なすべきこと


 行くあてなんてなかった。ただ一歩でも二歩でも貝楼閣から離れていたかった。


 今は日高くんだけじゃなくて海来神社の神主さんとも巫女さんたちとも、豊海村の誰とも会いたくなかったから、神社の本殿へ通じる参道ではなく鎮守の森をぐるっと周る反対側の小道に突き進む。

 夢中で足を動かしているうちにいつのまにか神社の敷地の外に出ていて、豊海の山間へと続く野原にたどり着いていた。そこはいろいろな野草が群れ、花々も咲きこぼれ、さわやかな初夏の景色が広がっていた。シロツメクサにタンポポ、スミレ。そんな東京にいた頃もよく見かけた草花に混じって、豊海村に来てから名前を知るようになった草花もたくさん生えていた。


(ナガミヒナゲシとキンポウゲ、クサイチゴ。それにケマンソウも生えてる………)


 そのどれも名前をおしえてくれたのは日高くんだ。日高くんは村を歩けばどこにでも生えていて誰にも見向きしない雑草でも摘んできて、あたしのために花瓶や壺にきれいに活けた。何気なく植わっている草花でも人にささやかな癒しを与えてくれるのだと日高くんはあたしにおしえてくれた。そんな日高くんのことが好きだった。好きだったからこそ、目の前に咲く花々を見ているうちに日高くんに対する好意とそれに相反する反発心とで心がぐちゃぐちゃになっていく。


 日高くんの赤ちゃんを妊娠していたということへの不安や驚きや戸惑い、怒り。そんな不安定でやるせない感情をぶつけるように目の前で咲いていたケマンソウの花を乱暴に毟っていった。ピンク色の花びらがすべて散り散りになると、今度は隣に生えている別の花を毟っていく。そうやって意味のないことを繰り返して、八つ当たりするように花びらを散らしているとまた急にお腹がきゅっと痛み出した。


「…………いった……っ……」


 あたしのお腹にいるこの蒼く光っている子は、たぶんあたしが今毟った花びらよりもまだちいさいんだろう。そんなことを思ったら、目の奥から涙がじわじわ滲んできた。オヤの勝手な都合で、いつこの花びらのように簡単に散らされてしまうかわからないほど、あたしのお腹にいる子の命は儚い。大事になんてしてもらえないのかもしれないのに、なんでこの子はあたしのお腹に宿ってしまったんだろう。


(でも………この子には何の罪もないんだよね………この子はママを選べないんだもん……)


 あたしは何をする気にもなれずに足元に散った花びらをぼんやり見ていると、急に目前に何かが飛び出してきた。横切ったのは見慣れたオレンジ色の淡い光。


「蛍火?………あたしについてきてくれたの?」


 蛍火は頷くように上下に揺れる。それからあたしを元気付けようとするかのようにあたしの周りをくるくる飛び始める。そんな蛍火にありがとうと告げようとしたとき、背後から野草を踏みしめるガサっという音が立った。思わず振り向いたけれど、そこに立っている人の姿を見たら、やっぱり振り向かなければよかったと苦々しい気持ちになった。


『これは失礼、花嫁御寮。……若が追い掛けて来たとでもお思いでしたか』


 あたしに話し掛けてきたのは左狐だ。胸元がやや開いた妖艶な着流しに、きれいだけど酷薄そうな釣り目の男の姿に化けていた。


『やってきたのがこの性悪狐で申し訳ございません。その顔、どうやら落胆させてしまったようですな』


 左狐はあたしを揶揄うように感じの悪いうすら笑いを浮かべる。


「………左狐はあたしに何か用?あたしを見張りにでも来たの?」


 敵意を込めて左狐をにらみつけると、左狐は何が面白いのかくつくつ笑いだす。


『まるで親の敵にでも遭ったような顔。……あどけないあなた様には似合わない、そんな怖いお顔をなさいますな。これでも私はあなた様には感謝しているのですよ』

「………感謝?」

『昨晩我らの留守の合間、あなた様は若を救うために奔走してくださった。伊津子比売の力を借りてしまったことは拙くはありましたが、あなた様のおかげで若は大事に至らなかったのです。心より感謝しておりますとも。右狐などは若に近寄るモノは人であれ異形であれあれほど嫌っていたのに、今ではすっかりあなた様に情が移ってしまっている』

