壱の戦 ≪ 想う女 ㊥

 




■ 陽向ケ原高校2年1組の生徒

  国仲くになか 凛輝美りるみ ── 続ける





 この上唇を綺麗だと褒めてくれた少年に本気で依存した、中学2年生の国仲凛輝美。愚かなほどに若く、欠点を褒められれば無邪気に嬉しがった。


 下校の際は必ず待っていたし、宿題にもつきあい、受話器に呼ばれればこっそりと家出をして灯の街を駆けた。求められて唇を許し、痛いだけだったけど肉体も許した。彼の求めに素直に応じ、彼を喜ばせることこそが自分の幸せだと信じた。


 だから、教室でのセックスにも応じた。


 夜、誰もいない教室の海で、国仲は唇を差し出し、肉体を差し出した。その時にも、彼は小声で綺麗だと褒めてくれた。それが嬉しくて、くすぐったくて、まぶしくて、1+1の机の舟から宵闇の海へと、国仲は自らジャージを脱ぎ捨てていった。


 宿直の先生に見つかった。


 宿直という概念が頭から抜けていた。


 夢中だった。盲点だった。


 唐突に廊下に灯が点り、慌てふためく間もなく教室にも灯が点った。銘銘の電灯のスイッチが近接していたことが国仲の命運の尽き。


 唖然のロマンスグレー。絡みあう男女もまた唖然とし、しかし言い逃れできる道理があろうはずもない、アラレもない姿。


 そこから先の記憶が抜け落ちている。


 気づけば、漠然と天井を見つめていた。


 義務教育だから停学も退学もなく、厳重注意というヒアリング不能の読経を受けただけだったが、両親の達ての希望でしばしの自宅学習に──軟禁状態になった。単に、両親の不安が解消されるまでの保護観察の扱いである。


 事実上の不登校。


 外出なんて論外。


 携帯電話も没収。


 彼とは音信不通。


 いちいち携帯電話の番号なんて控えていなかったし、固定電話のほうにかけるのは、彼の親に出られる可能性が怖くて無理。


 担任が熱心に分厚い参考資料プリントを届け、自宅学習には困らないはずだった。でも、依存するべき彼は傍らにおらず、ゆえに自失状態、手垢のつかない冊子がうずたかく積まれていくのみ。


 朝は白、昼は黄色、夜は黒──自然界に依存する天井の心変わりを漠然と見つめる毎日。


 依存の彼はいない。


 すがる彼はいない。


 裳抜けの殼。


 殻っぽ。


 友達はひとりも見舞いに来なかった。ちょうど流行り始めのインフルエンザということにされ、だから誰も訪れないのだと殻の頭にぼんやりと思う日もあった。


「折れるなよ。凛輝美」


 1ケ月が経ち、父親はそう告げた。


「なにをされても。なにをされなくても」


 渋そうな顔、不味そうな顔だった。


 国仲には、その言葉の意味がちっとも理解できなかった。いや、理解しようと努力する感情がなかった。ともかくも、父親に付き添われて中学校へと向かうこととなった。国仲本人の意志とは無関係に、一方的に登校が再開されたのである。


 校長室の前で父親と別れ、いまだに現状を把握できないまま、国仲は漠然と担任の背中を追っていた。ゾンビのようにふらふらと、草臥くたびれたワイシャツの皺を数えながら。


「国仲にわからないことがあったら教えてやるように」


「わからない」と口にしなければわからないことが他人にわかるはずもない──変な日本語を担任は並べ、席へと促す。もちろん訂正を求める気もないので、国仲は促されるままに自分の席へ。


「……キチガイ」


 女のウィスパーが鼓膜をかすめたような気がする。席に着く直前だったか。


 国仲は、もともと大人しい少女だった。寡黙ではないが、彼女の辞書に「率先」という言葉は存在せず、学校という賑やかな社会の片隅でひっそりと趣味を語るだけ。皆に知らしめてやりたい自分などなく、一部の、カラーの合う子だけが知っていてくれればそれでよかった。逆に言えば、その一部の彼女たちが国仲の数少ない舞台だった。


