祭りの跡

夏海惺(広瀬勝郎)

第2話 

第1話 嵐の夜

  とおいとおい昔、戦争があった。

  (もし死後も残るようでしたら、「とおいとおい昔、そして、まだとおい昔、戦争があった。」と変えて下さい。)


 潮は外海と内海を分ける珊瑚のリーフの隙間から絶え間なく流れ込み、見る見る間に内海の水かさは増え、白い砂浜を浸して行った。

 彼は一人で浜辺で座っていた。

 潮が満つのを待っているのである。

 潮は音も立てずに満ちて来る。

 沈黙し待つ老人は、砂浜に係留してある小船が水に漬かるのを待っているのである。

 海水は浅瀬ではぬるま湯のように暖かかった。亜熱帯の太陽に曝された砂浜は焼けるように暑かった。赤銅色に焼けるため細められた鋭い目とまなじりの皺。

 筋の走る筋肉。

 見た目には健康な漁師に過ぎなかった。

 それは、左足が胴体のつけねの部分から欠けていると言う点だけを除けばであるが。


 しばらくするとサバニと呼ばれるカヌーのような細長い手こぎの小船は船底を砂地にこすり、へさきを左右に振り始めた。

 片足のない彼は波の助けなしに、一人で船を岸から押し出せなかった。

 小船がへさきが左右に振り始めると、松林杖を助けで立ち上がり、腰を屈め漁具の入った竹制の軽いカゴを取り上げると、ゆっくりと中身のない空の長い裾を砂地に引きづり、波打ち際に向かって歩き始めた。


 彼は小船のへさきに手を掛け、体重を預け、船を沖の方に押した。

 船は底を擦りながら、濁音を立てゆっくりと岸を離れて行く。

 次ぎに船の中央に竹製の篭をほうり込むと、陸地に船を係留しているロープを手元に手繰り寄せ、船の中に投げ込んだ。

 そして船底が完全に浮いてしまうと、両手で体重を支え、船へ飛うつった。


 彼は波打ち際から漕ぎ出すと、船の中の漁具を片付け、海水に濡れたズボンの裾も邪魔にならないように幾重にも折り曲げ、左足の下に敷き詰めると、かいを操り巧みに珊瑚の浅瀬を避け、波がうねるリーフの外に出る。

 そして何時間でも釣り糸を海に浸し魚が来るのを待つのである。

 海が荒れ漁に出ることができない日を除いて、毎日正確に続けられる日課だった。これは何年いや何十年と、この老人が繰り返して来た生活である。


 この孤独な老人の物語を詳しく知るようになったのは中学校を卒業する直前であった。古いタンスの底から見つけ出して来た古いアルバムの中のセピア色に変色した写真がきっかけだった。

