第35話

 崇が膝に抱えた紙袋の中で、缶詰ががたがたと音を立てている。おばさまがとりあえずお祝いに、と蟹の缶詰と、お菓子をいろいろ入れてくれたのだった。きちんとしたものはまた今度、と。コートの中で、私はひどく汗をかいていた。電車の中はずいぶん暖房が効いている。電車内は混んでいるが、うまく座ることができた。窓はうっすらと曇っていて、その向こうの冬の夜を、優しい様子に見せていた。

 ここかなと思ってかけてみたら、ここでしたね。

 電話で、木崎はおかしそうに言った。それは本当に普段通りの木崎の声に聞こえて、私は自分のうしろめたさの正体がつかめなくなった。

「なあ」

 崇を見る。一人で帰れると言ったのに、おばさまが許してくれなかった。崇も黙ってそれに従った。

「何」

 崇は眼だけを私に向けていた。

「お前だっただろ」

 私は微笑んだ。

「そうだね」

 崇の言った通りだった。単独受賞。満場一致。あまりにも言ったとおりになったので、全然実感がわかない。都合がよすぎる、と思う。木崎の声の熱のなさが、一層その事実を現実離れさせて響いた。

「お前、ほかの候補読んだか」

 聞かれて、読もうとさえしていなかったことを思い出す。献本はもらったのだが。私の様子から、ちゃんと崇はそれを読み取ったようだった。

「お前はいつもそうだ」

 崇らしい言葉で、でも崇らしくない言い方だった。責めるというよりも、もっと、諦めるような言い方。

「いつも」

 私はそこだけ摘まんで繰り返す。

「いつもだ」

 崇は微笑んでいた。なんだかそれは、大人みたいな笑い方だった。

「いつも、そうだ。お前は」

 どう答えたらいいのかわからなかった。そもそも答えなど求めていなかったのかもしれない。崇の中では、もう結論が出ていたのだった。それは寂しいことだった。寂しがる資格が、私にはないことがわかっていても。

 いや、資格なんて、もともと必要がないのかもしれない。そういうことではないのかもしれない。だって、全部、寂しいのだ。寂しさを、止めることはできない。時間を止めることができないように。どんな人にも、どんな心の持ちようでも、寂しさはやってくる。どうしようもないのだ。

 窓の外で、街の明かりが流れ去っていく。一つ一つ違う意味を持つ光が、同じ速さで去っていく。


 ホームに降りる。吐き出された人の波に乗り切れずにのろのろとしている私の腕を崇がつかんで、ホームの端に留めた。あっという間に人込みは階段に吸い込まれて消えていく。ふう、と息を吐く。真っ白な息が、黒い夜に散っていく。電車が行くと、夜は静かだ。

 行こう、と階段に向かおうとすると、崇が私の腕を引いた。

「なあ」

 なあ。たったそれだけの呼びかけだった。でもそれは、それまでと違って、ちゃんとした呼びかけだった。答えてくれないかもしれない相手に、自分から差し出したものだった。私は崇に向き直る。

「なあに」

 問いかけながら、二時間ほど前のあの言葉は、なかったことにはならなかったのだ、と悟った。私たちは今までいろんな起こったことを、本当には起こらなかったこととして振舞っていた。でも崇のあの言葉は、私たちの間にきちんと見えない文字で刻まれることになったのだ。

 崇は眉を寄せ、息を吸い、自分の内側をのぞき込むみたいに小さくうつむいた。なんだかそれは、怯えているように見えた。何かの覚悟を決めたのか、私の目をまっすぐに見つめる。私も目を逸らさなかった。

 どうして、と、崇は言った。そのとき風に声が吹き散らされて、ただ意味だけが耳に届いた。

「どうして俺と、結婚してくれなかったんだ」

 ああ。それを、聞くんだ。

 崇はまだ私の腕をつかんでいる。はっきりしたその力。私の胸がじくじく痛んだ。そこにずっとあって、でもなかったことにしていたいろんなものが、今息を吹き返す。私自身も知らなかったような、たった今まで眠っていたいろんな感情が、一度に声を上げる。

「どうして……」

 私はその言葉だけを摘まんで、繰り返した。胸が痛んで、声はかすれて震えた。どうして俺と、結婚してくれなかったんだ。どうして。どうしてって、それは。

 崇君、あれが取れたら、ゆすらをあげるよ。

 父の声が蘇る。遠い、遠い昔に、交わされた約束。それを信じた崇。その遠い約束に忠実に、賞を取って、私を迎えにくるつもりだったという、崇。

 痛んだ胸から、いろんなものが湧き出してくる。ずっとずっと、見ないようにしていたもの。静かに眠らせていたもの。そんなものがあることさえ知らないふりを続けていたから、とっさにうまく言葉にならない。ただ痛い。私と結婚するつもりだった崇。守られなかった約束。父との約束。もういない人との。私を置いていった、人との。

「どうして待っていてくれなかった」

 崇の声には、痛みがあった。崇が、ずっと隠していた痛み。他人に、もしかしたら自分にも、そこに触れさせないために、いくつもの棘を用意にしていた崇が、今私に、それを剥き出しにしている。

