本命

 お茶を飲むために冷蔵庫を開けた飛紗が動きをとめたかと思うと、何も取り出さないままそっとドアを閉じた。怒ることはないだろうと思って前もっては言わなかったのだが、教えていたほうがよかったのか、腕を組んでいる。首を傾げたあとまた開けて、今度こそお茶を取り出した。

 食器棚からコップを取り出し、お茶を入れて持ってきて、向かいに座る。一口飲んで一息つくと、

「冗談みたいな量やな……」

 と真剣な表情で言うので笑ってしまった。

 世の中は二月一四日、バレンタインである。本命チョコと義理チョコだけだったのが、友チョコというのが現れ、最近は自分チョコまであるらしい。それは結局普通にチョコレートを買っただけではないかと思うのだが、細かいことはどうでもよいのだろう。

 瀬戸もいくつか受け取った。冗談みたいな量と飛紗は評したが、大半は学科の子たちがイベントに乗っかるべくくれたまさしく義理チョコである。それが四学年分あるので多く見えるだけだ。珍獣のような扱いをされている廣谷のほうがよほどもらっていた。おそらくもらった包装そのまま、智枝子に渡るだろうことは想像にかたくない。これまでの廣谷であれば、他人の用意した菓子などにべもなく断っていただろう。だいたいあの男は甘いものなどほとんど食べられないのである。

「いつがいちばんもらっとった? わたしは高三のときの五個」

「さすが女子校……」

 原稿を推敲しながら、いつ、と考える。正直なところあまり数えたことはなく、もらわなかった年もなく、はっきりとはわからない。

 嘘だろお前、と持って帰った量を見て学が騒いでいたのは憶えている。高校までは他人と距離を取るというより、相手の考えていることを察してそのとおりに動いてしまっていたので、いまよりもてていたのは確かだ。

「量だけなら高校二年ですかね。紙袋両手に抱えて帰ったので、たぶん」

「そんな漫画みたいなことあるんや?」

 そのころには慣れていた学が、これは手作り、これはベルギー、これはスイス、などと国別に分けて食べ比べていた。あのころはいまほどバレンタイン文化が盛んではなく、概ね明治だとか森永のチョコレートで、外国チョコレートは「当たり」と呼んでいた。無論、学が勝手に。

「すきなのがあれば持って帰っていいですよ」

 誤字を見つけて、丸印をつける。甘いものは苦手ではないが、毎日飽きずに食べられるほどすきなわけでもない。廣谷と同じく、余ればおそらく智枝子にあげてしまうだろう。

「人からもらったものをさらに人にあげるん?」

 咎めるような言い方に、ちらりと飛紗を見る。すぐに戻して作業を再開しながら答える。

「食べきれずに捨てるよりはいいでしょう。まあ、一年くらいは大丈夫だと思いますけど」

「それってなんや悪いなあ。眞一のこと思ってみんな準備して、渡しとるわけやろ……」

 瀬戸からしたらそんなことより、なのだが。そんなことより、なんて物言いをしたらさらに機嫌を損ねてしまうことは明白で、黙々と作業を進めていく。

 学生が気さくにチョコレートを渡してきたのは、瀬戸が距離感を改めたからだ。これまで自分にとって面倒なことは避けるように人間関係を程よく保ってきたのに、面倒だと思う事柄がぐっと減った。飛紗と付き合うようになってからの、瀬戸のなかではもっとも大きな変化だった。廣谷や東京の友人が気味悪がるはずである。

「やきもち?」

「違うし」

 言葉尻を喰い気味に断じられるが、視線は下に向けられていて説得力はあまりない。

「思っとったより多くて動揺とかしとらんし」

 ふは、と堪えきれずに息が漏れてしまって、飛紗がむっとした様子で肩を怒らせた。もうすでにコップにはお茶が入っていない。

 文章を付け足すべく、文字の間に線を一本入れる。自分が読めればよいので推敲時の字はあまりきれいではない。頭のなかにある言葉が頭のなかだけでこぼれたりしないように、はやく形にするのが肝要だ。

「わたし、うるさい?」

「ぜんぜん」

 しかし瀬戸がそう答えたにも関わらず、飛紗はそれから口を閉じてしまった。テーブルに腕を載せ、その上に顎を載せ、手持無沙汰にコップをいじっている。いつものように本を読んだりもしない。

 最後まで済むと、もう一度頭から読み返す。ひとまず問題なさそうだ。本来なら書き加えた加筆修正を活字に直して印刷しておきたいところだが、瀬戸はペンを置いた。原稿を揃えて資料とともに脇に寄せ、眼鏡を外す。

 終わりましたよ、と言うと、んー、と生返事をして、飛紗はさらにテーブルに身を沈めた。ねむそうな感じではない。おおかた余計なことを考えているのだろう。髪をすくように指を入れると、気持ちよいのか空気が和らいだ。やがてむくりと頭を起こして、

