第19話

 まだ青さの残るいい匂いの畳の上を、ころころと転がる。旅館は山の中は、夏だというのにふとしたときなど、ひやりと鳥肌が立つ。

「くつろいでますね」

 そういう木崎も部屋に入った途端に靴下を脱いでいる。私はころころと転がって、木崎の太ももに頭を乗せた。ごつごつとすわりの悪い枕だ。木崎は呆れたように微笑むと、私の額を撫でてくれた。腰に腕を回して、薄いお腹に顔を押し付ける。安心な木崎の匂いがする。木崎が小さく笑うのが、耳ではなく身体から振動として直接伝わってきた。

「どうしますか。散歩でもしますか」

「仕事しなきゃ」

 短編の締切が近い。終わらせてから来ようと思ったのだけれど、我慢しきれなかったのだ。

「働き者ですね」

「褒めて」

「えらいえらい」

 褒めてもらったので、えい、と力を込めて起き上がり、鞄から原稿用紙と万年筆を取り出した。字引きが必要になったら宿に借りよう。ここは父の行きつけだったので、そのぐらいの用意はあると知っている。と考えて、小さな嫌悪を覚えた。ここには父から逃げてきたのだ。父の、あるいは父の死についての、たくさんの原稿の依頼やテレビやラジオのインタビューや取材から。私にはまだ、父の死は個人的な出来事で、誰かに話して聞かせることなど、とてもできない。父から逃げているのに、結局父の影に憩っている。

「木崎さんはどうするの?」

「一回お風呂に入ってきます」

「うん」

 頷いて、自宅の文机よりも少し低い机で仕事を始める。電車の中で色々と考えていたので、筆はいつもよりも進んだ。インクの乾ききらない文を自分で読んで、私は書くことが好きだ、と、確認する。自分の考えが外に出て、それを誰かが読む、というのが、好きなのだ。生き物としての私に適したことを、仕事にしている、ということ。さまざまな、数えきれないような幸運によって、それを得られた。私はおそらく、恵まれているのだろう。私は恵まれているのだ。重々、承知している。

 自分の中にたまった考えをすべて出し切る前に、なんとなく筆を置いた。ここにいる間、いつでも気が向けば何かを書いていられるようにしていたい。そうは言っても私にとって仕事というのはそううまく調整できるものでもないので、書かずにいたらそのまま忘れてしまうかもしれないけれど。

 鞄の底から本を引っ張り出す。八冊持ってきた。座布団を半分に折って枕代わりにして横になる。ほとんど読んだことのない分野の本、評判がよくて気になっていたまだ読んだことのない作者の本、面白いだろうと信頼ができる作者の本、それから一冊、何度も読んで私の心になじんだ素敵な本。これだけ揃えておけば大丈夫だろう。読書の面では快適に過ごせる。

 まず気持ちを新しくしようと、ほとんど読んだことのない分野の本、現代美術についての新書を手に取った。何も知らないに等しかったけれど、語り口がよいので、なかなか面白い。

「ただいま」

 五十ページほど読んだところで木崎が帰ってきた。浴衣を行儀よく着て、髪は少しだけ湿っている。

「いいお湯でしたよ」

 私は立ち上って、木崎のやや血色のいい頬に触れた。

「すべすべ」

「もう効果がありますか?」

「すべすべ」

 木崎は面白そうに自分でも頬に触れる。

「帰る頃には髭も生えなくなってるかもしれませんね」

「もったいないから今のうちに触っておくね」

「どうぞ」

 触りやすいようにか、かがんでくれた。木崎の肉のない顎に、いつもよりは強い力で触れる。柔らかい皮膚の下に、硬い髭が潜んでいる。撫でたついでに、首に腕を回して唇を重ねた。

「すべすべ」

「それはよかった」

 今度は木崎から唇を寄せたので、目を閉じて受け止めた。


 長めの滞在なので、食事は普通に用意されるものよりも質素にしてもらっている。なじみの宿なので、そういうことも言いやすい。今日は鮎の塩焼きが出た。木崎がごはんをおひつからよそってくれる。

「いい鮎ですね」

 頷く。すらりと精悍ないい鮎だった。ひれや尾の飾りのような塩。いただきますをして、食べ始める。骨を取ろうかと迷って、結局頭から齧りついた。面倒なのだ。私はエビフライの尻尾を食べる種類の人間だ。父もそうだった。

「豪気ですね」

 木崎はひれを取り、箸で身を押し潰し、頭を背骨ごと引き抜いた。そうすると骨がなく食べられるのだ。

「上手だね」

 母もこれが上手だった。青葉も。私は何度やってもうまくできないので、諦めた。

「ゆすらさんの分もやりましょうか?」

 鮎は二匹あるので、一匹はまだ手つかずだ。私は首を振った。

「頭も結構おいしいよ」

「なるほど」

 木崎は二匹目の骨も同じように綺麗に引き抜いた。

 鮎の身は他の魚に比べてきめが細かいというか、可憐な感じがする。塩味のあとの、さっぱりとした甘味。そう好んで食べる魚ではないけれど、夏にはやっぱり夏の魚が美味しい。

「綺麗ですね」

 海老と野菜の寒天寄せの皿を持ち上げて、木崎が言う。寒天がとても澄んでいて、光に当たるとちょっと神秘的なぐらい綺麗な一品だった。

「真似してみようかな」

「熱心だね」

「熱心というか、好きなんです。外で食べたものを自分で作ってみるのが。ゆすらさんは、そういうことないですか」

 ゆすらさんは、そういうことないですか。

 私は一拍置いて、箸を置いて、答えた。

「ある」

「はい」

 木崎は穏やかに、でも嬉しそうに、微笑んだ。そういうことは、あった。こういう気持ちを、文字にして、物語にして、誰かに味わってほしい、と感じることは。

「私も熱心だね」

「まったくです」

 思いがけずに投げ込まれた素敵なものを、そっと手のひらで受け止めて、自分の奥深くにしまう。

「明日、何しようか」

「ゆすらさんお仕事は?」

「そこまで詰まってないから、丸一日かかるようなことじゃなければ」

「じゃあ、お散歩しましょう」

 頷いて、綺麗な寒天に匙を入れる。ここにきてよかった。木崎を見ると、目が合った。二人で同時に笑い合う。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る