 ほんの少し前だったのなら、私は崇を抱きしめたかもしれない。その痛む部分に口づけて、私の痛みを晒して、二人で傷を癒したいと、思ったのかもしれない。思って、その感情に従ったのかもしれない。それはそれで、たぶん正しいことなのだろう。そうしたくない理由は、特になかった。崇が私の傍にいたいと言ってくれるなら。一緒に痛みと喪失を、分かち合ってくれるのなら。

 でも。

「待ってたよ」

 口にすると、涙がこぼれた。泣くつもりなんかなかったのに。

「ずっと待ってた」

 声は小さくて、罅割れていた。私はどうしようもなく、惨めな気持ちになっていた。それは今の私の境遇から来るものじゃなくて、あの頃の、一人ぼっちで、崇を待っていた私の、惨めさだった。待っていると言えなかった私の。来てくれるかもわからなくて、誰からも見放された気持ちで、それでも崇を待つしかなかった、あの頃の。誰にも言えないうちに、終わってしまったあの頃に、流すべき涙が、熱をもって頬を流れていく。

「来てくれるの、待ってたのに」

 涙は止まらなかった。崇は腕をつかんだまま、私の泣き顔を見つめていた。どうしていいのかわからない様子で。正解が見つからないという顔で。正解。いつも、いつもそうだった。崇は正しくあろうとする。

「とうさまは死んだんだよ」

 それは純粋な恨み言だった。私はずっと、ずっと、崇を恨んでいたのだった。期待して、叶わなくて、でも期待したことが間違っていたのかもしれないと思って、口には出さなくて。でもずっと、消えなかった。裏切られた気持ちが。

「とうさまは死んで、もういないんだよ。約束なんて、もう関係ないんだよ。どうして……」

 崇君、あれが取れたら、ゆすらをあげるよ。

 あれは、崇と父の約束だった。もういない人との。ただ消えてしまったのではない。私を置いて行った、私を見捨てた人との、約束だった。私自身はそんなことを望んだことは、一度だってなかった。父がいたから、意味がある約束だった。

 父は、もうどこにもいないのに。それを父が選んだのに。どんな約束も、もう果たしたところで、何にもならないのに。守るのはただ、それが正解だというだけ。据わりがよくて、秩序立っていて、安心というだけ。でも私は、ずっと待っていたのだ。見捨てられて、苦しくて、なんの秩序もないぐちゃぐちゃな気持ちで、でも崇がやってきてくれるのを。父との約束のためではなく、私のためにやってきてくれるのを。崇が、私だけを見てくれるのを。私の男の子が、私を助けてくれることを。

 でも、来てくれなかった。崇は、私を助けには来てはくれなかったのだ。

「どうして来てくれなかったの……」

 言葉は泣き声に溶けて、私はただ冷たい鼻を鳴らして、涙を流し続けた。今更こんなことを言って、という後悔と、ずっと溜め込んでいたものに道筋ができたような、小さな清々しさがあった。多分、このことで泣くのは、これが最後だろう。私はもう、崇の前では泣かないだろう。

 泣くだけ泣いて、はあ、と、熱くなった喉から息を吐く。崇がポケットから、アイロンの当たったハンカチを出して渡してくれた。小さく笑いながら、私は自分の顔を拭いた。

「……もう、遅いか」

 ハンカチを取り返して、崇は小さな声で言った。自分でも、答えを知っているようだった。

「俺、お前が好きなんだよ」

 それにはちょっと、驚いた。内容にではなく、それを崇が口にしたことについて。驚いて、でも、ゆっくり首を振った。

「崇は私が好きじゃないよ」

 色んな人に言ったことだ。崇本人に言う日が来るなんて思っていなかった。崇は心細そうな顔をしていた。崇もずっと、ずっと、傷ついていたのだろう。父がいなくなった日から、ずっと。でもその傷を癒すのは、私の役目ではなかった。もう、遅かった。時間は過ぎて、私たちの道は、はっきりと分かれていた。正しいとか正しくないとかじゃなく、時間はただ、前にしか進まない。その中で、一番正しいことが選べるとは限らない。でも、そうしてやっていくほかないのだ。生きていくしかない。

「私が好きなら、死んだ人よりも私を選んでくれなきゃ、嘘だよ」

 崇は何かを堪えるような顔をして、私の腕を離すと、その手で私の手を握った。崇の手は暖かくて、湿っていた。

「そうかな」

「うん」

 だってそう考えて、私は崇を諦めたのだ。崇と同じぐらいの嘘をつけるのなら、私も崇が好きだった。ずっと、好きだった。崇と結婚して、みんなに祝福されて、父の話を崇がみんなにして、たまに青葉が帰ってきて。そういう日々を、何度も何度も夢に描いた。でも、もう、全部意味がなかった。それなりに魅力的な、でも期限の切れた切符のようなもの。私が乗った電車は、それではない。崇は私よりも、父との約束を選んで、私は崇と一緒に生きそびれた。崇にそんなつもりがなくても、現実はそうなのだ。

「そうか」

 崇の手が離れた。

「うん」

 私は微笑んだ。崇も微笑んでいた。

「行こう」

 私は答えずに歩き出した。崇の背中は見なかった。

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