聖夜

 クリスマスには昔から深い興味がない。しかし日本人なのだから云々と否定するほどでもなく、過ぎゆく年末の一日、ただそれだけだ。いわゆるサンタクロースは両親だとはやいうちから気づいていて、毎年驚くフリをしていた。兄も同じだったので、振り返ってみれば両親のプレゼントの隠し方に問題があったのではないかと思う。離婚して母が兄と出て行ってからは父から直接受け取るようになったプレゼントは中学にあがると同時になくなり、なぜかビーフシチューを食べる日に変わった。だからいまも瀬戸にとって、ビーフシチューはどことなくご馳走のイメージだ。学が加わってからは一日仕事で和牛を煮こむようになった。凝り性なのだ。だから聞かなくても、今日の瀬戸家の夕飯がわかる。

 そんな瀬戸の印象や思い出はともかく、世間一般の、特に恋人たちにとって、クリスマスは誕生日やバレンタインに並ぶ外せない一大イベントだろう。クリスマスといえばでプレゼントだのディナーだのイルミネーションだのを飛紗が連想することははなから予想済みだ。イメージ戦術をもろに受けているなと思う。この時期に見かけるカップル向けの情報は、読んでいるつもりがなくても目に飛びこんでくる。テレビをつければ特集がなされ、集客のためにアピールされる。

 飛紗自身がやりたいというより、「普通恋人はクリスマスにプレゼントを交換しあったりするらしい」、「普通恋人はイルミネーションを見に行ったりするらしい」、だから自分もしたほうがいいのかもしれない、という思考だろう。どちらかというと部屋でまったりマイペースにしているほうがすきなはずだ。

 だが、飛紗にとっては恋人と過ごす初めてのクリスマスであることを、瀬戸はきちんとわかっている。だから定番のことをして、飛紗を満足させたいと思う。一度経験すれば、来年以降は飛紗自身の希望が出てくるはずだ。

 少し気になっているのは、先日、到底飛紗らしいとは言えない提案をされたことだ。昨日は祝日でお互い休みだったので一日一緒にいたが、日が暮れるにつれてそわそわしだし、夜には唸っていた。

 しかし今朝起きてみれば、飛紗は普通だった。どういう結論を出したのか、むしろ気になり始めてしまう。いや、どちらでもいいのだが。

「ねえ、今日、どこ行くん?」

 わくわくとした様子で飛紗が聞いてくる。正座をして顔を近づけるようにしてきたので、戯れに唇を重ねたら、なんで、と怒られた。かわいかったので、と答えると、何かを言いたそうにしたが堪えて、

「……ありがとう」

 と絞りだすような声で言われた。

 驚いて、今度は身を乗り出して口づける。眼鏡をかけていることを忘れていたのでフレームが当たってしまい、痛い。いくらかわいいと言っても響かないか流されるかで、飛紗が素直に受け取ったことはこれまでなかった。かわいげがないことがコンプレックスで、しこたま酔ったときに泣きながら訴えてきたくらいだったのに。どこでそんな心変りや進歩をしたのか、まったく気がつかなかった。

「なん、もう」

 口調だけは不満げにしながら、隣に座りなおして肩に頭を載せてくる。かわいい。先ほどから自分の語彙力が低下しているのを感じながら、読んでいた本をとじて眼鏡を外した。するとテーブルに置く前に飛紗に取られる。

「あんまり度、きつくないんやね」

「あくまで補助なので」

 瀬戸の眼鏡をかけて、飛紗がぱちぱちと瞬いた。かけなくても日常生活に支障はないし、読み書きも基本的には問題ない。それでも長時間行う際は、あったほうが便利。その程度の利用だ。仕事柄読むことも書くことも多いので、少しでもストレスは軽減されたほうがよい。

「ねえ、ものすご今さらなこと聞いてもええ? 怒らんでね?」

 眼鏡とともに奪った本をぱらぱらとめくりながら、飛紗が言う。気まずさからくる手持無沙汰でいじっているだけで、中身に目を通している様子はない。どうぞ、と先を促しても、言いにくそうに言葉を濁す。

 やがて頭を持ちあげて、顔を瀬戸に向けた。

「眞一って、誕生日いつ?」

「誕生日?」

 話題が明後日の方向からきて、言葉を繰り返す。飛紗の表情は至ってまじめだ。何かもっと深刻な、意を決するようなことがあっただろうかと思っていたのだが、飛紗とは反対に瀬戸は笑ってしまう。言っていないのだから、知らなくて当り前であり、こんな風に思い詰めるほどではない。

