花嫁泥棒の歌 中編

 村の有様はひどかった。あの襲撃から二日が経っていたが、南からやってきた怪物がもたらした厄災はいまだ集落に影を落としていた。雪面を少し蹴ればその下にぶちまけられていた血と泥も見えてしまいそうだったので、姉は慎重に歩いていた。向かう先は集落で一番の屋根を持つ集会所だった。

 集会所はあの騒ぎで半壊していたが、姉は瓦礫をまたいで裏手に向かう。裏手では瓦礫の片付けのために何人かが立ち働いており、姉の目的の人物もそこにいた。湯を沸かすため熱心に火を起こそうとしていたその娘に声をかける。

「やあ〈双子姫〉」娘は火種に息を吹きかけている。「私に話があるって聞いたんだけど、いったいなんの用だい」

 火種から炎が移り木っ端が燃え上がる。〈双子姫〉は火勢を見届けると顔をあげた。

「意外と早いお出ましだったわね〈狼〉」

 その頬には一筋の擦過傷がはしっている。二日前にできたばかりの傷で、まだかさぶたが乾いていない様子が見てとれた。そこまで近づいて、姉はこの〈双子姫〉が右のほうだと判断した。

「やはり治りが良くないみたいだね」と言うと、〈双子姫〉は重々しくうなずいた。姉は少し迷ったあと「〈梟〉はまだ目を覚まさないのかい」と聞いてみた。

「まだ」娘の声は凍土のように固く冷たかった。

〈梟〉は怪物に手ひどくやられていた。彼の〈双子姫〉を守ろうとして。とっさに駈けつけた姉も肩から胸元までを裂かれた。こちらは幸いに浅い傷だったのだが、治りが妙に遅かった。そしてそれはあの怪物にやられたみなに共通のことだったのだ。

 些細な傷を負ったものも、〈梟〉のように致命傷に近い傷を受けたものも、一様に治りが良くない。傷の上に薄いかさぶたができたと思ったら、じくじくとすぐに溶けていく。始末の悪いことこの上なかった。

「首長は怪物の呪い、怨念の成せるわざだと言っていたわ。死した魔物がその恨みを傷口から侵入させているのだと……」

 語る娘の眼の中に怖気と憎しみが渦巻いている。〈双子姫〉の右のほうがこういった表情を見せるのは珍しいことだった。

「まったく気のめいる話だね。きみの見立てではどうなんだ? これも首長どのから聞いたんだが、あの海に剣を捨てに行くという話は、信憑性があるのかな。私はいまいち信じきれないのだけど」

「首長が言っている呪いや怨念の話は私にはわからない。だけど、剣を捨ててこいというのは氷の女王がおっしゃったことなのよ。だから、意味がある。やらなければならないの」

「そう、誰かがね。誰かがやらなければならない。……ところで左のほうはいまどこにいるのかな」

「奥で〈梟〉と一緒に眠っているわ」

「どちらのきみが、私に用があったんだい」

「右よ。つまり私」

 たまたま目に見える傷がある場合や、自己申告を除くと、彼女たちを見分けるすべはほとんどないと言える。遠い昔にホロスト山に移住してからずっと単一の民族で婚姻を繰り替えてしてきたので、もともと集落で暮らす者たちは似通った姿をしている者ばかりだ。なかでも〈双子姫〉はきわめてお互いの姿が似ていた。

「あなたにお礼がしたかった。〈狼〉に返礼をするにはどうすればいいか教えてくれないかしら」

「きみに礼を言われるようなことをしたかなあ」

「したわ」

「そうかな?」

 姉は自分の髪をひとふさ引っ張った。銀の髪。集落には鏡が一枚も存在しない。それは皆が同じような姿をしているから必要ないのだとか、氷の女王の機嫌を損ねるからだとか、諸説がささやかれている。銀の髪と灰色の瞳は開祖の魔法使いたちの特質を受け継いでいると伝承されている。その特徴も姉のような人間に宿ってしまえば雪山に伏せるときに身を隠せて便利だなあという世俗的な感慨になるし、〈双子姫〉のような見目麗しい姉妹に宿れば神性を見出される。

