お風呂は一緒には入れません


「早乙女、こっちだ」


 露天風呂がある湯屋まで一緒に行ってくれると言った日高くんは、なぜか自室のふすまを開けてその奥にある寝室へと入っていく。梅さんが帰る前に支度をしてくれたらしく、間接照明だけが灯されたそこにはピンときれいにシーツが張られたお布団が敷いてあった。

 そのふかふかのお布団には、昨日見たときと同じくいかにも夫婦用な枕が仲よく二つ並んでいた。そのせいで昨晩この上で和合の儀をしたことや今朝の日高くんとのアレコレが思い出されていたたまれなくなってきて、ソワソワしていると振り返った日高くんが傷ついたとでも言うように眉を顰めた。


「あのな、言っておくけど断じてこれは俺の指示じゃない。俺だってびっくりしてるんだからそんな目で見なくたっていいだろ……」


 日高くんはとても不本意そうだ。


「梅のやつ、これで気を利かせたつもりなのか?……こんなあからさまに同衾どうきんしろと言わんばかりの寝床を用意するなんて……まったく余計なことを……」


 はあ、と重いため息をつくと日高くんは気を取り直すように顔を上げ、枕側にある竜の絵が描かれた屏風の裏側に進んでいく。あたしも慌てて後を追うと、そこには襖が並んでいた。ぱっと見は押入れに見えるそこを日高くんが開けると、中にはすこし天井が低めの通路があった。その通路を真っ直ぐ進むと、突き当たりには屋外へ出る屋根付きの渡り廊下が現れた。


「この先が露天風呂?日高くんの部屋とつながってたんだ」

「ああ。俺の寝室からじゃないと行けないようになっている」


 道理で廊下からでは露天風呂に続く道を見つけられなかったわけだ。


「ほんとにおもしろい構造だね、この『お邸』って。ここ秘密の通路みたいだし」

「早乙女は怖いかもしれないけど、この『貝楼閣』は住めば都だよ。風呂もいいし」

「うん。昨日ちょっとだけ右狐さんに聞いたけど、お邸のお風呂のお湯って、この神社の敷地内から湧いてる温泉なんだってね」

「ああ。しかも同じ湯元から引いているはずなのに、露天に入れると硫酸塩系、内湯に入れると炭酸系の湯になるんだ」

「えっ!?まさかそれも『海来様』の神力のお蔭なの?ふつうは全然違う泉質の温泉が同じ場所から出てくるなんてありえないよね……?」

「ああ。さすがに俺には温泉を湧かせるような神懸った力なんてないけど、『神泉』は海来神の起こした霊験だといわれてる」


 なんでもその『神泉』っていうのは『竜主神りゅうずのかみ』と呼ばれている初代の海来神がこの土地に置いていった神力の遺産みたいなものらしい。


「どちらもいい湯だから、もうすこし慣れて一階の風呂が怖くなくなったら早乙女も入り比べてみるといい」


 そう言いつつ、日高くんは湯屋の入り口を開けた。なんとなく予想はしていたけれど、そこもやはりめちゃくちゃ豪華な造りだった。一階の内風呂以上にとても広々としていて、浴室の手前にある脱衣所兼洗面室には籐の寝椅子はもちろんのこと、くつろぐための畳敷きの小上がりや給湯室、それにお手洗いも備えてある。肝心のお風呂はガラス戸が曇っているせいでその向こうがよく見えないけれど、きっとかなり立派なんだろう。


「…………ほんと、日高くんのお家ってすごいね。ウチといろいろスケール違い過ぎてクラクラする」

「そうか?俺は生まれた時からここに住んでるから、いい家だとは思うけどすごいのかどうなのかはよくわからない」


 さすがナチュラルボーンなお坊ちゃま(というか神様)の発言だ。


「ほんとにすごいんだってばっ。だってあたし東京にいた頃住んでたのはお父さんたちの工房兼自宅のすごく古くてちいさな家で、こっちに越して来るまでは自分の部屋すらなかったし。こんなすごいお風呂と書庫まである大きなお家が当たり前とか、すっごい贅沢だよっ」


