第13話 失って、見えたもの

「お願いよ、私に茉里を返して……もう、殴ったりしないから!」


 数日ぶりに会った母は、かなり憔悴していた。私が父の代わりに母を守ってあげなければ、そう思った。

 しかし、母の精神状態や生活環境から、娘を家に帰すことは難しい、と調査官は口をそろえた。その上で、鬼島が私に話を聞いた。

 もちろん私は母のところに戻りたいと答えたし、虐待などされていないと事実を否定した。幼い子どもならばまだしも、もう中学生だった私のはっきりとした受け答えと、母の必死な訴えにより、鬼島は一時帰宅を認めてくれた。児童相談所の職員による訪問に応じ、定期的にカウンセリングを受け、もし虐待行為が確認された時には直ちに母と子を引き離す、という条件付きではあったが。


「親が世界のすべてではない。自分の身は自分で守れ」


 児童相談所から自宅へと帰る私に、鬼島が会いに来て言った。母と引き離そうとする敵だと認識していたから、私は鬼島の言葉を無視した。

 私は、自分が虐待されていることを自覚していなかった。

 殴られる母が可哀想で、独り残された母が可哀想で、私がしっかりしなければと思っていた。だから、母の怒りや悲しみを私が受け入れてあげなければ、と。痛みは感じなかった。それに私よりも、私を殴り、暴言を吐く母の方が辛そうだったから。守りたいと思った。

 たった一人の家族。

 本当の父親が誰かなんてどうでもよかった。私にとっては、出て行った父が父親だったから、血のつながりなんてなくても、家族だったから。だから、きっといつか頭を冷やして父が帰って来てくれる。そうすれば、母も落ち着いて、また幸せな家庭に戻れる。私は本気でそう信じていた。

 だから、その未来を壊そうとする鬼島や児童相談所の職員たちは、みんな私の敵だった。


 自宅に戻って数日、母はとても気を遣ってくれた。傷を見ては泣いて謝り、もうしないから、とぎこちなく笑った。そのことが、私にはとても嬉しかった。学校の友人は、何日も休んでいたことや身体のあちこちにできた痣を不思議がっていたが、私はただ転んで怪我をして寝込んでいたと嘘を吐いた。もちろん、学校の先生たちは児童相談所の職員から話を聞いているために知っていたが、そのことがいじめの原因になってはいけない、と黙ってくれていた。

 時々、母の様子を先生に聞かれたが、私は笑顔で大丈夫だと答えていた。

 きっと、何の問題もない日々が日常になっていく。

 変わるきっかけを探していた母は、生活のためにもとパートを始めた。しかし、職場の人間関係にうまく馴染めなかった。それに、夫以外の子を産んだこと、ずっと夫を騙していたこと、娘に虐待をしていたことが噂で広まっていたのだ。


「せっかく前を向いていこうとしたのに、またお前のせいでっ! お前さえいなければ私は幸せだったのに!」


 再び、母は情緒不安定になってしまった。学校を休んだ私を心配して、先生が家庭訪問に来た。そこで、母の虐待が発覚した。私と母は、もう一緒には暮らせなくなってしまった。母と子の別れのために、少しだけ話をすることが許された。


「こんなお母さんで、ごめんね」


 そう言った母の顔は、以前の優しかった母のものだった。私は、首を横にふって母を抱きしめた。母も、強く私を抱きしめてくれた。


「私、お母さんのこと大好きだよ。ずっとお母さんと一緒がいい」


「お母さんもよ。それじゃ、永遠に二人で暮らせるところにいこうか?」


 その時の私にはその言葉の意味が分からなかったけれど、母と一緒にいられるならどこでもいいと思って頷いた。

 直後、母は私の身体から離れてライターを取り出した。いつの間に用意していたのか、油まで持っている。


「……お母さん?」


「茉里、大丈夫よ。じっとしていて。外には私たちを引き離そうとする悪い人たちがいるの。逃げないと、どこまでも追ってくるわ」


 狂気じみた母を前に、私の身体は動けなくなっていた。油が周囲にまかれ、ライターの火がつけられ、あっという間に火に包まれる。母は笑っていた。熱くて、私ははじめて死を間近に感じて怖くなった。誰か助けて、と叫んだ。部屋の外に待機していた職員たちの悲鳴が聞こえる。