〈双子姫〉はじれったそうにわずかに身をよじった。

「〈梟〉の命を守ってくれた。彼は死ななかった。〈狼〉のおかげだって、集落の誰に聞いたってそう言うわ。私は守られてばかりだけれど、あんたは彼を守ってあげられた。私にはその力が本当にうらやましい。うらやましくて、妬ましい……だけど、恩を返したい。お礼をさせてちょうだいと言っているのよ」

 姉は驚いていた。〈双子姫〉は魔法使いの力の欠片を持っている。氷の女王の声を聞くことができる。集落を正しい方向へ導くことができる。凍土に眠る悪魔のために子守唄を歌うことができる。そして〈梟〉も手に入れた。

「小さいころのきみたちは弓に弦を張るのだって私よりうまかった」

「え?」

「そういえば刺繍もうまかったなあ。弟も、きみにすぐなついた。私が姉さんなのに」

「……いったい何時の、何の話をしてるの?」

 だというのに、根無し草としてさすらっていただけの取るに足らない人間を指して、〈双子姫〉は妬ましいと言う。

「いやなに。ままならないことばかりだと思ってね」

 姉がいつものように適当な言葉を口にすると、〈双子姫〉は臭いものを嗅いだような、いやな顔をした。

「そうだったわ。あんたはそういう人間だった。見返りなんて気にもしていないってわけね……いいわ、〈梟〉の見舞いでもしていけばいい。こっちよ、まだ壁の破片やら、散らばっているから気をつけて」

「うん」

 姉は素直に頷いた。〈双子姫〉は手にこびりついていた炭を毛皮の裾にこすりつけると、周囲の人間に声をかけて、集会所に上がっていった。姉は先導する〈双子姫〉におとなしく付いていく。少しだけ、気になっていたことを確認してみることにする。

「あのさ」と前を行く背中に声をかける。「本当は、きみって左のほうなんじゃないのかな」

 娘がぱっと振り返った。灰色の瞳に底知れぬ感情が揺らいでいる。

「あのとき怪物は私たちを殺そうとした。〈梟〉はどちらもかばおうとして一番の傷を負った」

「知っているよ。私もそこにいたんだよ」

「だけどかばいきれなくて……」

「うん、きみは頬に傷が残ってしまったね。そしてもうひとりのきみの片割れは、ほっぺたどころじゃすまなかった」

「そうよ。いかな〈梟〉であっても、腕が三つも四つもあるわけないの。だったら、その腕からこぼれてしまうのは、左のほうに決ってる。守られるのは右のほうでなければならない。私の傷のほうが軽いことが、私が右のほうだというなによりの証。氷の女王により近いほうが守られなければならない。〈梟〉は間違いなくそうしたのよ。彼は集落の希望を守った。守り切った。彼は間違っていない」

〈双子姫〉は噛みしめるように繰り返した。まるで怯えているような様子で、そんな顔を右のほうが見せるということ自体が、彼女が語った内容を端から裏切っている。右のほうは昔から人間離れしていた。左のほうは昔から人間みたいだった。少なくとも、姉の眼にはそう映っていた。

 ほんの二日前の惨劇を、姉は苦労して思い出した。あのとき。あれが集落にたどり着いたときにはほとんどの大人の狩人が弓を手に構えていたのだ。静寂の森から舞い戻った姉は間に合っていたのだ。彼女のほうが先んじて集落にたどり着けた。それで、しとめる準備はできていた。姿を見せたらすぐに射殺す用意はできていた。ところが、雪と氷の防護柵を突き破って飛び出してきた異形の不気味な姿に、歴戦の狩人たちでさえも一瞬気をそがれてしまったのだ。誰かが叫び声をあげて、そのあとのことはもうよく覚えていない。とにかく手持ちの矢を無我夢中で撃つことだけしか考えられなかった。怪物の巨体は針の山のように矢が突き立っていた。でもあいつはこっちに向かってきて、近くにいた人間を片端から鉤爪に引っ掛けて、引き裂いた。これは死ぬな、と思ったが、〈梟〉が怪物の眉間に矢をうまくあてたのだった。そこには格別に効くようで、怪物は凄いうなり声を上げて苦しんでいた。あとは早かった、みな眉間を狙ったからだ。あれが動かなくなってようやく震えがのぼってきた、生き延びたと思ったのだ。首長がやってきて、大人をみな集めて、〈双子姫〉が怪物のために慰めの祈りをとなえて……怪物の死骸に火を点けた瞬間、死んだはずだったあれが急に跳ね上がった。そして〈梟〉は右のほうを守ったはずだった。