「チョコレート持ってきたので、受け取ってください」

 と、意を決したように言い放った。テーブルにあった手は膝の上に、背筋はぴんと伸びて、どことなく恥ずかしそうにしながら睨まれている。

 まるで告白でもされるみたいだ。

「こちらこそ、いただきたいです」

 同じように手を膝の上に載せて頭を下げる。どれだけ量を受け取っていようと、やはりほしいのは飛紗からのものである。もらえるに違いないと思いこんでいたというか、期待していたのだな、と首をかいた。

 飛紗は鞄から水色のきれいな箱を取り出し、滑らすように差し出してくる。儀式か何かのようで、ありがたく頂戴する。

「開けてもいいですか?」

 どうぞ、と促されて開けると、三種類が三つずつ、合計九つのチョコレートが入っていた。山型をしていて、気持ち大振りだ。

「あのなかとかぶってないとええんやけど」

 不安そうに言う飛紗の口に、ひょいと一つを放りこむ。驚いた飛紗が半分を噛んだ。残った半分を瀬戸は自分の口に入れると、飛紗があっ、と小さく声をあげた。

「ピスタチオ?」

 ろくに説明文も読まずに食べてしまった。舌触りがよい。口内でとろりと溶けていく。東京でのカフェでもそうだったが、高級なチョコレートは強烈な甘い匂いが鼻腔を抜けていくのに、くどくない。それともカカオの匂いが頭のなかで勝手にチョコレートの甘い記憶を結びつけていて、そんな気がするのだろうか。

「おいしいですね。これ、すきです」

「イタリアのチョコやねんて」

 不意打ちだったにも関わらず、飛紗は頬を緩ませながら口内でチョコを転がしている。デザートより食事、洋菓子より和菓子の飛紗だが、基本的には甘いものがすきだ。

 三種類のうちの一つ、ミルクチョコレートを差し出せば、同じように半分を噛んでおいしそうに目を輝かせた。

「眞一」

 飛紗の分のお茶と自分の水を取ってきてテーブルに戻ると、おずおずともう一つ、包み紙を出してくる。袋状になっていて、端が同じ長さになるように紐で結ばれていた。きれいな包装だが、飛紗が手作りしたのだとすぐにわかって、ちゅ、とわざと音を立てて額に唇を落とす。

「こっちに座ってるとやっぱり遠いですね」

 チョコレートの箱を持って、飛紗の腕を引っ張った。椅子が向かい合わせに二つしかないため、隣にいくこともできない。すぐに受け取りたいところだが、お茶と水のせいで両手がふさがってしまっている。

 半ば無理やりリビングのベッドの傍に座らせると、両手を空けて、今度は頬に口づけながら飛紗の手ごと受け取った。耳まで真っ赤にしながらうつむきがちに睨みつけてきて、言葉はなくとも、言わんとしていることは手に取るようにわかる。最近はっきりと文句は口にしなくなってきた。言っても無駄だとわかっているからだろう。

「つくってくれたんですか?」

「いやその、眞一はどうせたくさんもらうやろうし、既製品だけっていうんも味気ないかなって……ちえちゃんはいつも手作りやったなって思って……」

 それで悩んだ末、両方くれたのか。今さらバレンタインくらいで照れることもないだろうと思っていたが、慣れないことをしたので気持ちが落ち着かなかったようだ。料理はともかく、飛紗に菓子をつくってもらうのは初めてだ。

 封を開けると、クッキーが顔を出した。

「眞一そこまで甘いもんすき違うし、あんまりチョコばっかでも飽きるやろうなあと思ってクッキーにしたんやけど、そうすると当たり前やけどバレンタインなんかぜんぜん関係なくなってもうて、やからその、普通につくったクッキーです」

「おいしい」

「聞いてや」

「聞いてます」

 早口でまくしたてて言い訳をしている飛紗もかわいいが、はやく食べてみたい好奇心が先に立った。当然ながら家庭的な味のクッキーで、飛紗が気に入っていてたまに買ってくる店のものや、毎日のようにつくっていた学のものに比べると平凡ではあったが、それでも瀬戸にとっては何よりうれしく、おいしい。これをつくっている間、自分のことを考えていてくれたのだと思えばよろこびもひとしおだ。月並みな感想しか出てこないほどには。

