第4話 多摩川(たまがわ)花火大会

「陽くん、ひさしぶり。元気でやっている?」


清原美樹は、自分より15センチくらい背の高い、

松下陽斗(はると)の、バリカンで刈り上げた

短い髪を、めずらしそうに見ながら、

最上級の笑顔をつくって、そういった。

高校のときは、陽斗は、アーチストっぽい、長い髪だった。


「元気だよ。美樹ちゃんも美咲ちゃんも、浴衣が、かわいいじゃん」


陽斗は、短くした髪を、ちょっと恥ずかしそうに、手でさわった。


「陽くん、ありがとう。わたしは、かわいいっていわれると、うれしいわ」


今年、慶応大学を卒業して、弁護士を目指している、

美樹の姉の美咲は、ほほえんだ。


・・・陽くんの眼ざし。まつ毛が長くて、涼しげなのに、

いつも、どこか情熱的で、やっぱり、アーティストか

ミュージシャンっぽいなぁ・・・。美樹は、今もそう思う。


松下陽斗は、美樹と同じ歳の、今年で19歳。

去年の春まで、ふたりは、同じ、都立の芸術・高等学校の学生だった。


その学校は、高等学校の普通教育をおこないながら、

音楽、美術の専門教育を おこなっていた。


教育目標は、高い理想をもって、文化の創造と発展に貢献できる、

心の豊かな人間の育成をはかる、というものだった。


しかし、今年の2012年、創立から40年であったが、

3月31日の土曜日をもって、その芸術・高校は閉校になった。


芸術・高等学校は、世田谷区の隣の目黒区にあった。

京王井の頭線を利用すると、

下北沢駅からは、池ノ上駅を通過して、

駒場東大前駅を下車。そこから徒歩で8分という位置だった。


美樹と陽斗は、音楽科の鍵盤楽器を学んだ。

家は、ふたりとも下北沢近くだったから、

学校の帰り道は、よく、ピアノのことや将来の夢など、話しながら歩いた。

ふたり仲よく、下校する姿は、他の生徒たちや

行き交う人たちから見れば、仲のよいカップルに見えたのだろう。


美樹にしてみれば、松下陽斗との結びつきは、

友情なのかもしれないし、恋愛感情なのかもしれない、

その判別が、あいまいで、はっきりしないままの、3年間の高校生活であった。


美樹にとって陽斗は、気の合う、楽しいボーイフレンド(男友だち)には違いなかった。


ところが、高校の卒業間際、陽斗は、美樹に、美樹の姉の

美咲に好意を持っていることを、打ち明けたのだった。


その突然の陽斗の告白に、大切にしていた何かを、なくしてしまったような、

喪失感に、美樹の心は揺れた。


しかし、美樹は、愛のキューピッド(天使)みたいに、

陽斗に頼まれたとおりに、姉に陽斗の気持ちを伝えたり、

姉のメールアドレスを、陽斗に教えたりもしたのだった。


姉の美咲(みさき)は、表向きは困った顔をして、迷惑そうに

していたのだが、内心は、悪い気はしないようであった。


「美樹ちゃん、心配しないで。美樹ちゃんの大切にしているものを、

壊したりしないから。

陽斗くんの、相談相手になることくらいしか、わたしにはできないんだから」


美樹の気持ちを察して、そんなふうに、美咲はいうのだったが、

嫉妬のような気持ちを感じる、美樹だった。


美樹は、美咲や陽斗に対して、無関心で、よそよそしい態度が、しばらく続いた。


早瀬田(わせだ)大学に入学した美樹が、大学公認のバンド・サークルの

MFCに入って、音楽に熱中したのも、

そのトラウマ(心的外傷)のような、その複雑な心境を、解消するためでもあった。


男女あわせて70人くらいの、バンド・サークルで、川口信也たちと出会った。


現在、松下陽斗は、東京・芸術・大学の音楽学部、

ピアノ専攻の2年。

父親は、下北沢駅近くで、ジャズ喫茶を経営している。

ジャズの評論とかも、雑誌に書いている、ジャズの著作家だった。


美樹は早瀬田(わせだ)大学の教育学部の2年。美樹は進路に迷っていた。

芸術;高校の生徒たちの中で、自分には特別な才能があるという、

