星の地平 後編3

 客人とオロー・マガシュの間ではすでに従業員を譲渡する金銭の契約は済んでいたようで、名を呼ばれた者たちは、速やかに広間から連れ出され、商会〈ドーマリオ〉の正門をくぐり、道端に寄せられていた三台の馬車に分乗させられた。馬車は人を運ぶ目的というより、荷馬車を少し改造したという体で、腰かけるための椅子はなく、移動する木組みの箱というそれだけの代物だった。当然窓もない。乗り口も外側から施錠されて密閉されている。打ち付けられた板の隙間から夕暮れの赤い光が差し込んでいたものの、箱の中はほとんど暗闇だった。

 シスの居場所は最後尾の三台目の馬車だった。三台目の荷台では、シスを含めて六人の下働きたちが膝をたたみ、木の床に身を寄せ合って座っていた。

「このまますぐにお城に行くのかしら」

 ひそひそ声で誰となく言ったのはエイルダという名の少女だった。エイルダに限らず、選ばれたのはほとんどがシスと同年代の少年少女だった。子どものほうが買い取りの値が安かったのかもしれないし、これから城に上がるにあたって教育しやすいという目的があるのかもしれないが、シスたちは何も聞かされていなかった。だから、だれもエイルダの問いに答えを返さなかった。

「出発!」

 前方から男の声が響いて、木枠の箱が一度大きく揺れた。隣の少女が悲鳴をあげてシスの腕をぎゅっとつかんだ。シスはじっと天井を睨んでいた。馬車の行く先に待つものが果たして良いものなのか、いまいち信じ切れていない自分がいた。荷台の天井は板張りで、指の先ほどの小さな穴が五つだけあった。あれが空気穴なのだとすると、ほとんど家畜の輸送に使う荷台と同じ扱いだ。夏の終りで良かった、とシスはぼんやり考えた。

 狭い車内に人間の臭いを充満させたまま、馬車はしばらく進んだ。

 荷台の揺れ方にときどき強い縦揺れが加わるときがあった。車輪が石でも踏みつけているのかもしれない。板の隙間から入ってきていた日没の光はとうに失われ、時間の感覚もないまま、シスたちは眼が見えぬまま振動に揺られ続けた。

 そのまま少し寝入ってしまっていたようだった。

「止まれ!」

 男の声で馬車が停止したとき、シスは隣の少女の肩にすっかり頭を預けていた。起き上がって小声で謝ったが、少女も眠っていたようで、夢うつつのよくわからない応答が返ってくる。

「出ろ。並べ」

 解錠の音がして荷台の戸が外に開いた。外はすっかり夜の闇に沈んでいた。荷台から飛び降りて、思わぬ暗闇に足が竦むが、後続に押されるまま出ていくしかない。

 馬車が停止したのはどこかの草地だった。二つ月のない夜だったから、頼りになる灯りはそこらの地面に突き立てられた松明だけだった。よく見ると、炎の灯りの向こうに、天幕のようなものがある。まばらに立つ松明の灯りは、いつの間にか剣を腰に下げた男たちの数が増えていることを教えてくれた。シスが見渡しただけでも総勢十人はいるようだった。甲冑の男たちと違って、増えた男たちはすさんだ眼つきをしている。〈ドーマリオ〉によくいるような、名ばかり冒険者のごろつきに近い気配だ。ほかの馬車から降りた下働きたちと合流し、男たちの間で、怯える羊の群れのようにシスたちは身を寄せ合って固まった。

(ここはお城じゃない)

 見てわかることだ。それどころか、ここは砂王国の王都の外、街を囲う城壁の外なのではないか。シスはぶるっと震えた。松明の炎以外の光源は、天上の星々だけだった。街の灯りはどこにもない。いやな予感しかしなかった。こんな人里離れたところに下働きの子どもたちを連れてきて、彼らはいったいどうするつもりなのか。

 男たちは下働きたちの眼から怯えと不審を読み取ったかもしれなかったが、その所作に躊躇はまるでなかった。二十人を一列に並べて、先頭の者から順番に奥の天幕に呼んでいく。呼ばれた者は甲冑の戦士に腕を引かれて、天幕の向こうに消えた。ほとんどの者が、すぐに天幕から出てきて、馬車の中に戻された。だが戻らない者もいた。シスが確認できたのは二人までだった。あと三人を後列に残して、シスの順番がやってきたのだった。甲冑の男に手を引かれ、天幕の前に連れ出される。

「次の者です、騎士様」

「入れろ」

 天幕の前で甲冑の戦士が告げると、短い返答が返ってきた。あの黄金の髪の男の声だった。

(いれろ?)