「…………でもあなたも右狐も、どうせ今まであたしのことを見返り目当ての性悪女だって日高くんに吹き込んでいたんでしょう。そのくせ今になって勝手なこと言い出さないで」


 あたしがキッとにらみつけると左狐は弱ったように頭を掻く。その人間臭い仕草に気を取られて左狐の方を見ると、左狐の手首に何かが絡みついているのが目に入った。


「左狐?………その手首に巻き付いているのは何?」


 淡い糸状の蒼い光が、左狐の両手首に絡みついている。たしかそれと同じものが、さっき右狐の手首にも巻かれていた。


『これですか。これは我らの自由を制約するために付けられた枷でございます。昨晩我らが貝楼閣から出払っていた所為であなた様が危険な目に遭うことになってしまいましたから、その罰のようなものを若から与えられたのですよ』

「罰………?」

『ああ、罰といってしまうのは失礼でしたね。若の意思で、私か右狐が護衛代わりに常にののか様のお傍にいることとなったのです。これは神力で編まれた手錠とでもいいましょうか。若への完全な従属の証であり、もし我らが若のご意志に背くことがあればこの両手は神呪の枷に食い絞められ断たれてしまうのですよ」


 それはつまり、日高くんは神力の力によって、狐たちの意思に関係なく狐たちを強制的に服従させることにしたっていうことなんだろうか。でも日高くんは、無理やり神呪で狐たちを縛り付けて従わせるようなマネはしたくないって言っていたのに。


「ねえ左狐。それ、ほんとに日高くんがしたの………?」


 あたしの戸惑いを表情から読み取ったのか、左狐はにんまり笑う。


『ええ。ご自身の信念を捻じ曲げてでも、あの方はあなた様を守りたいと願っておいでですよ。今朝がた伊都子比売の神呪の首輪を巻いたまま気を失っているあなた様を見たとき、若は気が触れてしまわれたかと思うほどの半狂乱になりまして。もうそれはそれはもうひどい取り乱しようでした。斎賀の宮司が駆けつけなければ今頃どうなっていたかと思うと背筋がうすら寒くなります』


 そのときのことを思い出してなのか、左狐は意味ありげな目であたしを見てくる。


『……普段はぼやっとしたところのある方だが、若はあれでなかなか心根の強い方だ。父君が亡くなられたときも穂高比古が行方知れずになられたときも気丈に振る舞っておられました。ですから若にもまさかあれほどまでに脆い一面があるなど、我らも思うておりませんでした』


 それほどまでに日高くんがあたしを心配してくれていたと左狐は言いたいのだろう。でもそんな話、今は聞きたくない。


『………まあまあ、花嫁御寮。そんな顔をなさいますな。女の可愛げのない癇癪ほど男をうんざりさせるものはございませんよ』

「大きなお世話ですっ……そういう左狐は今日はずいぶんとご機嫌みたいね」


 あたしの皮肉に、なぜだか左狐はますます愉快そうに口の端を吊り上げる。


『おっしゃる通り。なにせ私は右狐とは違い、若にはあなた様ではなくもっと器量がよく女人として度量もある娘を娶っていただきたく願っておりますゆえ。お二人が仲違いをしようと一向にかまわないのですよ。御子もあれこれやかましく騒ぎ立て、事もあろうに若を非難するような娘ではなく、別の気立てのよい女を妻に迎えて産ませればいいだけの話だと私は思うております』


 左狐はいじわるな顔して言うと、薄く笑いながら話し続ける。


『まあ私の機嫌が好いのはお二人の不仲のお陰だけではなく、腹が満たされているからでもありますがね。昨晩貝楼閣を留守にしている間、我々は旨い夕餉ゆうげにありつけたのですよ。……ののか様は向こうの山に野狐がいるのをご存じか』


 いきなりの質問に返答に窮してしまったけれど、すこし考えて豊海の山には野ウサギとかいろんなケモノが住んでいることを思い出した。


『ひとつ向こうのあの山には、それはそれはうつくしい男狐がおりましてな。その男狐の艶の毛並みと豊かな尾、知的な目に魅せられ、私も右狐もひと目ですっかり気に入り、我らの下役にならんかと以前から誘っていたのです。昨晩はその答えを聞きに行っておりました』