自信が持てないのだった。現在、美樹は、中学校の教師になろうと、

漠然と思っている。


「わたしたちの芸術・高校は、なくなっちゃったね」


美樹の満面の笑みが、一瞬だけ消えた。


「しょうがないね。時代の流れってやつだから。

おれらの学校は、完全になくなるんじゃなくて、新宿の

総合芸術・高校に受け継がれるというから、まだ、よかったよ。

また、こうやって、一緒に、花火なんて、

うれしいよ。高校のころの気分を思い出せそうで。

でもきょうは、大勢だなぁ、女子高生もいたりして。

何人いるのかな?」


陽斗は、小田急線の成城学園前駅・南口に集まった、

みんなを眺める。


「みんなで、12人だよ。予約したテーブル席が、

12あるから、ちょうど、12人に、お集まりいただきました」


森川純が、陽斗にそういった。純の思いつきで、

みんなを招待したという形の、今回の花火の見物であった。


はじめ、陽斗は、美咲と、ふたりで、この花火大会に行く予定だった。


純が、陽斗に、花火大会のことで、メールしたら、

それだったらと、予約席を用意するから、一緒にいこうという話になったのであった。



8月18日の土曜日の午後4時であった。


上空は、雨雲などない、よい天気だった。


集まった、みんなは、12人。


清原美樹、清原美咲、松下陽斗。


早瀬田大学1年のときに結成して、卒業とともに解散して、

また再結成が実現した、

ロックバンドのクラッシュ・ビート(Crash Beat)のメンバーの4人。

ドラムスの森川純、

ヴォーカル、リズムギターの川口信也、

ベースギターの高田翔太、

リードギターの岡林明。


岡林明の妹の高校1年、15歳の香織、

香織の友だちの女子高生が3人。


高田翔太と、仲のよい早瀬田大学3年の山沢美里。


そんな男女、12人であった。


2012年で、34回目を迎える、

世田谷区の夏の風物詩、世田谷区・多摩川花火大会は、

多摩川の水辺、

二子玉川緑地運動場でおこなわれる。


昨年は、東日本大震災の影響で、休止であった。


花火という、音と光の芸術を、楽しもうと、

未来への希望をのせて、およそ6500発の、

華やかな花火が打ち上げられる。


5時30分には、ステージ・イベントの

オープニング・セレモニーとして、

高校生の和太鼓部による演奏や、区民の合唱団による合唱、

囃子保存会による囃子などが披露される。


交通渋滞もあるので、成城学園前駅・南口から、

二子玉川緑地運動場まで、みんなは歩いていく。


花火の実行委員会も、交通渋滞のために、徒歩を推奨する。


徒歩で片道30分から40分くらいかかるのだが、それも楽しいものだった。


森川純が、観覧スペースの最前方の、

丸テーブルと椅子の12席を、用意してくれていた。


「しかし、想定外だったなぁ。

おればかりじゃなく、翔ちゃんも、明も、

純に説得されて、純のご尊父の経営する会社・

モリカワに入るとは・・・。

おれらの、クラッシュ・ビート(Crash・Beat)のバンドが、

そのまま、モリカワに入社するわけじゃん・・・」


そんなことをいいながら、川口信也は、

そのうしろを歩く、高田翔太や岡林明を見て、わらう。


川口信也と森川純は、12人の先頭を歩きながら、

会社・モリカワの仕事のことや、バンド活動のことなど、

終わりのない、果てのない話をしている。


「純は、話の持っていきかたが、うまいよ。いつもそうだよな。

モリカワの経営計画や経営戦略とか、説明されて、

マジ、びっくりしたし、感動したよね。

モリカワが、レストランとライブハウスの合体したような店を、

東京を始めに、全国に展開していくという、事業計画。

実現すれば、すごいことになっていくね」


高田翔太は、前を歩く、森川純や川口信也や、

となりを歩く、いつもどこ吹く風という感じの、岡林明に、そう話した。