「笑うところ?」

 むっとされて、まだかけたままにしていた眼鏡を外してやる。テーブルに放り投げると、かしゃんと音がした。

 結婚を控えていて誕生日を知らないなんて、と悩んだのだろう。機嫌を損ねられても、飛紗らしさに笑わずにはいられない。

「八月やってことは知っとるけど、何日か知らんなって」

「二二日です」

「二二」

 何度か小さく呟いて、憶えた、と頷いた。

「あ、わたしは」

「五月一六日ですよね?」

「なんで知っとんの」

 以前飛紗の実家で見せてもらったアルバムに書いてあったのを記憶したからである。教えると、その手があったかと飛紗は悔しそうにした。写真が見られることに興奮して、そこまで頭が回らなかったらしい。

 クリスマスも誕生日もバレンタインも、およそ恋人の一大イベントと言われる類は一つも二人でしたことがない。細かく言えば去年のクリスマスイブは一緒にいたし、今年のバレンタインは一応、義理と銘打たれたチョコレートを受け取った。しかし恋人と関係に名前がついてからは初めてのことだ。それもあって、飛紗はどこか緊張しているようだった。少なくとも、悩んでいたにしても唐突に誕生日のことを聞いてくるくらいには。

「今日はここです」

 スマートフォンで店の情報を出し、飛紗に見せる。ドレスコードがあったり夜景が見えたりするわけではなく、ほどほどの金額の、数駅横のイタリアンだ。

 先日ホテルで結婚式の見積もりを出してもらった際、ある程度予想はしていたといえど、やはりそれなりの金額が示されていた。懐は突然潤ったりはしない。無理はしない程度に、しかし手軽すぎない店を選んだつもりだ。予告なくあまり高い店に連れていくと飛紗が気遅れするから、というのも理由の一つではあるが、それなら月の初めにでも言っておけばよい話で、ただの言い訳でしかない。

 式に関しては互いの親からそれぞれ支援の話をもらったが、どちらも断った。もし瀬戸が飛紗と歳が一つ二つしか変わらなければありがたく頂戴したかもしれない。社会人になった年数でいえば瀬戸は同年代に比べて院を出ている分、圧倒的に短いにせよ、飛紗と七つの差があって受け取るのは憚られた。とはいえ、二人の貯金で間に合うので問題ないからというのも事実ではある。

 生活は続いていく。使いきるのも、式というイベントを言い訳に他を疎かにするのも、瀬戸としてはいやであるし、情けないと思う。

「どんな格好していこう」

 飛紗がにこにことして、ひとりごとのように呟いた。

 いろいろ現実感を持って考えても、結局こんな風にたのしそうにしている飛紗が見たいだけなのだ。



 初詣のときくらいしか降りたことない、と飛紗が言う駅から徒歩三分、店はすぐに見つかった。入るとすでに老夫婦が端の席に座っていた。店員にいらっしゃいませと声をかけられ、コートを脱ぐように促される。飛紗はマフラーと一緒に預けて、着席した。

 襟ぐりの緩い白のニットワンピースに、黒いタイツと茶色のロングブーツ。左手の薬指には婚約指輪をしている飛紗が目の前に座っていて、じっと見つめてしまう。

「なに?」

 視線に気づいた飛紗が、薄く微笑みながら聞いてくる。

「いや、なんでも……」

 ごまかすようにメニューを開いて、飛紗にも読みやすいようにテーブルに置く。教え子(と言っても半年講義をしただけだが)だったことなど遠い昔のようだ。当然ながら、もうすっかり女性としてしか見られない。自慢したい、なんて初めてのことで、瀬戸自身持て余してしまう。

 一杯目はシャンパンを頼み、ひとまず乾杯をする。メリークリスマス、などと気障なことを言ってもよかったのだが、飛紗のぞっとした顔が目に浮かぶようだったので、普通に「乾杯」とグラスを鳴らした。

 頼んだコースのなかから、お互い料理を吟味する。イタリア料理らしいというべきか、メニュー名が長い。ところどころ調理方法やソースの名前がわからず店員に尋ね、あとは食材から直感的に選んでいく。前菜からして量が多く、二つ目のメインがくるときにはほとんど満腹だったが、それでも飛紗はおいしいと感激したように食べていた。シャンパンの次に頼んだワインのボトルを注いでやる。

