第9話 想像もしなかった

「おはようございまーす……って、どうしたんですか野々宮さん! ひどい顔ですよ!」


 志野の声に顔を上げると、ぎょっとされた。

 昨日から散々なことばかりで、顔には疲れがどっと出てしまっている。鬼島の家でシャワーを浴びた時に化粧はお湯と洗顔でどうにかしたが、化粧品は家の中。どこかに落としてしまった鍵を見つけることは諦めたので、家には入れない。

 だから、今日はすっぴんなのだ。こういう疲労困憊の時こそ、化粧をして気分を変えるべきなのだろうが、何分化粧に不慣れなもので、常に化粧品を持ち歩いたりはしていないのだ。

 完璧に化粧をし、柔らかそうなロングヘアーをゆるふわに巻いている志野を見て、自分の女子力の低さに悲しくなる。


「課題ですか?」


 志野が私の手元を覗き込んで言った。


「ううん、課題はもう終わったから、自習を……」


 鬼島のことを頭から追い出すため、私は一心不乱に勉強していた。

 志野が来たのは、課題の復習をしている時だった。

 この教室に一番に来たのはもちろん私で、そのおかげで朝の静かな時間に一人で優雅に自習ができた。時間を有効活用できていると思ったのだが、志野があまりにも唖然とした表情で見つめてくるので、私はだんだんと不安になってくる。


「……そんなに、顔ひどい?」


 弱々しく尋ねると、志野は神妙な面持ちで頷いた。そして、そこに高岡がやってきて、私の顔を見て頬の筋肉をひきつらせた。誤魔化しようがないほどに、ひどい顔ということだろう。

 そんな姿で鬼島と会うことなんてできない。ただでさえ、怒らせているだろうに。


(あ、また私、鬼島教官のこと考えてる……こんなことで揺らいでちゃだめなのに)


 衝撃的な一日をそう簡単に忘れられるはずもない。鬼島の言動に振り回されて、私の意識は鬼島に乗っ取られる。


「少し休んだ方がいいと思いますよ」


 高岡が心配そうに言った。


「そうですよ! 初日から無理しすぎると持ちませんよ。この前期修習が終われば、次は実務修習なんですから」


 志野も笑顔で頷く。

 そうだ、前期修習の後には実務修習がある。その実務修習が司法修習で一番の学びの場だ。現場で、模擬ではなく本物の裁判を目にする。今までに何度も裁判の傍聴席には座ってきたが、裁判官としてあの席に座って見える景色はどんなものだろうか。

 私は、あの裁判すべてを見渡せる、裁判官の席に座りたい。

 そのためだけに、今まで努力してきたのだ。

 そして、裁判官になれるかどうかはこの司法修習にかかっている。

 つまり、鬼島という存在に振り回されている場合ではないのだ!


「うん。私、もっと頑張らないと!!」


 平々凡々な脳みそしか持たない私には、どんな時間も惜しい。私は拳を握り、宣言した。


「え、今の話でどうしてそういう話になるんですか?!」


「野々宮さんは、本当に努力家なんですね」


 志野が驚いて声を上げ、高岡が穏やかな笑みを浮かべて言った。



 修習二日目。

 グループディスカッションや論理の展開など、自分の意見を主張する機会が多かった。

 それは鬼島の授業でも同様で、民事裁判の一つの判例について皆で考え、自分だったらどういう展開にもっていくのか、という意見を出し合った。そのどの意見に対しても、鬼島の辛辣な言葉が向けられ、一筋縄ではいかなかったが、私が気になったのはそんなことではなかった。


(結局、一回も私と目を合わせなかった……)


 あの眼鏡ごしに見える冷たい瞳が、私を捉えることはなかった。

 やはり、下僕として従順になれなかった私のことはどうでもいいのだろう。


(私だって、鬼島さんのことなんてもうどうでもいいし)


 困っている女性の弱みに付け込んで、下僕にするような男だ。考えてみれば、非常識極まりない。訴えれば確実に勝てる気がする。

 そう考えて、法律を学んでいる私にどうしてそんなことをしたのだろうかと疑問に思う。

 私は修習初日にしてあの鬼教官の弱みを握ったのかもしれない。


「野々宮さん?」


 ふいに名を呼ばれ、私ははっと我に返る。

 今日の修習は終わり、志野と高岡と教室を出るところだった。荷物を整理している時、意識の波に揺られてしまったようだ。


「もう頭がパンクしそうです~」


「覚えるだけじゃなくてその知識をどう応用するか、やはり難しいことが多いですね」


「あぁもう、授業は終わったのに教官みたいなこと言わないでぇ」


 志野と高岡が二人並んで話しているのを少し後ろから眺めながら、私は不思議な気持ちになる。

 大学生活の中で、こんな風に他人と関わることはなかった。いつも、そういう人たちを別世界の住人として眺めているだけだった。

 それなのに、今は。


「あれ、野々宮さん? やっぱり疲れてます?」


 私のことを気遣って、振り返ってくれる人がいる。まだ二日目なのに、私は志野のことも高岡のこともよく知らないのに、なぜか心地いいと思える。そんな風に感じる自分が気恥ずかしくも、嬉しかった。