「下北沢にある、ライブ・レストラン・ビート(Beat)を、1号店として、

新宿や池袋とか、東京のあちこちに、姉妹店を展開して、

そして、全国展開を考えるなんて、壮大な計画だよね。

インターネットをフル活用するっていうし。


おれたちを、会社経営の中枢の、

重役ポストで迎えてくれるってことも、気に入ったし。


レストランやライブハウスのサービス業だから、休みも少ないだろうと思ってたら、

週の2連休や大型連休もあって、年間休日は、120日あるっていうし。

まあ、それくらい、休日がないと、労働意欲も続かないんだけど。

休日は、これからも、増やせるだけ、増やしていくっていう

社長のスケールの大きさっていうか、人間性の豊かさもいいよね。


いまの社会じゃ、入社しても、23歳なんて、新人の見習いだろうし、

将来の夢とか、自由なんて、なかなか、持てそうもないしね。


モリカワ、ばんざーい、ってところかな。なぁ、翔ちゃん」


岡林明は、そういいながら、隣の、高田翔太と肩を組んだり、

ストレッチでもするように、晴れわたった青空に、両手を広げる。


「なんてたって、信ちゃんが、山梨からもどってくるから、

おれらのバンドが、またやれることが最高だよね。

職場が同じで、休日も同じ。いいことばかしって、感じかな?」


高田翔太は、そういうと、前を歩く、森川純と川口信也の肩を、1度ずつ

すばやく、軽く、たたいた。


「仕事となると、いろいろと大変だとは思うけど。よろしく。

4年間、大学とバンドで、つきあってきた、信頼とかチームワークを、

このモリカワの仕事に生かしたいと、考えたんだよ」


と森川純はいって、わらった。


「みんな、がんばってー!」と、うしろから、何人かの女子高生たちが叫ぶ。


みんなに、明るい笑い声がもれた。


「なんで、こんなに、女子高生がいるんの?」と川口信也が森川純に聞く。


「席が余ちゃったのと、彼女たち、近頃のオトナというか、

オヤジたちに、ウザイとか、ムカツクとかいって、幻滅しているようだからさ。

おれだけでも、点数を稼ごうかと思って・・・。女子高生は好きだし」


そういって、純はわらった。信也や翔太や明もわらった。


早瀬田大学を卒業したあと、山梨県の実家に帰って、就職していた、

川口信也も、この10月には、モリカワに勤める。

暮らすためのマンションも、下北沢駅の近くに、契約済であった。


みんなは、コンビニに立ち寄ると、

好みの飲み物やビールや軽食やお菓子を買った。


森川純が用意した、2つの携帯用のポリエステル製の

クーラー・ボックスに、それらを入れた。


男たちは、「はい、交替」と、ふざけ合いながら、

それを肩からかけて、歩いた。


小田急線の成城学園前駅・南口から、花火の会場の

二子玉川緑地運動場までの道は、

クルマの混雑を避けて、かなりの数の人たちが歩いている。

浴衣姿の男女も、数多く歩いていた。


美樹たち6人の女の子たちと、松下陽斗は、

みんなの1番うしろを歩いている。


女子高生も、ほかの女性も、みんな、

前もって、相談していたかのように、

涼しげで、色も鮮やかな、

木綿、単の、浴衣姿だった。


「陽斗さんって、イケメンだよね」と女子高生のひとりがいった。


「そうそう、イケメン。きっと有名な、ピアニストになるよ。

わたし、陽斗さんの、追っかけになるから、きっと・・・」


無邪気に、香織がそんなことをいっては、

みんなで、わらって、盛り上がる。


「陽斗さんって、天才的よね。権威のあるピアノコンクールで、

初出場で、いきなり、第2位に入賞しちゃうんだから」


大学3年の山沢美里が、興奮気味にそういった。


「やあ、まぐれですよ。でも、コンクールっておもしろいですよ。

2位じゃ悔しいから、今度は1位を狙いますよ」


松下陽斗は、少年のように目を輝かせながら、

顔を紅らめてわらった。


「すごーい」

「すごい、すごい」

