第6話 腹の内が読めない

 大量の課題を終わらせることができたのは、深夜3時前だった。徹夜覚悟だったのに、意外にも早く終わった。それもそのはず、私の周囲には教材や資料が置かれていた。


「これじゃ、下僕というより……」


 客人、いや、それ以上の扱いだ。

 あんなにもきびしい目で、鋭い声で、私を脅していたのに。

 課題に必要な教材や資料が家にあり、課題に関しては自分の記憶だけが頼りだと思っていた。しかし、疲れと眠気でうとうとしている間に、毛布はかけられているし、教材と資料はおかれているし、私の意識が夢うつつの時に眠気覚ましの珈琲まで出してくれていた。


(どうして、ここまでしてくれるの?)


 家に呼ばなくても、お金を貸すこともできたはずだ。そうなれば私は確実に断っていただろうが。

 下僕として私自身が対価を払うのなら、と鬼島に世話になることを選んだ。

 もしかすると、そういう私の性分を分かっていたからあんなことを言ったのだろうか……?

 それとも、教官として放っておけなかったのか。

 きっとそうだ。鬼島が私に個人的な興味があるとは思えない。

 鬼島は私のことを覚えているはずがないのだ。



『絶対入るな!』



 諸々のお礼をしようと鬼島の仕事部屋に行くと、扉に貼り紙がしてあった。

 もう夜も遅い。

 鬼島への礼は明日にしよう。

 しかし、お世話になりっぱなしで何も返せないのでは申し訳ない。


「なんでこんなに片付いてるの……? 一人暮らしの男の人の家ってもっとこう、なんか散らかってるイメージなのに……」


 何かしたいと思っても、片付ける必要も掃除の必要もなく、部屋はきれいなのだ。洗い物も溜まっていないし、食器はすべて揃えられて棚にしまわれている。


「鬼島さん、絶対A型だわ……この完璧さが怖い」


 せめて明日は鬼島よりも早く起きて、朝食を作らなければ。そして、鬼島が好きな珈琲を用意する。

 そう決めて、私はソファに横になる。そして、数秒も経たないうちに私は眠りについた。



   * * *



「ど、どうしよう……」


 私はキッチンで途方に暮れていた。

 冷蔵庫にある食材を使って簡単な朝食を作ったのはいいものの、鬼島に許可をとっていないことにあとから気づいたのだ。

 もし使ってはいけない食材があったら……。

 もし口に合わなかったら……。

 もし嫌いな料理だったら……。


 鬼島はまだ寝室から出てきてない。仕事部屋から寝室に戻ったのかはよく分からないが、とにかくまだ起きていないはずだ。

 何故なら時刻はまだ午前5時。

 修習は9時スタートだ。

 さすがにこんな早くから起きはしないだろう。

 毎日はぐっきーのアラームで午前5時に起きている私はどれだけ遅く寝ても自然に目が覚める。お年寄り並に早起きなのだ。

 

 とりあえず、自由に使えと言われた風呂場でシャワーを浴びる。着替えはもちろんないので同じスーツを着た。

 そうしてリビングに戻ると、鬼島が起きていた。


「あ、あの、おはようございます」


 私の作った朝食を見て固まっている鬼島に、やはり勝手に食材やキッチンを使ったことはまずかったか……とビクビクする。


「これは、お前が作ったのか?」


 えぇ、えぇ、私以外に誰がいますか、それともこの家には小人でも住んでいるんですか、心の中でヤケになりながら私は頷いた。

 リビングの磨きあげられた黒い机には、私が作った朝食が並べられている。

 炊きたての白いご飯、野菜たっぷりのお味噌汁、ふわふわの卵焼き、ほうれん草のおひたし、パリパリの海苔……と、朝はザ・日本食に限る私は、とりあえず冷蔵庫にあるもので作ってみたのだ。珈琲にこだわりまくりの鬼島の口に合うか、は分からないが。

 真顔で料理を見つめた後、鬼島は両手を合わせて『いただきます』と言って、箸を取った。


 鬼島がご飯を口に運ぶのを処刑台にものぼる気持ちで見つめていた私だが、お礼を言うのを忘れていたことにはっとする。何のために朝食を作ったのか、鬼島の反応ばかりを気にして忘れていた。