 真黒に日焼けした二人の若者が上半身裸で、ヤシの木の根元で肩を組み立っていた。

 写真に映るのが嬉しかったのだろう。二人とも満面に屈託のない笑顔をたたえていた。


 右側の若者は父に違いなかった。それを確信させる面影がかすかに残っていた。

 左側の若者も見覚えがあるような気がしたが、思い出せなかった。数日後アルバムを持ち出し父に尋ねた。彼はしばらく写真をなつかしげには見ていた。

 質問に促されて、彼は口を開いた。

「弓野だ」

 聞き覚えのある名前であった。酔った父の話に出てくる来る男である。

 その人物が実在していたとは思いもよらなかった。

「今も生きているの」

 この質問に父は僕の顔を見つめていた。

「弓野を知らないのか」

 僕は頭を横に振った。

「墓の近くに住む男が弓野だ」

 父は短く言い捨てた。

 父が英雄のように語る弓野と言う男が、あの男だったとは想像だにしたことはなかった。

 これまで誇張された自慢話にしか思えなかった父の話が、急に身近に感じられるものになった。

 同姓が多く固苦しい名字で相手を呼び合うことは少なかった。

 例えば、弓野は「墓場の近くに住んでいる人」と言う呼び名で村人の間では十分通用した。


 悔やまれる記憶が心の中に後悔とともに蘇ってきた。

 小学に通い始めた頃のことである。

 質の悪い遊びが子供たちの間で流行った。

「ビッコ、片足、飲んべえ、乞食」

 と弓野をののしり、追い回す遊びである。

 その当時、彼はひどくすさんだ生活をしていた。

 彼が村の酒屋の入口のコンクリートの土間で酔いつぶれて口からよだれを流し、寝ている姿を子供たちも見掛けた。

 近づこうとすると、馬鹿野郎とか畜生とか怒鳴り声を上げた。

 まるで心の底の醜い部分を明るい白日にさらけ出すような響きを持っていた。

 その頃、大人たちの評判も芳しくなかった。

 子どもたち間では彼にまつわる恐ろしい噂が流れた。

 例えば、村から犬や猫が姿を消すと、彼がその犬を殺して食べたとか、村に死者が出ると彼が墓穴を暴き、死体を食べているのを見たと言う類の噂である。

 少年たちは彼を軽蔑しながら、ひどく恐れてもいた。一人では彼には近づこうとしなかった。集団で狂暴な行為を始める時にも、最初に攻撃を仕掛ける者は仲間からほめられた。

 その尊敬を得たいと羨望を抱きながら機会を待っていたが、その日、その機会は巡ってきた。

 彼は、その日も酒瓶を手にぶら下げ、暑さに打たれたように砂浜を歩いていた。

 少年たちに見つからないように村の小道も、浜辺の道をも避け、焼けるように暑い砂浜を選び家に帰る途中だった。

 夏休みも半分余りを過ごし、退屈し、日差しを避け、砂浜のアダンの木陰で休んでいた。

 少年たちの姿に気付き、弓野は慌てて松葉杖で砂をかき、足を早めた。

 だが少年たちはカラスのように群れて、彼に近づき、誰かが口火を切るのを息を詰めて待っていた。


 その日は、僕が口火を切った。

「ビッコ、ビッコ」

 声はしわがれていた。

 その声につられ、少年たちの口から次々と恐ろしい呪いの言葉が飛び出した。

 小さい声が大合唱になるまで時間はかからなかった。

 弓野は必死に逃げた。

 松葉杖が乾いた砂浜に深く沈んだ。

 ズボンの裾を松葉杖に絡み、砂浜に転んでしまった。

 子供たちは彼を囲み、それ以上、近づこうとしなかった。

 彼のあまりのみじめな姿に後味が悪さを感じた。

 眩しい太陽と輝く砂浜で、僕たちの居る部分だけが暗い沈んでいた。

 彼は立ち上がり、顔についた砂を払いのけた。

 何か言いたげな表情をしていた。

 許しを乞うているようにも見えた。

 少年たちに一瞬は正気が戻り、その場に立ち尽くした。

少年たちは敗北を味わった。

 立ち去る彼に少年達は足元の白い砂を握り、弓野の背中に投げ始めた。白い砂は手元を離れると、すぐに粉雪のように落ちていったが、砂の中の細かい石の粒は弓野の背中に当たった。

 その日は、ひどく疲れた気持ちになった。

 重苦しい気持ちで家に帰ると、父が待っていた。

 何も言わず、腕組みをしたまま近づいて来ると、いきなり僕の足を横から蹴とばした。

 太腿に再び鈍い痛みが走り、身体が宙に跳ね上がっていた。

 目の前が暗くなった。

 気付いた時に、地面の上で一回転していた。

 悲鳴を上げる暇もなかった。


 母が物音を聞きつけて飛出して来た。

 必死になって、父の足元にしがみついた。

「殺すつもりなの」

 父は何も答えず、叩き続けた。

 母は私の父の間に入り、叫んだ。

「この子だけが悪い訳ではない」

 父は、背中に絡みついた手を必死にふりほどこうとするが、母の力は思いのほか強かった。

「お前は最低だ」とと言い捨て、父は去った。

 その時の出来事は長く、父と僕の間のわだかまりとして残っていた。


 弓野は島の出身ではなかった。

 奄美が、アメリカの統治下にあった時期に、妻を連れて島に渡って来た。

 美しい女だった。だが片足になった彼には心の重荷になった。

 二人の間で、いつも喧嘩が絶えなかった。

 妻は愛想をつかせて、島を出て行ってしまった。

 弓野には、それでよかった。

 誰に気兼ねすることもなく古い傷とともに生きることができた。


 シトシト降る小雨や、何の前触れもなく突然、襲って来る雨足の早いスコールも、浜辺に打ち寄せる波の音も灼熱の太陽も風も、すべてが遠い昔の古傷を思い出せるきっかけとなった。かさぶたに覆われ古傷のように微かな快い痛みに変わりつつあった。

