十話 父親という人

 実加子さんはケダモノみたいに荒い息を吐きながら、華子と俺をにらみつけている。この状態で華子と話し合いをしようなんて気にはならないでしょ?

 どうしよう……どうしよう……。

 ここは俺が……俺が、なんとかしないと?


「あ、あの……、とにかく、一回華子の話を聞いてやってくれませんかね?」

「ああ? なんで私がこんな女の話なんて聞かなきゃなんないの?」


 ライオンににらまれたガゼル気持ちが、今なら分かった。

 それでも俺は頑張る。


「いやでも……大事な話が……」

「どうせ、ユキと結婚してもすぐ捨てられるって話でしょ? 男は裏切る生き物だ、とか言って」

「まぁ、その……」

「あのさ、華子……」


 百獣の王みたいな視線を自分の娘に向ける母。華子も負けじとにらみ返す。

 実加子さんが言う。


「確かにあんたの父親は、私達を捨てて逃げていった。でもね、そんなのはあんたが三才の時の話なんだ。十七にもなって引きずんな」


 そう言われて華子が口を開く。


「三才の時だけじゃないの」

「なにそれ?」


 口答えされて実加子さんがさらに不機嫌になる。

 華子が抑制された口調で言う。


「私があの男に最後に裏切られたのは、ほんの三カ月前のことなのよ」

「はぁ?」


 実加子さんの声には少し動揺が含まれているように、俺には聞こえた。


「始まりは一年前、私が高校一年の時よ。その頃も私は日課のようにお母さんにいじめられていた」

「いじめっていうか、コミュニケーションでしょ?」

「私はいい加減うんざりしていた。お母さんは娘をいじめる悪い奴なのよ。じゃあ、お母さんがいっつも悪く言ってる父は逆にいい人かもしれない。そんなふうに思って、父と連絡を取ることにしたの」


 華子の言葉に実加子さんが焦ったように聞く。


「連絡ったって、そんな連絡先なんて分かんないでしょ?」

「衣装タンスの奥の奥にあったお母さんの手帳に、父の今の住所が書いてあったわ。『なんかあったらここに突撃!』って」

「あっ! あれ……あれ、見つけたの?」


 実加子さんが目に見えて焦っている。視線からキツさがなくなっていた。


「私は父に手紙を書いた。まず父の今の様子を聞いて、後はお母さんの愚痴を並べ立てたの」

「なんでそんなことするんだよ!」


 実加子さんが頭をかきむしる。

 華子は淡々と話を続けた。


「父からはしばらくして返事があったわ」

「返事? 返事なんて寄こしたの、あいつが? なんてあった?」

「父は元気に過ごしてるってあったわ。そして、私の境遇に同情してくれた。……でも、会うことはできないって書いてあった。会ったのがバレたらお母さんがいっそう酷いことをしてくるに違いないって。そのとおりだと私も思ったわ」

「……それで終わりだよね?」


 指でイライラとテーブルを叩きながら実加子さんが確認してくる。


「メールアドレスが書いてあった。これからはメールでやり取りしようって」

「……手紙だと家族にバレるからだよ。だからすぐに捨てられるメアドを教えてきたんだ」


 そう言って、実加子さんは奥歯をきしませた。


「その時はよく分かっていなかった。父とやり取りができてうれしかったわ。お母さんの言ってた悪口は全部デタラメで、ホントのお父さんはいい人なんだって思った。私のことを今でも大事に思ってくれてるんだって」

「そんなわけないでしょ!」


 拳をテーブルに強くぶつける。それには構わず華子は続けた。


「それから父とやり取りをした。父は本当に優しかったわ。私の愚痴を聞いてくれて、なぐさめてくれた。あんまり優しいから、私は、父に会ってみたいって……思ってしまったの。それが今年の春休みのこと」

「バカかお前!」


 実加子さんが苛立たしげに立ち上がった。


「……白いワンピースを着ていったわ。私が唯一持っている、父と一緒に写ってる写真。そこで私は白いワンピースを着ていたから。父を驚かせようと思って、なにも言わずに家を訪ねたの」

「バカバカバカ! 最悪のパターンだっ!」


 うろうろと実加子さんはテーブルの前を行ったり来たりする。華子は静かに語り続けた。


「……家は一戸建て。父は私とそう変わらない年の女の子と、植木の手入れをしていたわ。父が脚立を支えて、女の子がその上で剪定せんていを。楽しそうに笑い声を出しながら。私は見てはいけないものを見てしまったと思った。このまま帰るべきだと思った」

「帰れ帰れ帰れ……」


 実加子さんはブツブツとつぶやいている。華子が上ずった声で言う。


「でも、つい言ってしまったの、『お父さん』って」

「バカヤロウ!」


 実加子さんが食器棚を蹴りつけた。中の食器が音を出す。


「父は驚いた顔をしたわ。そしてすぐに脚立の上にいる女の子を家に入らせた。その子は私が何者なのか、全く分からなかったようね。父が私のところまで来た。……その時の父の顔」


 華子が俺の方を向く。悲しそうな顔で俺を見つめる。


「心の底から嫌そうな顔をしていたわ。その存在をすっかり忘れていた借金取りが、急に目の前に現われたような顔ね」

「そうなるに決まってんだろっ!」


 実加子さんが華子に背を向けて叫ぶ。


「私は激しくうろたえた。女の子を見てもなお、期待していたから。喜んで迎えてくれるって」

「そんなわけないでしょ! あいつが……どんな奴かって、いっつも言ってたろ!」

「父は私に言ったわ。『いくらほしい?』って」


 華子は俺に向かって笑おうとしたようだが、うまくいかなかった。泣きそうな顔になっただけ。

 俺はとっさに父親の言葉の意味が分からなかった。


「どういうことなの、それって?」

「自分の財布をポケットから出した父は、そこから三万円を出したわ。それで『これっきりにしてくれ』って言ったの」

「財布の中には、まだ札があったろ?」


 実加子さんが背を向けたまま言う。


「まだまだあった。その中から五万円を出しかけて、二万円を戻したわ」

「え? どういう……」

「華子は感動の再会を期待した。でもあの男は、とっくの昔に捨てた女が小遣いをせびりにきたと思った。あいつはそういう奴なんだ」


 実加子さんの声は暗かった。

 華子がつぶやく。


「男は女を裏切るのよ」


 華子が何度も繰り返してる言葉だ。

 俺は締め付けられたみたいに胸が苦しくなった。

 実加子さんが勢いよく振り返る。目を赤く充血させていた。


「バカだよ、あんたは! なんでそんな勝手なことしたんだよ!」

「お母さんのせいでしょ!」


 華子が立ち上がって叫ぶ。

 実加子さんが後ろによろめく。食器棚にぶつかった。

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