 不意に、目の前の娘に昔日の幼い姿が重なる。そうだ、右のほうは幼いころからよく鍛えた鋼のように強靭な――非人間的な心の強さを持つ一方で、バランスをとるみたいに左のほうは泣き虫で臆病だったのだ。〈梟〉は面倒見の良い男だ。どちらにより重きを置いてしまうのか、それは火を見るよりも明らかだったろう。

 さっき〈双子姫〉は左のほうのことを、奥で〈梟〉と一緒に眠っていると言った……。

「そうか」姉は悲しくなった。「冷たい風が吹いてしまったんだね」

 そして姉が知っていた〈双子姫〉はもうどこにもいなくなってしまった。いまここにいるのは、右でもない左でもない……。右は感情に振り回されたりしない。〈梟〉が守るべきものを守ったならば左は生きているはずがない。姉は〈双子姫〉の細い肩をつかんだ。「彼を責めないであげて」と願う声ごと、小さな体を抱きしめた。こうしていると、姉が集落の外に出る前の、もっとずっと幼かったころに戻ったような気持ちになるから不思議だった。「そんなに心配しなくったって、誰も、たとえ首長どのだって〈梟〉を裁いたりしないと思うけどなあ」という言葉は、氷の女王のもとへ召された娘のためにのみこんだ。



 姉が集会所から住処に戻ってきたとき、弟は起き上がれるようになっていた。

「調子は?」

「まあまあ」

「明日の成人の儀には間に合いそうかい?」

「間に合うさ」

 倒れていたぶんを取り戻そうとして動き回りたがる弟をもう一度寝台に押さえつけて、姉は弟の顔をじっと見つめた。額の上のほう、右の生えぎわのあたりに裂傷がある。これもやはり、傷自体は小さくとも治りが良くない。あまり信じる気にはなれなかったが、首長が言うこともあながち間違いでもないのかもしれない。怪物が呪いをもたらしたとかいうあれのこと。〈双子姫〉の傷の見立てだって、当時の姉にとっては致命傷とは思えなかったのだ。

「だいたい姉さんはさ、心配しすぎなんじゃないかって思うんだけど。自分のほうが、外でいろいろ無茶やってるくせにさ」

「そうかなあ。〈双子姫〉よりは心配性じゃあないよ」

「〈双子姫〉?」

「うん。どうやらこの傷に限っては油断ができないようだ。〈双子姫〉の無事についてはそのうち首長どのから話があるだろう」

 言外にこれ以上聞くなという牽制が含まれている。弟は毛布の中で身を縮めた。そうしているうちにまた眠くなってきてうつらうつらしはじめる。弟の視界はぼんやり霞がかったようになる。姉は腰に帯刀していた長剣を鞘ごと外し、部屋の明かりに掲げて、あらゆる角度から矯めつ眇めつ眺めている。その行為が妙に重要な事柄である気がして、弟は眠気の中から声をかけた。

「何してるの」

「怪物の剣を見ているんだよ」

「怪物の剣?」

「うん。そうだね、おまえは途中で気を失ってしまったんだったね。〈梟〉が〈双子姫〉を守った後の話さ。彼はなんとか右のほうをかばったけど、あれは〈梟〉の背をズタズタに裂いた。怪物は体に火が付いたまま、炎の鉤爪で次から次に裂いていった。そのとき私は手に剣を持っていたんだ、首長さまの儀礼用のやつを奪ったみたいでね。変な話だけれどその時のことは良く覚えていない。それどころじゃなかったからかな。とにかく、無我夢中のままその剣で怪物を突き刺した。突き刺した傷から怪物は黒く腐っていった。その腐って溶けた肉を刀身が吸い取っていったんだ。ああ思い出すだけでも気分が悪い。やはり首長の持つ剣は変だ。つまり怪物はその剣に食われたようなんだけれど、その剣っていうのが、こいつなんだよ」

