3章 嫁入り当日 【夜】

受難のはじまり

『本日はお疲れ様でございました』


 披露宴会場である客間を抜け出すと、ユウキさんが一度立ち止まって深々と頭を下げてきた。


 この『お邸』は建て増しを繰り返したお家なのか、端が見えないほど長い長い廊下は左右にいくつもに枝分かれしていて、すぐに間取りを覚えられないほど複雑な造りになっていた。思いもよらない場所に取り付けられた階段や渡り廊下、突然現れる袋小路や小部屋の入り口などが入り組んで、まるで迷路みたいだ。

 天井から吊るされたアンティーク調のランプはおしゃれだけど、廊下にぽつりぽつりと不規則にしか取り付けられていないうえに、灯りが妙に弱々しい。

 きれいな木目の天井も、床に敷かれた赤絨毯も、クラシカルで豪華だけど、薄暗い中で見るとその古めかしさがなんとも不気味だ。そして目の前にいるユウキさんもなんだか怖かった。


 目は真顔のままなのに、口の端だけをにんまりと吊りあげて微笑んでいる。


『さてこれより『和合の儀』の準備をはじめましょう。……ああ、もうお声を出していただいて結構ですよ。あの部屋から出てしまえば、皆々様の耳にはもう花嫁御寮の声は決して届かぬゆえ』


 そう言われたけれど、まだいくらも宴会場から離れていないこの場所で声を出すのは躊躇われて、返事の代わりにあたしは頷くと、ユウキさんは意外そうに眉を跳ね上げた。


『……まあまあ意外に用心深い……それにしても周りを飛んでるこの虫みたいなチラチラと鬱陶しい光はなんだろうねぇ。目障りな……』


 ユウキさんはなぜかすこし煩わしそうにあたしの方を見て眉を顰める。


『まあ、たいしたことも出来ぬちいさき者ゆえ放っておくか。……さて花嫁御寮。まずは床入りの前に湯浴みをしていただきたいのですがねぇ。湯殿はおおきな方とちいさな方、どちらがお好みか?』


 おおきな方とちいさな方?疑問に思っているとユウキさんが説明してくれる。


『斎賀の者どもが『お邸』と呼んでるこの『貝楼閣かいろうかく』には、主様もお気に入りの自慢の湯殿がふたつありまして。ひとつは三階のおおきな露天風呂で、もうひとつは一階のこじんまりとした内風呂でしてねぇ。どちらでもお好きな方をお使いくださって結構ですよ』


 家の客間に異形の神さまたちがいて、いつこのお屋敷内のどこかでその神さまたちと遭遇してしまうかもしれない中、お風呂に入らなきゃいけないなんて正直気が進まないというか、怖いのだけど。どちらか選ばなきゃならないのなら、内風呂の方だった。

 本当は露天風呂の方が好きだけど、部屋の中ですらこんな薄暗いのにもっと暗いであろう外に出るなんて考えただけでも怖い。それに室内を見渡せる狭い場所のほうが安心出来る気がしたのだ。


『おや。内風呂のほうがよろしいようですね』


 あたしの考えを悟ったようにようにユウキさんはいうと、曲がりくねった階段下りて、そこから渡り廊下を渡った先にあったお風呂場へあたしを案内してくれた。


「……ほんとにこれが、ちいさい方のお風呂なんですか………?!」


 通された部屋を見て、あたしは思わず驚きの声を上げてしまった。ユウキさんが『貝楼閣』と呼んだこのお屋敷は、外観も内装もまるで老舗の旅館のような風情だったけど、お風呂場もまるで高級温泉旅館のような造りだったのだ。

 床板がつやつやと光るほどにきれいに磨きこまれた脱衣所は、あたしの部屋の何倍もあろうかという広さ。おおきな鏡が取り付けられた大理石調の洗面台はゆったりと作られていて、傍には湯上りに涼むための藤製の寝椅子まで用意してある。部屋の正面奥、おおきな引き戸の向こうには「大浴場」と呼んでもいいくらいのおおきな檜風呂が見えた。家族旅行でだって、こんな豪華な温泉には行ったことがない。


「ここ、ほんとうにあたしが使ってもいいんですか……?」


あたしが聞くと、ユウキさんは着物の袖口を口元に押し当ててほほほと笑う。


『何を仰るかと思えば。……今日からあなたさまが主様の奥方になられるのですから、湯殿のことなぞどうぞご随意にお使いくださりませ。……湯浴みが終わりましたら後はねやに向かうだけで本日の儀式は終わりとなります』

「ネヤ?」


 あたしが尋ねると、ユウキさんは何かあたしを小馬鹿にするようにクスリと笑った。


『新手枕を交わす場所のことでございますよ』


 ニイタマクラって何のことだろ……?なんだかユウキさんはわざとあたしに分からない言葉を使ったような、そんな意地悪な意図を感じたからもう一度聞くことも出来ずにいると、ユウキさんはあたしの帯に手を伸ばしてきた。