 だが、その心のバランスが、ある台風の日を境に崩れ去ってしまったのである。そして平和な村人のひんしゅくを買う荒んだ生活が始まったのである。

 吹きすさぶ風は朽ち掛けた彼のあばら屋を土台ごと荒れ狂う海に吹き飛ばしかねないほど強いものだった。家の隙間から塩の臭いと湿気を含んだ風が吹き込んできた。

 木の枝が壁板を叩いた。


 浜辺に打ち寄せる荒々しい波の音は砲弾の音や震動を思い出させ、木の枝が風に折れ鋭い音は機関銃の音を思い出させた。

 何よりも吹きすさぶ風にヒューヒューと震える電線が立てるものかなしい音は戦場をさまよう戦死者達の泣き声に聞こえた。


 台風の目に入り、外は少し静かになると、彼は恐る恐る木戸を少し開けた。

 風が吹くたびに、山の木々は一斉に葉を翻し白い葉の裏側を見せ、山全体を白く変色した。

 あの時も砲弾が落ちる度に、爆風で木が震え、木の葉は一斉に裏側の白い部分を見せた。

 目を近くに転じた。

 庭の一本の椎の木に目を移った時、電流が骨髄を貫き抜けるような衝撃を感じた。

 小さな心の隙間に風が吹き込んだ。

 椎の木は暗い日暮れを背景に吹き抜ける突風に長い枝をなびかせていた。なびく枝の姿は、まるで女の髪のようであった。

 弓野は二十年も前に彼の元を去った妻のことを突然、思い出した。

 歯が一本一本欠け、皮膚にしわが走っても、絶対に動かなかった時計がこの台風を境に動き始めたのである。

 彼は毛布を頭からかぶり、台風が過ぎ去る

のを待った。

 次の朝、台風は去った。

 彼の心に嫉妬と後悔を残した椎の木は根ごと倒れていた。


 ブーゲンビル。

 ニューギニアの東側に位置している小さな島である。ソロモン諸島に属している。

 ソロモン諸島の北には有名な海軍のラバウル基地のあったニューブリテン島がある。そして南端には米軍と日本軍が激しい地上戦を繰り広げたガダルカナル島がある。

 いずれの島々も日本から遙か遠い赤道直下の島である。

 あの戦争がなければ父も弓野も名前さえ知る機会もなかった島である。


 昭和十八年のことである。

 昭和十七年のミッドウェー海戦の敗北以来、日本は苦戦を強いられていた。

 中国で戦闘を繰り返していた父や弓野の部隊は急遽、ガダルカナル島へ転戦させられることになった。その輸送船の大部分は途中で潜水艦の魚雷攻撃で沈められてしまったのである。