 寝物語にしては残酷だった。

「なんでそんなもの……持って帰ってきたの」

「また持っていくためだよ」

 弟は眠気に押さえつけられている。姉の声は昔語りのように淡々と続いている。

「また南に行かなくてはならないんだ。気の遠くなるほど遥かな場所だ。怪物は剣に宿ってしまった。剣だから火に返すこともできない、呪いはこの土地にしみついてしまった。そして南の果て、煮え立つ海の渦潮だけが剣を無に帰してくれると首長どのはおっしゃった。すべての氷河は海へ向かう。そしてすべての海が向かう先が、逆巻く渦潮なのだという。いったいどこまで旅を続ければよいのやら」

 集落の年より連中が伝承している物語と同じだ。語り部が伝えるのは過去の出来事で、すでに結末が訪れてしまった、終ってしまった物語。姉がいま弟に話しているのもそういうたぐいの物語だった。それはもはや決まってしまった出来事なのだ。集落を襲った災厄を退けるため、南へ旅立つ〈さすらい人〉の物語。

「これでは花嫁を盗んでくるどころではないなあ」

 姉はまだそんなのんきなことを言っている。あきれ果てて、ようやく弟の声が上がった。

「花嫁なんてどうでもいい。そんなことより、どうして姉さんがその役目を負わなきゃならないの」

「だって〈梟〉は怪我をして動けない。〈狐〉は老齢だ。手すきの者は〈狼〉くらいのものだろう」それに、と姉は続けた。「厄介払いしたいというのもある」

「厄介払い?」

「あーあ、こんなことなら心配するなと言ってやったほうが良かったのかなあ」

「姉さん、何をしたの?」

「余計な一言を言った。安心させる一言を省いた。でもそれは死者のためだったんだ、弟よ。大事な幼馴染が氷の女王に招かれたんだ。招待状の宛名を確認するくらい、許されてもいいだろう?」

 姉は弟をじっと見つめた。姉の薄い灰色の眼は、嘘をつくときも真実を告げるときも同じ形で同じ色を見せると弟は知っていた。いま姉が語って聞かせた話は、旅立ちのための理由づけの物語だったのか、何かの意味がある事実だったのか、弟は考えようとした。

「姉さん……」おっかなびっくりの声が出た。「ここに戻って来る気がないの?」

 姉の手が目くらましのように弟の額にかかった。

「さあ、もう眠るんだ。おまえがそんなんじゃあ、明日の成人の儀で的を外してしまうよ」

 それは困る、と弟は思った。温かい手のひらの裏側で、明日の的がぼんやり浮かび上がった。そうだ、中心に矢を突き立てなければ。僕は成人したんだとみんなを安心させないと。でも、安心させてしまったら、姉はきっと集落にもう戻らないだろう。〈梟〉は手に入らないし、〈双子姫〉と首長が姉を疎んじているのだから……

 そんなことを考えているうちに眠りは訪れていた。次に目覚めた朝は、弟が大人の仲間入りを果たすための朝だった。ホロスト山には珍しい、雪面が柔らかく溶けるくらいの快晴の朝だった。

 本来ならば成人の儀は集落の中心にある広場で行うものだったが、件の怪異が倒れたのがまさにその場所でもあったため、場所を移して集会所の裏手で執り行われることとなっていた。弟と、ほかの同年代の者の五人は、それぞれ使い慣れた弓を手に緊張の面持ちを見せて、的の前に立っている。集落の大人も子どももみなが彼らを取り囲んで、その瞬間の一矢を待っている。不思議なことに、この儀式で矢を的から外した者はこれまで誰もいなかった。どんなに非力で狩人に向いていないものが弓を引いたとしても、一陣の風がさっと吹いて、矢はあやまたず的を射抜くのだった。群衆にまぎれて姉も弟の様子を伺っていた。弟は頭の負傷を微塵も感じさせない立ち姿で弓を引き、的の中心を狙っている。彼に弓術を教えたのは誰なんだろうなあと姉は考えている。

 そのときすいっと矢が飛んだ。

 固い顔がほぐれて照れ笑いが浮かぶ。弟は大人になっていた。

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