「少し考え事をしていただけだから。大丈夫」


 うまく笑えただろうか。

 私の返事を聞いて、笑顔を返してくれるこの二人を友人だと思ってもいいのだろうか。


(見える世界って、こんな簡単に変わってしまうんだ)



「また明日、がんばりましょうね~!」


「はい、また明日」


「……また明日」


 修習所を出て、方向の違う二人と別れ、私はにやける口元を抑えた。

 修習は厳しく、毎日が法律漬けの場所だと覚悟していた。そんな場所で友人ができるなど、少し前の自分は想像もしなかっただろう。

 家路につきながら、私は何か重要なことを忘れていることを思い出した。


「あ! 鍵!!」


 鬼島の態度が気になり、志野と高岡という存在に浮かれ、忘れてはいけない現実を今まで忘れていた。

 もう、鬼島を頼ることはできない。今日の昼食で、お金は半分使ってしまった。

 とりあえず、大家さんに連絡をしてみようと私は鞄から携帯電話を取り出す。世の中はスマートフォンが主流になっているが、そんなに人と連絡を取ることもなく、アプリの必要性を感じていなかった私にとってはガラケーと呼ばれる二つ折りの携帯電話で十分だった。

 電話帳で『大家さん』という文字を見つけ、電話をかける。

 しかし、プルル……と呼び出し音が鳴り続けるだけで、大家さんは電話に出なかった。当然だろう。今は楽しい楽しい家族旅行中なのだから。


「はぁ……」


 私はため息を吐き、近所の公園のベンチに座る。

 このまま、大家さんが帰ってくるまでホームレス生活でもしようか、そんなことを考えた時。


「ご主人様のところへ戻りたくなったか?」


 その冷たくも色っぽい声に、ぞくりとした。耳元で囁かれ、顔がいっきに赤くなる。そして、嫌だ嫌だと思っていたはずなのに、口元が緩みそうになる。


「き、鬼島教官……っ!」


 怒っていいのか、喜んでいいのか、謝った方がいいのか……私はどぎまぎしながらも、その名を呼んだ。


「お前は俺の下僕だ。俺のことはご主人様と呼べ」


 あぁ、やはりこれは怒った方がいいのかもしれない。この整った容姿に騙されてはいけない。

 この人は変態だ! そして人をいじめるのが好きな鬼畜だ!

 私は心の中で叫ぶが、実際には鬼島の不敵な笑みを苦々しく睨むことしかできなかった。


「それとも、我が君にするか?」


「……も、もう私のことは放っておいてください! 仮にも教官ですよね? 私の邪魔をしないでください!」


 言ってしまった。しかし、このままずっと鬼島の変態行動に付き合ってはいられない。

 私は荷物を持ち、鬼島の前から立ち去ろうとする。

 しかし、鬼島に右腕を掴まれた。


「だったら聞くが。お前は今からどこで勉強するつもりだ?」


「……」


「家の鍵はあるのか?」


「……いいえ」


「金は?」


「……家に」


 鬼島の問いに、私は口ごもることしかできない。

 通帳は家のはぐっきー人形の口の中。大切なものは、すべてはぐっきー人形に保管している。もし泥棒が入ったとしても、あのはぐっきーの気持ちの悪いはぐきの飛び出し具合に近づこうとはしないだろうと思ったからだ。何故か、はぐっきーのことは金庫以上に信頼していた。


(はぐっきーが自分で動くことができたら家の鍵を開けてもらうのになぁ……)


 私は鬼島の詰問から逃れたくて、現実逃避に走る。

 しばらく黙っていると、頭上からため息が聞こえてきた。鬼島は背が高い。おそらく180センチはあるだろう。だから、155センチしかない私が鬼島と向かい合うと、おもいきり顔を上げなければ顔を見ることができない。そのため鬼島の表情は確認できないが、かなり呆れているのだろうということがため息から感じられた。


「大人しくついて来い」


 私を引き留めた時に掴んでいた腕をそのまま引いて、鬼島が歩き出す。

 クールなイケメンなのに変態で、鬼畜で、ドSな教官に引かれるままに、私は足を動かしていた。

 抵抗した方がいい。裁判官がこんな誘拐まがいのことをしてもいいのか、と責めた方がいい。このまま何も言わずについて行けば、私が同意したことになる。

 嫌だ、と言わなければ。それなのに、声が出ない。

 私の腕を掴む鬼島の手が優しかったから。本気で鬼島が心配してくれているのが分かったから。

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