 左狐が何を言いたいのかわからないけれど、あたしは黙ることで先の話を促す。


『その男狐はなんと答えたと思います?……海来神の使役になれるのだとしたらたいへん光栄ではあるが、卑しいの下役になるくらいならこの場で食い殺された方がマシだと我らに言ったのです。……ですからお望み通り我らは食ろうてやりました。まずは形の麗しい両耳を左右に引き千切り、四つの足をもぎ、腹を引き裂いて生き血を啜り、引きずり出したわたを食ろうてやりました。オスと言えど美しいものの若い肉は、それはそれは美味でございました』


 話の残忍さにあたしが眉を顰めると、左狐はにたりと笑って言った。


『我らを嫌悪なさいますか?構いませぬ、それが正しい反応でしょう。管狐クダギツネである我らはもともと人に憑き、呪い、取り殺す、そういう性分にございます。人ばかりか野に住む四足の獣にさえクダと呼ばれ蔑まれる、下賤な存在なのでございます。あえて我らを手元に置こうなどという酔狂を見せるのは、先々代と若くらいでしょう。

 若は皆礼家の者でありながら人の上に立つことを知らぬ、気優しくそれゆえ愚かな方だ。……だが愚直さというものはそれはそれで見る者の胸を打つものでもあります。我らは今まで幾十、幾百の人の命を廃してきた卑しいモノだが、忠実で気高い叢雨殿らに向けるのと等しい情を、あの方はこの卑しい我らにも掛けてくださる。

 憑き物であった我らは私利私欲のために人を呪い殺そうとする業の深い人間どもの醜い所業を長い間見てきました。そんな我らにとって、若の情の脆さや青臭さが、私も右狐もただただ愛おしい。……もし若にあだ為すものがあれば、たとえ女人であれ、若の思い人であれ、私はこの命を賭してでも廃する覚悟にございます』


 いつの間にか、左狐の顔からは人を小ばかにするような笑みは消えていた。語る言葉以上にその表情を見れば、左狐が心から日高くんのことを慕い、その思いの強さゆえに自分の身を滅ぼしても構わないと思っていることがわかる。


『……さてののか様。あなた様は蔑まれるべき下級 あやかしである我らにすら情を掛けようとなさる若が、本当になんの考えもなしにあなた様を失意に落とす振る舞いをなさるとお思いか。あなた様をだまし討ちにするように懐胎させるような、そんな身勝手で冷酷な男児とお思いか』


 すぐに答えることは出来ない。けれどあたしの心の中には貝楼閣で過ごした日々が思い浮かんでいた。日高くんはいつだってやさしく、いつだってあたしのことを気にかけてくれていた。あれが全部嘘の態度だったなんて、思いたくないし、思えない。でも心の中には消化しきれない感情が渦巻いてて、日高くんのことを信じ切ることも出来ない。


「………わからない………そんなこと、考えたってわからないよ」

『であれば、あなた様がなさるべきことはひとつに思いますが』


 左狐は鋭い目でじいっとあたしを見つめてくる。左狐が何を言いたいのかはわかっていた。あたしは顔を上げると、まずは貝楼閣がある方向をじっと見つめる。それから野原の合間にある小道の方に目を向けて、そちらへと一歩を踏み出した。


『ののか様。どちらへ行かれる?』

「大丈夫だよ、左狐。逃げるつもりはないから……行くときはコソコソしないでちゃんと正面から行くよ」


 言いながらあたしは、貝楼閣とは真逆の道を進んでいく。すると咲いていた花に留まっていた蛍火がすっと飛び始めた。


「……蛍火も、あたしと一緒に来てくれるの?」


 あたしの真横に並んだ蛍火に尋ねると、蛍火は「はい」の返事の代わりにあたしにすり寄ってきた。


「ふふ、ありがとう」


 左狐はもの言いたげな様子で、そんなあたしたちの後をついてくる。


「左狐。貝楼閣に戻って、もう一度ちゃんと日高くんと話してみる。そうしなきゃいけないんだって、あたしもわかってる。一人で考えても、日高くんの気持ちなんてわからないしね。………でもその前に寄りたいところがあるの」

『寄りたいところ?………この先には立ち寄るような場所などないと思いますが』

「すぐに終わるから。だから行かせて」

『………わかりました。それでは私もお供させていただきます』


 左狐を連れだったあたしは、今いちばん会いたいと思っている人たちの元へと歩んで行った。






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