第33話 水練上達

年号が、天保から弘化元年と改まった。

龍馬は、十歳になった。


 南国土佐の桜が、ようやく咲き始めた頃に

坂本家の風呂場では、乙女の叱声が飛んでいた。


 「りょうま、もっと辛抱せんといかん。はい、もういっぺんやってみいや」

桶に水を入れ、その中に顔を入れて我慢する、言わば潜水訓練である。


「そうそう、どうしても我慢できんところから、我慢が始まるがよ」

「口から息を吐いて、ぶくぶくしてみいや。そうそう」


 龍馬は、今年の夏こそ、鏡川の堤から飛び込みたいと念願している。

その為には、水の中で自在に動けるようになりたい。

水を恐れぬ男になりたいと思っていた。


一人で稽古するよりも、乙女姉やんに教えてもろうた方が

長く辛抱出来る。

やるたんびに、自分が強くなっていくような気がした。


 「まだ二人は、風呂場かよ。まだ春じゃに、ようやるわ」

「おとうが風呂入るき、そろそろ仕舞うように言うてきとうぜ」

女中にせかされて、二人はやっと稽古を終えた。


 「まあ、去年よりは、数段強うなっちゅうねえ。

けんど、鏡川で潜ってみんと何とも言えん」


乙女の話に頷きながら、龍馬は今朝、父から見せてもらった「世界全図」を

思い出していた。


「これが、世界ぜよ龍馬。世界はのう、こればあざまな姿をしちゅう。

おまんがおる土佐は、ここじゃ」

「何と!こんなこんまいとこに、おるがあかよ」

「そうじゃあ、日本の国は、こっからここまで。ちんまいもんよ」

「土佐はここかよ?」

「そうじゃ、土佐は、ここからここまでじゃわよ」

「ちんまいのう・・・・・」

「そうよ、こんなちんまいとこで、なんじゃ、かんじゃやりゆうがあよ」

「へええーーっ、なんかわからんけんど、世界ちゅうのはすごいのう!」

「そうじゃ、この青い所は全部海ぜよ」

「ほおおっ、土佐の南は、ぼったり海じゃあ!」


「今、二人で稽古しゆうことが、役に立つ日が必ずくるぜよ」

「げにまっこと、すごいもんじゃのう!」

その夜は興奮して龍馬は何度も寝返りを打った。


・・・海に出るためには、まず鏡川で自在に泳げねばならぬな。

龍馬は、夏が待ちどうしかった。


 普段の年は、梅雨が明けてから泳ぎ始めるが

龍馬は、肌寒い梅雨の合間に泳ぎ始めた。


 時には、長兵衛が、川岸で焚き火をしてくれて

泳ぎも潜りも十歳とは思えぬ上達を見せた。


 しかしながら、堤からの飛び込みだけは

まだ出来ない龍馬であった。

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