第5話

 ――――――――――――――――。

「起きろよ、間抜け」

 ふと、腕を掴まれた。

 うつ伏せのまま、片腕を背中に持っていかれ、腰には一点に集中して重しがされている。首裏にはひやりとした感触。多分、誰かが上に乗って、腰には膝を押し付け、首には刃物か何かを当てているのだ。

 無理に動けば腕が折れる。首が切れる。腰もやってしまいそうだ。それほど重くはないから、はねのけられないこともないだろうが。

「――」

 顔だけでも見てやろうと、柔らかい枕に突っ伏していた頭をずらして横向きにする

 いつの間にか、陽が落ちていたようだ。部屋の照明もついていない。窓から入る四角い月明かりだけが唯一の光源で、断りもなく人の上に乗っかっている無礼者の顔は、逆光になっているせいでちっともうかがえなかった。

「よお、セイバー殺し。目が覚めたか」

「……何とも。寝ていたわけでもなさそうだし」

「は?」

 正直に答えたのだが、無礼者は顔を見なくても分かるぐらいにきょとんとしてみせた。声を聞く限りは少年……いや、少女である。子どもなら、それほど重くはない体重にも納得が行った。

「不意打ちを喰らってやった、とでも言うのか?」

 そういう意味じゃないのだが、説明が面倒くさいので答えてやらない。脅しのつもりで、少女は首の刃物をより強く押し当ててきた。傷にはならないが、引けば切れる、そういう絶妙の塩梅だ。

「あたしたちの仲間になるか、このまま光聖に殺されるか選べ」

「コウセイ……って、何だ?」

「ふざけるなよ」

 至って真面目である。が、ふざけて聞こえるぐらい、その質問はバカらしかったようだ。覚えていないが、きっと世界の常識なんだろう。教えても答えてくれそうにないどころか神経を逆なでするだけに終わりそうだったので、とりあえず、意味については置いておくことにした。

「どっちも拒否するなら?」

「ここで殺す。放って置いてもセイバーに殺されるだろうが、何かの間違いで向こうに寝返られても厄介だ。そういう気まぐれもいるって、噂だからな」

 コウセイとセイバーは同じもの、ということだろうか。

「仲間になったら何があるんだ?」

「イエスと答えるなら教えてやる」

 秘密主義である。

 年齢はおそらく、十七、八と見えたリエッタよりも更に幼い、十代前半の子どもだろう。そのくせ受け答えがしっかりしていて、無意味な感情を含めないように気を付け、意識して淡々と話している。その内にはしっかりと、凄みもあった。死ぬことが怖くないから、少女の脅しを恐れる理由など何一つないのだが、その事情を抜きにしても、少女は確かに俺を殺す気でいるのだとはっきり分かった。

 申し出を拒否すれば当然、のらりくらり、なんて曖昧な素振りを見せただけでも、次の瞬間には首を掻っ切られるに違いない。

「見返りは何だ? 仲間になって、俺に何の得がある?」

「光聖からかくまってやる。早く答えを出せ」

「分かったよ。ノーだ。別にかくまわれなきゃいけないほど困っちゃいない」

「……何か望みでもあるのか?」

「ねえよ」

「っち。ただ狂ってるだけか」

 少女は窓のカーテンをむしり取って、当てた刃物ごと俺の頭に被せてから、ためらいなく刃物を引いた。首の裏から内側に向かってざっくりと深く傷がつく。夥しい量の血液がどっと溢れた。そこで、被せたカーテンはおそらく返り血を嫌ってのガードだったのだと気付く。

 刃物が放されると、今度は俺の首に刺さって来た。大上段から振り下ろされてカーテン越しに突き立てられた、そういう感触だ。いとも容易く首を貫通した刃物は、やはり容易く引き抜かれ、正規の通り道を失った呼吸と血液がベッドの上に漏れ出て行く。

 背中から重さが消えた。カーテンがかかったままで俺の視界は真っ暗闇だ。窓から外に続く屋根に出て行く音。屋根を蹴って跳ぶ音。少女の気配が遠くなっていく。静寂が戻って来ても、俺は体勢を変えずに、傷を治すこともせず、ぼうっと今のやり取りについて考えを巡らせていた。

 少女の正体。コウセイとセイバーの関係。分からないことだらけだが、俺が悩んでいたのはそういった、今すぐに必要そうな常識についての考察ではなくて、もっとどうでも良い話についてだった。

