母親

 突然結婚式の日取りが決まった。三月の日曜日、急に他の組のキャンセルが出たらしい。三連休のど真ん中ではあるが、大安である。聞けば瀬戸の両親も飛紗の両親も予定がなかったため、予定よりはぐっと早まるがその日でお願いすることになった。

 式場に連絡を入れたあと、瀬戸は小さく溜息をついた。何かを決定したあとに文句を言うようなひとではない。瀬戸の足の間に座っていた飛紗が振り返ると、眉間に皺を寄せて首をかいていた。

 どうしたん、と頬にそっと手をやると、首にやっていた手を飛紗の手に重ねてくる。瀬戸はもう一度嘆息して、ぼそりと言った。

「母親に言わなければと思って」

 瀬戸が幼いころに離婚して別れた母親とは、折り合いが悪いらしい。折り合いが悪いというより、ここまでくると嫌悪なのかもしれない。話に出ると一言二言ですぐ切りあげてしまうので、どんな人なのか、飛紗はまったくわからなかった。以前、瀬戸の実家で写真を見たくらいである。瀬戸の父親である晟一は普通に会話に出していたので、確執は完全に瀬戸個人が持っているもののようだ。

 電話します、と言って、瀬戸は手を離し飛紗の首に回した。抱きしめられる恰好になって、飛紗はじっとする。これで安心してくれるのなら、ここにいる。

 近いので、コール音が飛紗にまで聞こえてくる。一回、二回、五回を数えたところで、はい、と声がした。

「眞一です」

 ああ、という生返事が、なんとなく耳に届いた。そこから瀬戸は黙り、相手も沈黙した。首に回された腕に心なしか力が込められる。飛紗は腕に両手をのせた。

「急ですが、結婚することになりまして」

 どこか普段より淡々として瀬戸は言った。瀬戸の声の聴き分けには自信がある。

「それで、一度ご挨拶に向かいたいのですが、いつごろが都合……式? 挙げます。関西で、え? はい、そうです、関西の方です。……いいえ、違います。私もいま関西なので、そのほうが……違います。そちらに行くので、いつなら空いていますか」

 いらいらとしてきている。相手が話している内容は断片的にしか聞こえてこないのでなにを言っているのかわからないが、これだけの会話ですでに齟齬が起きているようだ。しかし、この言い方では、いまは関西に住んでいることすら瀬戸は連絡していないのだろうか。

「明日?」

 今度は完全に棘の含んだ声音になった。

「だから関西にいるんですよ。他の日はないんですか?」

「眞一、ええよ」

 袖を引っ張って言う。三連休が終わってから次の土曜日なので、新幹線も満席ということはないだろう。明日は瀬戸と花鳥園に出かける約束をしていたが、行き先が東京になるだけだ。たのしみが延びただけ、期間限定のイベントではないしまた日を改めればいい。

「行こう。明日」

 腕のなかでなんとか体をひねり、瀬戸と目が合うように動く。瀬戸はこれまで見たことがないくらい、不機嫌を全面に出した表情をしていて、気まずそうに目を伏せた。睫毛が長い、などと関係のないことを思ってしまう。

「……わかりました。行きますから、明日。……は? いいえ、一緒に……聞いていますか? 関西にいるんです。それは無理です。午後にしてください」

 そのあともいくつか押し問答があったが、時間と場所を決めて瀬戸は勢いよく電話を切った。忌々しそうに後ろのベッドにスマートフォンを投げるようにする。はあ、と何度目かの嘆息をして、飛紗の肩に顔をうずめた。

「……お疲れさま?」

 かける言葉はこれで合っているだろうか。腕を曲げて瀬戸の頭をなでる。うん、と背中のほうでくぐもった声が聞こえた。

 瀬戸はしばらく飛紗を抱きしめたまま動かなかったが、やがて顔を上げた。

「ごめん、明日がだめになって」

「また行ったらええ話やもん。……行ってくれるやんな?」

 慌てて聞くと、瀬戸は眉を下げて微笑んだ。いつもの困ったような笑い方に似ているが、少し違う表情に見える。もちろん、とこめかみに唇を落とされた。

「あ、お兄さんのところも都合よければ挨拶したい。眞一がすきやっていう姪っ子にも会ってみたいし」

 それで連絡を取ってもらえば問題ないとのことだったので、急遽瀬戸の兄夫婦への挨拶もすることになった。最寄駅から東京駅まで約三時間半、往復で約七時間。立て続けに挨拶では疲れないかと聞かれたが、何度も行ったり来たりするよりずっとよい。もっとも、瀬戸が懸念しているのは母親とのやりとりのみであり、基本的にはやはり一度で済むならそのほうがよいと思っているようであった。

