の対処法を先に考えます。まずひとつは、この混乱がいつまで続くか分からないこと。今までの混乱は発生するたびに時間が伸び続けている。前回も飛躍的に時間が伸びていた。今回は一晩では終わらないかもしれない。場合によれば、長時間六人でこの部屋に籠城することになるけど、鍵もかけられないこの状況じゃ不安です。次に、電気。前回は、止まった。また止まるかもしれない。そうしたら明かりはもちろん、暖房も換気扇も動かなくなる。ここは地下だし、六人もいたらそのうち酸素がなくなる。それに凍えてしまうかもしれないし、時間は関係なく光は入らない。とにかく、電気のあるうちにまず端末を充電して下さい。携帯端末は、生命線です。ネットが使えなくても、そのうち外と連絡が取れるかもしれないし、光源にもなる」
いつもは声に大袈裟なほど抑揚をつけ間延びした喋り方をする姫が、淡々と低い声ながら丁寧に説明を重ねてゆく。今度はまるで中学生の班長が責任を果たそうと背伸びをしている姿にも見えた。
話の途中だが確かに端末の充電は最優先であると、それぞれがコンセントに充電ケーブルを差し込みそれを端末に繋いだ。
「…………これは推測だけど、アレは、奴らは、進化……している」
皆が自分の傍に戻って来るより先に、姫はまた話し始める。
先ほどの出来事を思い返し、確証こそないが確信に近い推測を口にした。
「前は取っ手を握るなんてこと、しなかった。知能が、ある。鍵のないこの部屋じゃいつ入られるかも分からない。だから、ここからは脱出すべきだと、考えます」
「ここを出て……どうすんの?」杏奈が尋ねた。
「分からない。でも、あてはある。それにここで奴らに襲われるのが一番最悪。狭くて、ろくに動けない。みんな運動神経もあるし、逃げきるのはそう難しくないはず」
「…………私は?」
上野はよもや自分は数に含まれていないのではと、半ばヤケにぼやく。緊張した空気を緩和させたいという年長者なりの身も蓋もない冗談も含んでいた。
しかしその呟きを聞いた途端、姫は目尻を吊り上げる。
「上野さんだって全然動けるでしょ! 元アイドルなんだから!」
「えっ、なんで」
ぎょっとする上野に今度は三人くらい声が重なって「みんな知ってますよ!」と思わぬ事実を突きつけられる。一応は秘密である事実を彼女たちがとうに知っていた事実に、上野は赤面した。
「それで、あてって?」
場違いな混乱に陥った年長者は無視し、雫が姫に尋ねる。
姫は一度口をもごつかせてから、視線を右上に向けて首を傾げた。
「みんなの、男バージョン、みたいな……?」
「
姫が長年所属しているというサバゲーチームの名称に、上野以外のメンバーたちは目を丸めた。(上野は事件の成り行きで既に知っているからである)
「何それ、あたしたちのパクリじゃん」
そう言い眉を顰める杏奈には幾ばくか心の余裕が戻ってきたらしい。
上野と一緒に机を後ろでに押さえながら、鞄の中から何かを探す姫を見守っている。
「ところが発足はHeroSのほうが早いんだなぁ~、本当にたまたまなの。お、あったあった。まめにバッテリー気にしてて良かった」
「何それ」
「無線機」
「むせんき……」
日常の中ではあまりに耳慣れない単語をさらりと口にする姫に、ヒロインたちは唖然とする。
先ほどの上野の発言からある程度いつもの調子を全員が取り戻していた。
姫は大晦日のテレビ局でも活躍した無線機を、しっかりと持ち歩くようにしていたのだ。
小型マイク付イヤフォンを耳につけて、HeroSで立ち上げた周波数を打ち込む。しかし、遠くにノイズばかりが響いていた。
「あーダメだ。だよね、地下だもんね……」
予想はついていたので、さして落胆もせず姫はすぐに次の行動に出た。
おもむろにコートを脱いだかと思うと、ハンガーラックに掛けられた衣装を手にし、再びそれに着替え始めたのだ。
「……何してんの?」
「私服じゃ動きにくいでしょ。うーっ、寒い、これも履こう……」
今日の私服は桃色タイトなスカートにロングブーツ、白のニットセーターだ。とても走り回れる格好ではない。稽古着のジャージも持っていたが、踊ることを前提に造られたアイドル衣装のほうがストレッチ素材で身体にもフィットする。