「煙を吸うなよ。さっさと外に出ろ! 出て、すぐに消防を呼べ」


 人々が慌てふためく中、冷静に指示を出したのは、鬼島だった。口元を押さえていても、火に囲まれていた私は煙を吸っていて、意識が朦朧としていた。炎に身体を焼かれながらも、狂ったように笑っている母に、はじめて恐怖を感じた。そして、私は母の影が倒れるのを見て、ぎゅっと目を閉じ、自分も死ぬのだと覚悟した。しかし、私の身体は何か黒くて大きなものに包まれて、外に運び出された。


「大丈夫か!」


 頬をぺちぺちと叩かれ、私が目を開けると、目の前には敵である鬼島の顔があった。炎の中を走ったためか、服はところどころ焼けているし、顔は灰で黒くすすけていた。さらに、火の粉のせいか、その整った顔に小さな火傷まである。

 いつも冷静で怖い顔をしていた鬼島が、必死な顔で私に呼びかけていた。混乱する頭の中で、私は鬼島に助けられたということよりも、母を置いてきてしまったということに気付き、炎に包まれる家に戻ろうとした。


「馬鹿か! 死ぬぞ」


 鬼島に止められ、私はただ茫然と燃える家を見ていることしかできない。数分後には消防車が二台来て、放水を始めた。

 かつて父と母と笑顔で過ごした家は全焼し、その瓦礫の中から母の焼死体が発見された。


「……お母さんのところに行かなくちゃ。一緒に死のうってことだったんだ。それなのに、私、怖くて逃げちゃった。待ってて、今いくから……」


 ぽつりぽつりと言葉を落としながら、私はもう焼け落ちてしまった家に近づいた。それを阻むように、鬼島が目の前に立つ。背の高い鬼島を見上げると、彼はひどく傷ついたように顔を歪めていた。この男が私と母を引き離そうとしたせいで、母は死んでしまった。そう思い、私は鬼島を責めた。


「全部、全部、こうなったのは全部あなたのせいだ!」


 叫んで、泣きわめいて、声にならない思いを鬼島の身体にぶつけた。私の拳を、鬼島はただ黙って受け止めていた。私は殴りつかれ、地面に座り込んだ。もうここから動くものか、と。すると、鬼島も目の前に座り、私の目をまっすぐに見据えて問うた。


「君は、何を信じる?」


 今までに聞いたことがないくらい、優しくて穏やかな声だった。その言葉に、洪水のように流れていた涙は止まった。そして、その問いの答えを思案する。

 当たり前だと信じていたものが、簡単に崩れ去った。家族も、絆も、平穏も……。

 父だと信じていた人は父ではなかった。母は私のせいで壊れてしまった。父と母が私を守ってくれるのだと信じていた。私は父と母に愛されているのだと信じていた。

 しかし、戻ってくると信じていた日常しあわせは、炎と共に消え去った。

 私は、信じるものをすべてなくしてしまった。

 なんて残酷な問いだろう。

 ずっと信じていたのに、信じることは無意味だった。奪うことはあっても、私に何も与えてはくれなかった。


(あぁ、この世界は残酷だ)


 手放したい。何もかも。私には、生きる気力さえない。

 諦めた私に、鬼島はさらに言葉を重ねた。


「この世界を変えることは難しい。でも、自分を変えることならできるかもしれない。俺は、これから変わる。だから、君も変われる。俺を信じろ」


 その瞳はとても真剣で、その言葉は私の胸に突き刺さった。この世界の辛い現実を理解した上で、それでも鬼島は信じろという。残酷な世界の変化を受け入れろという。

 そして、私にも変われという。そうして、生きろ、と。


「どうして、変わらなきゃいけないの? 私は幸せだったのに……返して、お母さんを返してよ!」


 もう解放されてもいいじゃないか。母のところへいってもいいじゃないか。幸せだったあの日が戻ってくることはないのだから。


(私には、もう何もないのに……)


 信じるものがないからといって、鬼島を簡単に信じることなどできはしない。私は、もう信じることに疲れてしまったのだ。

 しかし、私の身体の中で鼓動を刻む心臓が、全身に巡る血液が、まだ動いている。自分から動きを止めない限り、この身体はこの世界を生きることができる。

 ふいに身体を包むぬくもりに、また大声で泣きそうになった。すべて鬼島のせいにしていたクソガキ相手に、どうしてこんなにも優しく抱きしめてくれるのだろう。どうして、鬼島も苦しそうなのだろう。

 私を抱きしめる鬼島の腕は少し震えていた。

 身体も心も元気になったら、もう一度信じてみようと思った。

 鬼島が信じているものが見てみたい。

 だから、裁判官になろうと思った。

 法律は万全ではないし、私と母を守ってもくれなかった。

 それでも、鬼島を信じると決めたから。

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