 しかしこうなると、今日は泊まる予定だったが、一度帰らなければならない。何泊かしても困らない程度に瀬戸の家に服も下着も置いているとはいえ、さすがに挨拶に着ていくような服や靴は持ってきていない。

 新幹線やホテルの予約は即座に瀬戸がしてくれたので、あとは準備だけだ。

「じゃあ今日は一旦帰るね。急ごしらえで申し訳ないけど、手土産、駅で買わなあかんなあ」

 飛紗自身、忘れないように言葉にする。瀬戸の母親と、兄夫婦と、予備にもう一個だろうか。時間があればもしかすると、他の親類にも挨拶に行こうという話になるかもしれないし。

 立ちあがろうとすると、ぐいと腕を引かれて態勢を崩す。正面から抱きしめられたかと思うと、唇を重ねられた。ちゅ、と音がして離れる。前髪をかき上げるようになでられて、どちらからともなくもう一度重ねる。そんな目で見られたら、無条件に受け入れたくなってしまう。憂いと欲の混じった息が小さく耳元で吐き出されて、飛紗は瀬戸にされるがまま、身をゆだねた。



 *



 東京に着くまでの間、酔いと闘いながら、瀬戸が簡単に母親のことを教えてくれた。名前は梢。今年で五七歳。梢の父親、つまり瀬戸の祖父が晟一のかつての上司で、紹介されたのが馴れ初めらしい。自分本位なので話題がころころと変わり、こちらの言い分を聞いていないような物言いをするが気にしないでほしい、と言われた。これは実際話してから考えることにする。

 いつもはそのままにしている髪を今日はハーフアップにして、靴は飛紗が持っているなかでもっとも低いヒールのパンプス、服装は無難にワンピースだ。化粧もベージュを主体にして、とにかく控えめと清楚を心掛けた。晟一と学のところに挨拶しに行ったときとは違い、今度はきちんと弟の綺香に聞いてお墨付きをもらったし、母親にも確認したので大丈夫だろう。やはり男親より、女親に挨拶するほうが緊張する。結局どんな人なのか想像がついていないのもあるし、何事にも余裕を持っている瀬戸が今日はずっとどこか不機嫌だし(当然のように普段と違う髪型は褒めてくれたが)、何より女のほうが目ざとい。爪が汚かっただとか、言葉遣いがよくなかっただとか、派手すぎるだとか、とにかくマイナス要素を見つけるのがうまいのだ。

 待ち合わせの場所は梢が指定した銀座のカフェだ。まだ時間があったので先にホテルに荷物を預けて、簡単に昼食をとってから向かった。馴染みある場所なのかと思えば、瀬戸も行ったことがないと言う。しかし昨日のうちに地図は頭に叩きこんでいるようで、電車を降りて迷いなく歩いていく。

 銀座自体は、飛紗は大学生のとき、何度か来たことがある。友人とあんパンを買いに来たり、大きな文具店があるので覗いてみたり、有名ブランドのチョコレートカフェがあるというので並んでみたり。

(あのお店のホットチョコレート、おいしかったな)

 もし時間があって行列が少なければ、ねだってみようか。行きたい、とだけストレートに伝えると瀬戸は飛紗の願いを優先してしまうだろうから、言い方は考えなければいけないが。

 瀬戸が立ち止まるのに合わせて、足をとめる。

「……ここです」

 いらだちというか、怒りの含んだ声音に何があったのかと目線を上げれば、まさに飛紗が回想していたチョコレートブランドのカフェだった。そして当然、行列がある。時計を覗けば待ち合わせの三十分前だ。果たして三十分の間に入れるのかわからない。予約はできないはずだが指定したということは、瀬戸の母親は実はすでに店内にいるのだろうか。しかしそれなら連絡があって然るべきであり、その連絡は入っていない。

