第34話 青嵐、そして恵風 6

 ♪♪♪


 間違いようのない着信音に風花の動悸が早くなる。

 ——しまった! あっちゃんのことで、すっかり今日の約束のこと、頭から消えてしまてった!

 既に樹との約束の時間から三十分以上経っている。ふるえる指で風花は受信ボタンを押した。

「も、もしもし?」

『風花! 何かあったの?』

 切羽詰まった樹の声。それはそうだろう。風花は今まで樹との約束を破ったことはない。待ち合わせに遅れたこともないから、こんな時の連絡は最小限ですんでいたのだ。樹が心配するのも当然かもしれなかった。

「ちょっと突発事態があって……あ、あの樹君?」

『突発事態? 風花は無事なのか?』

「あー、私は平気。どっこもなんともない。ただ、今日は行けなくなる感じで……」

『……行けないってどういうこと? 風花様子が変だ。今どこにいる⁉︎』

「あ、うん。私は平気。ただ……友だちの宮崎梓さんって子が急に倒れてしまって。多分急性盲腸炎なんだろうっていうことだけど。今、病院にいるの」

『病院? どこの? 友だち?』

 樹らしからぬ矢継ぎ早の質問に、風花はいよいよたじたじとなる。

「市内のJ病院。それであの……宮崎さんのお家に連絡取ろうとしたんだけど、今のところつながらなくて。たとえ連絡がついてもT県だから、こっちに来るのも時間がかかるだろうし。だからあの……えっと、そういう訳で今日は会うのは無理になりました」

『……』

「あの……ごめんね」

『J病院なら、K駅からそんなに遠くない。俺も今から行くよ』

「あ、それは大丈夫。永井さんっていう、陶芸講習の世話役の人が責任持ってついてくれてるの。信頼できる人だよ。それに小川君も心配して一緒にいてくれるの」

『小川さんもそこに……けど、そんなに人がいるなら、何も風花まで付き添わなくてもいいんじゃないの? 看護師さんだっているんでしょ?』

 樹の声が低い。

「……でもやっぱり、そういう訳には……だってやっぱり宮崎さんは女の子だし、男の人には言いにくいこともあるし。そりゃ看護師さんはいるけど、たった七日間でも仲良くなったんだから、何かの縁だし。家族が来るまでは付いていてあげないと。私……、私やっぱり今はここを離れられない。今日は行けないよ、ごめん!」

『……それは俺に会いたくないってこと?』

「違うよ! こんなの想定外のことだし、責任者の永井さんに、これ以上負担はかけられないってことで……」

 風花は樹に会えない本当の理由を、説明できない自分がもどかしかった。

 樹は鈍感な風花でもわかるくらい、鋭く小川を警戒している。風花が彼に長い間、片思いしていたことを知っているからだ。しかも数日前、風花は彼に告白されたことも伝えてしまい、樹の中で小川の印象は最悪になっているだろう。

 今こんな状況で二人が会うのは、絶対によろしくない。いくら鈍い風花でもそれだけは避けたかった。

「本当に、ごめんね? 連絡できるようならするから」

『……』

「樹君……?」

 風花の声が震えた。

『……風花がそういうなら、仕方ない。今日は引き下がる』

「ごめんなさい……怒っているよね?」

 電波越しに伝わる固い声に風花はもう涙声だ。

『正直いうと、少し酷いと思ってる』

「……」

 ぽろぽろぽろ。

 なんと言っていいのかわからなくなって、黙り込む風花の頬を大粒の涙がこぼれ落ちた。

「本当に、ごめんね?」

『いいよ、風花が気の済むようにすればいい。俺は構わないから』

「そんな言い方って……」

 その時、風花の握り締めた携帯がふいに奪い取られた。

「え⁉︎」

 驚く風花の目の前で信じられないことが起きている。

「おい! お前、何様だか知らないけど、オンナ泣かしてんじゃねーよ!」

 小川が形のいい眉を逆立てて、風花の携帯を握りしめて叫んでいるのだ。

『お前、誰だ?』

「おぅ、俺は小川って言う吉野の古い友達だよ!」

 怒りを秘めた声音にも臆することなく、小川は怒鳴った。

「いいか、今は緊急事態! 事情を聞いたんだろ⁉︎ 逢い引きすっぽかされたぐらいで、ネチネチ文句言ってんじゃねーよ! 吉野は自分のできることをしようってんだ、それぐらいわかってやれ! 落ち着いたら連絡させる。ちっせぇ男と思われたくなかったらそれまで黙って待っとけ。じゃ、切るぞ!」