 シスの疑問に答えるように、甲冑の戦士はシスの背中を押した。自身は天幕の外で控えるつもりで、中に入る気がないらしい。促されるままシスは入口の薄い布をくぐった。布を手で押しのけたとき、古い布の黴の臭いが鼻をついた。きらびやかな戦士や黄金の人とは一見似つかわしくない、どちらかというと、シスたちのような人間の側になじみのある不穏な臭い。

 布を押しのけた先では、小さな机の上の角灯が天幕の中を照らしていた。中にいたのはには三人の男だった。黄金の髪の男と、黒いフードを被った王子だとかいう少年と、あと一人。

「こいつが?」黄金の男が傍らに立つ男に言った。「そうです」と答えた男は、シスのほうを見て、歯を見せて笑った。いままで見たことのない顔で、入口で突っ立っていたシスの腕をつかんで、引き寄せた。

「間違いありません。〈星招き〉の光で見たとき、耳が尖っていました。おれだけじゃない、もう一人、女もいたんですが、そいつも見ましたよ。こいつの耳をね」

 男は我が物顔でシスの耳を引っ張った。シスは声も上げなかった。いやな予感の答え合わせは、シスの意思に反して勝手に始まってしまった。

「驚いたか、シス? なんでおまえがここにいるんだって顔してるな?」

 その通りだった。黄金の髪の男のそばに控えて、上機嫌な様子のその男は、いつもシスを殴るあの冒険者だった。

「オローの耄碌爺には分からんだろうが、これは南のクズどもをまとめるための仕事じゃないのさ。おれたちは王宮に送り込む魔法使いの卵を探してる。その中でもおまえは最有力だ、おれとアデレイドの二人が証言してるんだからな」

 耳元で囁かれた言葉の意味が一瞬わからず、シスは戸惑った。商会からかき集められ、馬車に詰め込まれたのは、魔法使いかもしれない、と名をささやかれた者たちなのかもしれなかったが、シスは魔法使いではない。前に、夢の中でもそんなことを言われたような気がするが、それでもシスは魔法使いではない。魔法使いなら、こんなところでこんな目に遭っていない。

「わたしは魔法使いじゃない」

「怖がるなよ、シス。おまえが魔法使いだってのは、いまからこちらの方が証明してくださる」

「でもっ」

 シスの反問に男はぎゅっとこぶしを握る気配で応じた。臆病な部分が委縮して、シスは続く言葉を飲み込んだ。引きさがり、納得することは、とても危険な予感がした。男たちは魔法使いを集めている。それもわざわざ〈ドーマリオ〉のオローに嘘をついてまで。黄金の男は立派な身なりだし、奥に控えている少年が本当に砂王国の王子様ならば、こんな影でこそこそするような真似は必要ないはずだった。堂々と国の命令で魔法使いを集めていると発布すればいいのに、それをしていない。

「エリオ、早くそいつを連れてこい」

 黄金の男が鋭い声音で言った。

(こいつにも名前があったんだ)

 思わぬ事態に考えが吹き飛んでいた。このときシスは冒険者の名前をはじめて知った。エリオは肩をすくめると、シスを天幕の奥に勢いよく放り出した。倒れそうになったところを、横合いから腕を引かれて、体勢をなんとか立て直す。

 シスを支えたのは天幕に入ってからずっと口を利かなかったフードの少年だった。触れ合うくらいの距離で見ると、確かに彼はシスと同じくらいの年の頃だった。

「あ、ありがとう」

 シスの感謝の言葉は、凍てつくような冷たい瞳で突き返された。フードの下から艶やかな黒い髪と冷徹な青い瞳が見えた。どこかで見たような顔だった。どこかで……

(あの森の?)

