ヒナキイウを出た女

 柔らかなシーツに埋もれている。頬に柔らかい布地を感じている。控え目な涼風がどこからか吹き込んできて前髪を揺らしている。エスダリはまどろみから目覚めて寝台から起き上がった。白い清潔なシーツと寝台に腰かけて、むき出しの二の腕を両手でさすった。鳥肌がうっすら浮いているのは、寒いせいではない。風は心地よい。ここがどこだかまるで分からないが、気候は涼しげでいかにも快適であるのだ……。

 誰かの家だろうかとエスダリは考えた。少なくともエスダリの家ではない――そもそも、寝具からして派手目はないが高級感のある取り揃えだ。この清潔な寝室は、貧乏学生を続けているエスダリに縁のある内装ではない。

 どこかの診療所だろうか、とエスダリは考えた。そちらのほうがよほど正しいように思われた。穏やかな気候と清潔な部屋。人のざわめき声も聞こえぬ静かな部屋は、しかし何者かが心を尽くして安全を敷いたであろう気配がする。寝台の横にある小さな机の上に置かれた、よくみがかれた水差しとカップや、野花を一輪飾った花瓶だとかが、それらをものがたる。

 分からないのは、なぜエスダリがここにいるかだ。エスダリは目が覚める前のことを思い出そうとして、ついぞ何も思い出すことができないことに気がついて愕然とした。エスダリは何をしてここで寝ていたのだろう。ここは明らかにヒナキイウ島ではない気候だ。あの島でこのような乾いた涼風が吹くはずがない。夢で見た、あるいは物語の中で聞いていた、大陸の気候がこれであると、エスダリは勘付いていた。

 しばらく寝台に腰かけた姿勢のまま固まっていたエスダリは、ふいに響いたノックの音に背筋を伸ばした。ノックの音が三回。間隔は広く、落ちついた来訪者であるらしい。エスダリは声を上げようとした。失敗して咳き込む結果に終わったが、扉の外には伝わったようだった。やや間を開けて、扉が開いた。部屋に入ってきたのは一人の男だった。上下とも白で統一された裾の長い衣服を身につけている。医者なのかもしれない、とエスダリは思った。ますますここが診療所であることの証拠が固まってくる。白衣の男が、寝台に近寄ってくる。エスダリは男の顔を――表情を注意深く観察した。ありていに言えば、安堵しているように見える。何に? エスダリに? 覚えていない眠る前、エスダリは病人だったのかもしれない。

 また咳き込んで、なんとか声を出す。「あなた誰? 医者?」そのあと、ざわざわと肌が粟立つのを感じた。自分の声に違和感を覚えていた。他人の声のようだった。エスダリの声は、記憶の限り、こんなに低く、小さく、かすれてはいなかった。医者のような男はエスダリの動揺を見て、安心させるように微笑んだ。

「気分はいかがですか?」

 気分。エスダリはしばし自分の体調をさぐった。

「気分は良くないです……。水がほしい」

 のどが渇いているせいだ、とエスダリは考えた。のどが渇いているから声がおかしいんだ。男は頷いて、机の水差しから水を注いで、カップをエスダリに差し出した。

「どうぞ」とにこやかに言う。そのほほえみは見る者を安心させるためのものなのだろうが、エスダリは不安だった。いまさらながら、これが異常な状況なのだという実感がわいてくる。彼女はなぜ自分がここにいるのかわからなかった。なぜ自分が病人のような状態になっているのかわからなかった。目が覚める前まで、自分がどこで何をしていたのかわからなかった。自分がいつこんなに病的なまでに痩せてしまったのかわからなかった。そして髪も……。頭を掻こうとした指先の感触はひどく軽かった。エスダリの髪の毛は、いつの間にこんなに短く刈られてしまったのか。

 そして、ユト。

 ユトの存在がまるで感じられなかった。精霊に目覚めたあの日から、エスダリとユトはずっと一緒だったのに、いまはどこにもその気配がない。シーツの下のエスダリの影は静かなもので、ささやき声も、くすくす笑いも聞こえてこない。こんなことははじめてだった。

