間話

 今日来られる? と、めずらしく瀬戸から連絡があった。遅くなるから夕飯は一緒に食べられないけど、とも。瀬戸が飛紗を誘うというのは基本的に食事の誘いと同義であって、食事を抜きにして家に呼ばれたのは、もしかしたら初めてのことかもしれない。そのうえあの瀬戸が待たせることを前提とするなんて。よろこびよりも少しの不安が胸の内に広がる。先日の挨拶で何か知らぬ間に粗相があって叱られるのだろうかとか、式の準備で何かミスがあったのだろうかとか、よくない想像はすぐにできる。まあ、きっと違うのだけれど。まさに昨日、弟の綺香に「飛紗ちゃんがネガティブ寄りなのは瀬戸さんも知っとるんやから、不安になったら素直に言えば?」とアドバイスをもらった(もちろん、手話で)ことと、さすがの飛紗も学習をしていて、大丈夫。何かあった? と返事をする。そのあと、店舗の子におすすめしてもらった、うさぎがちらりとこちらを覗いているスタンプを添えた。これまであまり使ったことがなかったけれど、確かにどこか文章が柔らかく伝わる。なぜなのか、絵文字よりも使用に対して抵抗がない。

 会いたいから。

 ぽん、と表示されたメッセージに、思わず突っ伏しそうになる。職場でなければ、ここが自室であれば、叫び声の一つもあげられたのに。そして綺香がいれば、この興奮をわかってもらえたのに。

 だって相手は瀬戸なのだ。歯の浮くような科白を恥ずかし気もなく口にできる男ではあるが、常にどこか一歩引いていて、一人で平然と生きていける男でもあるから、必要とされていることが直球で投げこまれてくると、まだまだ流すことはできない。もしかしたら一生できないのかもしれない。

「なになに? 顔緩んどるで」

 隣席の千葉が、スマートフォンを両手で握りしめている飛紗に顔を向ける。感情の鼓舞もあって、自慢したい気持ちになったが、ぐっと堪えた。瀬戸を知っているひとでないと、この感動がうまく伝わらない気がした。ただののろけとして流されてしまうのはかなしい。

「いや、連絡がきて。その……」

 彼氏から、という一言が言えずにいると、察した千葉が彼氏からかあ、と代弁してくれた。彼氏、恋人、婚約者、他には相方など、表す言葉はたくさんあるのに、どうしても恥ずかしくなってしまう。照れるというより、日記を覗き見られるような居心地の悪さである。

 これまで飛紗の生活になかった関係だからだろうか。瀬戸と付き合い始めてからを頭のなかで数える。四ヶ月と少し。

「式、三月やろ? どれほどの男か、むっちゃたのしみやわ俺」

「どんだけイケメンなんやろうな。いうか鷹村さんを嫁にするんやったらイケメンやないと納得できんよね」

 向かいの尾野も加わって、また好き勝手に話し始める。別に顔をすきになったわけではない、というか、顔は整っているのは認めるが好みではないので何とも言えない。

「背はあんま高くなかったな」

 ぬっ、と突然現れた茂木が口を挟んだ。いつまで経っても神出鬼没に慣れない。慣れないから神出鬼没なのか。いや、どちらでもよいのだが。

「茂木さんは背ぇ高いから言えるんですよ。うらやましいですもん。俺もあと五センチ高けりゃなあ、人生変わったやろうなあ」

「人生変わっとったら、いまの彼女と会えんかったかもしれんで?」

「いやいや、俺なら絶対見つけるね」

「お客さんにシュークリームもろたけど食べる奴」

 茂木の言葉に会話を切りあげて、即座に三人とも手を挙げる。皮に砕いたナッツがちりばめられていた。噛めばさくさくした触感があり、カスタードクリームの程よい甘さが口に広がる。小ぶりで食べやすく、全員ぺろりとたいらげてしまった。箱に書いてある店名を見れば、チョコレートで有名な店だ。シュークリームもおいしいのか。たまに雑誌などで見るばかりで買いに行ったことはなかったが、今度行ってみようか、と考える。そういえば、来月はバレンタインだ。

