第7話

 雷三の遺体はすぐに使用人によってどこかへ運ばれていった。壁の血もあとかたも無くなるまでに拭きとられ壁は白さを取り戻した。雷三の籠が運び出されてしまうと、もう雷三がこの世にいたという痕跡はなくなってしまった。依子はありったけの布をかぶり籠の隅に丸まり震えた。日に一度、小さな異形がやってきて金の籠を開けた。そのたび依子はびくびくと震え小さくなった。小さな異形は水と食べ物の入った器を新しいものに代えるだけで依子に干渉しようとはしなかった。依子は何も口にせず、動くこともできず三日を過ごした。

 三日目、依子はぼんやりとした頭で自分の家のことを思い出していた。六畳一間で小さなキッチンだけがある部屋。風呂が無いので近くの銭湯に通った。たまに銭湯の番台のおばちゃんが冷たいフルーツ牛乳をおごってくれた。ぺろりと唇を舐める。唇はカサカサと乾燥して、舌も乾いてしまってぺたりと唇にくっついた。うっすらと鉄のような味がした。それは雷三の血の色を思い出させた。もう元の依子には戻れない。依子はこのままここで消えてなくなりたい、そう思っていた。

 突然、全身に水を浴びせられた。驚いて布を跳ねのける。見ると籠の外、小さな異形が空になったお椀を手に涙を流していた。あの日見たのと同じ水色の涙だった。依子と目が合うと、異形は籠を開け、依子に手を伸ばした。依子はその手から逃れようと籠の隅にうずくまったが、異形は手を伸ばし依子のまとっている布に触れた。


「ひぃっ」


 悲鳴を上げた依子を見て異形は不思議な形に口をゆがめた。まるで泣き出しそうに見える。依子の髪から水がぽたりと落ち、依子の唇を潤した。たった一滴。たったそれだけで不思議な水は依子の唇を潤してしまった。小さな異形はぱたぱたと部屋から駆けだすと、お椀に水を満たして戻ってきた。金の籠の中にお椀をいれ、籠を閉めきるとテーブルの縁に両手をついて、じっと依子を見つめている。そのどろりとした目はなぜか、依子をいたわっているように感じた。依子は這いずってお椀のそばに寄ると、お椀の水に手をつけて、その手をぺろりと舐めた。体中に光が満ちるようだった。依子は立ちあがり、両手で水をすくってがぶがぶと飲んだ。小さな異形は目を細め、いつまでも依子を見つめていた。



 平穏な日が続いた。依子は毎日、水を飲みクッキーを食べ小さな異形に歌を歌ってやった。ただ、部屋が薄暗くなり夜になったと思われる頃、壁に赤い染みがよみがえるようで、依子はぎゅっと膝を抱いた。薄暗い空気の中に今でも雷三の姿が見えるのだった。悲鳴もあげずにぺしゃんこにされた雷三。その真っ赤に染まった姿が依子を眠りから遠ざけた。


 明るくなった部屋の中、うつらうつらと寝るでもなく起きるでもなく過ごしていた依子の元に、小さな異形が駆け寄ってきた。テーブルに両手を付きキーキーと何かをうったえた。依子が顔を上げると、使用人が金の籠を抱えて部屋に入ってきたところだった。

 ぎくり、と体が動かなくなった。使用人。金の籠。真っ赤に染まった雷三の姿がよみがえる。使用人は依子の籠にくっつけて新しい籠を置いた。その籠の中では、裸ん坊の男の子が大声で泣いていた。十歳くらいに見えるその子は、黒髪で浅黒い肌をしていて日本人ではないようだった。

 小さな異形は嬉々として子供の入っている籠を開けると、その子を片手で掴みあげた。依子は思わず短い悲鳴を上げた。男の子は息を詰めて声も上げられずがくがくと震えている。異形は依子の籠を開け、その子をそっと籠に入れた。依子はあわてて子供に駆け寄ると抱きしめた。


「大丈夫、大丈夫よ。私が死なせないから」


 その子は依子の顔を見上げ大声でいつまでも泣いて、泣き疲れると依子の膝で眠ってしまった。小さな異形は満足げに部屋から出ていった。


「おはよう」


 目を覚ました子供に依子は日本語で話しかけてみた。子供はぽかんとした表情で依子を見上げた。


「えっと、はろー。にいはお、だんけしぇーん、めるしー、えっと……」


 依子は知っている外国語の単語を次々口に出してみたが、男の子はぽかんとしたままだった。


「もう。英語くらい知っててくれてもいいのに」


 つぶやいても子供はじっと依子の目を見つめるだけだ。


「あなた、名前は? 名前。私は依子。よ・り・こ」


 自分の鼻を指差し、なんども「よりこ」と繰り返す。くるりと指先を男の子の鼻先に当て、


「名前は?」


 と問う。男の子はにこりと笑って「~~~~」どうやら名乗ったのだが、依子はその発音を聞き取ることができなかった。「~~~~」「~~~~」、依子は聞き取った音を口にしてみた。

 

「うん……べ、べしんち? さーな?」


 男の子は首を振り「~~~~」聞きとれない音を何度も繰り返した。依子は何度もその音を真似ようと試みたが、男の子から合格点をもらうことはできなかった。


「しかたないわね。私は君のこと、雷三って呼ぶわ。雷三、雷三」


 依子は男の子の鼻を指差し「雷三」と繰り返した。男の子は自分の鼻を指差しにっこり笑って


「らいぞう」


 としっかりした発音で名乗った。

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