 水を飲む間、エスダリは努めて以前の記憶を思い出そうとした。さかのぼって精霊学校の第五学年まで進学したことは覚えていた。十五歳の記憶だ。同期の――そうだ、ファイライオン。あと、砂州を渡ってきた大陸の二人の新顔。彼らとエスダリとの四人のうち、大陸に渡って王宮精霊使いになることができるのは三人だけだった。一度試験に落ちた者は二度と王宮へ足を踏み入れることはできない決まりだ。座学でエスダリは若干の優位を得ていたが、精霊を使役する実践訓練のほうは他三人にお手上げだった。ユトがなすすべなく敗戦するたびに、ファイライオンに何度もなじられた。あんなに攻撃的なファイライオンを見たのは、あのときがはじめてだった。彼なりにエスダリとの別れを惜しんでくれていたのかもしれないが。

 だからあんなバカなことをやったんだ。

 エスダリは思い出した。言い出しっぺは誰だったか――第六学年に上がる前に、四人は王宮行きの前哨戦として、教師に無断で精霊を対決させたのだ。いつもの実践訓練はあくまで授業の一環だったから、精霊の力を抑制するためのまじないを仕掛けていたが、あのときはそれを使っていなかった。はずだった。心臓の拍動が早まる。いやな予感がした。それで、決着は、どうなったんだっけ? カップを机に戻す。シーツの下でエスダリは両のこぶしを握った。

「落ち着きましたか? よろしければ、そろそろ、あなたの話を聞かせていただきたいのですが」

 医者のような男の声で、エスダリのもの思いは遮られた。

「わたしの話?」

「そうです。まずはあなたのお名前を」男の手がのびて、エスダリの腕をとった。痩せてがりがりの腕を、骨の形を確かめるようにつかんでいる。診療の一環かもしれなかった。だがエスダリの眼には、まるで逃げ出すことを禁じられたように映った。この男はエスダリの名前も知らずに介抱していたという事実が、ありがたい反面で、気味が悪かった。

「名前はエスダリ。エスダリ・ヒナキイウ」

「ヒナキイウ? あなたは島の有力者の身内かなにかだったのですか?」

「違います」

 ヒナキイウ島で生まれた親がわからない孤児にはこの姓がつけられる。この男はそんなことも知らないのだ。ばかばかしくなってエスダリは続きの説明をやめた。エスダリのだんまりをさほど気にした様子もなく、男は質問を続けた。

「年齢をお伺いしても?」

「十六歳。……たぶん」

「たぶんというのは?」

「わかりません。目が覚める前のことがよく思い出せないんです」言いながら、エスダリは男の手を振り払いたくて仕方がなかった。いますぐ自分自身を抱きしめたかった。「でも十七歳になった覚えはないんです。だから十六歳」

「ではユトという名前を知っていますか?」

 突然の名前にエスダリは動揺した。この男は島に詳しくない。エスダリの名前だって知らなかった。だというのに、ユトの名前を知っている。

「ユトはわたしの精霊です。でもどこにいるのか、いまはわからない。わたしの影の中にいないみたいなんです」

 言葉を紡げば紡ぐほど、エスダリは迷子になっていくようだった。またあの疑問の嵐が巻き起こり、エスダリを混乱の渦中に引きずり込んでいく。

「なんで?」彼女はついに言った。「なんで、わたしはここにいるんですか? ここは島じゃないですよね。なんでわたしは寝ていたんですか? いつから? なんでこんなに痩せてしまったの? なんで髪が短くなったの? なんで……」

 寝台から転がり落ちそうなほど身を乗り出して、実際エスダリは敷布の端からずり落ちかけた。すんでのところで男が体を受け止めて、やんわりと寝台の上に戻される。エスダリはかすれ声で悲鳴をあげた。

「なんで……うそだ。なんで……」

 混乱に際してシーツが剥がれた。薄い部屋着に包まれた身体が露出して、エスダリはわかってしまった。

 この身体は十六歳の少女のものではない。

 手足は痩せているかもしれない。でも胸元は記憶にあるよりずっと肉がついているし、腰も張り出しているし、とにかく女性の体つきをしていた。「鏡」とエスダリはうめいた。

「お願いです、鏡を持ってきてください。お願いです、私の姿を見せてください」

 男は少し首をかしげたあと、扉の外に声をかけた。部屋の外で待機していた何者かが立ち去る気配がする。エスダリは不吉な予感に震えていた。きっと、あの足音が戻ってきて、鏡の中を覗き込むまでが、十六歳のエスダリの寿命だとわかっていた。

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