 瀬戸は先日までの躊躇などなかったようにすぐスマートフォンを取り出し、おそらく母親に電話をかけた。しかし出ないらしく、切りながら舌を打った。瀬戸の舌打ちは初めて聞いた。

 この間にも、列には人が増えていく。とりあえず並ぼうと瀬戸の手を引っ張って、いちばん後ろについた。体をなるべく密着させるようにして、指を絡める。周りから見れば鬱陶しいかもしれないが、瀬戸が憤っている間は勘弁してもらいたい。

「ここ、来たことある。めっちゃくちゃおいしいで。チョコレートの概念変わるから」

「……すみません、並ばせるはめになって。寒いのに」

 瀬戸は感情や態度の切り替えがうまい。飛紗に対してはいつもの柔らかい目線で、声も尖ったところがなかった。怒りの矛先はあくまで梢であり、飛紗ではないからだろう。

「はやめに着いてよかったやん。おかあさん、もう中におって待ってたりするんかな?」

「それは絶対にないです」

 ことさらきっぱりと言われて、頷くしかない。

「どうせ行列に並ばせて、自分はあとから楽して入ろうという魂胆でしょう。そもそも行列の店を指定する時点で、目的をはき違えているんですよ」

「いやでも、行列の店って知らんかったかもしれんし。平日はほとんど並ばんかったりするし」

 実際、飛紗が友人と授業終わり平日に来たとき、日によってはまったく並んでいなかった。開店してさらにしばらく経ったいまならなおさらだろう。

「それもないと思います。でもだからといって場所を変えようとすると、これから並ぶだの帰るだの言いだしかねないんですよね」

 忌々しげに瀬戸が言うので、それ以上はもうつっこまないことにした。なにせ飛紗は梢を知らないので、違うんじゃないかと否定することも、そうだよねと同調することもできない。この店はあとから一人、という入り方ができただろうか。それだけが心配だ。

 列を眺めると、やはり女性のほうが断然多い。たまに男女のカップルがいるくらいで、男性だけで並んでいる人はいないようだ。女性が男性にチョコレートを渡すバレンタインイベントも、いまは女性から女性へ、友人同士で交換する人のほうが多い気がする。

「ねえ、なんで女の人のほうが、男の人より甘いもんすきなんかな?」

「古代から、果物などの味を確認してきたのがもっぱら女性だったことに起因する説があるみたいですよ。安全で高カロリーな食べ物がわかるというのは、生きていくのにも、子どもを育てるのにも有利でしょうしね。深くは知らないけど」

 突然の話題転換についてきてくれたのもそうだが、あっさり回答されるのもさすがである。なるほど、甘味は安全。そう言われてみれば子どもは甘いものがすきだし、薬も甘くされていた。生存本能でかぎ分けているのか。

 列は案外スムーズに進んでいった。瀬戸と話しているおかげで、時間が過ぎるのがすぐだ。

 ちょうど待ち合わせ時間ぴったりに列の先頭になる。もう一人来る旨を伝えれば、新人らしき店員は一度奥へ確認に行ったが、すぐに「大丈夫です」と案内してくれた。リニューアルしたようで、店内は飛紗が来たときよりさらにきれいになっている。あと一〇分は間違いなく来ない、と瀬戸が断言したので、すきなものを頼むことにする。

「ホットチョコレートだけは飲んで、絶対飲んで。びっくりするから」

「わかりました」

 飛紗の力説に、瀬戸がやっと力を抜いて笑った。それを見て、飛紗もほっとする。いざ梢と対面したときどうなるかわからないけれど、いまのうちはたのしくいてほしかった。せっかくふたりで東京に来ているのだから。

「ううん、パフェも食べたいけど、食べとるときにおかあさんが来たら気まずいやんなあ。やけどあんまり長居しても悪いし、いややっぱり食べるのに集中したいし」

 ぺらぺらとしゃべってとまらない自分の口に、落ち着け、と言い聞かす。地元よりも濃く出ている関西弁は、自分自身ですらどこか違和感だ。間違ってはいないけれど、合ってもいないというか。緊張しているのだと改めて自覚してしまう。