 黒髪に青い眼。面影はある。でも歳が違う。あの森の子どもはもっと小さかった……シスが息をのんだとき、少年がシスの手を持ちあげた。先ほどの転倒を支えたときから、少年の手はシスの手首をつかんだままで、その手を胸の少し先に引き寄せたのだ。シスの眼に見えたのは、少年の反対の手が、素早く目の前を横切ったところだけだった。

「痛っ」

 シスは自らの手の甲を凝視した。少年に捕まれていた手の甲が縦に薄く裂けていて、脈打つような痛みが身を竦ませる。控えめな血のしずくが地にたれた。少年は血で汚れていく手に頓着した様子もなく、温度のない眼つきでしばらくシスの傷を見ていたが、やがて小さな声で言った。

「違う。魔法使いじゃない」

 掴んでいた手を離し、シスの手を切り裂いたものをひらひらと振ってみせた。小さな黒い針のようにも見えるそれは、角灯の灯りを反射して、まがまがしくきらめいた。シスはおのれの中の何かが本能的にその針を恐れていることに気が付いた。

(本当だったら危なかった)

 無意識のうちに浮かんだ考えに混乱する。〈本当〉って、なんだ? さんざん殴られ慣れているというのに、針でちょっとつつかれたくらいで、なぜこんなに怖がってしまうのか、シスは自分でもわからず戸惑った。だが、この場にはシスよりもよほど動揺している者がいた。エリオだった。

「そんなわけねえ。こいつ、こいつの耳は、たしかに尖ってた。〈星招き〉で変わったんだ。見間違いじゃねえ」

 少年からシスを引きはがし、冒険者は凄んだ。慇懃な態度をかなぐり捨てて、いつもの〈ドーマリオ〉にたむろしていたときの、見慣れた表情でシスの襟首をつかみあげてくる。

「おまえ、隠してんなら、ただじゃ済まさねえぞ!」

 わたしはなにも知らない、と言うより早く、男がシスの腹を蹴り飛ばしていた。男が余所行きの仮面をはぎとっていたおかげで、シスのほうも身構えることができていた。不意打ちでない足蹴りは、後方に逃げるように身体を倒してごまかした。鈍い痛みに歯を食いしばり、転がって、すぐに跳ね起きる。次に来る暴力にシスが身構え、顔を上げたとき、眼に映ったのは予想外の光景だった。

 シスを蹴り飛ばした姿勢のまま、エリオは凍り付いていた。音もなく抜き放たれた刃が男の動きを止めていた。よく磨かれた鋼の刃の持ち主は首を傾げた。黄金の髪がさらりと流れ、鋼の切っ先が皮膚を切り裂いた。

「貴様、殿下に虚偽を申し立てたのか?」

「ちがっ……違う! おれは見たんだ、本当だ!」

 けっして浅くない角度で刃が皮膚に食い込んだ。ぼたぼたと血があふれて、跳ねた滴がシスのところまで届いた。

「本当なんだ……ほん……本当なんだ……」

 刃が顎を下から押し上げて、男は水中で溺れる者のように呼吸を繰り返した。

「おまえはそう言うが、魔女の楔は絶対なのだよ」

 黄金の男がひねるように腕に力を入れた。エリオは泳ぎ切れず、血を吹いて、溺れた。シスは悲鳴を飲み込んだ。黄金の男は剣の血糊をエリオの上着に押し付けて拭うと、納刀して、シスを天幕の外に放り出した。来たときと同じ甲冑の男がシスの腕を取る。

「こいつは馬車のほう。それと手の空いている者を一人連れてこい。後始末が必要になってな」

「はっ」

 呆然としたまま腕を引かれて歩き出す。甲冑の男は外で待っていた下働きたちのところまで戻り、見張り役に声をかけたあと、シスを馬車まで連れてきた。男が荷台の戸の閂を外し、戸を開く。中にはすでに三、四人の子どもたちの姿があり、暗い眼がシスを見返した。思わずひるんで足が止まる。動かないシスの背中を男が押して、荷台の中に押し込もうとする。抵抗しようとしてシスが足を踏ん張った、そのときだった。

「敵襲ーッ、敵襲ッ!」

 夜のしじまに鋭い叫びがこだました。

 シスと甲冑の男はほとんど同時に背後を振り返った。甲冑男の背中越しに見える夜の景色は、先ほど歩いてきたときとなにも変わらないように見えた。ぽつんと立つ松明の灯りが、怯えた表情で立ち尽くす下働きの子ども二人を照らし出している。隣には見張りの男が二人、影のように寄り添い立っている。