「“望み”、かあ」

 少女が俺に問うた。思いつかないから、ねえよ、と突っぱねた。そもそも見返りを求めたのは俺なのに、見返りの内容を問われると答えられないなんて、矛盾しているどころの騒ぎじゃない。求めるべきものを分からないままに求めてしまったのだ。今の会話は何一つ整合性が取れていない。狂っていると断じられても仕方がなかった。

 弁解するのなら、俺は問われるまでは本当に、自分が何を求めるべきかすら知らないでいることには気づいていなかったのだ。相手の要求に対して、こちらから対価を要求するのは当然の行いである。当然すぎて、肝心の対価について考えていなかった。よもや、自分がそんなものさえ失っていようとは。

 記憶がない、その現実の意味を痛感する。

 まだ、傷は治っていない。痛みがないから、治さなければ、とは思わない。思えない。血が止まる気配もなかった。傷口を塞いでいないのだから当然だが、流れた側から生成される血液には打ち止めもない。次から次から補充されている。いくら失ったところで何の支障もない血液になど、もはや体内に流れている意味も、補填しなくてはならない意味もないように思えた。

 ベッドはきっと、真っ赤になってしまっている。あの宿屋の主人はどんな顔をするだろうか。俺一人が血に濡れているだけでも、苦い顔をしていたのに。

 何やら外が騒がしくなって、どたどたと階段を駆け上がって来るいくつかの足音が聞こえた。あの少女が戻って来たのか? いや、窓からこっそり侵入してきたような人間が、何を今更正面切ってやって来るというのだ。その正体は俺を追う理由がある、もう一つの方に違いない。

 だあん! とドアが蹴破られたような音がする。大きな音だ、きっと壊れてしまったに違いない。あのドア一枚、一体いくらの値がついていることやら。

 カーテンを除けていなかったから、第二の侵入者の姿は拝めなかった。足音から察するに、部屋に入って来たのは四、五人といったところだ。入口から散会して横に広く陣を取る。がしゃがしゃと人が歩くにしては金属的な音が混じっていた。おそらくは鎧の擦れる音。心当たりがあるとすれば、門番のセイバーが着込んでいたアレだ。

 侵入者一行はしばし沈黙して、寝たきりの俺に対峙していた。俺から動くつもりはない。特に理由もなく、俺は相手の出方を待った。あえて理由をつけるなら、先制攻撃されても痛くないというのと、第一の侵入者にもそうしたから、だった。

 俺が動かないと分かると、侵入者の内の一人が俺の方に歩いて来て、何かをぐさりと俺の背中に刺した。挨拶もなく、前触れもない。今までで一番唐突な攻撃だった。

「起きろ、マイナー。貴様らがその程度の傷で死ぬものか」

 カーテンが除けられる。血を吸って重くなったそれが、べしゃ、と床に落ちた。切り傷と刺し傷を首に負った俺と、俺の背中に剣を刺した男と目が合った。……といっても、男は前が見えているんだか怪しいフルフェイスで、その兜の向こうには目があるんだろうな、という位置を、俺が見返しているに過ぎなかった。

 今も流血は続く、傍目には重傷だろうに、男の振る舞いには一切の油断がなかった。

「エストとリエッタを殺したのはおまえだな」

「ああ、そうだよ」

「昼間のもか?」

「昼間? さあな、知るか」

 声帯なんて潰れているはずだが、俺の言葉は何の問題もなく音になった。口を通して喋っているつもりが、そうではないのかも知れない。となれば、自分に聞こえている俺の声も、頭蓋に反響する音ではないのだろうか。男は別に、驚いた風でもなかった。

「誰にやられた」

「さあな。顔も見てない」

「そいつはどこに行った」

「知るかよ。出て行った」

「なるほど。まじめに答える気などないというわけか」

 男が剣を引き抜く。今更、傷が増えたところで何になるわけでもない。最初にあった首の傷の方が致命傷なわけだし。

 男は剣を振って血を払うと、大上段に剣を構えた。奇しくも、あの少女と同じ二度に渡る攻撃。まさか、それが人を殺す際の作法と言う訳でもあるまい。一発目は脅し、二発目が本丸。マイナーってものは多分、そういう扱いを受けがちなんだろう。頑丈だから。

 月明かりに剣が閃く。美しい銀色の煌めきがひゅんと音を立てる。

 すぱん。

 首が切り落とされた。

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