 運良く父と弓野の二人は夜行虫の漂う海を二晩漂流した。

 その後、味方の駆逐艦に拾い上げられた。

 そしてブーゲビルへ上陸したが、ガダルカナルへ渡る船がないまま、終戦を迎えることになったのである。

「途中で敵の潜水艦に撃沈されたのが、かえって運が良かったかも知れない」

 そんなことを父が漏らすのを聞いたことがある。


 昭和十八年十一月のことである。

 米軍が島の反対側のタロキナという地点に上陸を開始したのである。

 島の中央部を走る険しい山脈を越え、米軍を攻撃したのである。

 ラバウルや周囲の島々の日本軍の脅威になっている飛行場を奪う必要があった。

 結果は日本軍は壊滅的な敗北だった。


 タロキナに向かって前進を始めた日にも、激しいスコールが降っていた。

 木の枝がしなるほどの大雨であった。

 ジャングルを縫うように作られた細い道をまるで川のように水が流れていた。

 薮の中から人の気配に驚いてオウムが飛び立った。

 あくる日の早朝、砲音で戦いの火蓋が切り落とされた。

 米軍も待ち構えていたように砲撃を開始した。ジャングルを櫛ですくように砲撃だった。

 しかも砲弾は正確だった。

 砲弾が破裂するたびに木や石の塊とともに兵士が宙に舞った。

 地面に這いつくばる兵士には容赦なく黄燐弾が見舞い、身体を焼き尽くした。

 炎に包まれた兵士は苦し紛れに立ち上がり衣服の火を消そうと、地面を転がった。

 美しかった。

 まるで、花火のようだった。

 突撃をする兵士は身体から噴水のように血を吹き出し、次々に倒れていった。

 二人は爆薬の詰まった長い筒で地雷や鉄条網を爆破しようとしていた。その後にできる狭い通路を歩兵たちは擦り抜けて、前に進んで行くのである。

 顔を地面に擦るようにして進んだ。

 目の前の小高い丘に敵が姿を現した。

 手留弾が傾斜を転がってきた。

 二人とも本能的に伏せた。

 篭もるような鈍い音がして、父は肩に重い木槌で殴られるような鈍い痛みを感じた。生暖かい液体が服を濡らした。

 すぐに弓野が簡単な手当てを施した。

 彼は追い立てられるように前に進んだ。

 

 敵の砲撃は止まらない。

 弓野の傍にいる者が、次々と短い悲鳴とともに息を引き取っていった。

 弓野も足に激痛を感じた。

 彼は気を失ってしまった。


 何度か遠退いたり、近づいたりする声や砲声を聞いたような気がした。

 弓野は冷たい夜露で目を覚ました。

 大地に転がる死体。

 肉片。草にこびり付く血。

 硝煙の匂いと、新しい血の匂いが昇りかける朝日が醸し出す朝の匂いと混じり、微かに漂っていた。

 しかし、周囲には戦場の争乱はなかった。 嘘のように静まりかえっていた。

 生きていることだけは確である。

 弓野の足には、出血を止めるだけの応急手当が施されていた。左足の感覚は無かった。

再び気を失った。

 弓野は米軍の病院で目を覚ました。

 天井に白い扇風機が、ゆっくりと回っていた。

 彼は呆然と天井の扇風機を見守っていた。

 白い服を着た医者が、黙々と隣の患者の治療を続けていた。

 黒い髪と瞳の日本人のような男が、そばにいた。

 麻酔が残っており意識は、もうろうとしていた。

「目が覚めたか」

 アクセントが違うが、日本語である。

 弓野は男の顔を見つめた。

 声に聞き覚えがある。

 降伏を勧める拡声器の声である。

「あなたは死にかけていた」

 彼は弓野に話し掛けた。

「ほかの者はどうした」

 弓野の質問には答えず、言葉を続けた。

「足を切った。エソになっていた」

 気を失っていた時、感じた激痛は足を切断する時の痛みだった。

 男は毎日のように弓野を訪ねて来た。彼はサカモトと言う日系人であった。


「捕らえられたのは僕だけか」

 彼は頭をふっただけで答えなかった。

 肯定とも否定とも採れる曖昧な反応だった。

 傷が回復するにつれ、次第に彼と話す時間が長くなった。


 サカモトが弓野に米軍への協力を求めたのは、北に移動する直前のことだった。

「君は手術中、肩言の英語を話していた。それで医者は自分を呼んだ。日本人に無駄な血を流させたくない」と協力を求めてきた。

 日本が、すでに空襲にされていることも、ドイツやイタリアがすでに降伏していることを聞いていた。

 すべて素直に信じることが出来た。

「強制はしない。断るのは自由だ。

 日本兵からもアメリカ兵からも撃たれる恐れがある危険な仕事だ」


 弓野は髭を生やし、無理に人相を変えようとした。

 四月一日に米軍は沖縄本島の中央部に上陸した。

 沖縄での二人の仕事は洞穴に閉じ籠もり抵抗を続ける日本兵に降伏を勧めることだった。

 二人の役割は区分されていた。弓野がマイクを持ち、日本語で壕の中に向かって説得をする。サカモトが背後に控えた米軍の押し止める。先に進みたい血気盛んな兵士を押し止めることは容易なことではない。