「おいしいです。ありがとう」

 飛紗はまんざらでもなさそうに、遠慮がちに頷いた。表情から安堵が伝わってきて、唇を重ねると身をよじらせる。

「かわいい」

「眞一、そういうの軽率に言いすぎやと思う」

 いまのは口から漏れた、という感じなのだが、そう取られてしまうのか。自分のことをかわいげがないと思っている壁はやはり完全に崩すにはまだ程遠い。

「ベタなこともしておきますか?」

 もらったクッキーを飛紗に咥えさせるようにして、そのままかぶりつく。正直食べづらいだけだが、飛紗を動揺させるには充分だった。咀嚼し終わり飲みこむと、腰元から抱き寄せて口づける。驚きのためかじたばたと小さく暴れたが、すぐにおとなしくなって体を預けてきた。飛紗がふっと力を抜く瞬間、信頼されているとわかって毎回飽きずに愛しくなる。ひとりでやるのが当り前、できるかぎり誰にも頼らずやりきろうとする飛紗が全身を任せてくれるのは、許されていることに他ならない。他の誰にも許さないでほしい、と願ってしまう。

「チョコレートですべきでしたかね」

 じろりと鋭い目を向けられたかと思うと、先ほど瀬戸がしたのと同じように、チョコレートを口元に押しつけられた。間髪入れずに飛紗が噛みついてきて、形勢が逆転する。食べるというよりは口内で溶かすようにころころと互いの間を行き来していたが、大きいのでなかなか変化がない。やがて耐えきれなくなったのか飛紗が離れて、噛んでしまった。瀬戸には香りと味だけが残る。

「食べ物粗末にするみたいで、あかん。こういうのは」

 言いながら瀬戸の胸元に顔をうずめて、もぐもぐと咀嚼する。顎を持ちあげて改めて口づけると、飛紗の唇ごと甘かった。

「もうしない」

 ん、と自分もやり返した手前バツが悪いのか、落ち着く場所を探して瀬戸の膝の上に移動する。最近、ここが甘えるための定位置である。基本的に飛紗がくっついてきたときには、瀬戸は本を読むなどして適度に放っておくのだが、いまは別だ。支えるように腰に手を回す。

「チョコを買うとき」

 表情を見せたくないのか、首元から声が聞こえてきて、吐息がくすぐったい。うん、と相槌を打つ。

「正直なんとなく、そういうイベントやから外したらあかんのやろうなー、って、軽い気持ちやってんけど」

「うん」

「よろこんでもらえるやろかとか、他にもいろんな人にもらうんやろうなとか、考えがどんどんとっちらかっていって、なんかだんだん、周りの雰囲気に飲みこまれて、わたしがいちばんよろこばしたい、になって」

 ほとんど首筋に口づけるくらい近づいて、背中に置かれている腕に心なし力が込められた。体を合わせているところから熱が伝わってくる。知っている温度だ。心地よい。

「一瞬、いや、わたしが贈れば、中身が何であれ眞一はいちばんよろこんでくれるやろ、って思って」

 飛紗が甘えてくるというときとは大概が反省か、後悔か、やるせなさをうまく言葉にできないときで、さらに込められた力には、その全部が含まれているように思えた。それくらいの傲慢さは持っていてちょうどよいくらいなのに、飛紗は嫌らしい。事実なのだから思っておけばよいのに。

「なんかそういう、眞一の気持ちのうえに胡坐をかくのって、怠惰やろ。そうじゃなくて、わたしが、わたしが誰よりも眞一をすきなんやって、そういう……」

 何を言っているのか自分でもわからなくなったのか、告白が単に恥ずかしくなったのか、最後は言葉にならずに声が空気のなかに消えていった。相変わらず顔を持ちあげようとはせずに、あああ、と小さく叫んだ。

「つまりよろこんでもらえてめっちゃうれしいってこと!」

「長い道のりでしたね」

 面倒なことを考えているなあ、というのが瀬戸の感想で、抱きしめなおして背中をさする。

 結婚式を前にして、「夫婦」を前にして、まだこんな風に、必死になって恋をしてくれている飛紗に、表情を緩ませずにはいられない。すり、と頭をくっつけるようにすると、飛紗の体がびくりとはねた。どんどん体温が上がっている、気がする。

「飛紗ちゃん」

 飛紗が自分の声によわいことは、とっくに承知だ。力が抜けないのか、体も手もこわばったまま動かない。

「このまますけべなことしていい?」

「他になんか言い方あるやろ」

 思わず顔を勢いよく持ちあげた飛紗が、あっ、と眉根を寄せる。悔しそうにしているところに唇を重ねると、存外素直に侵入を受け入れた。この瞬間がたまらなく瀬戸の嗜虐心を煽ることに、飛紗はまだ気づいていない。

「明日も仕事やから」

「じゃあやめておきましょうか」

 しれっと言い放つ。飛紗は羞恥と葛藤と戦い、再び声にならない声を叫びながら目線を落とした。

「し、……しても、ええよ」

 髪で隠れている耳まで真っ赤なのが、見なくてもわかる。

 帰りは送りますよ、と瀬戸は言ったが、飛紗の耳に聞こえたかどうかはわからなかった。

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