「この会社に来るお客さん、お土産のセンスよくてええよね。前の会社のとき、どう考えても駅のコンビニでてきとうに買ったやろ、っていうお土産多くて、小分けされてなかったりすると最悪やったわ」

 思い出しているのか、千葉がしみじみと言った。なんとなく言わんとしていることはわかる。パッケージは違うのに中身は似たり寄ったりの、どの地方でも見かけるような土産物のことだろう。

 先日の挨拶時、梢に持っていった土産物はちゃんと食べてもらえただろうか。まさか袋ごと誰かにあげたりはしていないと思うが、あの様子だとそうされていても驚かない。

「休憩もええけど、ばれへん程度に仕事もしいや」

 茂木に言われて、はーい、と三人そろって返事をした。



 一度家に帰り、夕飯を食べてから瀬戸の家に向かう。家主はまだ帰っていなかった。一度一緒に暮らしたときにわかったことだが、瀬戸は一日三食、どうも決まった時間に食べたいらしい。だから夕飯を一緒にできないということは、おそらく職場で何かつまんで帰ってくるのだろう。

 暖房をつけて、鞄のなかに入れていた手鏡を覗く。化粧は直してきたから崩れていないが、髪が風で乱れていたので整える。合鍵を使ってもよいものかと悩んでいたころが、もう遠い昔のようだ。いま思えばいつでも入れるようにと渡されている合鍵を、連絡しなければ使ってはならないなんてことはあるはずがない。あのころの落ち着かなかった気持ちを思い出して、少し笑ってしまう。

 式の準備は慌ただしいが、なんとか進んでいる。招待状は出したし、ドレスは決めたし、スピーチは頼んだし、料理も決めた。あとは映像制作を頼んだのではやいうちに素材を渡さなければならず、結婚指輪もまだだ。やることはまだたくさんある。クリスマスあたりから、瀬戸と一緒にはいるものの、あまりゆっくりはできていないなあ、と鏡を鞄に戻した。

(贅沢な悩み)

 はめている婚約指輪を眺める。お互い働いていて、結婚式は望んだことで、挙式できるだけのお金はあって、相手である瀬戸に不満はなくて、それでも欲が出てしまう。準備のため、ではなく、ただ一緒にいたい、とは。

 気づくとどんどんさびしくなってきて、脚を折り曲げて抱えるようにする。もしかして、こういう風になるとわかっていたから瀬戸は呼んだのだろうか。さびしくなりながらも、今日はただただ会って一緒にいられる、ということが飛紗を安心させた。はやく帰ってきてほしい、とちらりと玄関につながっているドアに目をやる。するとガラス越しに人影が見えて、がちゃりと開いた。

「ただいま」

 あったかい、と言いながらコートを脱ぐ瀬戸を見上げる。やはりこういう、タイミングのよさは天下一品だ。気味が悪いくらいに。

 うれしいはずなのに、なんとなく悔しい。おかえり、と呟く。きっとここで素直に笑うことができれば、かわいげのある女になれるのだろうけれど、気持ちがそわそわするだけでうまくいかなかった。

 瀬戸はそんな飛紗を一瞥するとぽんと頭をなでてしゃがみこみ、唇を額に落とした。

「寒いなか来てくれてありがとう。会えてうれしいです」

 ずるい。自分でもよくわからない抵抗は即座に瓦解し、瀬戸の背中に腕を回す。わたしも、と言いながら、腕に力をこめる。

「わたしも会いたかった」

「痛い痛い」

 口では言いながらも平然としているところが、また悔しい。渾身の力だったのに。今度は頬に唇を寄せられて、すり、と髪に隠れている耳をなでられた。飛紗の体が小さく反応したことに満足そうな笑みを見せて、手を洗ってくるからちょっと待ってて、と行ってしまう。