『ささ、早く湯浴みをすませましょう』


 そういってあっという間にあたしの帯を解いて、婚礼衣裳だった打掛を脱がしてくれる。


『奥方になられましたあなた様同様、今晩の主様はたいへんお疲れのご様子。どうか奥方さまが床で存分に癒してさしあげてくださいませ。……奥方さまにその大役が務まるのでしたらねえ』


 ユウキさんはそう言って、襦袢姿になったあたしの体を上から下まで無遠慮に眺めてまたクスリと笑った。……被害妄想かもしれないけど、あたしのぺったんこの胸や子供っぽさが抜けない体つきを襦袢越しに見てあざ笑ったような。


(って、いやいや、気のせいでしょ。……初対面のユウキさんに嫌われる理由とかないし。ってかユウキさん、めっちゃ女らしいスタイルしてるから、あたしがコンプレックス感じちゃってるだけでしょ)


 大人の色気むんむんのユウキさんひがむとか、あたしってちっちゃいヤツだなとか反省していると、ユウキさんが襦袢まで遠慮なく剥いでこようとしたから慌てて止めた。


『どうしました、奥方さま』

「あ、あのっ。………あとは自分で脱げますから!大丈夫です!ありがとうございましたっ!」


 そういって慌ててユウキさんから二、三歩距離を取る。今日は響ちゃんや梅さんたちの指示で襦袢の下にはブラもパンツも付けていないのだ。いくらユウキさんが同じ女でも、他人の手で丸裸にされるのはものすごい抵抗があった。

 ホントは下着をつけないなんてなんか恥ずかしくてイヤだったし、すーすーして落ち着かなくてしょうがなかったけど、それが正式な婚礼衣裳の着方だと言われればあたしは従うしかなかったのだ。

 ユウキさんはあたしの抵抗に特に気にした様子もなく、脱いだばかりの打掛を畳み始める。


「それではあたくしは退室させていただくので、どうぞごゆっくり。この風呂は『貝楼閣』の敷地より湧いた温泉を引いておりますので今日のお疲れを存分にお流しくださりませ」


 ユウキさんに三つ指ついて深々と頭をさげられたので、あたしは返礼する。背を向けて思い切って襦袢を脱ぐとあたしはすぐに浴室へと進んだ。


「うわ。なにこのお風呂」


 檜張りの湯船ってだけでもものすごい豪華なのに、浴室の床はなんと畳張りになっていた。爽やかなイグサの香りのする中で温泉に浸かるのは、とんでもない贅沢だった。


「……はあ。きもちいい………今日はいろんなことがあったなあ………」


 お父さんとお母さんに見送られて家を出たのが、もう遠い昔のように感じる。ほんとうにいろんなことがあった濃い一日だった。ぼんやりしているとさっきの宴会場で、たしかにこの目で見た異形の神さまたちの姿が思い浮かんでくる。

 古くから伝わる神事に参加するのだから、何か非日常的なことのひとつやふたつ起きるかもしれないとちょっとビクビクしていたけれど、いざ常識ではありえないことが起きてしまうと案外冷静にあたしはその現実を受け止めていた。


「……これで7歳のとき、あの男の子と会えたのが夢じゃなかったってわかったんだもん……」


 あたしは日常を逸脱してしまったことを怖がるよりも、今は彼と再会できたうれしさのほうが勝っていた。さっき彼は「私ももうしばらくしたら向かうから」と言っていた。だからこの後、もう一度会えるだろうという確信があった。


「今日がこれをお返しするときなのかな……」


 そんなことを思いつつ、手の中の匂い袋を握り込む。実はさっきユウキさんに打掛を脱がしてもらうとき、帯の間に押し込んでいたこの匂い袋を抜き取ってこっそり手の中に隠していた。濡らしたくないし、ほんとは浴場に持ち込まず、脱衣所においておくべきものなのだろうけど。なぜか今日一日お守りのように持っていたこの匂い袋を、決して離してはいけないような気がしたのだ。


「今晩これを返しちゃったら、もうこの次会うことは出来ないのかな……?」


 あたしは匂い袋の中に入っていた蒼真珠を取り出す。これはあたしにとっては、あの男の子との再会の約束の証のようなもの。これを持っている限り、あの男の子といつかまた会えると信じられていた。

 でもこれを返してしまったら、神さまである彼と人であるあたしをつなぐ唯一の絆のようなものがなくなり、今日が終わればもう二度と彼と会えなくなってしまうんじゃないかと思えてきて胸がぎゅっと苦しくなってくる。


「………やめやめっ!考えてもしょうがない!」


あたしは勢いよく湯船の中で立ち上がる。十分に温まったから、額からは気持ちのいい汗が流れていた。


「彼に会ったら、これからもあたしと会ってもらえないか、頼んでみるしかないよね……!」


 あたしは強くそんなことを決意すると湯船から出た。おそらく彼とはこれからはじまるという『和合の儀』で会うことになるのだから、その儀式の間にちょっとでも彼の気持ちがあたしに傾いてくれるように口説き落とすしかない。神さま相手だっていうのに、あたしの恋心にはためらいはなかった。