「陽くんなら、1位とれるから」


女子高生たちや美里や美樹や美咲たちから、そんな歓声が上がった。


そんな松下陽斗の、若くてスター性のある才能に惚れこんだのが、

森川純であった。

ライブハウスを展開するモリカワの、専属のミュージシャンとして、

純は、陽斗と、友好的で、継続的な契約を交わすことに成功する。


クラシックやジャズやポピュラーなどの広いジャンルの音楽を、

感性豊かな、高度な、ピアノ演奏で、弾きこなして、聴衆を魅了してしまう。

そんな松下陽斗を、そろそろ、世間やマスコミも注目すると、純は予想している。


多摩川の水辺の、

二子玉川緑地運動場に設置された会場は、

人々(ひとびと)であふれるばかりであった。


4時ころには、みんなは、森川純が用意してくれた、

隣り合わせの、2つの丸いテーブルに、落ち着いた。


花火打ち上げ前の、独特の高揚感や

雰囲気の中で、軽食などをつまみながら、

みんなは、自由気ままな会話を楽しんだ。

女子高生が4人もいるので、若々しい会話が弾んだ。


5時30分には、ステージ・イベントのオープニング・セレモニーの、

高校生の和太鼓の演奏。そして、区民の合唱団による合唱。

囃子保存会による囃子などが披露された。


やっぱり、夏祭りの、太鼓の音って、からだに響いてくるから、

気持ちいいなぁ・・・と美樹は思った。


会場に集まった、美樹たちや、たくさんの人々は、

夏祭りふうのセレモニーに、酔いしれた。


あたりが暗くなり始めた、夜の7時、花火のオープニングを飾る、

連発仕掛け花火の、スターマインが打ち上げられた。


何十発もの花火玉が、テンポよく打ち上げられる。

夜空に、つぎつぎと、色鮮やかな、花が咲き、消えてゆく。


ドン、ドドドーンと、炸裂する、その心地よい音は、からだの奥や、腹にもしみる。


ポップでキュートな連発の花火もあれば、特別に作り上げた10号玉が、1本ずつ打ち上がる。


ふと、美樹は、なぜか、夜空を色鮮やかに染める、花火の美しさと、

爆発音の中で、強い孤独感のようなものを、感じてしまうのであった。


・・・こんなに楽しい夜なのに、花火の儚さが、やけに、哀しい。

前は、こんなじゃなかったのになぁ。もっと無邪気で明るかったのに・・・


美樹の目には、誰にも気づかれないような、涙がうっすらと浮かんだ。


でも、姉の美咲は、美樹のそんな様子に気づいて、美樹の手をしっかりと握った。


「美樹ちゃん、だいじょうぶよ。何も心配しないでいいんだから。

わたしは、いつでもあなたを、1番に、大切に思ているからね。

わたしもあなたに、いろいろと、心配かけてごめんね」


美樹の耳元で、美咲は笑顔で、そう、ささやいた。


「お姉ちゃん・・・」といって、美樹は美咲を見て、ほほえんで、

美咲の差し出したハンカチーフで涙をぬぐった。


美咲は、松下陽斗とは、これ以上、

特別な交際をしないことを、あらためて心に誓うのであった。


夜の8時近くには、フィナーレ(最後の幕)の、いよいよ佳境がやってきた。


大音響の爆発音をともなって、8号の花火玉の100連発が、次々と打ち上げられる。


時が止まったように、夜空が、赤や青や緑や紫や黄色の大輪の花たちで、

明るく染まる。


そして、連発仕掛け花火の、スターマインが打ち上がって、

金色や銀色にキラキラと、ひかり輝いて、

滝の流れのような、広大な空中のナイアガラが、夜空に出現する。


夜空に描かれた、光のファンタジー(幻想)、爆発的なエネルギーの音、

鮮烈にきらめく色彩の数々、そんなアートの世界に、すべての人は酔いしれた。


会場は、終始、歓声や、ため息、明るいわらい声に、つつまれていた。


夜の8時過ぎには、およそ6500発の花火は、すべて全部打ち上げられて、

全プログラムは終了となった。


≪つづく≫ 

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