 無視シカトされた。


 カラーの合わない子はもとより、合っているはずの親友たちからも、なにも話しかけられなかった。


 むろん、国仲のほうから話しかけていれば少しは違う展開だったのかも知れない。でも、1ケ月ぶりのことだし、心配そうにして彼女たちのほうから話しかけてくれることを大人しく望んだ。


 誰も近寄ってこなかった。


 居ない人のようにされた。


 またも漠然と、国仲は黒板を見ていた。


 しかし、打ちのめされたわけではない。胸のどこかにはまだ、彼という一縷いちるの望みがあったのである。


 依然として携帯電話は没収中、だから、昼休みに久し振りに席を発つと、自らの足で彼の教室へと赴いた。久し振りに、またこの唇を褒めてくれると信じて。


 彼は、居なかった。


 机が離島になっているだけだった。


 近くにいた男子に彼の所在を問う。


 すると、


「チ○ポさらけだすのが快感になったからフィールドワークに行ったんじゃね?」


 仲間たちと嘲笑ったのである。


 さらに、


「で、誰の机の上でナ○出しされたの?」


 軽蔑の白いまなざし。


 不登校の理由が、知られていた。


 駭然がいぜんとして言葉を失った。と同時に、国仲は父親の忠告を解した。あの、渋そうな、不味そうな忠告を。


『なにをされても。なにをされなくても』


 慌て、すがって、彼の席を見た。


 彼は、居なかった。


 まだ、居なかった。


 折れた。


 心が、音を立ててし折れた。


 彼に、圧し折られた。


 教室へと戻るなり、誰とも視線を合わせることなく鞄を拾うと、逃げるように校舎を飛び出す。溶きようもなく固まったままの驚愕の表情、そして蝋燭のように白い顔で校門を抜け、競歩のスピードで最寄り駅へ。


 ずっと、冷たい耳鳴りがしていた。


 誰の、どの声も、聞こえなかった。


 墜ちてきそうな曇天。しかし国仲の視界はまっ白で、むしろ彼女のほうが天へと、雲海へと墜ちていたのかも知れない。それほどまでに重力を感じられず、ふらふらと夢遊病患者の千鳥足。


 駅の手前、知らないうちにSuicaを握りしめていた。あたし電車に乗るんだ──初めて気づく。それでも、無目的なままに改札を抜け、流されるように電車へと乗りこみ、流されるようにJRへと乗り換え、流されるように渋谷駅へと着いた。


 緑色の車体を漠然と見送りながら「だからなんだ」と思った。渋谷になにがあり、なにが待っているのか、予想もせず、ただ漠然と訪れてしまった。


 自宅へと帰る気にはならない。ひとたび登校してしまった手前、すごすごと帰宅して両親を心配させ、面倒なやり取りになってしまうことが恐かった。整理しきれないこの心に勝手に変な理由をつけられ、その理由を根拠にして勝手に縛りつけられる展開が恐かった。


 自宅でなければ場所はどこだっていい。混沌カオスの極地である渋谷であれば身も心もまぎれられるだろうと、恐らくは無意識に期待したのだろう。


 耳鳴りは、まだ晴れない。


 ホームの駅看板をぼおっと眺める。


 どれも賑やかな色づかいなのに、静か。


 と、線路を挟んで目の前の看板、冬物のコートを羽織っている華奢な女性モデルに目を奪われた。


 艶のある唇を、柔らかに尖らせている。


 いわゆる、アヒル口。


 だけど、なんか似合ってない。


 なにが似合わない?


 どこが似合わない?