「飛紗ちゃん」

 睨むようにしていたメニューから、ぱっと目線を上げる。隣に座る瀬戸は先ほどまで纏わせていたいらだちをどこかにやってしまったがごとく、穏やかに飛紗を見ていた。

「ごめんね。いつもどおりで大丈夫だから」

 途端に、なんだか気持ちが楽になった。ホットチョコレートを二つ頼む。他が食べたければ、また一緒に来ればよいのだ。行列を並ぶのは瀬戸と一緒なら苦ではないし、思い立って東京に来ることだってかまわない。

 あとからあのとききちんとしていたか不安になるのがいやなので、身だしなみを確認する。服に変な皺は入っていないし、化粧は崩れていないし、髪も大丈夫。左手の薬指にはきちんと指輪がはめられている。お風呂のときも寝るときも外さないので、なかったら大事だ。

「今日、兄夫婦のところに妹も来るみたいです」

 連絡が来たらしく、スマートフォンを見ながら瀬戸が言った。どきどきが増えてしまった。

 ホットチョコレートが運ばれてきて、コップを手で包む。温かい。体は暖房のおかげでだいぶ温まっていたが、冷え性の指先はまだひんやりとしたままだ。

 瀬戸の様子をじっと見つめる。パフェや名物のエクレアが食べられずとも、このホットチョコレートが飲めるのならば店に来た半分以上の目的は達成できると飛紗は思う。

「ものすごくチョコレートの味がするのに、甘すぎないですね。すごく不思議です」

「やろ?」

 自分の手柄でもないのに、誇らしくなる。味は鼻血が出そうなほど濃厚なチョコレートであるし、強烈な甘味の匂いが鼻腔を通りすぎていくのに、甘ったるくない。牛乳の味もほとんどせず、濃厚かつ高級なカカオを味わっている心地になるのだ。甘いものがすきな人も、甘いものが苦手だという人も、どちらもたのしめるのではないかと思う。

「これが飲みたくて何度か来たんよね。綺香もここのチョコレートやったら食べるし、お土産に買って帰ろうかな」

 甘いものがまったく食べられないというわけではないが、苦手としている弟だ。他にも食べられるチョコレートはあるがどれも高級ブランドで、要はよいものは食べる、贅沢な嗜好である。よいものというのはそういうものなのかもしれないが。

 しかしそろそろ飲みほしてしまいそうだ。時計を見れば、待ち合わせ時間を一五分すぎている。瀬戸はもはや諦めているのか、ぼんやりと外を眺めていた。

 何か話しかけようと口を開いたところで、

「眞一」

 と、声が降ってきた。反射的に目を向ければ、黒々としたショートカット、赤い唇、真珠のピアス、白シャツをさらりと着こなした女性が立っていた。そして驚いたのが、顔がほんとうに似ている。瀬戸を女性にしたらこうなるのだろう。

 慌てて立ち上がり、頭を下げる。

「はじめまして、あの……」

「このお店、階段が急なのね。そのうえ狭いから、避けてもらうのに時間がかかっちゃったわ」

 女性は瀬戸の向かいに座り、垂れがちの眉をさらに下げて言った。飛紗には目もくれない。どうしたらよいかと戸惑っていると、瀬戸に袖を引かれた。座って、と言われて、素直に従う。女性はそこでやっと飛紗の存在に気づいたとばかり、あら、と声をあげた。

「すてきな女性ね。はじめまして、眞一の母の寺内梢と申します」

 しまった。先手を打たれた。何があっても挨拶は先に済ませておくべきだったのに。

 はじめまして、と改めて飛紗は頭を下げて名乗る。社会で身につけた愛想という愛想をフル活用して、間違っても不信感が出ないように気をつけたが、名乗り終わるころにはすでに興味がなさそうに梢はすぐ瀬戸へ目線を移した。

