シャンプーを終えて、俺とシムさんは城の廊下を歩いていく。


 この後は、執務室でご主人と一緒に茶を飲むんだ。と言っても、俺の目当ては茶じゃなくて茶菓子の方。毎日色んな奴が出てきて、ご主人が「食べろ食べろ」って口元まで運んでくれる。ついでに抱っこもしてくれるから、ドーンとした胸に顔が埋もれてそりゃあもう極楽ですよ。俺の足取りも軽くなっちゃうよ。


「メータ様ー。あんまり跳ねてると、またコケちゃいますよー」


 大丈夫っすよシムさん。俺、前より四足歩行に慣れましたから。最近じゃ滅多にコケませんから。本当マジで。という気持ちを込めて、スキップしながら一鳴きしてみる。シムさんは苦笑して、「気を付けて下さいねー」と言うだけ。『うーっす』と返事をし、俺は意気揚々と進んでいった。


「――そうか。それは素晴らしい事だ。我が国も見習わなければならないな」


 不意に、ご主人の声が聞こえた。

 どこからだと耳を澄ませば、どうやら前にある曲がり角の右の方かららしい。いくつかの足音もする。アイリーンさんの声もした。


 俺は嬉しくなって、ご機嫌な足取りのまま走り出した。後ろからはシムさんが「あ、お待ち下さーいっ。廊下は走っちゃ駄目ですよーっ」って言ってるけど、聞こえないフリをする。

 大丈夫ですって。ご主人は絶対怒んないっすもん。寧ろ俺が飛び着いたら、嬉しそうに撫でてくれるっすもん。


 俺は洗い立ての毛を揺すりながら、右の角から出てきたご主人目掛け、思いっ切りジャンプした。


「はぐぅ……っ!」


 ら、ご主人の手前にいた兄ちゃんに、間違って頭突きをかましてしまった。


 崩れ落ちる兄ちゃん、もとい、ワインバーガーとかいう美味いんだかマズいんだか分かんない国の王子様。

 蹲る王子様の周りに、お付きのおっちゃん達が一斉に群がった。


「クッ、クライヴ様っ。大丈夫でございますかっ?」

「誰かっ、誰か医者をっ!」

「う、うぅ……っ」


 大騒ぎするおっちゃん達の横で、途方に暮れる俺。

 どうしよう。取り敢えず謝っておこうか。

 この度は大変申し訳ありませんでした王子様。思いっきりぶつかってしまいましたが、股間の方は無事でしょうか?