「あぁ……まっすぐだからだ」


 上唇の中央から、左右の、口角に至るまでのラインが弓形ゆみなりであればあるほど、自然な女性の色気を男性は感じ取るのだという。ぷっくらとふくよかな曲線カーヴを描いているほど、膨らみがあるほど、触れてみたいという欲求を刺激されやすいのだと。そしてそれが最も真価を発揮する形状フォルムこそ、いわゆるアヒル口なのだと。


 しかし、無情なことに人間の肉体のつくりは様様。まっすぐなラインを生まれ持った女性がどんなにアヒル口を模倣したところで、男性からは、むしろ計算高い女で、てらう女で、媚びる女だと見做され、容易く白けられてしまうのだという。


『アヒル口は万人に平等の武器じゃない。神に選ばれた唇の女性だけが持つ特権。まさに究極の黄金率』


 そう熱く語ったのは、彼だった。


『リルの唇は、だから綺麗なんだよ』


 黄金率だかなんだか知らないけど俺の好みだから綺麗だって言ってよ──国仲はその時、そう愚痴って唇を尖らせた。でも、そんな理屈クレームもどうでもよかった。綺麗だと褒めてくれる彼との日常こそが唯一無二の黄金率。


 モデルのナンチャッテアヒル口から目を逸らさず、穴が空くほどに凝視しながら、国仲は無意識に自分の上唇を捲る。右の人差し指の腹を押しつけ、取りとめもなくムニムニと捲る。


「会いたくないの?」


 彼は、居なかった。


 一縷の望みを持ち、すがりたくて会いに行ったのに、彼のほうにはまだ、国仲にすがるための準備もしていないらしかった。


 ひとりでなにができる。


「会いたくないの?」


 また綺麗だと褒めてくれれば、


「あたしに」


 何倍にもして返してあげられるのに。


「会いたくない、の?」


 ひとりでなにができる。


「会いたかったのに」


 唇を捲りながら、涙を落とす。


「会いたかったのに」


 唇を凝視しながら、涙を落とす。


「会いたかったのに」


 なにかをされて、なにかをされなくて、折れ、だから、彼に居てほしかったのに。


 周囲の罵詈雑言などどうでもよかった。いや、むしろ罵倒してくれることで、よりいっそう彼との愛を深められるだろう、彼さえいてくれたのならば──そんな期待だってできるのに。


 彼は、居なかった。


 まだ、居なかった。


 もう、居なかった。


「まだ」と「もう」が、同義になった。


 信じていた。


「会いたか、た」


 裏切られた。


 蝋燭の炎のように、ぼんやりと歩を踏み出す。黄色い点字板を踏み、白線を踏み、それさえも越えた。


「ちょ、おい!」と、どこかから緊張した声が聞こえたような気もする。


 でも、耳鳴りは晴れない。


 もしも、


「悲しんでくれる?」


 もしもこの唇が原形をなくしたら、彼は悲しんでくれるのだろうか。


 もしも。


 潰されたら。


 引き裂かれたら。


 グチャグチャになったら。


「悲しんでくれる?」


 悲しんでほしい。


「ねぇ」


 悲しませたい。


「悲しんで?」


 看板が、斜めに。


 アヒル口も。


 ふぁん──警笛。


 危な!──警告。


 きゃ!──裂帛れっぱく


 知るもんか。


 あたしより。


 ブサイクな。


 こいつより。


 ブサイクな。


 唇に。


 なってやる。


 なってやる。


 なってやる!


 と──その時のことだった。


 左の上腕に猛烈な痛みが駆けた。万力に圧縮されたようなヘヴィな痛み。


 何者かに掴まれたようだった。しかし、痛みに反応する暇もなく、国仲は左腕ごと背後へと引っ張られ、


「なッ!?」


 振り返ろうとした矢先、今度はなぜか、線路を目掛けて押し出された。


 黒ずむ枕木。


 黒ずむ軌条レール


 黒ずむ犬釘ボルト


「きゃぁあぁあッ!」


 絶叫をあげた途端、自然と両膝が折れた。その十数㎝の目前を緑色の鉄塊が勢いよく横切り、突風が右頬を殴打し、直後に国仲は、再び背後へと引っ張られて強かに尻餅をついた。