「眞一さんは何を食べたの?」

「その前に何か言うことはないんですか?」

 瀬戸は頬杖をついたまま、じろりと梢を睨みつけて言った。口元に笑みもなく、吊り目が強調されて、飛紗から見てもぞっとする。

「何かって?」

 平然と、むしろ困ったように梢が聞き返した。瀬戸が溜息をついて、梢はメニューを開く。空気が重い。重いのに、その一端を担っている梢は無邪気に何を頼もうか思案していた。

 飛紗がどうするか悩んでいたパフェとドリップ珈琲を注文して、たのしみ、などと店内を見渡す。

「あの」

 こうなると阿呆のふりをするしかない。目指せ鈍感力、と心のなかで気合を入れて、にっこりしなやか、を合言葉に梢に話しかける。こちらを見てくれないが関係ない。

「甘いもの、おすきなんですか?」

 反応がなくともめげない。さらに大きな声で、質問を重ねる。

「何てお呼びするのがよいのか、なんだか気恥ずかしくて。おかあさん」

「おかあさんはやめて」

 一切動かず、ぴしゃりと言葉を遮られた。思わず息をのむ。形のよい赤く彩られた唇が凶器のように見えてくる。こういうときこそゆっくりと呼吸だ。伊達に飛紗も、アパレル業界に五年勤めていない。学生時代のアルバイトを含めれば九年である。もっと理不尽な客はごろごろいて、そのたび対応してきたのだから。

「さっきから無礼千万ですね。私の妻になるひとに対してそんな態度をとるようなら、もう失礼します。義理は果たしたということで。飛紗ちゃん、行こう」

 瀬戸がほんとうにコートに手を取って立ち上がりかけたところで、店員がパフェと珈琲を持ってきた。飛紗は従うべきかうろたえたが、まだ梢と会話ができていない。パフェによろこんでカメラで撮影し始めた梢を横目で見ながら、もう少し、と瀬戸をなだめる。瀬戸は不服そうに再び腰かけた。

「ああ、おいしい。ムースなんてふわっふわ。眞一さんも食べる?」

「いりません」

 輪をかけて不機嫌になっていく。組まれた腕に手を添えると、瀬戸は飛紗に目をやって小さく頷いた。腕をほどいて、机の下で一瞬だけ手を握られる。

「お相手は関西の方なんでしょう? どこで知り合ったの?」

 清々しいまでの存在無視だ。いっそ気持ちがよくなってきた。この隙にパフェでも頼んでやろうかという気持ちになるが、実際は気づいていないわけでも聞いていないわけでもない。とにかくにこやかに、いつ何を振られても平然と答えられるよう待機をする。

「鷹村飛紗です、お母さん。最初は講師時代の教え子です」

「あら、じゃあO大学なの?」

 初めて目が合った。はい、と笑顔で答える。大丈夫。眞一の隣にいれば、わたしはかわいい。自己暗示のように何度でも心のなかで唱えながら。

 それはすごい、と褒めてくれるのには、残念ながらあまりよろこべなかった。いつぞや口説いてきた取引先の男を思い出す。出身大学が何だというのか。もちろん飛紗は入りたくて努力をして、無事に入学できたこともきちんと卒業できたことも誇りではある。しかし自分のなかで完結しておけばよいことであり、他人にひけらかしたり、まして他人に出身大学を軸にした評価などされたくなかった。

「鷹村さんって、努力される方なのねえ」

「お母さん」

 瀬戸の咎める声が、鋭く場を支配する。梢はのほほんとして気にも留めず、チョコアイスに舌鼓を打っていた。

「でもそれなら、だいぶ年下なんじゃない? きちんとしているのかしら。最近の若い子は躾がなっていないって聞くし」

 さすがにかちんとくる。個人のことだけではなく、知りもしないのに親を巻きこんで批判されるのには憤慨して然るべきだ。それでも瀬戸の母親で今日は顔合わせである、ということが、飛紗の口を一文字に結ばせた。にこやかさが歪んだのは目撃されてしまったけれど、仕方がない。

 仕方がない、のだろうか?