「よし!まずは『ネヤ』に向かう支度だ!」


 そう意気込んであたしは浴室を出た。けれどいきなりあたしの決意はくじかれることとなる。


「………あれ。……ユウキさん?」


 脱衣所で待っててくれているとばかり思っていたユウキさんの姿は、どこにもなかった。


「ユウキさん?……ユウキさんどこですか?!」


 しばらくその名前を呼んでみても返事はない。仕方ないのでとりあえず体を拭いてしまおうと思ったところでまた困ったことに気付く。脱衣所の棚のどこにも、タオルが置いてないのだ。そればかりか、着替えも見当たらない。しばらく脱衣所を隅から隅まで調べに調べてみたけれど、そこには手ぬぐいの一枚はおろか、あたしが脱いだ襦袢や足袋すらない。

 あたしはそのままユウキさんを待ち続けたけど、湯冷めして体が冷え切った頃になっても、とうとうユウキさんは現れてくれなかった。


「……ユウキさん?いませんか?」


 そのまま素っ裸でいるわけにもいかず、仕方なしに廊下へと続く扉をそっと押し開ける。ひょっとした廊下に控えててくれてるのかなと思ったけれど、その淡い期待はあっさり砕かれた。廊下はユウキさんの姿がないどころか、さっきまで点いていた天井のランプの灯りすら消えて真っ暗だったのだ。目を凝らしても暗すぎて何も見えない。家屋の下から突き上げてくるような波の音しか知覚することが出来ない。

 そのまま真っ暗な廊下を見つめ続けていたら、なにかよからぬモノが見えてしまうんじゃないかという不安に駆られて、あたしは扉を閉めて脱衣所に引っ込んだ。


「どうしよう。……でもこのままユウキさんが着替え持ってきてくれるまで、ここで待ってるしかないよね……?」


 冷え切ってしまった裸の肩を自分で抱いて、ユウキさんが戻って来てくれるまでもう一度温泉に浸かっていようかなと思った時だった。急にピシッと家鳴りがしたかと思うと、突然浴場とあたしがいる脱衣所の灯りが同時に消えた。


「……きゃあッ………な、なに……ッ!?」


 突然暗闇にあたしはパニックに陥った。海来神社の奥の奥にあるこの『お邸』は闇が濃くて、なかなか目が暗さに慣れてくれない。なんで急に電気が消えてしまったのかはわからないけど、とりあえず照明のスイッチを探そうと出入り口の扉があるあたりを目指して、一歩一歩と足を進めていく。


(…やだな……こわいよ……っ…)


 泣きそうになりながらも、手の中の匂い袋をぎゅっと握りしめて、その中の丸い感触があることだけを励みにどうにか震える足を動かしていると、不意にあたしの視界になにか光のようなものがチラチラ横切った。見ない方がいいと本能的に悟っていたのに、あたしはついそちらを見てしまう。目が慣れてうっすらと見えてきた洗面台のおおきな鏡面の中には、ほとんど影にしか見えないあたしの姿と、上下に揺れる青いものが映っていた。


(……青い……火……?)


 鏡に映っているのは手のひらほどの大きさの青白い炎で、それがゆらゆらと宙に浮いて揺れていた。それは昔ともだちと怖いもの見たさに読んだ、怪談の本に出てくる人魂にそっくりだった。


(うわ……落ち着け落ち着け落ち着け。……人魂だけなら別に怖くないでしょっ、ただ燃えてるだけなんだからっ!!)


 怖くて泣きそうになる自分を自分で精いっぱいなだめていると、それをあざ笑うようにまたピシッと音が鳴る。見ない方がいいってわかっているのに、あたしはまた音のした鏡の方を見てしまう。すると鏡の表面が一瞬ぐにゃりと歪んで、そこに映り込んでいた影のように真っ黒なあたしが突然歯を剥いてニタリと笑い出した。

 部屋の中は暗いのになぜかまっしろな歯を覗かせる口ははっきりと見える。その口は、口角が耳のあたりまで裂けたかのように吊り上っていき、まがまがしい笑みの形になっていく。鏡の中に映る「それ」は、もうあたしの影なんかじゃなくバケモノの姿になっていた。

 「それ」はまるで鏡の中からこちら側へ来ようとするかのようにぺたぺた手を付いていく。鏡の内側が「それ」の真っ黒な手形でいっぱいになってくると、「それ」は鏡の黒く汚れた部分からにゅるにゅるとこちら側へ押し出されてくる。どろどろになった真っ黒な「それ」は、あたしにむかって流れてきた。


「ひっ!!」


何も着ていなかったけれど、ためらってる時間なんてなかった。あたしは匂い袋をぎゅっと握りしめて、脱衣所を飛び出した。


(………逃げなきゃッ)


 あまりに怖くて怖くて、その臨界を振り切ってしまったあたしは感情が麻痺して、ごく冷静にそんなことを考え実行していたのだった。






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