 きしいいい──ブレーキの軋む音。


 は。は。は──自分の細かな呼吸。


 それから、


「立ちなさい」


 割って入った、女の声。


 ギターのような声。


 あと、仄かなカモミールの香りも。


「聞こえなかったの?」


 震える顔で振り返る。


「立・ち・な・さ・い」


 キャメルのスリッポン。白いソックス。肌理きめの細かなまっ白なスネ。リネン素材の若草色のワンピ。胸にさがる、それよりも薄い緑のストール。そして白い首が覗き、その上に、小さな顔。


 小さな顔、には、


「今度はちゃんと落としてあげるから」


 傷。


 左眉から左頬にかけ、1本の巨大な傷跡がおりていた。係る眉毛と睫毛を掻き消し、顔の内側へと平懐なだらかなカーヴを描く傷跡が、確かな足取りでおりている。


 反対の、右のまなじりには小さな黒子ほくろ


「あなたの自殺を幇助ほうじょしてあげるから」


 まるで、三日月と星。


 手術なしでは消せないだろう、ふたつの衛星に言葉を失う国仲。その直後、彼女の脳裏を占めていたのは「顔は女の命」という絶望的な標語に他ならなかった。


 なんて可哀想な、傷跡と斑点。


 しかし、同情するも束の間、


「ふ。ヘッピリ腰が偉そうに」


「え?」


 まるで村治佳織むらじかおりの奏でるジムノペディ、郷愁をそそるギターの音階へと視線を向けた刹那、再び国仲の頭は固まった。


「死ぬに死にきれない理由を模索するのが十代ティーンという種族」


 なんて美事な、アヒル口。


「パッとしない人生だった、でも、今日も死ぬには惜しい日だった──てね?」


 上唇の中央から左右の口角に向かって、ふっくらとした下弦の曲線が伸びている。だからか微笑んでいるように見え、余裕を感じ、包容力を感じ、吸引力を感じた。


 下唇にもまた充分な厚みがある。瑞瑞しい真紅に潤んでいる。


「宗教に依存してみようとも思わない体験意欲の欠如した面倒くさがりどもが、生だの死だの、充実だの無駄だのと偉そうに」


 少女が、瑞瑞しく嘲笑っている。


「で、いざ線路を目の前にすれば高らかに悲鳴をあげて足をすくませる。深刻そうに自殺を仄めかせられる話芸の達人ともあろう者が、不意に轢殺れきさつされそうになってみればよもやのヘッピリ腰」


 眉尻があがり、目尻はさがり、それから長い睫毛と綺麗な二重瞼──サーバルのようで、風の透明感があって、小悪魔のような瞳。


 そんな危険リスキーな瞳が、不意に、かッと大きく見開かれた。


「アハハなにその醜い顔!?」


 くらく輝く、三日月と星。


「共感されたい欲望、慰めあいたい欲望、すがりつきたい欲望で元気な顔」


 満面の輝きをころんと傾げて、


「希望的観測だけは立派な顔」


 枝のような腕を柔らかく組み、


「でも努力はしない汚物の顔」


 小悪魔が、斜に構えて慢罵まんば


「不細工すぎる。なるほどペースト状になったほうが綺麗でいられたかもね」


 瑞瑞しいアヒル口がしなう。


「あなたみたいな不細工な顔をした女の死化粧にペーストなんて持ってこいよ。でもまぁ、あなたごときのひとりやふたりがこの世から居なくなったところで結局は誰の胸も痛まない。いちおう社会人らしく真剣な顔で黙祷ぐらいはするだろうけど、でもそんな雑務も3日で飽きるでしょう」


