第16話 冷えた身体を包むもの

 志野と高岡と別れた後、私は自分の家ではなく、少し寄り道をして鬼島のマンションに向かった。


(きちんとお礼も言えてないし……あのことも、はっきりさせたい)


 何も教えてもらえないかもしれないし、何も答えてくれないかもしれない。正直、鬼島のマンションに着いてしまってから、聞くのが怖くなった。他人にどんな風に思われているのか気にしない、心を無にして生きる、そう決めていたのに。

 自分自身を誤魔化して、勉強に逃げていたのに、鬼島の存在に心を動かされた。

 殺してきた、気付かないふりをしてきた自分の心が、溢れ出して止まらない。


「鬼島さん……」


 十年前と変わらない厳しい双眸と、その奥に隠された優しい心。脳裏に浮かぶ鬼島の姿に、私の口元は緩んだ。

 鬼島の名前を呟くと、ちょうど本人が目の前に立っていた。かなり、不機嫌な顔をしている。これはかなり怒っているかもしれない。


「何してる?」


 思わず悲鳴を上げそうになった。絶対零度の眼差しに射抜かれて、身体が震える。


「あ、あの、鬼島教官に聞きたいことがあって……! いや、その前に、お、お礼を言いたくて!」


 どもりながらも、私はここに来た目的を告げた。そして、ぐいっと鬼島に向かって手を突き出す。その手には、鬼島のために買った珈琲を美味しく飲めるというマグカップを持っていた。


「はぁ……今何時だと思ってるんだ。こんなとこ来る暇があるなら家で勉強してさっさと寝てろ。また倒れたいのか?」


 大きな溜息とともに、呆れた鬼島の声が上から降ってくる。たしかに、鬼島が呆れるのも無理はないだろう。

 修習所を出て、鬼島へのお礼のためのプレゼントを選び、鬼島が帰ってくるこの瞬間までずっとマンションで待っていたのだ。かれこれ三時間ほど。

 

「課題は大丈夫ですよ! 待っている間、終わらせました」


 このまま追い返されたくなくて、私は鬼島を見上げて必死で訴えた。すると、ぼすっと頭に手が乗せられた。頭を叩かれたのだろうか、そう思っていると、今度はその手が左右に動かされた。わしゃわしゃと撫でられ、まとめていた髪の毛が乱れる。

 驚きのあまり何の反応も起こせないでいると、鬼島が私の手を握った。


「馬鹿が。課題の心配はしていない。何時間待った? 風邪引くぞ」


 そう言うと、鬼島は私を自分の家に引っ張り込んだ。

 ソファに座らされ、毛布を投げられ、ぼうっとしている間に目の前にはホットミルクが置かれた。


「……ったく、いくら春だからって夜は冷える。そんな薄着で外で待つなんて、本当に馬鹿だな」


 大人しくホットミルクに口を付けていると、鬼島の小言がぶつけられる。


「で、そうまでして馬鹿な下僕は何がしたかったんだ?」


 ふんぞり返って問うてくる鬼島に、私はむうっと頬を膨らませた。絶対に馬鹿にしている。まともに話を聞く気なんてないのではないか。どうして会う前はあんなに緊張して怖がっていたのだろう。鬼島の素がこちらなのだとしたら、本当に信じていいのか不安になる。というか、ここまで見下されると、むかついてくる。


「な、なんで、そんな言い方するんですか! 鬼島教官には、お世話になってると思って、どうしてもきちんとお礼をしたいと思ってここまで来たのに……!」


「礼など必要ない。お前は何のために自分が俺に下僕扱いされていると思っているんだ? 俺はお前の世話を焼いた代わりに下僕を要求したんだ。ただの暇つぶしに礼なんぞ必要ない。それとも、もっとサービスしてほしいのか?」


「そ、そんなこと言ってませんっ!」


 妙な色気を放ちながら問われた言葉に、私は顔を真っ赤にして否定した。鬼島にとって私はやはりただの暇つぶしの相手なのだろうか。


「そうやって強く否定するくせに、お前は自分から俺に近づこうとするんだな。本物の馬鹿なのか?」


 鬼島の言う通りだ。

 私は鬼島に暇つぶし程度にしか思われていなくても、近づきたかったのだ。

 鬼島は私を下僕と言いながら、何かと遠ざけようとしているのに、それでも近づいているのは私の意志だ。


「……すいませんでした。これ、よかったら使ってください」


 私は紙袋からマグカップを取り出して、机の上に置いた。ちらりとマグカップに視線を向け、私に視線を戻した。


「俺はお前に何もしていない。これは、受け取れない」


 いつもは自分の思うように物事を進めていく鬼島が、首を横に振った。そんなに私の選んだ物が気に入らないというのだろうか。それに、鬼島には与えられるばかりで、私は何も返せていないのに。どうしてそんなことを言うのだろう。


「鬼島教官こそ、お礼の一つぐらい素直に受け取ったらどうですか! 私は、鬼島教官に感謝してるんです!」


 真っ直ぐ、鬼島の瞳を射抜く。鬼島の目は一瞬大きく見開かれ、またすぐにいつもの目つきに戻った。鬼島の眼鏡には、薄っすらと泣きそうな顔で鬼島を見ている自分の姿が映っている。


(あなたがいなきゃ、私はここにはいなかったのに! 何もしてないって、何よ)


 父がいなくなって、母が壊れて、私自身もこの世界に何の感情も抱けなくなっていた。期待するのも馬鹿らしい。信じるものがあるから、傷つくのだと知った。後悔ばかりが心を巣食う。それでも、何もかも信じられなくなった私でも変われると鬼島は言ってくれた。

 本当に変われるのなら、この残酷な世界もいつかは変われる日が来るのかもしれない。

 そう信じられる日が来たら、少しは私の心も光を取り戻すことができるかもしれない。

 忘れているなら、それでいいと思った。

 十年も昔のことだ。八つ当たりして泣きわめいていた少女のことなど、鬼島にとっては数ある事例のひとつでしかない。

 それでも、私に何もしていないと言い切る鬼島に腹が立った。こんなに感謝しているのに、鬼島に憧れて、鬼島の世界に踏み込みたくてここまで頑張ってきたのに、どうしてその鬼島が私の思いを否定しようとするのだろう。

 今日、火事を目撃し、過去の悪夢を見たせいで、あの時の感情と今の感情がリンクする。


「私はずっと、鬼島さんだけを信じて生きてきたんです! もう忘れている鬼島さんには迷惑なだけかもしれないですけど、私は鬼島さんがいてくれたから前に進むことができたんです。それだけのことをしてもらって、私は今また教官である鬼島さんに助けられて……小さなお礼すら受け取ってもらえなくて、わ、私はどうしたらいいんですかっ?」


 私が勢いと感情に任せて泣きながら叫ぶと、鬼島ははっとしたように立ち上がり、私の身体を抱き締めた。

 あの日、母の死に泣きわめいた私を抱きしめてくれた時のように。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る