 改めて顔を上げると、飛紗が何かを言う前に、瀬戸が梢に嫌味を投げつけた。

「少なくともあなたよりはきちんとしていますよ」

 梢は目を丸くして、眞一さん、と声を少し荒げる。場がいよいよ険悪になってきた。周りはまだ気づいていないのが幸いだ。どのテーブルも少し贅沢な息抜きをたのしんでいる。

「母親に対してその口の利き方はいけません」

「じゃあ、あなたの躾が悪かったんでしょうね」

「あなたを育てたのは晟一さんでしょう? それか、あの変な男が眞一さんを惑わしてしまったか」

 変な男とは、学のことだろう。梢と別れたあとの晟一が見つけた生涯の伴侶だ。二人は非常に仲がよいし、すでに梢が瀬戸と暮らした年数より長く、瀬戸とは「家族」である。自分の立場と性別を気にして家族付き合いを辞退しようとまで考えていた、周りを気遣ってくれるひとだ。

 それを、自分の責任は放棄して非難するのか。

「そ……」

「ありえません」

 言い返そうとしたのだろう、瀬戸の声にかぶってしまったことにもひるまず、飛紗は断言する。だめ、と頭のなかで制止の声が聞こえたが、もう無理だ。ここまで我慢したのだからだとか、何だかんだ言っても親戚付き合いとして長く続くのだからだとか、いろいろ考えはするものの、いま話を聞いてもらえないのであればどうせこの先も聞いてもらえまい。

「聞こえとらんかったようで、大変失礼いたしました。眞一さんとお付き合いさせていただいとります、鷹村飛紗と申します。本日は結婚のご報告に、挨拶に伺った次第です。歳は二七、生まれも育ちも関西、方言がお聞き苦しくともご勘弁ください。眞一さんに選んでいただいたんはわたしにとってほんまにもったいないことで、これも縁やと家族ともども感謝しとります。先だって晟一さんと学さんに挨拶させてもろたんですが、お二人にはようしてもうて、ああ、このお二人が眞一さんを育てはったんやなあ、やからこないすてきなひとにならはったんやなあと、感慨深く思うたもんです。梢さんも、急なお願いやったにも関わらず、今日は足を運んでいただきほんまにありがとうございます。わたしの両親が挨拶できず大変申し訳ございませんが、どちらも仕事に出とりまして、ご容赦ください。いやあ、歳を感じさせへん若々しさで、びっくりしました。家庭のご事情はほんの少し聞いとりますが、離れて暮らしとったとは思えへんくらい、顔はほんまに眞一さんにそっくり。あ、遅れまして失礼いたしました、こちら簡単ではありますがお土産です。荷物になり恐縮ですがぜひお持ち帰りください」

 たまたま家にあったもらいもののクッキーだが、だいぶ上等なものだ。最初から最後までにこやかに言い放ち、パフェの横にずずいと押しつけるように置く。さすがの梢も呆気にとられて、スプーン片手に固まってしまっている。

 やってしまった。しかしとまらなかったし、とめたくもなかった。

 声が大きかったためか店内の注目を集めていたことに気づき、ぎこちなく微笑んで頭を下げる。内容というより関西弁に驚かれたのかもしれない。またすぐ各々、ひそひそと会話に戻っていくところは東京らしい反応だ。

 ふっ、と隣の瀬戸が笑ったかと思うと、腹を抱えて笑い出した。また一瞬注目を集めたが、視線はすぐに霧散する。なんだか恥ずかしくなってきた。うつむいてしまう。

「ははは、飛紗ちゃん、最高ですね。はは」

「そ、そんな笑う? ごめ」

「飛紗ちゃん」

 笑いながらも、瀬戸はそっと飛紗の唇に指を押しつけた。続きが言えない。

「謝らないで」

 まっすぐ射抜かれて、うん、と頷く。言いすぎたとは思うけれど、間違えたとは思わない。瀬戸に肯定されると何よりも心強かった。

 そして瀬戸はまた、腹を抱えて笑い出した。心強いとはいえ、遺憾である。

「和紀さん仕込み?」

「たぶん。ちょっと訛りが京都に寄っとったん、自分でわかった」

 父の和紀は京都生まれ京都育ち、家系は京都の五代目だ。いま飛紗の家族が住んでいる家はもともと母方の祖父母が暮らしていたところであり、飛紗が幼いころ、越してきた。京都の家は伯父が継いでいる。遊びに行くとしばらくはどこかしら訛りが移ったものだ。

