一日目 さくらの神域(その三)

 目に映る風景は一緒なれど、夜のさくらの箱庭は、昼とはがらりとその光景と景色を異にしていた。

 現像された写真と、そのネガフィルムのように。


 名前も知らない湖畔でぼくは、夜桜の森を背にした状態で地面に座っている。


 現実世界で見た今日の月は半月だったけど、鏡のような湖面に映る月は満月だった。


 少しでも気晴らしになればと、さくらが満月にしてやったと言っていた夜空。

 そこから堂々と、目立つことをまるで恐れない忍者のように忍びよる、荘厳でいて冷気をはらんだ月光が妖しく地表を照らす。


 太陽が昇っている時とは対照的に、生命の営みはほとんど感じられない。

 冷たく寂しい、凍りついた印象で描かれていた。


 しかし、そんないまだからこそ逆に感じ取られるものがあった。

 都会の喧騒と空気とは無縁の、究極の静の境地のただ中にあるからこそ見てとることが可能な、飾り気のない素の自然の美しさ。


 全てが清浄無垢な美しさを放つその中でも群を抜いているのが、淡い青色の月光で照らし出されている夜桜だった。


 元の色と満月の青とで白っぽく見える桜花は、昼間見た時よりもずっと儚げだ。


 儚げではあるが、そのことがマイナスになるどころか、時が止まっているかのような神秘的な美しさを更に際立たせている。

 昼間とは百八十度違うさくらの神域の一面を、ぼくは目にしていた。


 物事は多面であることをぼくは今日、本当の意味で学ぶことが出来た。

 物事の多面性を教えてくれた先生は夜の桜と、恥ずかしながら母さんである。


 ぼくは、母さんが自首したことを知らなかった。


 知らなかっただけならまだしも、そのことは罪を償わずに自分だけ悠々と生きているという認識でサンゴのように定着し、いつの間にか当たり前になっていた。


 その結果がどうなったのかは、いまのところぼくの人生の中で最大の恥部。汚点となっている。


 奇跡的に事が上首尾に運んだから良かったものの、一歩間違えれば母さんとの関係はどうなっていたことか。

 さくらの言う、よほどのことになっていたかもしれない。

 そう思うだけで身震いを禁じえない。


 既存の当たり前をそのまま受け入れる。

 そんなの、サプリメントを未開封で持ち歩くのと同じだ。

 決められた摂取量を毎日服用してこそ、サプリメントの意味があるというのに。


 体と心の違いだけで、言葉にせよ。事象にせよ。一度は自分の五感で解釈してみなければ、本当の意味で自分のものに出来ないはずなのだが。


 何もせずに大人にはなれない。

 母さんは言外にそれを教えてくれた。


 弱いことも汚いことも、目を背けることなく向き合い続けて来たからこそ、母さんの言葉は、ああも深く温かくぼくの心に響いたのだろう。


 数多くの試練を乗り越えて来たことで、漫然と人生を過ごしていたのでは絶対にたどり着けない場所に母さんはいる。


 ぼくはそんな母さんを、いまとなっては誇りにさえ思う。

 だから、ぼくは絶対に母さんの元へ帰る。

 もっと色んなことを学びたいから。

 

 「ふぅ・・・」


 ぼくはため息をついた。

 ため息をつくと幸せが逃げるというが、いまは全く気にならない。


 むしろ、ため息一つに含まれる程度の幸せなんていらないとさえ思う。

 せいぜいが十円を拾ったくらいの幸せを体内に留めておくよりも、文字どおり、一息つくほうがよっぽど重要だった。


 ぼくが欲しいのは、一生を費やしても吸い込みきれないだけの幸せなのだから。


 「少しは考えがまとまったか?」


 鏡のように満月を映し出す湖を眺めるぼくの後ろから、湯気が立ち上る一つの湯呑みを手にしたさくらが声を掛けてきた。


 「ほれ」


 さくらは、下地の黄土色に桜色の釉薬が彩りを添える、きれいな湯呑みをぼくに差し出してくれた。


 「ありがとう。さくら」

 「生姜湯じゃ。少しは温まるぞ」


 言われてみれば、名古屋でもここでも。今日の夜は肌寒い。


 さくらの気遣いに感謝しながら、ぼくは熱々の生姜湯を口に含む。

 体と心にしみいる、ほっとする味だった。


 「母さんと暮らしたい。それをいまは、何よりも強く思っているよ。これからは母さんと一緒にきれいな景色も見たいし、美味しい物も食べに行きたい」


 ぼくは満月を見上げる。

 湯呑みを口に運ぶ。

 飲み口を傾け過ぎた。

 熱っ。


 「ふむ。げにいい顔をしておる。荘川桜での初見の時とは大違いじゃ」


 左手に立っているさくらは、ぼくの顔を見下ろしながら言った。


 満月しか浮かんでいない夜空は寂しい限りだけど、さくらの美しく端正な顔はそれを補って余りあるものだった。

 むしろ、満月からさくらへと、夜空の主役が入れ替わった感さえある。

 