衣装のショートパンツに履き替え、ダンスブーツに両足を突っ込んだ。スタイリッシュな下半身ともこもこのセーターを着た上半身を鏡で見比べ「ええい、もういいや」と姫は結局は上も衣装に着替えた。細かい装飾品こそ外しているが、ほとんどが舞台衣装そのままである。
露出目的で腰まわりまで裾の届かないシャツに「寒い!」と叫び、半ばやけくそに衣装ジャケットを羽織る。そしてその勢いのまま「今から上に行って、仲間と連絡を取ってきます!」と宣言するではないか。
「え」
「姫が戻ってくるまでに、必要な荷物だけ纏めていつでも出られるように準備しといてください!!」
昨日、那岐が今日の予定は都内のサバゲーパークと言っていたのを姫は覚えていた。しかもチームが全員揃っていると鳳助が口にしていた。合流できれば、これほど心強い連中はいない。
「あ、危ないよ」
「じゃあどうするの!」
姫はまた幼稚園児のように強く神楽に尋ねた。
危険など百も承知だ。心配は有難いが、それで事態が解決するのであれば良いが、今はそうもゆかない。
あの時は、智成が傍にいたから姫は恐怖に泣けて、身を震わせられた。けれどその結果が、アレだった。今この場に自分よりこの状況に上手く対応できる者はいない。自分がしっかりしなければならないのだと、姫は自身に言い聞かせていた。
申し訳ないが、皆の気遣いに応えるだけの余裕まではない。
「いいから、姫が戻ってくるまでに準備してて。絶対戻ってくるから」
「…………姫、私も」
「雫ちゃんは来なくていい。今は足手纏い」
勇気を振り絞ったであろう雫の申し出も、全て聞く前に姫は切り捨てた。
雫の動揺が伝わってくる。
姫は改めて全員に向き直り、それぞれの目を見つめて言った。
「姫が戻ってくるまでに、準備しといて。心の、準備も」
ごくりと誰かが唾を呑みこむ。
姫はボストンバッグの中から小さなポシェットを取り出して肩からかける。そこに携帯端末を突っ込み、「テーブル退けて」と上野と杏奈に指示した。
「まだ電気がついているうちに行って戻ってきたい。合図したら開けて、すぐ閉めてテーブルも戻して。三・三・七拍子でノックしたら姫だから、入れてね」
扉に身を寄せ、外から音がしないのを確認する。
姫は瞳を閉じて、ひとつ深呼吸した。
スッ、と勢いよく吸って、フーと十秒以上かけて息を吐き出した。
決意の宿った青い瞳が開かれ、僅かな揺れもなく光る。
「開けて!」
上野は重い防音扉を開けた。
金色が扉の間をすり抜けると、躊躇を振り払い扉を閉める。
上野は縋りつくように扉に耳をつけた。
軽快な足音が乱れなく遠ざかってゆく。
どうやら異常行動者はもう近くにいないようだった。
「……――あれって本当に姫ちゃん?」
姫がハキハキと喋りだしてからはすっかり黙りどおしだった汀がポツリと呟く。
その言葉に全員が口を噤んだ。
今までグループ内で精神的に未熟なのは姫ではないかと皆が皆思っていた。それがどうだ。今、戸惑いの中にいる自分たちと違い、姫は迷いなく行動した。
――準備しといて。心の、準備も。
あの人形のような、全てを見透かしそうな青い瞳に見据えられた感覚を思い出し、雫は唇を噛んだ。あの子には中途半端な覚悟も見抜かれていたのだと。
「…………」
雫が勢いよくコートを脱ぎ捨てた。何事かと皆が雫を見る。
「着替える」
そう言ってヒールの高いブーツを脱ぎ捨てた彼女を見て、神楽たちもコートを脱ぎ始めた。
◆◆◆
関係者専用の出口のほうに、最初に楽屋を出ようとした時に見かけたスタッフの後ろ姿(じっと立ちすくんでいた)を確認した姫は、ステージ方面の廊下へと駆けた。
スタッフたちは既にどこかへ逃げたのか、楽屋近くには姫以外に正常な意識を保っている人間はいないようだった。
ときおり異常行動者と遭遇したが、狂暴性は低く、動きも鈍い。
ただ上手く動けない操り人形のように手足を揺らしているか、襲ってきても軽く避けて走ってしまえば追いつかれない程度だった。
「暗い……もうバラシ終わったんだ……」
地下からの階段をあがりステージ裏へとやってきた姫は、照明器具や舞台セットがはけた後の侘しく薄暗いステージを見て呟いた。幕裏では非常灯がうすらぼんやり光るのみである。舞台袖のモニター横にスタッフ用の懐中電灯を見つけ、ありがたく頂戴した。