 風切り音がした。

 見張りの片方がゆっくりと傾き、横倒しになる。

 倒れた男の頭の横からは長い棒のようなものが生えていた。矢だ、とシスは気づいた。

「火だ、火を消せ! こちらの姿は丸見えだ!」

 甲冑の男が叫ぶ。見張りの男が松明を引き抜き、地に放り投げ、閃く炎が男の影を踊らせる。だが松明の炎が燃え尽きるよりも前に、また飛来した矢が男を打ち抜いていた。甲冑の男が舌打ちし、闇の中へ駆け込んでいく。やがて、暗闇の向こうから、金属がぶつかり合う音と、馬のいななき声と、男たちの鬨の声が聞こえてくる。遠くで火の手が上がっている。燃え盛るあれは、天幕かもしれない……。取り残された形になったシスは、おそるおそる後ずさった。背中が馬車の荷台に当たる。

(逃げないと)

 脳裏に倒れたエリオの姿がよぎった。あまりにも簡単に死んでしまった男の姿が。馬蹄が地面を揺らしている。相争う男たちの声が聞こえてくる。

(逃げないと、わたしも殺される)

 震えるシスの耳に無常な音が届いた。振り返ると、先ほどまで半開きになっていた荷台の戸が閉まりかけていた。慌てて戸を引く。一瞬、シスのほうに開いた戸は、それ以上の勢いでぴしゃりと閉ざされた。

(締め出された!)

「開けて、開けてよ!」

 シスは喚き散らして戸を叩いた。手の皮膚が擦り切れ、骨が軋むのに構わず、中の人間に罵声を浴びせ――その行為が襲撃者を呼び寄せるものであると気がついたのは、愚かにも、暗がりの向こうから鋭い声が飛んできた後だった。

「そちらにも居るぞ!」

 黒い人馬が突進してくる気配を感じて、シスは完全に恐慌した。馬車を捨て、暗闇の中を無我夢中で逃げまどう。この頃にはすべての松明が地に落ちていた。天上の星が残らず落下して、地平で燃え尽きようとしているようだった。墜落し死に絶えかけた星々の遠く向こう側ではひときわ強く燃え上がる炎がある。その炎に導かれるように、シスはよろめきながら駆けた。足元には冷たくなった男たちが転がっていた。彼らに躓いた何度目かに、シスはついに倒れた。顔面を地面に擦り付けて、うつ伏せの姿勢から、呻きながら顔を上げる。そこには煌々と炎上する天幕があった。

 天幕は炎の柱と化していた。火勢は強く、火の粉を巻き上げ、熱風が炎の渦を呼んでいる。あの子は、とシスは首をめぐらせた。夜の森で見つけた迷子にとてもよく似た少年の姿を求めて、吠え猛る炎の中を睨んだ。

 そして、二匹の悪魔を見つけた。

 最初、炎の影が踊っているだけだとシスは思った。二つの黒い影が絡み合うように、炎の舞台で踊り狂っているのだと。金属が打ち合い、ひしゃげる音が、シスの幻想を打ち砕いた。人間離れした死の舞踏の舞手が腕を振るい、舞台に血煙が振りまかれる。炎の中に命の欠片が飛び散る。悪魔の一匹は黄金の髪の男だった。エリオを溺れさせたように、もう一匹の悪魔を血の海に沈めようと誘いをかけている。死へいざなう優雅な踊り子を、しかし、もう片方の悪魔は荒々しく退けていた。悪魔は襲撃者の一員なのだろう。夜の色をそのまま身にまとったような黒外套をひるがえし、襲撃者が踊る悪魔に問いかける。

「ユズレスカの騎士がいるということは、その主もここにいる。ランベルトは何処だ?」

 冷静な声とは裏腹に、問いと同時に振るわれた肉厚の刃は剥き出しの暴力そのものだった。白刃を闇に閃かせ黄金の男に斬りつける。体重の乗った一撃がぶつかり合い、闇夜に火花が飛んだ。一瞬の間、爛々と輝く眼が見えた。怖気だつような蒼い輝きを、シスは知っていた。フードを被った王子の面影が吹き飛び、夜の森の記憶が上書きされる。年恰好も何もかもが全然似ていない。

 けれど、あの眼差しだ。シスはあの不穏なぎらぎらした輝きを知っていた。

「ランベルトは何処だ?」

 黒外套の悪魔が問いを繰り返す。黄金の悪魔は鍔迫り合いの力点をずらし、身体を引き抜くように反転させて斬り返した。

「貴様になど、教えるものか、〈獣憑き〉!」

 また鋼がぶつかり合い、眼がくらむような星がまたたいた。

「そうか」黒外套の悪魔が呟く。「おれを〈獣憑き〉と知ってなお挑んだか」

 場違いなほど、どこか愉快そうな声音だった。挑発と受け取ったのか黄金の男の頬が朱に染まる。秀麗な顔が歪み、揺らめく炎が男の顔を影で覆った。シスは背中が汗に濡れるのを感じた。夜の中に殺意が隙間なく満ちていた。次の攻防でどちらかが死ぬ予感がした。