 表情を隠したいのに、前髪を耳に寄せるように指を入れられて、やめて、と軽く手をどける。瀬戸はまだふふふと笑っている。

「眞一、あなた、そんな風に笑うの」

 ぽつりと落とされた言葉を、聞き逃すところだった。はたとして梢を見る。瀬戸は梢と話すときほとんどずっとしていた頬杖も腕組もせず、体をまっすぐ梢に向けた。飛紗が知っている、いつもの瀬戸だった。

「飛紗は私にとって大切なひとです。大切なひとの前では笑っていたいし、笑ってほしいですから」

 梢はスプーンを置いて、目線を落とした。しばらく黙っていたがやがてマフラーを巻き、椅子にかけていたコートを着た。

「帰ります。眞一さん、たまには連絡ちょうだいね」

 先ほどまでたのしげに食べていたパフェがまだ半分は残っているのに、身のこなしが素早い。もう立ち上がっている。

「飛紗さん」

 えっ、と声が出る。慌てて返事をすると、梢は笑みこそなかったが、嫌悪感もなくこちらを見つめていた。

「……眞一をよろしくお願いします」

 そして飛紗が押しつけるようにテーブルに置いた手土産もきちんと鞄とともに腕に下げ、梢は行ってしまった。嵐のようだ。

 ぽかんと梢が通った道を眺めていると、すみません、と瀬戸に謝られた。

「母が失礼しました。私もあのひとを前にするとあまり冷静になれなくて、迷惑をかけました」

「えっ、いやいや、わたしこそ啖呵きって申し訳ない、っていうか普通嫁入りするのに啖呵なんかきったらあかんよな……」

 冷静に状況を分析すると落ちこんできた。だがどうしても許せなかったのだ。晟一も学も瀬戸のことを思っているし、飛紗にもやさしく接してくれた。家族とも良好に顔合わせをしてくれた。二人を否定されることは、瀬戸を否定されることとほとんど同義のような気がして、まして別れたとはいえ実母がそれを瀬戸に言っていたのは耐えがたかった。

「無視をされたうえ、育ちまでばかにされたら怒るのは当たり前だし、完全に向こうが悪いので気にしなくていいですよ。……でもさっきのは、私のことで怒ってくれたんですよね。ありがとう」

 そのとおりではあるのだが、なんだかまた照れてしまう。それこそ当たり前だ。

「たぶん式にも来ないし、結局瀬戸の家の人ではないので安心してください。私も数年ぶりに連絡したくらいだし」

 それなのに、紹介してくれた律儀さに胸の奥がぎゅっとなる。話さず結婚をすれば、きっとあとから飛紗がいろいろ言われるだろうと気遣ってくれたのだろう。わからないがきっとそうだ。違うとしても、そういうことにしておく。

「パフェ、新しく注文しましょうか。あっちは私が食べるので」

 梢が残したパフェを引き寄せて、瀬戸はさっさと注文する。場違いかもしれないが、正直うれしい。疲れたので小腹がすいたし、食べられるのならば食べたい。並んでいる人たちには長く席を占領して申し訳ないけれど、時間帯を考えればもうだいぶ列も落ち着いたころだろう。

「伝票置いていきましたね、普通に」

 言いながら、瀬戸は備えつけのナプキンでスプーンをふき取った。少し驚いてしまう。今日の態度で充分わかっていたことだが、ほんとうに母親に対して家族より他人というか、嫌悪感を持っているのだな、と実感する。

 アイスはすでに溶けて、器のなかで混ざっている。ひとすくいして、はい、と瀬戸にスプーンを向けられた。向けられたので、抵抗なく口に含む。おいしい。知っているチョコレートの味なのに、舌の上でとろけてすべっていく。久々に食べたので、数年前に受けた衝撃が新鮮さを持ってまた新たに襲ってきた。

「んーっ」

 甘いものが特別すき、というわけではない飛紗でも、夢中になる。無意識に頬を抑えるようにすると、瀬戸がおかしそうに笑った。

 大切なひとの前では笑っていたいし、笑っていてほしい。

 ほんとうにそのとおりだな、と飛紗は瀬戸を見て、笑った。

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