「前、迎えに来てもらった店もイタリアンやったから、なんやリベンジの気持ち。ぜんぜん店も場所も違うけど」

 車エビの炭火焼を食べつつ、エビのスープを飲みつつ、飛紗が言った。前の店とは、飛紗が取引先の男にちょっかいをかけられた店のことだろう。いま思い出しても不愉快だ。むしろキスまでされそうになったのに、飛紗が平然と話題に出すことにも多少なりと文句を一つ言ってやりたいが、そんなことをすると喧嘩になるのはわかりきっているのでぐっと堪える。

 しかしむすりとしたのが顔に出てしまっていたらしく、飛紗は慌てたように付け加えた。

「あのあと、ちゃんと上司に言って担当外してもらって、しばらく会うことないから。ラインも拒否したから」

 上司。以前書店で見かけた男だろうか。もし彼なら、贔屓まではいかずとも飛紗を尊重してくれるだろうから、その点は安心だ。飛紗も嘘を言っている様子ではない。嘆息一つで納得することにする。

 しかし飛紗は思い出してきたのか、ていうか、と言葉を続けた。

「わたしも会いたくないし。東京出身で、K大学卒業っていうのを自慢してきた時点で正直無理。それ言ったら眞一も東京出身やし、学歴はもっと上やし、そもそも東京を鼻にかけてくる時点で腹立つし、わたしだって時代が時代なら一期校卒業やっちゅうねん」

 言いながら、ざく、とエビにフォークを突きたてる。気にしていないわけではなく、単に感情に蓋をしていただけだったらしい。話しているうちにだんだんと早口になっていくのがおもしろいので、おとなしく聞いておく。

「たかだか東京の私立やろ。ていうかいくつやねん、いつまで学歴にすがりつくねん。お洒落なんは認めるけど、眞一やって同じ靴履いとるしかっこええし、結婚して子ども産んでも化粧はしてほしい忙しいからってせんのは甘えやってお前のために化粧しとるんと違うわ。アサリ三つ食べたらけっこう食べるんですねってうるさいわすきに食べさせろや。最近特にかわいいって、仮にわたしがかわいいんやとしたら全部眞一の功績やから! ていう腹立たしさも正直あのときはトレンチコートの眞一見たら全部吹っ飛んだ」

「私もしかして褒められてますか?」

 傍から聞いたらのろけとしか思えない言葉の数々に、思わずつっこむ。関西弁がきつくなっているのは怒っている証拠だ。

 褒めてる! と勢いよく答えられて、瀬戸はワインを飲む。もしかすると男に対して(確か金子という名前だった)いろいろ言いたいことがあったものの、言えば瀬戸がいやがるからと溜めこんでいたのだろうか。反省してしまう。嫉妬を先に出してしまった。

「最初は眞一と再会したころのやりとりに似とるなあって思っとったけど、ぜんぜん。眞一のほうが何枚も上手、っていうか、眞一めっちゃうまかったんやなあってしみじみ思った」

「それはどうも」

 飛紗に関して言えば、ほんとうのところかなり甘えた部分があったのだが、黙っておく。そうでなければ好意を向けられているとわかっていても食事に誘うなんてしなかったし、戯れに手をつないだりなんかもしなかった。

 だからまんまと自分も飛紗に惹かれることになるなんて、夢にも思っていなかった。

「飛紗ちゃんなりに抵抗したんですね」

「うん。最後一万円札叩きつけて店出た」

「恰好いい」

 笑うと、飛紗もうれしそうに笑った。眞一ならそう言ってくれると思っただとか何とか言って。

 サラダを食べているうちに老夫婦は寄り添って店を出ていき、入れ変わりに四人の家族連れが入ってきた。子どもはまだ小さく、メニュー名を大きな声で読んで怒られている。

 最後に飛紗はデザート、瀬戸はチーズを食べて、コーヒーを飲んで店を出た。初めて来た店だったが、量と味のわりに値段が手ごろで満足だ。ワインボトルもきれいに飲みほした。

 外の冷たい風に体を震わせて、飛紗が身を寄せてくる。

「おいしかった。ありがとう」

「いいえ。こちらこそかわいい服を着てくれてありがとうございます」

「眞一が」

 手をつないで、瀬戸のコートのポケットに入れる。店を出たばかりなので、さすがに飛紗の手もまだ冷たくない。

「子どもほしいって言ったの、ちょっと意外やった。さっき途中で四人家族が入ってきたやろ」

 それは正直、瀬戸自身も意外だった。先日別の店で小さい子をあやす夫婦を見ていたら、ああ、ああいうのもよいな、とふと思ったのだ。気づけば口にしていて、夫婦になるということを、知らぬ間にきちんと意識していたのだと知った。