 ピッという音とともに、電話が切られた。

「お、おが……わ君?」

「いや、ごめん。俺お節介だったな。でもお前、すっごく悲しそうな顔して泣いてたからさ。つい腹立って……悪かったよ」

 バツが悪そうに小川はふいっと目を逸らした。明るい日差しに茶色っぽい髪が輝くのを風花はぼんやり眺めた。

「おい吉野、お前大丈夫か?」

「……」

「吉野って!」

 肩を掴まれてハッとする。よほど惚けていたのだろう、風花の瞳の焦点がやっと小川の顔に合わさった。

「え? ああ、うん。大丈夫。あの、悪いけど……これ」

 風花は預かった宮崎の個票を小川に差し出した。

「宮崎さんのお家に連絡してみてくれるかな? まだ連絡取れてなくて」

「それはいいけどさ……お前、ほんとにいけるの? すごい顔してるぜ。なんなら俺からアイツにもう一度電話してやろうか? ちゃんと謝れるしさ」

 小川の言葉に風花は思わず両手で頬を押さえる。

「ありがと。でも、連絡は私からするよ。だから、あっちゃんのほうの電話をお願い」

 小川が向こうに去るのを見送って、風花はもう一度樹に電話をかける。

 しかし、何度掛け直しても<この電話は電波の届かない場所にあるか、電源が切られております>という、アナウンスの声が流れるばかりだった。

 ——さっきの今でちっとも繋がらない。きっと私、樹君をものすごく怒らせちゃったんだ。あんなに私を大切にしてくれて、ずっと待っててくれたのに。

 あらためて涙がこぼれる。

 ——今日の事だって決してわたしに無理強いした訳じゃない。私が自分で考えてOKしたんだ。なのに、私の勝手で約束破っちゃって。

 あんなに冷たい声の彼は初めてだった。今までよくからかわれたり叱られたりしたが、あんな冷たい雰囲気では全然なかった。

 ——きっと凄く怒ってる。携帯もオフにするほど怒ってるんだ。もしかして愛想をつかされたのかも知れない。

 風花は繋がらない携帯を握りしめた。古い型のガラケーを。

 ——好きなのにっ……いつのまにかこんなに樹くんのこと大好きになっていたのに……このまま嫌われてしまったらどうしよう!

 燦々と降り注ぐ夏の日差しの中、風花は呆然と立ち尽くした。


 樹は自分が信じられなかった。

 小川に電話を切られるなり、自分の腕がスマホを放り投げ、そして、それがくるくる回りながら駅前広場の噴水に弧を描いて落ちてゆくのを呆然と見送った。

 ポチャン!

 小さな機械はすぐに底に沈んだ。

 怒りが吹き上げ肩で息をしている。目が合った人が、思わず驚いて樹を大幅によけて通り過ぎてゆく、それほど険しい顔を樹はしていた。

 ——くそっ!

 唇が白くなるまで噛みしめる。

 理性的に考えれば、具合の悪くなった友人に付きそうと言う、風花の言うことが正論だった。頭ではわかっている。だが、今日の約束を失って自分でも驚くくらい落胆したのも事実だった。

 ——無条件に信じていた。今夜風花と思いを交わせることを……俺は馬鹿だ! 風花にとって俺はそんな存在だったのか?

 あまつさえ、あの小川にまで馬鹿にされ、諭された。その事が樹をかつてないほど動揺させている。

 ——今頃二人してさぞ笑いものにされているだろうよ。

 限りなく苦い味が口の中に滲む。こんなに失望し腹が立ったのは久しぶりだった。

「くそ!」

 樹は身を翻して駆け出した。



「ダメだ。まだ留守電になってる」

 永井は通話を終了し、ため息をついた。彼は未成年の二人を気遣い、この場の監督者として病院に詰めている。

「まだ宮崎さんの家族と連絡付かないのですか?」

 小川は心配そうに尋ねた。

「ああ、個票に書かれてるこの番号は自宅兼、事務所みたいで、人が残っていそうなはずなんだが、この数時間、誰も出ないな」

「まずいですね」

 ロビーで永井と小川は途方にくれて座り込んだ。


 あれからしばらくして、梓の血液検査等の結果が出、やはり急性虫垂炎、いわゆる盲腸という事が判明した。しかし、梓は未成年の学生で、手術にはよほど命にかかわらない限り、保護者の許可が必要なのだ。