 遊ばれている。いまに始まったことではないが、何もかも見透かされている気がする。いや、瀬戸になら、見透かされていてもよいのだけれど。考えがまとまらずに唸る。一矢報いたい気持ちもあるし、掌の上で踊らされている感じが心地よくもある。

「飛紗ちゃん、ご飯食べた?」

 早々に戻ってきた瀬戸が、腕をまくりながら聞いてきた。暑いのか。しかし飛紗はどこか肌寒いくらいなので、暖房の設定温度を下げるのはためらわれた。そもそも、暖房を下げて上着を着たら、寒いなら下げるなと瀬戸に怒られそうだ。

「うん、家で食べてきた。眞一は?」

「仕事の合間に食べました」

 予想どおりの答えに、ひとりで頷く。相手のことがわかっているのはうれしい。

 瀬戸が隣に座り、頬に触れられた。外から帰ってきたばかりであるのに冷たくない。唇が重なって、身をゆだねるようにする。角度を変えながらなかなか離してくれず、頬にあった手が耳をやさしくつまんだ。体に力が入り、ぎゅっと拳をつくる。すると唇をなぞるように舐められ、かすかに口が開いたところをぬるりと舌が侵食した。すがるように瀬戸の腕を掴む。

 やっと離してくれたときには息があがっていて、つ、と垂れたよだれを舐めとられた。呼吸を整える間もなく抱きしめられる。はあ、と溜息が耳元をかすめた。

「堪能、って感じ」

「……すごく変態っぽい」

 否定はせず、瀬戸は飛紗に頬をすり寄せるようにした。飛紗も瀬戸に腕を回し、肩に頭を乗せる。瀬戸の体温が伝わってきて心地よい。暖房なんかより、ずっと温かかった。すると体重をかけるようにつよく抱きしめられて、ふたりの体が傾く。

「ちょっと、疲れましたね。最近は。今日は何も考えずに一緒にいたい」

 ぎゅん、と心がときめいた音が胸の内で響いた。叫びだしたい気持ちを堪えると、自然と体がこわばって瀬戸の服をつよく握りしめる。昼間のメッセージといい、どうしたのか。かわいすぎてしんどい。

 それと同時に、瀬戸も同じことを思ってくれていたのだと知って、心が弾んだ。何かをするために会うことと、会いたいから会うことは、やはりどこか違う。

 瀬戸の唇に口紅がついていることに気づいた。来る前に塗りなおしたばかりだからだろう。指でぬぐいながら口紅が、と伝えると、手をとられた。

「いいよ、きりがないから」

 そしてまた口づけられる。顔を近づける直前、にやりと細められた目に心を奪われてしまった。さんざん瀬戸の顔は好みではないと言っておきながら、飛紗には結局のところ誰よりも恰好よく映る。

「学くんが」

 額に頬に瞼に首に、次々と唇を落としながら、合間に瀬戸が言った。

「将棋を勉強しているみたいですよ。和紀さんに、次は勝ちますって言っておいてって」

「そう簡単にいかへんと思うけど」

 くすくすと笑う。結納のときに負けたのが悔しかったのだろうか。週末には必ず将棋の集会所に行ってこもっている父なので、将棋仲間を一人増やしたと知ればさぞよろこぶだろう。

 父の和紀はあまり口数の多いほうではない。瀬戸の父が同性パートナーを持っていることに対してどう思っているのか、飛紗としては不安なところがあった。嫌悪していないのはわかるが、どちらかというと頭のかたい父だ。

 しかし母にその不安を話すと、大丈夫よ、とほがらかに断言された。父はかつて中高一貫の男子校に通っていて、そのとき、同性の先輩に恋情に近い憧れを持っていたことがあるらしい。どおりで飲みこみがはやいと思った。中高一貫の女子校だった飛紗にも覚えはある。自分が、というより、告白される側だったが。やはり男女関係なくあるものなのだな、と感心した。