「あと、おじいさんおばあさんもおったやん。それで店出るとき、二人ともにこにこしながら体寄せて、ええなあって思ったんよね」

 信号を渡って、改札を通る。ちょうど電車が来たので、二人で乗りこみ、ドアの傍に立った。混んでいるというほどではないが、席はすべて埋まっている。ここら一帯はベッドタウンなので、ちょうどみんなクリスマスの予定を終えて帰り始めているころなのだろう。

「きっとあのおじいさんおばあさんも、あんな風に子ども育てた時期があって、いまはまたふたりに戻って、日々を過ごしとるんやなあって、まあ妄想やねんけど。子どもはおらんかもしれんし、最近結婚したなんてこともあるかもしれんし」

 身長が変わらないので、いつも目線が近い。

 電車はすぐに次の駅に停まり、また人が降りていく。乗る人はほとんどいない。近くの席が一つ空いたので飛紗に薦めてみるが、首を横に振られてしまった。

「わたし、眞一と家族にもなりたいし、男と女でもありたい。欲張りなんかな。あんまり自分のこと、女やってつよく意識したことはないねんけど……」

 飛紗は徐々に恥ずかしくなってきたのか、マフラーに顔をうずめるようにした。マフラーに持っていった手をとり、背後に隠すようにしてつなぐ。

「私もです」

「そりゃ眞一は女違うから」

「そこじゃない」

 照れ隠しが雑すぎる。悪戯っこのように飛紗ははにかみ、うん、と頷いた。重ねているだけだった手に指を絡め、改めて力を入れられたことでわかる。

 とりとめのない話をしながら帰り、お互い風呂に入って一息つくと、飛紗に包みを渡された。そわそわとして落ち着きがない。はやく見てほしい、と顔に書いてあったので開けてみると、革のキーケースが入っていた。

「恰好いいですね」

「あのね、中に名前もある。その場で入れてもらえたから」

 言われてボタンを外す。確かに筆記体で瀬戸の名前が刻まれていた。

「眞一、鍵に何もつけとらんかったなと思って」

「うん。ありがとう。ありがたく使いますね」

 頭をなでて額に唇を落とすと、飛紗は恥ずかしそうに前髪をいじった。

 瀬戸はさっそく家の鍵と研究室の鍵をつけて、玄関に置いておく。アクセサリーは腕時計もマフラーも手袋もきらう瀬戸に対して、何を渡すかは非常に悩ませただろう。うれしい。こんなに立派なものがもらえるとは思っていなかった。

 お返しというわけではないが、瀬戸も用意している。戻って渡すと、飛紗の見えない尻尾がぴこんと驚きで立った。

「私からのも名前入りです」

 飛紗がはやくはやく、と急ぎつつ丁寧に包装をといていく。この様子を見られただけで用意したかいがあったな、などと思う。

「あっ、かわええ。ボールペン?」

「職場でも使えるものがいいかなと思いまして」

 一応ゴールドだがローズゴールドなので淡く赤味がかっており、いやらしくない。細身のボディが飛紗の手に似合いそうだったので決めた。老舗のボールペンなので品質も保証されている。

「ほんまや、銀で名前入ってる。ありがとう。なんかこんな高級そうなボールペン、使うんもったいないなあ」

 何か書くと言うので、鞄から紙を出して渡す。書き心地がいいのか、飛紗は軽くぐるぐると滑らせておお、と声をあげた。そのあとペン先を何度か紙に押しつけ、ゆっくり筆を動かす。瀬戸飛紗。書き終った飛紗が、ちらりと瀬戸を見る。頬を朱に染めて頬を緩ませるので、思わず抱きしめて唇を奪った。予想していたのか、昼と違って怒られることはなく、飛紗は恥ずかしそうに瀬戸の肩に顔をうずめた。

「……この前、言った、あの」

 ボールペンをテーブルに置いて、腕が背中に回される。視界の端でとらえるかぎり、首が赤い。飛紗の髪を耳にかけると、耳も赤かった。

「ああ。あれ、結局どうしたんですか」

 飛紗がゆっくりと顔を上げた。目が潤んで揺れている。ぎゅっとシャツの裾を掴んで、小さな声で言った。

「み、見てのおたのしみ、ってことで……」

 煽られているとしか思えない。日本のクリスマスなんて、本来の意味とかけ離れた俗物に成り下がっている。しかしそれも文化だ。飛紗の出した結論と答え合わせをすべく、瀬戸は飛紗の腰に手を忍ばせた。

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