「メ、メータ様ーっ、駄目じゃないですかーっ」


 シムさんが慌てて走ってきて、立ち尽くす俺を抱き締めた。


「もー、だから言ったでしょう。気を付けて下さいってー」

『う、さ、さーせん』


 流石に申し訳なくて項垂れれば、シムさんは眉を下げて唇を噛んだ。その顔は、少し焦っているようにも見える。


「おいっ、貴様っ!」


 王子様の傍にいたおっちゃんの一人が、こっちを見た。目をつり上げて、めっちゃ怖い顔をしている。

 勢い良く立ち上がったおっちゃんに、俺はビビって後ずさった。俺を抱くシムさんの腕も、一層力が籠もった。


 肩を怒らせて、おっちゃんが一歩足を踏み出す。大きく息を吸い込み、眉を顰めて口を開いた。


 そうしたら、いきなり俺とおっちゃんの前に、何かが入り込んできた。

 ヒュって風を切る音もする。


 直後、シムさんが、俺ごと吹っ飛んだ。


 壁にぶつかって、凄ぇ痛そうな音を立てて、シムさんは俺を抱いたまま、廊下の隅に蹲る。


「……貴様、一体何をしておったのだ」


 聞いた事もない声が、廊下一杯に広がった。


「妾が命じたのはメータの世話だぞ。廊下を走らせる事でも、客人とはち合わせる事でもない」


 怒鳴ってもないし、全然大きな声じゃないのに、凄い、怖い。


「己の職務をはき違えるな」

「っ、も、申し訳、ございません……っ」


 シムさんは俺を下ろすと、廊下に片膝を付いて頭を下げた。殴られた所がまだ痛いのか、片手を床に付いて体を支えている。


 そんなシムさんを一瞥し、ご主人は王子様とおっちゃん達を振り返った。


「すまない。妾の飼っておるオヴィスが、大変失礼をした」

「あ、ミ、ミルギレッド王女が、飼っていらっしゃるのですか……?」

「あぁ。名をメータと言う。メータ」


 手招きされ、俺はシムさんを気にしながらもご主人の元へ行った。

 何となく不安で体をご主人の足に寄り添わせれば、笑い声と共に背中を撫でられる。


「どうだ、愛らしいだろう? 妾にとても良くなついていてな。妾の姿を見つけると、一目散に走ってくるのだ。それで物にぶつかるのは日常茶飯事。足も頻繁に滑らせておる。その都度言い聞かせてはいるのだが、これが中々上手くいかなくてな。妾も困っておるのだよ。まぁ、それだけ妾を愛しておるという事なのだろう」


 ご主人は大げさに溜め息を吐いて、首を横に振った。


「どうだろう。ここは飼い主の力不足という事で、どうか許してやってはくれないか。こ奴とて、悪気があったわけではない。ただ愛する妾の元へやってきただけなのだ。そうだろう、メータ?」


 頭を撫でられ、俺は咄嗟に擦り寄った。その通りだとばかりに甘えた声を上げて、いつも以上にご主人に纏わりつく。

 廊下に、メェメェと俺の鳴き声がよく響いた。


「し、しかしですな。ミルギレッド王女」

「よい、ロッド」


 蹲っていた王子様が、立ち上がる。


「少しぶつかっただけだ。大事ない」


 そう言って爽やかに笑ったけど、内股で、しかも周りのおっちゃん達に支えて貰っている辺り、多分大事なんだと思う。

 流石に悪いなぁと思い、伝わらないかもしれないけど、一応謝っておこう。


『王子様、さーせんっす』

「ん? 何ですか、メータ殿?」

『悪気はなかったんすよ。本当っす。不慮の事故って奴っす』

「もしかして、謝って下さっているのですか?」


 そうっす、という気持ちを込めて、「メェ~」と一つ鳴いてみる。

 すると王子様は、口元をつり上げて爽やかさを増した。


「ふふ、こうして可愛らしく謝られては、許さぬわけにはいきませんね」

「ではクライヴ王子。メータを許してくれるか?」

「えぇ、勿論です。元より怒っているわけでもありませんし、飼い主を慕うメータ殿のお気持ちを考えれば、当然の事とも思います」


 それに、と王子様は続けて、ご主人を見つめた。


「愛する者の元へ少しでも早く向かいたい。それは人間も動物も同じです。もし私がメータ殿であっても、きっと周りを気にせずあなたを求めて駆けていたでしょう。ですから、良いのです。許します」