 洞穴からは裏切り者と言う罵声とともに小銃弾とが飛んで来た。

 鈍い破裂音とともに、荘絶な悲鳴を上げ、自決をする者もいた。

 説得に応じた老人やあどけない子供が洞窟から出て来ることもあった。

 彼らの弓野に向けられる視線は侮蔑に満ちていた。

 次第に日本軍の陣地は南部の方へ狭められて行った。南部に進むにつれ道端に転がる死体の数は無数に多くなった。

 子供の死体。

 若い女の死体。

 年寄りの死体。

 無数の死体がまるで南への道を示す標識のように、頭を南に向け倒れていた。

 そして南に行くに従い数も増えた。

 みんな貧相でやせ細っていた。


 五月に入ると沖縄は梅雨が始まる。

 厚い雲が空を覆い、激しい雨が降り注いでいる。

 泥道に足を滑らせ、よく転んだ。


 弓野はサカモトに引きづられるように戦場を歩いた。


 戦いの終わった沖縄の島は、すっかり変わり果てていた。

 山の緑も無残にも引き裂かれ土が剥き出しになっている。

 人家は破壊し尽くされた。

 

 僕が島を離れるとき、ささやかな宴席を催した。

 重い腰を上げてくれた。

 宴が進み、酒が回ると父は子供のように弓野につきまとった。

 弓野に甘えているようにも見える。こんな姿を見るのは始めてだった。

 二人が何を話しているのか、騒がしい宴の中では、ほとんど聞き取れない。

 父は、よくカラカラと笑った。

 弓野は慎み深く顔をほころばせるだけである。

 二人は、僕たちの世代の者が行くこともない椰子の木の茂る南洋の島での出来事を話していた。おそらく二人ともその島に行く機会もあるまい。

 二人の関係は、昔からこのようだったにちがいない。

 彼は小さな声で仕方がなかったと、一言つぶやいた。

 突然、父が咳込みながら大声で上げた。

「馬鹿野郎。いつまでもこんなことを気にする必要があるものか」

 父の怒鳴り声で、座は水を打ったように静まりかえった。

 怒鳴った父の目も潤んでいる。

「君たちを裏切った。色々なものを見過ぎた」

 静かであるが、弓野の声はしっかりしている。

「後悔する必要はない。何名の人間が助けた。誇りに思わねばならないはずだ」

 

「あれは、祭りだったんだ。

 日本人全体が参加した狂った祭りだったのだよ。

 ホラ。君の故郷で、馬をいななかせ、ボシタ、ボシタと叫び騒ぐ祭りがあるだろう。 あれと同じ祭りだったんだ」


 父は、何度も弓野の耳もとで繰り返した。

 まるで、その言葉を彼の頭の中に叩き込もうとしているようであった。

「まつり」

「そうだ、そう思え。思うのだ。

 あれは祭りだったのだ」

「これからは、そう思うことにするよ」

 と弓野はつぶやいた。

 突然の父の怒鳴り声に驚き、座は一瞬静まったが、すぐに二人の会話が理解できたのか、座は一斉に賑わった。

 弓野も、その変化に敏感に感じた。

 その夜、彼は畳の上に両手を突き、空のズボンを引きづり、村人に酒をついで回っていた。

 弓野は酔っていた。足下もおぼつかない様子であった。泊まって行けと言うのに、耳を貸さず村の若者に抱きかかえられるようにして帰って行った。

この日を境に弓野のこだわりは、次第に氷解し、あきらめに変わっていった。

 次の朝早く、父に起こされた。彼が家に残しておいた松葉杖を、彼に届けるためである。それが最後の使いとなった。


 彼は今でも一人で小船を操り漁に出かけている。





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