 つい羨ましがるような口調になってしまっていたことに気付いて、あたしはちょっと気まずくなった。


「………ごめん、あたし」

「べつに謝られるようなことは言われてないと思うが?」

「……でも日高くん、ごめんなさい。だって確かに日高くんはすごいお家に住んでるけど、その分『海来様』としていろいろ大変なお役目負ってるんでしょ?」


 皆礼家の当主である『海来様』にはいろいろなお務めがあって、たとえば村の人たちのために豊作や大漁祈願の神呪を唱えたり、護符を作ったり、神社で行われるさまざまな神事に参加したり、村に悪いものが入り込まないように結界を張ったり、それでも封じきれなかった異形や妖がいれば必要に応じて自ら退魔したりと、精神的にも肉体的にもかなりハードな日々を送っているのだと響ちゃんから聞いた。

 しかも学業やプライベートや何よりも海来様としてのお務めを優先させなければならないので、代々の『海来様』たちは当主になると多忙のあまりほとんど豊海村から出られなくなるという。


『この豊海村の豊かさっていうのはね、ある意味海来神の犠牲の下に成り立っているのよ』


 珍しく抑えた声の中にも苛立ちを滲ませて響ちゃんは言っていた。響ちゃんは日高くんのことを『まるで籠の中の鳥』だとも言っていた。まだ高校生なのに海来様として果たさなければならない義務に縛り付けられているなんて、しかもそれが本人の意思とは無関係に『血筋だから』という理由だけで受け入れなくてはならないことなのだとしたら、日高くんが自由と引き換えに手にしているこの大きなお邸だとか村での権限だとかは急に色褪せて見える。


「こんな立派なお邸に住んで当然くらいのお務めを日高くんはしているんだもんね。……なのに安易に羨ましがったりしてスミマセンでしたっ」

「いいよ、気にしすぎ。謝ったりしなくていいから」

「あのね、でもあたし。すこしずつ海来様のお務めのこと、響ちゃんとか梅さんとか宮司さんに教えてもらうから。だからね、あたしにも何か手伝えることがあったら…………って凡人のあたしにあるわけないかっ!今はまずおとなしく料理の腕磨いておきマス」


 しょんぼりしながら言うと、日高くんはなぜだかこそばゆそうに苦笑した。


「その言葉だけでも十分有難いよ。それにそれを言うなら俺の方こそすみません。……この家がのは俺のせいなんだ」


 よく掃除が行き届いているし、片付いているし、この貝楼閣のどこが乱れているのだろう。でも日高くんは「そういうことじゃない」と首を振る。


「さっきこの貝楼閣は夜な夜な迷路化するって話をしたけど、昔はここまでひどくなかったんだ。ちょっと廊下が一本増えたり、部屋が広くなったりする程度で。でも『瀬綱』がいなくなってしまった途端、この有り様で」

「セヅナ?」

「………皆礼家の当主が代々引き継いできた筆頭の使役だよ。この『貝楼閣』の守り神みたいなもので、もともとは『竜主神』に仕えていた眷属神で使役といっても霊力も何もかも桁違いなんだ。祖父は瀬綱に比肩するくらいの力があったようだけど、俺はもちろん、歴代の『海来』の中でも瀬綱を圧倒する力があった者は数えるほどしかいないらしい」


 海来神社の正面には鎮守の森を抱いた山、背面は異界と繋がっているとも言われる海があり、その境目には山と海とのエネルギーがぶつかり合い吹き溜まりのように常に大きな力が満ちているらしい。そんな場所に建っているお邸は力の影響をモロに受けてしまうから、まるで意思を持った生き物であるかのように形が変わったり次元が変形したりするという。 

 『瀬綱』は貝楼閣に宿るその莫大な力を管理しコントロールしていた使役で、同じ使役でも元が妖怪である狐たちとは格が違い、精霊や神に近い存在なのだという。姿も人魚のように半身に優美なひれを持ち、とてもうつくしいらしい。


「その『瀬綱』は貝楼閣に永続的な結界を張ってここを守っていたんだ。……けれど一年前、突然この貝楼閣からいなくなってしまったんだ」

「……なんでなの?」

「それは俺にもわからない。『瀬綱』はそれこそ竜主神、つまりは初代の海来がから遣わしたと言われる使役で、皆礼の者が人の子と交わり海来神の血がどんどん薄まりどんなに力が弱くなっても皆礼家の使役であり続けると契約していたらしいんだけど……でも瀬綱を使役として従えるには俺の海来としての力があまりにも弱すぎたから瀬綱はここからいなくなって、もしかしたらもうに帰ってしまったのかもしれない………」