姫は一人で立つには広すぎるステージまで歩いてゆく。
懐中電灯で客席を照らす。誰かいる気配はない。数時間前まであんなに盛り上がって熱気に包まれていたのに、今はしんと静まりかえって不気味なほどだ。
安全を確認してから、無線の周波数を合わせた。
(やっぱりステージじゃ無理か)
ステージ上は上演中に観客の携帯端末が鳴ったりしないように電波が入りにくくなっているのだ。
(となると、ロビーに出るか搬入口のほうに……)
搬入口は楽屋とは反対側の
姫はステージ上から上手へと向かった。
巨大なステージ機材を搬入・搬出するための大きな扉は開け放たれたままになっており、夜風が舞い込んでくる。
どうやら搬出はまだ完了していなかったらしい。トラックのリヤドアは開け放たれたままで、中には今回のライブで使用されたセットが積まれていた。
「……そういえば、ここも地下か」
搬入・搬出口は地下駐車場と繋がっていた。
試しにイヤフォンのノイズに耳を澄ませるが、大佐たちに繋がる様子はない。
となるとやはりロビーに出るしかなかった。
ステージへと戻った姫は客席へと降りて、平たい階段を上がり、分厚く重いホール扉の前までやってきた。
耳を澄ませてみるが、音漏れしないように防音加工になっている扉では外の様子が分からない。
ホール扉は二重構造になっている。
一つ開けてみようと、姫は重い扉を開いた。足元の僅かなオレンジ色の明かりしかない、弐畳ほどしかない空間に身を滑り込ませる。
――ヒュウッ。
自分以外の微かな空気の流れを察知し、姫は足元の影へと素早く襲い掛かった。
「ヒッ、うわああ!」
正気を失った者があげるにしては些か情けなさの過ぎる悲鳴。
姫は相手を押し倒すと、膝を胸元に落とし体重をかける。呻き声を下に、懐中電灯で相手の顔を照らした。
見覚えのある顔に、姫は青い瞳を丸くする。
「んー? あれ、君は」
「……っ、ひ、ひめちゃ……えっ!?」
青年は大層驚いた。
異常行動者が入ってきたのかと思えば、目の前には憧れの女性。しかも自分の上にのしかかっており、胸に置かれた膝の向こうにスカートの隙間があるのだ。血の気の引いた顔にあっという間に血が上がり、真っ赤になった。
「噛まれたり、引っ掻かれたりした?」
そう言いながら姫は確かめるように青年の顔を片手で掴み、懐中電灯で照らして怪我がないか確認する。「あう、い、いえ、あの」青年はされるがままだ。
「フム、……よし、いいよ。一緒に来て」
「え、あの」
「無線機が繋がる場所探してるの」
「むせん……って、アッ、待って!!」
次のホール扉に姫が手をかけたのを見て、青年は咄嗟に彼女にしがみついた。
甘い香りと柔らかい感触に「ああああああああああ! ごめんなさい!」とすぐさま身を引き、壁にへばりつく勢いで後退する。
「そ、外は駄目です。奴らがいっぱいいて……!」
「マジか」
「はい……、命からがらここまで……」
ズレた眼鏡を直しながら、青年は赤かった顔を再び青に変えて話し始めた。
「大変な事態でした。まだロビーには人がたくさん残っていて、異常行動者が出て、押しあうように皆逃げていって、僕は出口まで遠くて、襲われそうになって咄嗟にここへ……奴ら、重い扉は開けられないみたいで、でも客席にも異常行動者がいて、それで、ずっと……」
「ここに隠れてたの」
「はい……」
「なるほど……けど、ずっとここにいるのは無理があるなぁ。いつまで続くか分からないし」
「そう、ですよね……」
青年はしょんぼりと項垂れてしまった。
姫はそんな彼の姿を数秒ほどじっと見つめたあと、冷静な面持ちで口を開いた。
「あのね、今から強い人たちに迎えに来てもらえるよう無線機で連絡をとろうと思っているの。そうしたら神楽ちゃんたちと一緒に逃げるつもり」
「強い人たちって……HeroS、ですか?」
「知ってるの?」
恐る恐る尋ねられ、姫は瞠目する。
「あ、すみません、また余計なことまで!」昼間の智成について尋ねた件を思い出したのか、青年は慌てふためいた。
「別に隠し通すつもりはないことだから構わないけど、でも知ってるのは驚いた」