 現在は抗生物質の点滴により、炎症を散らしているということで、痛みもかなり緩和されて梓は眠りについている。一般病室に移され、風花が付き添っていた。

「この病院の連絡先も俺の番号も留守電においたから、誰かが聞けば必ず連絡が届くはずなんだが」

「そうですね。今は待つしかないですね」

「ああ。そろそろ夕方だな。仕事で出ていても、そろそろ帰ってくる頃だろう」

「俺、ちょっと病室を見てきます」

 小川は立ち上がった。


「あ、小川君。今、あっちゃんの目が覚めたところ」

  ベッドに屈みこんでいた風花が顔を上げた。その横に青白い顔の梓もいる。顔色はまだ悪いが、昼の苦しみ方に比べたら随分良くなった。

「ああよかった。宮前さん、具合はどぉ?」

「うん。まだ吐き気と、痛みはあるけどだいぶマシ。でも、こんなことになっちゃってごめんね。合宿が終って、せっかくみんな楽しんでいたのに、台無しにちちゃって」

 梓はいつもの大らかな様子からは想像もつかない、弱々しい声で言った。

「何を言ってる。 俺、何人かに連絡したんだけど、みんなすごい心配してたぜ? 特に土居なんか、飛行機キャンセルするって言い出す始末でさ。あいつだって九州なのにさ」

「え〜ホントに?」

「うん、私も電話替わったから知ってる。ずいぶん、あわててたよ」

「土井君かぁ、いい人だよね」

「それはそうと宮崎さん、実家に電話したんだけど、家と連絡が取れないんだ。なんでか理由がわかる?」

「え? そうなの?」

 宮崎はしばらく考え込んだ。

「夏場はヤマの仕事が忙しい時期だから……でもお母さんは電話番で、大抵事務所にいるはずなんだけど……もしかしたら近隣組合に用事で出かけてるかも。留守電は……」

 梓は顔を歪めながら言った。時折吐き気がこみ上げるらしい。

「留守電にはメッセージ残してある。だけど、組合? 番号わかるか?」

「うん。個票には書いてないけど、携帯にメモリーで残ってるから、ちょっと取ってくれる? バッグの右のポケット」

「大丈夫? 私がしようか? お腹痛いんでしょ?」

 風花が梓のバッグから携帯を取り出しながら言った。

「パスワドあるから私が……あ、これだ」

 宮崎は腕を伸ばして、液晶を小川に見せた。

「でも宮崎さんがかけないほうがいいよ。吐いたらよくないし。あとで替わるにしても、最初は永井さんから連絡してもらったほうがいい。俺呼んでくるよ」

 言うなり小川は病室を飛び出していった。

「小川君、頼もしいね……彼、風花ちゃんのこと好きなんじゃないの?」

 梓は薄く笑って言った。

「うう……今はそんな話は……」

 樹のことを思い出して、風花は胸がきりりと痛んだ。あれから依然として、携帯は切られたままだ。よほど怒っているのだろう。自宅にかけても、無論誰も出ない。

「……風花ちゃん?」

「ああ、なんでもないよ。それより何かして欲しいことない? 喉は渇かない? ちょっとなら飲んでもいいってお医者さんが言ってたし。ポカリとか買ってこようか?」

 弱っている梓に、気を遣わせるわけにはいかない。風花は一生懸命笑顔を作って言った。

「今はまだいらない」

 病室に小川が帰ってきた。後ろに永井氏もいる。

「宮崎さんのお母さんと連絡取れたよ! 今から駆けつけるって!」

「ありがとうございます」

「よかったな。いったん切ったから、自分でもかけたほうがいい。声聞くだけでも安心するだろうから」

 永井が梓の携帯を返しながら言った。

「はい、そうします。ありがとうございました」

 さすがに安心したのか、宮崎はほっとした表情になった。

「今から車で二時間離れた駅まで行って列車に乗るそうだから、着くのは夜中になりそうだって。なんか、組合で企画する観光事業の会議があって、それで事務所を留守にしてたんだって言ってた」

「そうですか……お母さん、そういうの好きだから」

 梓はそういうと自分の携帯を繋げる。三人は遠慮して部屋から出ることにした。


「いや参ったよ。最初、振り込め詐欺と間違えられてさあ、なかなかこっちの言うこと信じて貰えなかった」

「ええ⁉︎ 本当ですか」

「いやほんと。娘を出せとか叱られてさ」

「そういや、あっちゃん、お父さんが心配性で、都会の人には気をつけろって、散々言われたって言ってました」

「俺は都会のオトコじゃないんだけどなぁ。そんなに悪い声かな、俺」

「そうでもないですけど、どちらかと言うと渋めですかね」

「妻も子もいるのに」

「妻や子は関係ないでしょ、この場合」

 一段落がついたということで、やっと場の空気が和らぐ。

 ただ、風花の心中を除いて。



 この午後の間、何度か病院の外に出て風花は樹の携帯に連絡を試みた。しかし、ついに電話がつながることはなかった。もちろんメールも返ってこない。自宅にかけても同じことで、この時間だから普段なら帰っているはずだと思うのだが、何度かけても留守電のまま。

 小川も自分がしたことの責任を感じ、何度か尋ねてくれたが、これ以上よけいな心配をかけたくない風花は、曖昧に答えておくしかなかった。

 もうだめなのかもしれない、そんな絶望的な気分がこみ上げてくる。それは今まで信じていた足元の地面が揺らぎだすのにも似ていた。

 長い夜になりそうだった。

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