 その瑞瑞しさが悔しくて、悔しくて、


「会いに行ったもんッ!」


 国仲は我を忘れ、いや、ただの我になって叫んでいた。


「やっと会えると思って会いに行ったのに、もう居なかったんだもんッ!」


 涙が溢れ、塊になって頬を転がる。


「努力したもんッ!」


 悔しい。


 綺麗だと褒めてもらった唇を、この無礼な少女に、簡単に不細工だと蔑まれ。


 悔しい。


 綺麗だと褒めてくれた彼が、人生を分かつ大切なこの日に、どこにもおらず。


 悔しい。


「勝手なこと言わないでよぉッ!」


 すると、少女は急に腕組みを解き、腰を屈め、襲うように国仲の領頚えりくびを掴んだ。そして両腕の力で無理やりに引き起こす。華奢な身体からは想像もつかないほどの、慣れた力の使い方だった。


 カモミールの急襲に、再び言葉を失う。


 163㎝の国仲と同じ高さに、涙で霞む視界の中に、でも、少女の艶やかな頭部が3Dのようにくっきりと浮かんでいる。


 白練しろねり、漆黒、小豆、紅緋べにひ、菖蒲、青磁、瑠璃、珊瑚──和名も相応しい落ち着いた色たちが、瞼に、頬に、唇に、下地に、慎ましく乗っている。


 黒髪はまっすぐにおり、顎のラインで綺麗に揃えられ、前髪バングスもパッツンの、いわゆるおかっぱ。ただ、毛先は几帳面にかれてあるようで、重たい印象はない。エアリーな内巻きに整えられてある。


 大人びているし、幼くも感じる。


 同年代?


 と、燦然と輝く三日月と星が、第6弦を弾かせて問うた。


「で?」


「え?」


「会えない時にこそ会わなかったの?」


「え?」


 思考が、


「ヤット会エルだの、モウ居ナカッタだの、会えない束縛にはちゃんと従いましたって物言いにしか聞こえないんだけど」


 自我が凍った。


「家出をしてでも」


 そんなことは、


「親を殺してでも、這ってでも、会いに行こうとはしなかったの?」


 しなかった。


「解放され、会えるチャンスを与えられて会いに行くことを努力するとは言わない」


 できるわけ、


「勝手なことを言わないでちょうだいね」


 なかった。


「勝手に悲劇に浸らないでちょうだいね」


 なぜそれを、


「相手はもっと悲劇かも知れないのにね」


 しなかった?


「自分さえよければそれでいいわけだ?」


 できないと、


「なんてかがみなんだろう、あなたって人は」


 決めつけた?


 すると少女は、ようやく領頚から両手を放し、コレ見よがしに顎をあげ、


「でも、死にきれないのなら死にきれない、生きざるを得ないのなら生きざるを得ないでハッキリなさい。中途半端は見苦しいわ」


 再び、満面の嘲笑で見くだした。


「今日も死ぬには惜しい日だったと御都合主義を構えてみて、とりあえず死ぬのを延期してみて、ちょっとだけ手首を傷つけてみて、生存確認してみて、結果、明日もまた充実の憂鬱依存症ブルーメンタルで生き延びてしまう種族こそ、ティーンという多数主義マジョリティ少数派マイノリティなのよ?」


「あなたも、その──」


 語尾を遮り、国仲は訴えていた。


「ティーンのひとりじゃないんですか?」


 涙はすでに乾き始めている。その代わり、少しだけ喉がいがらっぽい。


 一瞬、驚いたような表情をする少女。


「あたし?」


 しかし、すぐにもとの上から目線で、


「あたしはね?」


 こう明言した。


「自分さえよければそれでいいの」


 愕然とする明言。


「人の気持ちを考えないって楽よ? 人を傷つけるのは楽しいし、嫌いな人の心を壊すのは悦びでしかない。それが父親ならば母親を蹂躙じゅうりんしてやるし、母親ならば赤ちゃんを凌辱りょうじょくしてやる」


 もう、どんな言葉も出てこない。


「第三者の優しさだけがカロリーで、その分量で生きた心地の左右される喜劇の悲劇王と一緒にするのはよしてちょうだい。自分さえよければそれでいいクセに、孤立するのも怖いとか言いだすような臆病チキンな偽善者どもと一緒にするのはよしてちょうだい」