 「・・・さくらのおかげで、自分でも分かるくらいに心が軽くなったからね。母さんのことを責める必要がなくなった分、心にだいぶ余裕が出てきたよ・・・母さんを含めたことでさくらに聞きたい疑問があるんだけど、いいかな?」


 「構わぬ。どのような疑問じゃ?」


 「どうしてぼくにだけさくらの姿が見えるのかなって。母さんや他の人には全く見えないのに。ぼくは別に、信心深い訳では全然ないのだけど・・・」


 「何、至極簡単なことよ。一言で言うと望みの強さの差じゃな」

 「望みの強さ・・・」


 「風太はこれまで、両親のことでずっと頭を悩ませる一方で、同じかそれ以上に両親を欲しておった。自分でも気がついておらぬところでな。それが積もり積もって望みが大きくなっていった。そしてしまいには、その望みを叶えたさが、風太にわらわを見えるようにさせたのじゃよ」


 そうかな・・・

 ぼくは心の中で、ちょっとだけさくらの言葉に異を唱えた。

 両親を欲していた自覚があるかと言われれば、どうだろう?


 あんまり自覚が無いような気がする一方、もし過去のぼくらに悩み事は何ですか?と、アンケート調査することが出来るのなら、両親に関して悩ましく思っているというような解答が、半分以上を占めそうな予感もある。

 

 要は、いつものように、ぼくはぼくのことを、何も分かっていないということに行き着く。


 滑走路が一本しかない空港に着陸するかのように。


 「それはそうであろうよ。人が思っているよりもはるかに人の心は深遠じゃからな。全体像を把握するのには、一生を費やしても足りるまいよ」


 自信たっぷりにさくらは言った。

 ぼくもそうだと思う。

 異論は無い。


 「でも、さくらの言うとおりだとすれば、母さんだって最初から物心がついていた分だけ、ぼくよりも長く望みを蓄積させていたはずじゃ。それなのにどうして母さんにはさくらが見えなかったの?」


 無いのでぼくは、新たな問いを前の問いから派生させた。


 「それについても簡単なことじゃ。確かに五十嵐美歩は風太に会う日が来ることをずっと待ち望んでおった。しかし、会える訳がないという諦めと、風太への罪悪感が帳消し以上にさせておった。だから、わらわのことが見えなんだ」


 「・・・そっか。確かに母さんは、最後までぼくに引け目を感じていたからね・・・」


 涙と寂しさを堪える母さんの最後の顔は、頭の中のドライブレコーダーに、前後の映像と併せてデータが残っている。


 いまからでも母さんに会いに行くべきなのじゃないかと、ぼくの中のぼくがぼくに訴えかける。


 だけどぼくは、その訴えを棄却した。


 ぼくが何者であるのを知らずして、ぼくだと胸を張れる道理が立つはずがないから。


 「なんにせよ、ずっと考え続けて疲れたろう。風太さえ良ければ、気晴らしに散歩にでも行かぬか?夜桜を上から見るのも良いものじゃぞ」


 「・・・それいいね。気分転換はしたいし、夜の桜の森も上から眺めてみたいよ」


 言われて初めて考え疲れていたことに気がついたぼくは、さくらの気遣いに乗っかることにした。


 果てなき自己証明問題集はひとまず机に伏せ置いた。


 ぼくは立ち上がって、湯呑みに残っていた生姜湯を全て飲みきる。


 「美味しかったよ。ありがとう」

 「褒めて何も出んぞ」


 さくらは短く笑うと、ぼくに背を向けて歩き出した。


 その背中を見てぼくは思う。

 少なくとも千二百年という、ぼくから見れば最早、永遠でしかない旅を続けるためのモチベーションは、何処からやってくるのだろう?


 ぼくはその源泉を、出来ることなら知りたいと思った。

 高山で聞きそびれた質問の答えを。


 さくらの庵で湯呑みを洗って水切り場に置いてからぼくらは、山頂の展望台へと続く夜桜隧道の山道を歩き出した。


 重力に引かれ落ち続ける桜の花々は、本物の雪を思わせるほどに真っ白で、春から冬に逆戻りしたかのように錯覚させる。


 五月なのに、雪が降りしきる中を歩いているようで、奇妙な感じがする。


 思えば、満月が出ているとはいえ、いまは夜。

 頭上が桜で完全に塞がれているからには、トンネル内は暗闇に沈んでいるのが普通のはずだ。けど、そこはさくらが裏で何かやっているのだろうと早々にぼくは、疑問にけりをつけた。


 しばらくぼくは、四季が錯綜する摩訶不思議な光景に見入っていたが、思い出したかのように口を開いた。


 「さくらは料理もするの?」


 さっきの生姜湯は本当に美味しかった。

 生姜湯くらいで何をとさくらには言われるかもしれないが、生半可な腕前で作り出せる味だとは思えなかったぼくは。

 懲りずにさくらのことを知りたいと思ったぼくは言った。


 「するぞ。わらわは美味い物を食べたいからのう。そう思うにつれて、いつの間にか料理の腕も上達していったわい。しかし、一番好きなのは何と言っても他の者が作った物を食べることじゃ・・・わらわは食わずとも生きていけるが、それは全く別の話じゃ」