「居ました! 王子を確保しました!」

 突然シスの背後から上がった声が、戦場の緊張を解き放った。黄金の男がシスのほうを――正確にはシスの後方の、声が上がったほうを見た。そのとき、黒外套の裾からなにかの影が滑り出た。黄金の男が黒外套から目線を切ったのは、その一瞬だけだった。影は地を駆け、踊り上がり、黄金の男の手から剣を叩き落とした。つかさず黒外套の男が振るった剣戟が、黄金の男を切り裂いた。血しぶきが舞い、驚愕に眼を見開いた男が、地に崩れ落ちながら呻いた。

「〈獣憑き〉……」

「そうだと知っていただろう」と、黒外套の男は声を張った。「ユズレスカの騎士が重傷だ! ホーントを連れてこい!」

 いつの間にか、焼け落ちた天幕のそばにはたくさんの男たちがいた。黒外套の男の指示を受けて、同じように黒外套をまとった戦士たちが慌ただしく動いている。だが、戦場の一番の嵐は過ぎ去ったようだった。ひりつくような殺意の時間は終り、あとは気だるげな後始末が残っているだけだった。

 そして、その後始末には、シスの行く末も含まれていた。

「特等席からの見物はどんな気分だ?」

 黒外套の男は、死体と並んで地面にうつ伏せていたシスのことなど、とうに気がついていたらしい。悪魔がのしのしと愉しげな歩幅で近づいてくる。シスは両手を踏ん張って身を起こした。が、よろめきながら立ち上がったところを、横合いから獣の形をした影に突き転がされた。なすすべなく転んで頬をすりむく。舌打ちを我慢して身体を反転させ、もう一度起き上がろうとする。それでも、影の獣はシスの努力をあざ笑うかのように、また起き上がる寸前で胴体に頭突きを仕掛けてくる。

(こいつ、わたしで遊んでるんだ)

 獣がふざけていることに気がついて、頭にかっと血がのぼった。飛び起きざま、ほとんど反射的に発した罵声は、夜の森の狼の記憶がそうさせたのかもしれなかった。だが、獣の向こう側に立つ男を直視して、後悔はすぐに訪れた。死をばらまく抜き身の刃を前にしてシスは固まった。血糊をつけたまま揺れる鋼に眼が吸い寄せられる。硬直したシスに、影の獣は遠慮なくぶつかってきた。

「ちょっ……」

 仰向けに転がったところを右前脚のようなもので踏みつけられ、抗議の声は強制的に中断させられた。乗りかかってくる影を振り落とそうと身をよじっても、影の獣は巧みに重心をずらして、シスを地面に縫いとめる。必死になって影と格闘するシスの耳に、男の無責任な笑い声が聞こえてくる。影の獣は嵩にかかってシスを責め立てる。影の爪が上着にかかって、布地を引き裂いてくる。身体を守ろうと引き上げた足が、影の獣の後ろ脚の間に挟まったのは、たぶん偶然だった。

(あのとき、わたしはこうされた)

 腹に力を入れて、シスは足を跳ね上げた。獣の体がシスの上をすっ飛んで、シスは身をひるがえして獣を追った。あのときの少年がそうしたように、獣の首回りに腕を巻き込んで、輪郭のぼやけた口を掴んで牙を封じる。獣はばたばたと暴れたが、シスも必死に組み付いた。暴れまわる獣にしがみつき、そのときシスは何もかもを忘れていた。獣をけしかけた黒外套の男のこと、黄金の男が斬り伏せられたこと、エリオが死んだこと、ほかの下働きたちから締め出されたこと……キアを埋めたこと。古い記憶の中の女に捨てられたこと。そして、自分が狼ではなくなってしまったことも。いまはただの二匹の獣になって、生を勝ち取るために転げまわる。

 いつしかあふれていた熱い滴を獣の舌が舐めとった。シスは泣いていた。失われた夜の森の狼は、こんな形になって帰ってきたのだと分かった。押し倒すためでなく、二度と離さないために、シスは獣を抱きしめた。

 影の獣は抵抗しなかった。影なのに、ひなたのいいにおいがした。

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