 そう呟きつつ、日高くんは自分の手のひらを見つめる。その皮膚の下に流れている血液を見ようとするかのように、じっと視線を向ける。


「……流れている血が同じでも、全然違うんだ……。俺一人じゃ瀬綱を見つけることも出来ない」


 誰と自身を比べているのかわからないけれど、後悔の苦さのような、むなしい無力感のような。そんなものが俯いた日高くんの横顔にあった。

 なんだか歯痒い。日高くんは何かひとりでは抱えきれない荷物を背負っているようだけど、あたしはまだそれを日高くんに聞くことが出来ない。まだたいして親しくもないあたしなんかが不用意に聞いてしまったら、それだけで日高くんのことを傷つけてしまいそうで。だからあたしは名前を呼びかけることしかできない。


「日高くん………」


 途端に日高くんはその顔を曇らせていたものを打ち消して苦笑した。それから誤魔化すように言う。


「立派な使役がいれば、早乙女をこんなに怖がらせることもなかったんだけどな。でも生憎今の俺の手持ちは、あまり俺の言うことを聞かない狐たちしかいないから」

「……じゃあ今は、このお邸、瀬綱の代わりに日高くんが神力で守っているの?」


 あたしの言葉に、日高くんが恥じ入るように耳を赤くする。


「瀬綱が見つかるまではな。でも俺程度の神力じゃこの程度に保つのが精いっぱいだ。だから早く瀬綱を見つけたいんだけど手掛かりがなくて………。狐たちだって先々代の祖父には心酔していてとても従順だったけど、俺のことは口先では主だなんて呼んでいても実際はすごくナメてて碌に言うことも聞かないし……」


 不甲斐なさそうに言う日高くんを見ているうちに、あたしは胸がモヤモヤしてくる。いや、イライラかもしれない。


「………なんかさ、日高くんって自己評価低すぎじゃない?」

「そうか?別に普通だよ。客観的に見られている方だと思うけど」

「でも。あたしはなんかイヤだよ」


 昨日の夜から一緒にいて気付いたことだけど、日高くんの発言には自虐的な言葉が多い。このひとは謙虚を通り越して聞いている方が胸が痛くなるくらい、自分自身を見下したような言い方をする。


「今朝だってワープの神呪使って、バスに乗り遅れないようにしてくれたし。迷路みたいな貝楼閣ですごい堂々と歩けてるし、十分すごいと思うのに」

「それはさ、早乙女が祖父や父、それに穂高のことを知らないから言えるんだよ。他の海来と比べると俺は最弱の底辺レベルだ」


 ホダカ。そういえばこの名前聞くのは二度目だ。いつどんな話をしているときに聞いたんだっけと記憶をたどっていく。


「ねえ、日高くんその人って」

「早乙女。そろそろ九時だぞ。明日から朝早いんだろ」


 現実的な問題を突き付けられてあたしの思考が飛んだ。


「わあ、そうだった。ごめん、急いで済ませるね」


 あわてて支度をはじめると、日高くんはいつの間に仕込んでいたのかポケットから文庫本を取り出した。それからむっとした顔をして言った。


「早乙女にとったら、俺なんてその辺りに落ちてる石ころみたいなものなんだな」

「え?」

「もしくは響や安野と同列ってことか?……風呂、入るならどうぞ。いつもより強めに結界張っておくから絶対に早乙女が怖がるものは入れないよ。けど、すでに結界の中にあるものには要注意だな」


