第2話

 それから何日がたったのだろう。依子がいる部屋はいつもぼんやりと明るいままで、時間の経過がわからない。眠くなったら寝て、喉が乾けば甘い液体を飲んだ。お腹は不思議と減らなかった。異形の生き物はあれ以来部屋に入ってくることもなかった。


 金の籠の中には異形が持ってきた器と、何枚かの厚手の布とがあるだけだった。依子は籠の中を丹念に調べている途中に、床が一部へこむ場所を見つけた。ぐいと押すとへこみ、しばらくすると元に戻る。依子は何度も何度も力いっぱい押してみた。体重をかけて踏んでみたり、そのくぼみの上で飛び跳ねてみたりしたが、どうやっても一定以上へこむことはなく、静かに元の形に戻った。


 トイレがない。

 そのことに気付いて依子は慌てた。もう一度丹念に籠の中を調べた。金の紐を一本ずつ揺すり、どこかから外へ出られないか試した。どうにもならないとわかった時にはもう我慢ができなくなっていた。床がへこむ部分に行き床にへこみを作って用を足した。情けなさで涙が出てきた。すべきではない場所で排泄する行為に背筋がぞっとするほどの恐怖を覚えた。その時足元でわずかに風が起こり、立ち上がって見るとへこみは元に戻っていて、床はきれいな状態に戻っていた。依子は目を丸くした。ここがトイレだったのだ。依子の目からぼろぼろと涙がこぼれた。人間としての最低ラインを踏み越えなかった。ほっとして床に座り込んでいつまでも泣いた。


 器の中の液体が無くなった。器をかたむけて最後のしずくを飲みほしてしまうと、依子は仰向けに床に寝転んだ。自分はこのまま渇いていくのだろうか。そうしていつかミイラになるのだろうか。自分が置かれた状況がわからぬままだというのに、なぜか不安を感じなかった。甘い液体に不安をとりのぞくような効果があるのかもしれなかった。けれどそんなことももう、どうでもよかった。なるようになればいい。依子は静かに目を瞑った。

その時、ぶうんと低い機械音がした。そちらに目をやると、異形の生き物が立っていた。あいかわらずどんよりした眼で依子を見つめている。依子はなぜか恐れを感じず、異形を観察した。


 身長は人間の三倍ほど。手が二本、足が二本それぞれに水かきのようなものがついている。顔のパーツは人間と変わらないが、目も鼻も口も不快で不気味な様相をしている。ただ、耳はなく、その部分に穴があいているだけだ。身に灰色の布をまとい灰色の体を隠している。立ち、歩き、まとう。人間と同じような体の機能を備えているのかもしれない。

 依子は異形がする事をじっと見つめた。異形はそっと籠に近づくと、籠の中に置いてある器を取り出した。金の紐は異形が触れると苦もなく大きく開いた。異形は持っていた新しい器を二つ、籠の中に入れた。先ほどまであったものと同じお椀型のものと、白く平たい皿だった。

 異形が壁の穴から出ていくと、依子は器の中身を確かめた。お椀のなかには甘い液体が入っていて、皿の上には大きなクッキーのようなものが乗っている。依子は両手で無造作にクッキーをつかみ齧りついた。わずかに苦味があったが、素朴な味わいの田舎風クッキーと言われたら信じてしまうような味だった。依子はお腹がいっぱいになるまでクッキーを食べた。それからまた籠の内側を金の紐を引っ張ってぐるりと歩いたが、依子がどんなに引っぱっても紐は開かなかった。


 依子が三度眠り、器の中身が空になると、また異形がやってきた。どこかに監視カメラのようなものがあるのか、いつもぴったりなタイミングで異形はやってきた。

 そんな事を数度繰り返したある時、異形が金の紐を大きく開けたまま籠から離れた。異形は床にあった円柱状の白いものに座った。ああ、あれは椅子だったのかと依子は思い、ぼんやりと異形を眺めていた。しばらくして異形は立ちあがると金の紐を元に戻して部屋から出ていった。それも数度繰り返され、依子はやっと異形が外へ出るよう促しているのだと悟った。


 異形が大きく開いた金の紐の隙間から外へ顔を突き出す。依子は震える手で金の紐を握ったまま部屋の隅々までを観察した。白い部屋、遠くに座った異形、裸足の依子。それだけだ。

 籠の外はひどく寒かった。真冬の雪が積もったころの気温に似ていた。依子が自分の体を抱いて震えると、異形が籠に近寄ってきた。依子は急いで籠の後ろへ駆けていって身を隠した。異形はそんな依子に構わず籠の中に手を入れると、数枚置いてある布の中から黒い布を取り出し、籠の入り口辺りに置いた。そのまま椅子に戻り静かに腰をおろす。

 依子は籠の陰からでると黒い布をとり肩にかけてみた。とても温かく柔らかく、ほっと息を吐く。異形は依子を見るような、見ないような曖昧な位置に視線を置いている。外へ出ることを促しているらしい。しばらく待っていたが、動く気配はない。依子は黒い布をマントのように羽織って外を探検することにした。

 籠が置いてある台、おそらくテーブルなのだろうそれは、円形で石造りのようで、縁にしゃがみこみ下を覗きこむと高さは依子の背丈の倍近くあるようだった。立ち上がり落ち付いて部屋の中を見渡す。白ばかりの部屋の中、異形の灰色の皮膚と金の紐だけが目に入る色彩のすべてだった。それ以外に何もない。なんにもない。外にいることに飽きた依子はさっさと籠の中に戻った。異形は金の紐を元に戻すと部屋を出ていった。


 それを何度繰り返しただろう。異形は次第に金の紐を開けても籠から遠く離れることが無くなった。依子はそんなことは気にも留めず黒い布をすっぽりとかぶり籠の周りを歩いて回った。

 ある日、異形が手を伸ばして依子の布の端に触れた。そのままそこに置かれたままの手を、依子は触ってみた。ぬるりとしていて冷たかった。けれど嫌な感触ではない。濡れて泡立つ石鹸を触った時のような感触だった。異形はもう片方の手も伸ばし、依子の頭をそっと撫でた。依子が異形のするに任せると、異形は両手で依子を抱え上げ胸に抱いた。冷たいと思っていた皮膚は、けれど包まれれば生き物の温かさを伝えてきた。異形は目を細め、何度も依子の頭を撫でた。


「私はあなたのペットなのね」


 依子の声に、異形は嬉しそうに笑った。依子は飼い主の腕の中に抱かれたまま暗い穴に落ちていくような眩暈を感じた。自分が自分で無くなってしまいそうな不安な眩暈だった。

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