 王子様は、どことなく意味ありげな眼差しをしている。

 それを向けられたご主人は、ゆっくり瞬きをしてから、笑顔を張り付けた。


「そう言って貰え、妾はとても嬉しい。感謝するぞ、クライヴ王子」

「いえ、自分の正直な気持ちを言ったまでです」

「ワインバーガー国の人間はとても心が広いのだな。まるで豊かな土壌を象徴しているかのようだ。そうは思わないか、メータ?」

『え、いや、よく分かんないっすけど』

「そうかそうか。お前もそう思うか」


 ご主人は張り付けた笑顔のまま、俺の頭を撫でていく。ちょっと怖くて後ずさったら、ご主人は逃がすかとばかりに俺の体を抱き上げた。


「では、クライヴ王子。申し訳ないのだが、妾はこれより部下の躾をせねばならぬ。茶会はまた今度という事にしよう」

「そうですか。残念ですが、仕方ありませんね」

「すまない。この埋め合わせは必ずする。アイリーン。クライヴ王子を部屋にご案内しろ」

「……畏まりました」

「では、クライヴ王子。また」

「はい、また」


 会釈をする王子様にご主人は一つ頷くと、俺を抱えたまま歩き出した。


「こい」


 一切シムさんの方を見ずにご主人は言い捨てる。

 シムさんは俯いたまま立ち上がり、ご主人の後を付いていく。その頬は、紫色に腫れていた。

 離れていく俺達を、アイリーンさんは見送る。一瞬顔を歪めてからすぐに真顔に戻して、王子様達をどこかへと連れていった。


 廊下を歩く音だけが、妙に大きく響く。誰も何も言わない。いつもだったら何かしら喋ってるのに、ご主人もシムさんも、固く口を閉じている。

 それが不安で、俺は小さくご主人を呼んだ。でもご主人は、俺の黒い毛を撫でるだけで何も言ってくれない。笑ってもくれない。


 どうしよう。

 俺は体に当たるご主人の胸に浮かれる余裕もなく、ただ大人しくご主人に抱かれた。足と首を縮込めて、ニコニコ顔じゃないシムさんを見据える。


 そんな状態でしばらく進んでいくと、執務室に到着した。ご主人は無言で部屋の中に入る。シムさんも、それに続いた。

 パタン、という音が、静かな室内に落ちる。


 途端、大きな溜め息が、二つ零れた。


「いやー、危なかったですねー、ミルギレッド様ー」

「全くだ。下手したら、外交問題に発展していたぞ」

「ですよねー。ありがとうございますー、助かりましたよー」


 今までの重々しい空気が、どこかに吹っ飛んだ。

 シムさんは首を揉みながら左右に倒している。ご主人は俺を抱えたままソファーに埋もれた。


 ……あ、あれ? ご主人、怒ってたんじゃないんすか? シムさんも、殴られたのに何あっけらかんと笑ってんすか?

 突然の変化についていけない俺。そんな俺を置いて、二人は向かい合って座りながら凄ぇ普通に喋った。


「しかし、驚いたぞ。まさかあのタイミングでメータが飛び出してくるなど」

「私もびっくりしましたよー。しかもぶつかった場所が場所じゃないですかー? いやー、笑えなかったですねー」

「そうか? 妾は中々面白かったぞ? あそこまで綺麗に頭突きが極まると、逆に清々しいもの感じるのだな」

「それはミルギレッド様が女性だからですよー。あれを体験した事のある男は、大抵が身の竦む思いをしましたってー」


 シムさんは口を開けて笑い、すぐさま顔を顰めた。紫色に腫れた頬を手で覆って、唸り声を上げる。


「うぅー、しかしミルギレッド様ー。いくらあちらを黙らせる為とはいえ、少々やり過ぎなのではー? 軽ーく当てて頂ければー、後は私の方で痛がる演技でも何でもやりようがあったと思うのですがー」

「何を言う。こういった事は本気でやらねば、どこかでボロが出るかも知れぬではないか」

「それはそうかもしれませんがー、殴られる方の身にもなって下さいよー。これじゃあしばらくは食事も満足に取れませんよー」

「我慢しろ。それで話が穏便に済むと思えばどうって事はないだろう。名誉の負傷だ、名誉の負傷。なぁ、メータ?」


 ご主人は膝に乗せた俺を撫で、笑う。

 さっきみたいに張り付けた笑顔じゃなくて、いつも通りの綺麗な笑み。


 それを見てたら、急に体の力が抜けた。


 ペショっと太腿に張り付いて、ビブラートと一緒に息を吐き出す。グリグリと頭を擦り付ければ、ご主人は笑いながら頭の毛を撫でてくれた。


「いやー、でも本当に良かったですよー。あちらのお付きの方々もヤル気な感じでしたしー、クライヴ王子が許して下さらなければどうなっていた事かー」


 シムさんは花瓶の水を操って、持っていたハンカチを濡らした。余分な水は元に戻し、頬に付けて腫れを冷やす。


「多少のいざこざはあったかもしれないな。だがまぁ、大丈夫だったと思うぞ? 立場としては一応こちらの方が上なわけだし、あちらも事を荒立てて、今の友好関係を壊そうなどとは考えないだろう」