「あのっ!! 鬼島さんのおかげで寝るところにも困らず、課題も終わらせることができました。本当になんとお礼を言っていいか……」


「うるさい、食事に集中できねぇだろ」


「は、はい……」


 お礼を言おうとして遮られてしまった。しかし、鬼島が文句ひとつ言わずに食べてくれているのを見ると、味はまぁ合格だったのだろう。

 家族以外の誰かに自分の料理を食べてもらうのは初めてだった。それも、食べているのがあの時裁判官だった鬼島だなんて信じられない。

 一人暮らしで自分のために作るのは面倒だが、他人に作るのは好きなのだ。少しでも美味しいと思ってくれていたなら嬉しい。


「お前の朝食は?」


 ふいに鬼島が手を止めて、私を見た。


「私はいいんです。味見でけっこうお腹いっぱいになりましたし……」


 そう言って笑顔を作ると、鬼島に訝しげに見つめられる。その鋭い目を見返しながら、私は不思議に思う。

 鬼島は修習所では眼鏡をかけているのに、自宅では何故か眼鏡をかけていない。本当は目が悪い訳ではないのかもしれない。では何のために……? というふとした疑問すら許されそうにないほど、鬼島は黙って私を凝視している。

 おそらく、私の答えに満足していないのだ。

 しかし、世話になっておきながら、勝手に食材を使って自分で作った朝食を同じテーブルで呑気に食べられるほど、私の精神は図太くない。しかも、こんな怖い顔で睨んでくる人の前でゆっくり食べることなどできっこない。


「あの、私はいいですから、ゆっくり食べてください。今回は突然お邪魔することになってしまって、本当にすいませんでした。私、食器の片付けが終わったら出ていきますので……本当に、ありがとうございました」


 沈黙に耐えきれず、私は早口でまくしたてる。


「そうか。下僕としての仕事がまだ何一つとしてできていないにも関わらず、出ていくのか」


「……へ?」


 あまりにも間抜けな声が出てしまった。


「なんだ、その顔。下僕ってのは主人の命に忠実でなければならない」


 飼い犬の躾でもするように、厳しく諭すように鬼島ら言った。


「あの、それはそうですけど、もう私は鬼島さんのお世話にはならないですし、下僕でいなきゃいけない理由なんて……」


 確かに昨日は強盗から助けてもらったり、家まで送ってもらったり、その上家の鍵とお金がないために鬼島家に泊めてもらうという多大なる迷惑を鑑みた上で下僕を了承したのだ。

 昨日は夜だったからできなかったことが多いが、今日は違う。落とした鍵を探すとか、旅行中の大家さんに相談するとか、ダメもとで志野や高岡の家に泊めてもらえるよう相談するとか、自分でどうにかするつもりだったのだ。もう鬼島の世話にはならない。


「誰が1日だけだと言った? 俺はお前に下僕になれ、と言ったんだ。その時、契約条件をお前は俺に提示したか? していないだろう。つまり、あの時無条件で頷いたお前はすべて俺に従わなければならない」


「そ、そんなっ! 私が契約内容を十分に理解していない上での合意なんて、無効です! そもそも、私を下僕にして鬼島さんは何がしたいんですか?!」


 命令なんて、珈琲以外は一度もされていない。ただ珈琲を淹れるだけなら自分でやった方が美味しいものができる。あえて私を使うのはどういうことだ。


「ただの暇潰しだ。国家公務員ともなると常に品行方正でなければならないが、たまに息抜きでもしなけりゃ頭がおかしくなる」


 真面目な顔でそんなことを言う鬼島に、いや、もうすでに頭がおかしいと思います……と心の中で私は思う。


「とにかく、野々宮 茉里。お前は俺の下僕だ」


 反論しなきゃいけない言葉なのに、鬼島が初めて名前を呼んでくれたことに驚いて、胸が高鳴ってしまった私は、こくりと首を縦に振ってしまった。


 鬼島の暇潰しのための下僕であることを、私は受け入れてしまったのだ。

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