5話 旅の準備とスタート地点─莉子

 冷房が付いていない部屋。気温は外とあまり変わらない。部屋ここにいるだけで汗が出てくる。それは、まるで外を歩いているようだった。

 例え、この部屋に蝉がいたとしても驚かない。

 例え、この部屋に太陽があったりしても驚かない。

 それほどの暑さである。冷房をつけたいが、つけたら電気代がかかってしまうから無理だ。少しの間だけ、この暑さに耐えないといけないらしい。


「はいこれで汗でも拭いて」


 歩いてかいた汗を拭くためのタオルを渡した。タオルといっても莉子が持っているハンドタオルになってしまう。

 彼は受け取った。すると、


「ありがとう」


 と言った。それはとても優しい声だった。

 彼の喋る声。

 彼の喋る時の仕草。

 それを聞くと、見ると、莉子は想い出してしまう。頭の隅っこにぐるぐる巻にしてある昔の記憶を。

 まだ家族皆、仲が良かった頃を。

 今と違って毎日を楽しく感じてた頃を。


「じゃあ、君の着替え取ってくるね。少し時間かかるかもしれないけど待ってて」

「うん、分かった。暑いなか待ってるよ」

「暑いのはごめん。ちょっとだけ我慢しててね」


 それを、早く忘れるために莉子は部屋に向かった。そうでもしないと、おかしくなるような気がしたからだ。


(あんなふうに言われたら、思いだしちゃうよ…………ずるいな)


 閉まっている記憶。それは、懐かしい日々。

 閉まっておきたい記憶。それは、通り過ぎてしまった日々。

 彼は語りかけるように話してくれる。とても穏やかで、とても優しい声だ。

 それは莉子にとっての鍵だった。昔を考えるための鍵だった。昔を想い出すための鍵だった。

 頭の隅に置いていたはずなのに。それは徐々に解かれていく。


「はい、これ着替え。私と同じ背くらいだし、たぶんサイズはちょうどいいと思うよ」


 数分が経ち、莉子は戻ってきた。

 手には長袖と長ズボンがあった。普段、莉子はそれしか着ていないため、今の季節に合うのは一つもなかった。そのため長袖、長ズボンになってしまった。

 ただ、病衣よりは確実に目立たなくなるのは確かであった。これで人がいる場所でも活動ができる。


「ありがとう…って長いね」

「私半袖とか持ってないの。暑いけど我慢してよ」

「いや………ちょうど良かったよ」

「それなら良かったけど。じゃ私、外にいるから、着替え終わったら出てきてね。そしたら出発するよ」


 そう言って莉子は外に出た。

 先程まで二人でいて、今は一人でいる。すると、今まで気にもしなかった蝉の声が、急に鬱陶しく感じる。

 莉子が誰かと会話するのが久しぶりだった。淡々としている会話が多い。もしも、最初から会話を聞いている人がいたらそう言うだろう。

 それでも莉子は嬉しかった。人と会話する楽しさ、嬉しさ、それを再度感じ取れていた。

 そんな彼に、莉子はまだお礼を言ってない。先程あの二人組を追い払ってくれたこと。そのことについて、まだ言っていなかった。


「あの!君!」


 扉越しに声を出す。思ったよりも大きな声だった。声を出した莉子自身が驚くほどだ。


「どうしたの?」

「…あの、さっきはその……………ありがと……ね」

「あれは、僕もムカついたから言っただけだよ。別に感謝される筋合いなんて、どこにも無いよ」

「ううん、私は感謝するよ。例え君がそう思ってたとしても、私は嬉しかったからね。私は助かったからね。だから感謝するよ」

「それは……良かったよ」


 彼との会話はそこで途切れた。喋らなくなり、静かになった空間。そこで今聞こえる音。それはたくさんあった。

 例えば、彼が着替えている音。扉越しだが、かすかにしていた。

 例えば、莉子が呼吸をしている音。意識をしてみると思ったよりも聞こえていた。

 例えば、外から聞こえる蝉の声。これは先程から変わっていなかった。もう聞き飽きたくらいだ。

 ただ、それしかなかった。

 ただ、それしか聞こえなかった。したなかった。

 莉子はその音達に耳をすませて、彼の着替えを待っていた。それはとても楽しくて、時間の存在を忘れてしまうくらいであった。

 七分後。


「おまたせしました」


 その言葉と同時に彼が出てきた。服のサイズはピッタリだった。


「どう?似合ってる?」


 そう言って、その場でくるりと一回転する。その姿はまるで小さな子供のようだった。


「似合ってるよ」

「ありがとう。なんか、病衣以外着るの久しぶりだからテンションめっちゃ上がってる」

「じゃあ、君のテンションが下がらないうちにでも出発する?」

「そうだね。下がらないうちに行こう」


 二人で玄関を出る。

 たった今、旅がはじまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る