「それでも、万が一って事もあるじゃないですかー? だから本当にホっとしましたよー」


 そう言ってシムさんは肩と眉を下げ、小さく苦笑いを浮かべた。


 俺、そんなにヤバい事しちゃったのか。ただ王子様の股間に頭突きしたっていう話じゃなかったんだ。

 何だか申し訳なくなって、俺はご主人とシムさんを見やる。


「ん? どうしたメータ?」

『あの、ご主人。さーせんっす。迷惑掛けちゃって。シムさんもさーせん。今度からはちゃんと周りをよく見てからジャンプするっす』


 羊なりにメェメェ謝ると、ご主人は俺の顎の下を掻いた。


「なんだ、妾と喋りたかったのか?」

『ちょっと違うっすけど、まぁそんな感じっす』

「そうかそうか。お前は本当に甘えん坊だな」


 ご主人はご機嫌に笑って、俺の体を持ち上げる。胸に凭れされるようにして、両手に抱え込んだ。


「ところでミルギレッド様ー? 私の処分はどうされるんですかー?」


 向かいに座るシムさんが、小首を傾げてご主人を見る。


「一応躾の名目でこちらに連れてこられたわけですからー、何かしらしておいた方が良いのではー?」

「良い良い、そんなものいらぬわ。妾は寧ろ褒美をやりたい位だ。クライヴ王子との茶会もなくなり、このようにメータも愛でられ、妾は非常に気分が良い。よくやったぞお前達」

「ですが、形だけでも何か罰を頂けないですかー? ほら、そうしないと、ワインバーガー国の方々も納得がいかないでしょうしー」

「まぁ、そうだな。ならば、本日はこの部屋より出る事を禁ずる。ここで妾からのそれはもう激しい叱咤と折檻を受けているという事にしておこう」


 ご主人は一つ頷くと、顎に手をやり天井を仰いだ。


「ふむ。そうと決まれば、早速それらしい鞭や縄でも持ってこようか。蝋燭なんかもあると更に雰囲気が出るな」


 一人で楽しそうに計画を立てるご主人。

 なんかそれ、違う意味のお仕置きになりませんか。

 あれですか。SとM的なアレですか。


「……失礼します」


 不意に、部屋の扉がノックされた。

 見れば、アイリーンさんが中に入ってきたところだった。手には箱を抱えている。


「おぉ、アイリーンか。クライヴ王子の様子はどうだった?」

「王子本人は特に何も。ですが従者の方々は、少々不満を抱えているご様子です」

「そうか。まぁ、適当に菓子でも贈り機嫌を取っておけ。後は、本日の夕餉の際、クライヴ王子には特別に白ネウサを使った料理でも出してやるがいい」

「畏まりました。それと、クライヴ王子が次のお茶会の日程を気にしていらっしゃいましたが」

「では、明後日の新しいドレスに合わせる髪飾りの打ち合わせ後に設定しておけ」

「ですが、その日は他のご公務も入っておりますが?」

「だからだ。妾は、茶会など限りなく早く終わらせたいのだ」


 ご主人は鼻を鳴らして、俺を絨毯に下ろした。立ち上がり、扉へと向かう。


「姫様、どちらへ行かれるのですか?」

「シムを折檻しているように見せ掛ける為の道具を取ってくる。その間、お前はシムの手当てをしてやってくれ。メータ、行くぞ」

『うっす』


 ご主人の後を追い掛け、俺は部屋を出ていく。どこに行くのか分からないけど、取り敢えずご主人のバーンとした尻を眺めながら歩いた。


 と、突然ご主人が立ち止まる。

 後ろを振り返り、俺の体を抱き上げた。


「よいかメータ。しばしの間、静かにしておるのだぞ?」


 ご主人は俺の口をチョンと指で叩くと、廊下を逆行し始める。まるで俺が父ちゃんのエロ本を盗み見ようとリベンジを掛けた時のように、足音を殺して進んでいった。


 執務室まで戻ってくると、ご主人は扉の前にしゃがみ込み、耳を押し付けた。俺も真似して耳を扉に付けてみる。

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