 意味がよくわからないでいると、日高くんは口の端を吊り上げて意地悪な顔をする。


「むやみに安心しない方がいいってことだ。結界が張ってあろうと、いちばん怖いものがもうこの結界の中に紛れ込んでいるかもしれないからな」

「怖いモノって……!?こ、この中に何かいるのっ??」

「さあ?もしかしたら早乙女にとっては異形の類より怖いものかもしれないな」


 あたしが思わず部屋の上下左右に視線を走らせてよからぬモノがいないか確認していると、日高くんが急にあたしの瞼に触れてきた。


『開け』


 その途端、日高くんの指先が触れている部分が熱くなり、一瞬目の奥にちりっと痛みが走った。


「痛っ……これ、何?」

『力を定着させるから。このまますこしの間、顔を上げて目を閉じていて』


 すごく近い場所からそう声を掛けられて、鼓動が弾んだ。神力を使っているときの日高くんの声は、うっとりしてしまうくらいきれいな声なのだ。


「うん、わかった。……こう?」


 日高くんに触れられたままの状態で、言われた通り頭上の日高くんを見上げるように顎を逸らすと、あたしの瞼に触れていた日高くんの指先がまるで動揺したように震えた。


『………ほんとに無防備すぎだろ。それだと簡単に騙されて奪われることになるぞ』

「へ?なにが?」

『早乙女、今思いっきり俺にキス顔晒してるけど、いいのか?』

「ぅええっ…………!?」


 日高くんの口から予想もしなかった言葉が出てきて、びっくりした勢いで目を開けてしまうと途端に目がギュっと痛んだ。


「っ!!…………痛ったぁ……!!」

『だからまだ目を閉じてろって言ったのに』


 先に思わず目を開けてしまうようなことを言ってきたのはどこの誰だよっ。そう思って目を押さえながら日高くんを睨みつけてやろうとすると、目の前にものすごくきれいな男の子がいてあたしは息を飲んだ。神力を使ったばかりだからなのか、日高くんは全身に淡い光を纏っている。……そう、あたしは目の前にいるのが日高くんなんだとちゃんとわかっている。なのに視線を奪われずにいられなかった。


(やっぱりこのひと、ものすごくきれいな顔してる)


 そう思って見ていると、不思議なことを淡い光が徐々に薄くなっていくのにつれて、日高くんの顔立ちもやっぱりまたあんまり印象に残らない凡庸なものに見えてくる。


「早乙女?どうかしたのか?」

「ううんっ。なんでもない………って、あれ??」


 あたしの目には、さっきまで見えてなかったものが映っていた。この湯屋全体をベールのように包んでいる淡い光だ。


「ねえ日高くん、もしかしてこの白いような蒼っぽいような光が結界なの?」

「ああ。張った結界が見えないままだと不安だろうから、早乙女の目にも視認できる神呪を掛けた」

「やっぱり日高くんの力すごいよ。ありがとう!」

「でも一晩くらいしか持たないけどな」

「十分だって!じゃああたし、さっそくお先にお風呂、入らせてもらうね」


 そういってあたしが脱衣籠だついかごの前に立つと、日高くんは慌てて出入り口際の玄関のように一段低くなっている場所に座り込む。脱衣所とその玄関の間には目隠し用の衝立ついたてがあって、そこにいればたしかに脱衣所は見えないわけなんだけど………。


「日高くん、もうすこし部屋の中の方にいたら?」


 あたしは言いながら、あまり日高くんを待たせるのも悪いから次々に着ていたものを脱いでいく。ますはカーデを脱いで籠に放り込む。それからシュルっと音を立てて制服のスカーフを引き抜き、セーラー服の上衣を首から抜く。


「そこじゃ座ってるのも寒いでしょ?こっちの寝椅子にでも座っていたら?」


 たとえ同じ部屋の中にいてもあたしのいる方に背中を向けるように座っていればお互い見たり見られたりする心配はないんだけど、日高くんは断固としてその場から動こうとしない。


「お尻痛くなるだろうから、こっちにあるお座布団、渡そうか?」

「………お気遣いなく」

「でも、」

「早乙女。俺が神力を使えるってこと、忘れてないよな?」

「うん?」

「俺が神力を何か下種なことをするために使うとか、そういうことを警戒しなくてもいいのか?……たとえば早乙女の周りにある鏡やガラスや水面の光の屈折を恣意的に変えてみたりだとか、そんな手間なことするまでもなく透視だとか千里眼的な力を目に宿してみたりだとか………」


 日高くんはブツブツ意味の分からないことを言っている。つまり何が言いたいんだろうと思いつつ、ファスナーとホックを開けて衣擦れの音を立てながらスカートをパサッと床に落とすと、突然ゴンッ!と何かを強く打ちつけるような大きな音がする。しかもその音は二度三度続く。


「日高くんっ?!どうしたの?」


 衝立の向こうだから何が起きているのか見えないけど、どうも日高くんは自分で自分の頭を思いきり壁に打ち付けているようだ。


「なにやってるのっ、大丈夫!?」

「………邪念を打ち払ってるところだからお気遣いなく」

「でもものすごい音したよ??びっくりしたぁ」

「………俺も自分の煩悩の強さにびっくりしてるところだ。……いいから。大丈夫だから、魔が差す前に入るならさっさと入ってきてくれよ……っ」


 日高くんにひどく苛立ったように言われて、あたしは「うん」と返事をしつつ最後にまだ体に纏っていたブラを外して、パンツを脚から抜き取った。


「ごめんね、出来るだけ急ぐからっ」


 そういってお風呂場へ続くガラス戸へ小走りで向かうと背後でもう一度、今度は一際大きな「ゴォンッ!」という音がした。






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