第40話 揺らぎ

夢の中で、これは夢だと分かっている。


この光景はいつ見たものか――これは、そう……最後に帰った時のことだ……。



強さを増した初夏の光が、レースのカーテン越しに差し込んでいる居間。その壁際に置かれた飾り棚の上に、今までティムに贈った小さな木彫りの動物がいくつも並べてあった。下に敷かれた大きな白い画用紙には、水色のクレヨンで力いっぱい塗りつぶされた大きな丸や、緑と黒のもこもことした線が所狭しと描かれていた。


リーベンはジーナにこの絵の意味を訊いた。


『動物たちが暮らしているところなんですって。湖や森を描いたんだ、って』


そう言ってから、ジーナは可笑しそうに声を潜め、目配せした。


『黒いのは森だって言ってるから。変なこと言っちゃだめよ』


リーベンは不思議に思い、ティムを引き寄せて訊ねてみた。


『黒を使って森を描いてみたのか?』

『うん。だってパパが前に教えてくれたでしょ。向こうの森は黒いんだよ、って』


そう言ってティムは得意そうににっこりとした。

針葉樹の森は、遠くから見ると黒く見えるんだ――リーベンはいつかそう話して聞かせたことがあったことを思い出した。


黒い森の上に仲良く向かい合わせに置いてあるリスの親子、湖のほとりに置かれた水鳥、黄緑色の草地の上のキツネ――木彫りの動物たちを思いついたように手に取っては、画用紙の大地の上で飛び跳ねさせたり走らせたりしていたティムが、頭を巡らせて傍らのリーベンを仰ぎ見た。


『ねえ、パパのいるところって、どんな感じ?』

『そうだなあ……』


リーベンは記憶をたどった。すぐさま思い浮かんだ凄惨な光景を除け、厳しい行軍の合間にふと心に染み入ってくる景色を手繰り寄せてゆく。


『そう――とても綺麗なところだ。丘が幾つも幾つもずっと向こうまで続いていて、ところどころにまっすぐな木ばかりが生えた森がある。春になると、丘一面に黄色い花が咲くんだ。花が終わる頃になると、今度はそれが一斉に白い綿毛をつける。その中を歩いていくと、足元から数えきれないほどの綿毛が飛び立って、まるで小さな雲が地面から湧きあがってくるように見えるんだ』


ティムがうっとりとしたように溜め息をつく。


『いいなあ。僕も見てみたい――。でも、そんなきれいなところで戦争してるなんて、もったいないね』


ティムが口にしたあどけない感想に、リーベンは一瞬言葉に詰まった後、息子の無邪気な表情を丁寧に目でなぞりながら静かに頷いた。


『――ああ。そうだな』


ティムはしばらく、クレヨンが擦れてところどころに何色もの色がついている動物たちを小さな手でいじくりまわしていたが、何か素敵なことが頭に浮かんだようでぱっと目を輝かせた。 


『そこには美味しいお菓子、ある?』

『どうだろうなあ……』


子どもらしい移り気で唐突な思いつきに、思わずリーベンは苦笑した。戦闘が繰り返される生活の中で、菓子のことなど考えてみたこともなかった。


『それじゃあ、今度探してみるよ』



ふと目が覚める。

いつもの薄暗い室内で、いつものように明かりの灯っていないシャンデリアが目に映る。その、優美な曲線を描く黒いアームが、暖炉の炎を受けてちらちらと鈍く光っているのが見えた。


リーベンはそっと顔を動かした。

ベッドの脇で、クルフが足を組んで煙草をふかしながら、ナイトテーブルに置かれたシェードライトの元で本を読みふけっていた。

暖炉の前ではイリーエナが洗濯物を干している。どこからか持ってきた棒を何本か家具の間に渡して、とりあえずの物干し場にしたようだった。高価な調度品で整えられた部屋の中で、包帯や下着やタオルなどが隙間なく干されたその一角だけはひどく所帯じみて見えたが、不思議と落ち着く風景だった。


リーベンは視線を戻すと、もう一度枕元のクルフを盗み見た。本に目を落としているクルフの瞳は暗く影になっていたが、暖炉で薪が爆ぜ、明々あかあかとした光を放つ度に、その瞳には透き通った群青色が閃いた。


「――クルフ大尉」


小声で呼びかけると、クルフは本を開いたまま目だけを上げてリーベンを見た。


「このあたりで名物の菓子といったら、どんなものがあるだろう」

「菓子ですか?」


まったく脈絡のない質問に、クルフがあからさまに怪訝そうな顔で聞き返した。明らかにクルフもそういった類のものとは縁遠いように見えた。


「……この地方のことは分かりませんが――」


少しの間考えてから、クルフが言った。


「首都サリューシュのあたりでしたら、郷土料理でパヴィシュという揚げ菓子があります。小麦粉に砂糖や卵、バターを加えて混ぜたものに、ナッツや干しぶどうをたっぷり練りこんで油で揚げ、最後に粉砂糖をまぶしたものです」