 食べる側に回る方が好きだというのは充分に理解出来ているが、料理を作る側としてのさくらの姿はイメージが像を結ばない。

 料理人としてよりも、食いしん坊としてのさくらの方が、ぼくの中でしっくりきていたのだから。


 「和食しか食べないとか、そういうのはある?」

 「無い」


 聞いていて気持ちいいくらいにさくらは即答し、断言する。

 確かに、今日の昼に食べたステーキは和食ではない。


 「和食だろうが。洋食だろうが。中華だろうが美味い料理に国境は無い。人間の中でも言われておる言葉じゃろうて」

 「ぼくもそういうのはないかな」

 「風太はどうじゃった?いつもは食べん物を食べてどう思うた?」

 「うーん」


 ぼくは腕組みをして考える。


 「これまで食べてきた物は、ほとんどが施設の人が作ってくれたカレーやハンバーグといったありふれた料理ばかりだったから。たまに皆でバーベキューとか、誕生日パーティーをするくらいで。そういった意味では、今日の昼と夜は鮮烈だったよ。さくらの言う新しい世界が拓けたのかもしれないね」


 「ふむ」

 続きを促すかのようなさくらだったけど、期待に応えられるものをぼくの頭は考えつかなかった。


 「もちろん、それだけじゃないのだろうけど、食べる以外に何の目的があってさくらは千年以上も旅を続けているの?」


 なので、その代わりと言っては何だが、ぼくは高山からずっと頭の片隅にあった質問を、ここで声に出してみることにした。


 「む・・・まぁ、風太からすれば気になって当然か。確かにいい機会じゃ。お主には言っておくことにしよう・・・とはいえ、さて、何から言ったものかのう・・・・・・わらわが高山で言ったことを覚えておるか。経済がどうのこうの言っておったじゃろう」


 「ああ、言っていたね。いきなり、なんでこんなことを言い出したのだろうって、疑問に思ったけど」


 「あれは純粋に、風太にわらわたち神の存在について興味を持ってもらいたかったから言ったことじゃ。その取っ掛かりを作ろうとしたとでも言うのかの。それには神話をただ語って聞かせるよりも、身近なものに置き換えた方が分かりやすかろうと思うてな」


 なるほど。

 あの内容は、神話に興味がない人であっても理解出来るようにするためだったのか。


 しかし、それでも謎が完全に解けた訳ではないというか、新たに謎が持ち上がってきたというのか。

 そのことが、さくらが旅をする理由にどう結びつくのだろう?


 「・・・風太よ」

 「な、何?」

 「明日、少し寄り道してもいいかの?」

 「寄り道?」

 

 寄り道という言葉にぼくの耳は、未知の学術あるいは専門用語特有の無駄を省いた、乾いた響きを感じとっていた。


 「名古屋から京都には直接行かず、別の土地に寄ってからにしたいのじゃが。もちろん風太さえよければの話じゃが、どうじゃ?極端に遠回りする訳ではないし、それほど時間を取らせもせぬ」


 思ってもいなかった申し出だったが、返答に迷うということはなかった。


 「いいよ。そもそもこの旅は、さくらがいなかったら成立しなかったんだから」

 「すまぬ」


 さくらがそう言った後でぼくらは、夜桜の森を見下ろす高台に到着した。


 さくらが自信たっぷりに言うだけあって、全てが見渡せる高台からは、音と動きの無さすらも美しさとして魅せる、幽玄の光景があった。


 山道を雪道のようだとしたが、その理屈で言えば、眼下の桜の森はまさに雪原である。


 風に吹かれた雪のように、桜の花びらがそこかしこで舞いあがる風景に、ぼくは心の奥底から震えた。


 感覚としては、最高に好きな音楽の核心部を耳にした時の、魂が打ち震える感じと言えば一番分かりやすいだろうか?

 

 耳ではなく、目で見てそう感じたのは、初めての経験かもしれない。


 「それで、明日は何処へ行くの?」


 一陣の夜風が吹いた。

 それなりの山道を登ってきたばかりなので、火照った体に心地良い。


 「鳥羽じゃ」

 「三重県の?」

 「その鳥羽じゃ」


 ぼくがいまの生活の拠点を置いている名古屋から、そう遠くないから何となく覚えていたに過ぎないだけで、これまで縁もゆかりもない土地である。


 リアス式海岸があって、伊勢えびなどの海産物が有名。

 伊勢神宮も電車で数駅の場所にあったような・・・


 「そこで風太の問いに答えよう。鳥羽から奈良へは電車で行けるし、奈良から京都にも行けるからの。さほど問題ではあるまい」


 そう言ってさくらは、夜桜の森を見下ろした。


 青白い満月の光に照らされているせいもあるのかもしれない。

 これまでの明るい感じは息を潜め、桜の散り際のような儚さが前面に表れている顔で。


 ぼくは、初めての表情を見せるさくらに、何も声を掛けられなかった。


 何も出来ないでいるぼくは、一つの山の頂きを見つめる。


 それにしても、なんと濃密な一日であったことか。

 この調子じゃあ、明日が思いやられる・・・

 

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