「すみません……あ、でも知ってる人はまだそんなにいないと思います」
「フーン。まあ今はそんなこと話している場合じゃないね」
姫は再びホール扉に手をかけた。
危ないと注意しようとする青年に「ちょっと見るだけ」と先に言葉を向け、そっと思い扉を引く。
――隙間から見える限りでも数人の異常行動者の姿が見受けられた。
「アッ、智成さんからのお花倒れてる……! 許すまじ……!」
「………」
「うーん、いるのは十数人ってとこか」
しかしどれも動きが鈍い。真っ向から向かわなければなんとかなりそうだ。
「……走り回りながらなら通信できるかな」
「えっ!」
「それか君が反対側の扉に回って、音で引きつけてくれるか」
「ええっ!? あ、いや、やります! 後者で!!」
恐怖に声は漏れてしまったが、憧れの女性一人を危険な目に遭わすわけにはゆくまいと、青年は汗を噴き出しながらも宣言した。
意外と勇気あるな、と潔く決断を下した目の前の青年への印象を変えた。
「できるだけうるさくしてね。奴ら、多分音には反応するから」
「は、はい」
「客席側にはもうアレはいなかったから。もし心配なら姫が反対側に回るけど」
「いえ、僕が行きますっ! ……、あの……」
挙動不審で目線もうろうろと動き続けている青年が、意を決したようにじっと姫を見つめた。暗闇の中でも分かるほどの視線を受け、「なに? やっぱり怖い?」と姫は尋ねる。
「……いえ。気をつけてください」
青年は項垂れながらそう言った。一体何に落胆されたのか姫にはよく分からない。
「うん、君もね」
「じゃあ、いってきます……」
そう言って青年は姫が入ってきたほうのホール扉へと手をかける。
取っ手を握ってもすぐには押さない。
姫は青年の手が震えているのに気づいたが、やめるか、と声をかけはしなかった。その選択肢は既に青年に二度与えている。
青年は姫に視線で助けを求めることもなく、ぐっと全身に力を込めたかと思うと、ホール扉を思いきり押した。
客席には、確かに姫の言うとおりもう異常行動者の姿は見当たらなかった。
青年はなるべく足音を立てないように、それでも早足で今までいた上手側後部にあるホール扉から下手側後部にあるホール扉へと進んでゆく。
息を詰めて勇気を出して扉を開ければ、扉と扉の間の狭い空間に人の気配はなかった。
「ハァ」
安堵の息をつき、青年は低く屈みこむと、ゆっくりとロビーに繋がる次の扉をそうっと開ける。すると、すぐ目の前に足があった。
「ヒッ……!」
声をあげかけ、咄嗟に息を呑みこむ。
扉のすぐ目の前にじっと立ち尽くしている女がいた。女は扉に背を向けており、ゆらゆらと僅かに揺れている。
扉の隙間を極限まで細め、青年は怖々と揺れる背中を見あげた。
――音を立てて引きつけろったって、こんな近くにいるのに。
下手をすればすぐにでもこの狭い空間に入り込まれてしまうだろう。
青年は悩んだ挙句、携帯端末を取り出した。
明かりが扉の外に漏れないように気をつけて、震える指で画面をタップする。
(姫ちゃん……)
トップ画面で笑顔の花を咲かせる美少女を見つめ、青年は唇を噛んだ。
今、本物の彼女が向こう側の扉で、この笑顔も殺し、じっと機を窺っているのだ。その機は自分が作るしかない。
青年は音楽のアイコンをタップした。
音量を最大限にまであげ、曲の再生ボタンを押すと、素早く扉の隙間からロビーの外へと携帯端末を床に滑らせるようにして投げる。
『みんなのプリンセス、姫、参上~!』
――ひーめ! ひーめ! ひーめ! ひーめ!
甲高い姫の声がロビーに響き、予め音源にも収録されていたコールが続いた。
音に反応した異常行動者たちが、身体を軋ませながら、ガクガクと四肢を動かして携帯端末のほうへと集まってゆく。
「やった!」
青年は影の中で拳を握り、遠ざかってゆく異常行動者を見守る。
一方、反対側の扉では、近くから人影が去ってゆくのを見守りながら、姫は口角を引き攣らせていた。
「いや、うるさくしてって言ったけどさ……」
それ、姫の歌じゃん……。
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