 三日月と星、瑞瑞しい紅唇こうしん、サーバルの軽やかさ──少女の持つ神秘的な印象と暴言との落差ギャップに圧倒され、国仲にはもう、呆れてみせる知恵が、嘆いてみせる知恵が、寂しい人だと非難してみせる知恵が、つまり自我を保つための防衛策が、ひとつも思い浮かばなかった。


「あたしは悪よ? 悪人とティーンを一緒にするのは良質ナイスな判断じゃないわ」


 と、ちょうどその時、男の駅員が割りこんできた。


「どうしました!? 大丈夫ですか!?」


 顔は蒼ざめ、肩が上下している。


 思わぬ来客に驚くも、おかげで、ようやく国仲の視界に渋谷駅が蘇生する。


 人類でせ返る、いつも通りの窮屈な世界。慌てて走るには障害物の多い、肩の上下も已むを得ない世界。奇異の目の輪が国仲を取り囲み、でも無関心な波の乱入を招き、いまいち輪になりきれていない世界。


「5分の遅延か。大丈夫じゃないわね」


 他人事のように呟く少女。すると、直後に彼女の背後から、


「よー。奏帆なほさんじゃん!」


 ガラガラ声の女が声をかけてきた。


「どしたの?」


 金髪のウェービーロング、色黒、原形をとどめていない濃厚メイク、お尻のあたりにまでスリットの入るパープルドレス、ほとんどこぼれ落ちたかのような胸の谷間──チャラつくシルバーピアスやゴールドブレスレットといい、国仲とは別次元の住人なのだろう年齢不詳の黒ギャル。


「人身? 人身? 脳とびでた?」


「飛び出ない。娯楽にもならないヘヴンズドアのピンポンダッシュよ」


「なほさん」と呼ばれた少女が相変わらず他人事のように答えると、ギャルもまた、


「え。ピンポンダッシュで終わったの!? あんだよぉ走って損したぁ。グロいのアップして炎上できると思ったのにぃ!」


 負けじと他人事のように叫ぶ。


 それで、国仲の気分は萎えた。


 絶望を超えた、虚無感だった。


 すべてがバカバカしくなった。


 自分が。両親が。教師が。級友が。学校が。それから、彼が。


 そういえば、ざわめく観衆の中にも、少女のものと思われる名前が飛び交っている。


 羨望を帯びる、ざわめき。


「あれ、奏帆さんだ」

「奏帆さんじゃね?」

「奏帆さんカワイイ」

霊界堂奏帆れいかいどうなほ──スゲぇ苗字」

「奏帆さんしかいねぇだろ、こんな場面にいる人って」


 渋谷では有名人らしい。


 いや、やはりどうでもいいこと。


「あの、だ、大丈夫、ですか?」


 怖気おじけづいている駅員の心配も。


 もう、どうでもいい。


「じゃあ奏帆さんカラオケしね?」


「しない。声に出して読まれたい第三者の自己顕示欲を歌ってあげる趣味はないわ」


 黒ギャルの誘いを簡単に断ると、少女はおもむろにこちらへと1歩を寄せ、


「じゃあね、不細工なティーンさん?」


 そう言い残し、華奢な背中を向けた。


 彼女にとっても、国仲の生き死になんてただの暇潰し、どうでもいいことのよう。


「不細工……か」


 いかにも心配そうにできている駅員から顔を背けると、国仲は振り返る。


 駅看板、あの、不細工なアヒル口を見ておきたくなった。


 最後の砦を。


 が、振り返った国仲を待っていたのはモデルの貧相な媚態ではなく、安否確認が取られるのを待ち焦がれている緑色の箱と、安否のリアクションも曖昧なままの国仲に向けられる「死ねよおまえ」という乗客の視線だった。





   【 続 】




 

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