「まず綺香に勝ってもらわんとね」

「和紀さんの後ろには小春さんも控えてますしね」

 そのとおりだ。妹の桂凪が帰ってきた年始、家族で毎年恒例の将棋大会をしたが、結果はいつもと同じだった。優勝は母の小春で、あとに和紀、綺香、飛紗、桂凪と続く。ハンデがあっても順位は変わらない。そろそろ綺香に勝ちたい。学のように勉強すべきだろうか。

「眞一はやらんの?」

「ルールは知ってますが、あまりやったことはないですね」

 頭脳戦で負けるようなイメージがないので、やり始めたらすぐにうまくなりそうだ。ただ、理解すれば勝てるような単純なゲームではないのが将棋のおもしろいところでもある。負ける瀬戸は見たいような、見たくないような。それこそいまなら、飛紗でも一矢報いられるかもしれない。

 するりとくびれをなぞられて、油断していただけに文字通り体がはねる。反応がおもしろかったのか、瀬戸がくつくつと声をかみ殺すように笑い、飛紗の肩に顔を押しつけた。

「いっつもおもしろがられとる気がする」

「そんなことないですよ。かわいいなあと思って」

 かわいいと思われたい。そんな飛紗の思いに気づいているかのように、瀬戸は何度も口にする。実際気づいているのかもしれない。瀬戸の口づけに応えながら、飛紗は小さく息を吐く。

 するとばちりと目が合って、瀬戸がゆったりと目を細めた。なでるようにやさしく、前髪を耳にかけられる。瀬戸が触れた端から、きもちがいい。

(あ)

 視界が開けたような感覚に、今さら、と飛紗は恥ずかしくなってしまう。

 瀬戸の目も、指も、声も、全身で、すきだと叫んでくれている。

 動揺しきりで自分の感情を保つのにいっぱいいっぱいだった付き合いはじめとは違い、ある程度冷静に瀬戸を観察できるようになった。知っていたはずなのに、知らなかった。知っていると思っていた以上の熱量と大きさに、今さら気づいた。自分の気持ちだけではなくて、やっと瀬戸自身を見ることができた気がする。

 恥ずかしい。こんなに思われているだなんて。それなのに気づいていなかっただなんて。

 首を傾げて、瀬戸が不思議そうに覗きこんでくる。どうして突然わかったのか自分でもわからないので、説明することができない。全身が熱い。きっといま、顔が真赤だ。

 目をそらすことができず、瞬きすることも忘れて、飛紗はなんとか口を開く。

「す、すき」

 他にうまく言葉が見つけられない。呟くようにそう言った。そもそも表す言葉はあるのだろうか。伝わってほしいのに、伝えられる気がしなかった。

「すき、眞一」

 それでも一匙分でも受け取ってもらいたくて、繰り返す。たった二文字が、こんなにももどかしいものだとは。

 瀬戸はまた目を細めて、うん、と頷いた。

「知ってる」

 あまりにも確信的に、はっきりと言われて、飛紗のほうが動揺してしまう。知っていたのか。そうか。相手は瀬戸なのだから、それはそうか。

 当たり前のことをわざわざ主張したようで、飛紗はうつむく。初めて告白したわけではなく、結婚まで控えているのに、なんだか間抜けな気がした。

「先に捕食されたのは私のほうですから、よく知っています」

 そう言って、瀬戸は飛紗の頬をなでた。こちらを見つめる双眸がいつも以上にやさしい。顔は笑っているのに、なんだか泣きそうに見えて、飛紗も瀬戸の頬をなでた。

 付き合うようになったことを、瀬戸は「飛紗ちゃんががんばってくれたからです」と言う。飛紗が瀬戸をすきになったとき、瀬戸には別にすきなひとがいて、飛紗から思いを伝えるようなことはしなかった。ただ言葉にしなくても当然のように瀬戸にはばれていたし、飛紗も瀬戸にばれていることを知っていた。

「自慢なんです、それが」

 抱き寄せられて、深く息をする。瀬戸に気づいてよかった。瀬戸に選んでもらえてよかった。

「わたしも、自慢」

 言って、飛紗から口づける。ふたりの睫毛がかすかに触れた。

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