リーベンは思わずまじまじとクルフを見た。初めて聞く郷土菓子の話よりも、クルフが作り方まで知っていることのほうに興味を引かれた。リーベンは感心して言った。


「驚いた。随分詳しいんだな」

「昔からよく街の出店で売られているのを見かけます。私は食べたことはありませんが」

「君がそういうことに関心を持って見ていたことがあるなんて、意外な感じがするよ」


クルフは好奇心を覗かせたリーベンの視線を受けて迷惑そうに眉をひそめると、読んでいた本を閉じ、ナイトテーブルの上に置いた。改めて椅子に座りなおしてリーベンに向き直ると、指に挟んだ煙草を口元に持っていきながら、ぞんざいな様子で訊ねた。


「それで、突然菓子の話とは、どういう訳ですか?」

「息子に訊かれたことがあったのを思い出したんだ、ここにはどんな菓子があるのかと――子どもは無邪気なものだな」

「あなたの国は豊かだから、無邪気でいられるのです。しかしこの国では、その日その日を生き抜くことで精一杯の子どもなど珍しくもありません」


そう言ったクルフの顔にも言葉にも、不自然と思えるほど何の感情も見られなかった。それがかえってリーベンの意識に引っかかった。それ以上の一切の詮索を拒むような表情のクルフを見つめたまま、考えに沈む。


混血であるこの男……路上で売られている菓子の作り方は知っているが、自分は食べたことがないという……生き抜くことに精一杯の子ども……。


「――君も、そうだったのか?」


そっと訊ねると、リーベンに向けられたクルフの眼差しが険しくなった。

リーベンは自分の推測が正しいことを悟った。そしてこの時初めて、冷淡で常に悠然と構えたこの尋問官の脆さを垣間見たような気がした。

だが、あえてそこに付け入ろうという気は起こらなかった。この混血の男がたどってきた道のりの険しさを想像するうちに、彼は呟いていた。


「……今まで君は、随分努力してきたんだろうな」

「何をいきなり」


クルフは肩をすくめて視線を宙に投げ、嘲るように言い捨てた。話を打ち切りたい様子だった。だが、リーベンは静かに続けた。


「混血であるというだけでためらいもなく殺されるこの国で、君は堂々と生き残ってきた。今の立場まで昇るためには、言葉では表せないほどの努力と苦労があったはずだ。そしてこれからも――」


自分に注がれる鋭い視線を受け止めながら、リーベンは訥々とつとつと続ける。


「君には、失敗は許されない。だから君は今回も、何としても俺から情報を取り、結果を示し続けなければならない……」

「何をおっしゃりたいのですか? 取引でもしようというおつもりですか?」


まるで身構えようとするかのように腕を組み直し、煙草の煙を勢いよく吐き出しながら、苛立ちを隠せない口調でクルフが言った。


「いや――そうじゃない」


リーベンは目を伏せて小さく溜め息をついた。うまく言葉にできない自分がもどかしい。


「どう言ったらいいか――常に全力で疾走し続けるのは、相当に苦しいものだ……。厳しい状況の中で、それをし続けている君を尊敬すると言いたかったんだ」


ゆっくりと言葉を選びながらそう言ったとたん、クルフが目を見開いた。その頬にさっと赤みが差す。僅かな間、硬直したようにじっとリーベンを見つめるだけだったが、我に返ると突き放すような態度で口ごもるように呟いた。


「――あなたがおっしゃったとおり、生き残るためです」

「大変なことだろうな」


リーベンがそう言うと、クルフは不愉快そうに眉根を寄せて睨んだ。


「懐柔しようとしても無駄ですよ」


今度はリーベンがクルフを見つめる番だった。考えてもみなかったが、確かに、今の自分の立場でこの尋問官にそんなことを言えば、媚を売っていると受け取られるのももっともだろう。


ようやくそう気づいたリーベンは苦笑交じりに言った。


「そう思われても仕方ないが」


クルフは顔をしかめたまま、なおもきつい眼差しでリーベンを睨んでいたが、おもむろに立ち上がってナイトテーブルの上に置いていた本を取り上げると、無言で踵を返して部屋を出て行った。

洗濯物に囲まれたソファーに腰かけて静かに本を読んでいたイリーエナが顔を上げ、足早に立ち去るクルフの後ろ姿を不思議そうに見送った後、訝しげな面持ちでこちらを見やった。

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