第40話 闇に消えた龍馬

 弘化三年(1846年)の夏は、ひどい猛暑であった。


 幸は、春先より寝込むことが多くなり、最近では母屋に顔も出せない。

愛猫のチビが、桜の散るのに合わせたように死んでから

気落ちしたのか、微熱が続いた。

食も細り、身体は痩せ細り、長兵衛をはじめ家族全員の悩みの種となった。


 お盆も近いある日の夜

その日は、長兵衛も安芸に出張り、兄弟も出払っていた。

奉公人達も盆休みとなり、家内では、幸と龍馬の二人きりであった。


 「りょうま・・・りょうま・・りょう・・」

母のかすれたような声を聞きつけ、龍馬が離れの座敷に向かうと

幸が息も絶え絶えの状態で、手招きする。

顔面は、蒼白である。


「りょうま、悪いけんど、桶を持って来て・・」

「桶?桶をどうするが?」

「かまんき、早う持って来て」

龍馬は、理由もわからぬままに、風呂場から桶を持ってきた。


 「持ってきたぜ。どうするが?」

「うん、ここへ、ここへ」

枕元に置かれた桶に、無理やり身体を捻った幸は

たまらず喀血した。


 龍馬は、腰を抜かしそうになって、後ろに飛びのいた。

激しい出血であった。


母の口から、ドボーッという感じで、赤黒い鮮血がほとばしっている。


お母が死ぬ!!

龍馬は、たまらず叫んだ!!


「うわあーお母!お母!」

「りょうま、小西先生を呼んで来て・・・」

口の周りを鮮血で染めて、まるで妖怪のような表情の幸が絞るような声を出した。

「よっしゃ、まかしちょき。すんぐに呼んでくるき」

龍馬は、玄関を走り出た。


 猛烈な檄走であった。

母親が死んでしまう。どうしよう・・・。


 恐怖と不安と焦りが入り混じり、龍馬は、自身気がふれるのではないかと思った。

走る途中で、草履の端緒が切れた。

裸足で走った。龍馬の生涯で、これだけの走りは、生まれて初めてであった。


 小西先生の家の門は閉じられていたが、竹垣なので

身体ごとぶつかり破壊した。

表戸を思い切り叩いた。

「先生!助けて!!お母が死ぬ、お母が!」


何事が起きたのか、小西先生はすぐに察した。

「龍馬!落ち着け!幸さんが血を吐いたか?」

「ものすごい血じゃあ。死んでしまう、死んでしまう。先生早う来て!!」

「おうおう、直に支度をするきに、龍馬、これを持っていに。

これを急いで幸さんに飲ますのじゃ。わしもすぐに後を追うきに」

先生が差し出した赤色の紙で包んだ頓服は

さきほどの母の鮮血を象徴していた。


 龍馬はその薬を懐にして、再び家をめざした。


 龍馬の裸足の足裏から、出血が始まった。

走りながら龍馬は泣いた。

顔がぐしゃぐしゃである。


 前が見えないくらいに涙が溢れ出してきた。


猛烈な走りで、何かを叫びながら龍馬は走った。


途中で鏡川の橋を渡った。


夜の鏡川は、しんと静まり返り、淡々と清流を運んでいる。


視界の一部にその川の流れを垣間見た龍馬は叫んだ!

「なんじゃあ、なんぜよ。 おかあ!死なんといてえ!!」


 夜の闇は、何も応えない。

龍馬が走りぬく土佐の町の闇は、まさに時代の闇であった。


 その闇の中に龍馬は、全身でぶつかって行った。

闇は、大きな時代の変化の闇であった。


「うぎゃあ!!」 叫びながら走る龍馬。

その後姿に闇が追いつき、龍馬を包むように隠した。

龍馬は、時代の闇の中に消えた・・・・・。

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