三章 園芸部入部

 五月の大型連休。紺色のミディアムワンピースを着た七海名は、神ノ辺市中心街から少し離れた海辺にある公園のベンチに座っていた。先週、突如現れた頭痛は、既に治まり、予想に反し、他の症状が出ることは無く、体調は優れていた。七海名が小学生だった時は、大型連休となれば、必ず、国内外へ家族旅行に出掛けていたが、中学に入学して以降は、旅行に行くことも、家族で外出することも無くなっていた。比奈子と愛莉の家庭は、この点、津戸家とは違い、今年も家族旅行へ行くということを、事前に携帯電話のグループチャットで確認していた。七海名は、両親以外の人間とは会わず、特にあてもなく外出するという、去年と同じ過ごし方をしていた。

 普段は、多くのスーツ姿の会社員や、騒がしい学生で溢れている神ノ辺市の中心街も、今日はその姿が見えず、代わりに、観光客の姿が多く見られた。中心街は、アンティーク家具店、洋服店、化粧品店、洋菓子店、喫茶店が、それぞれ洋風の外観を呈し、異国情緒を感じさせる。今いる公園も、洋風の街灯が設置され、電線は地面に埋められ、芝生が整えられ、清掃が行き届き、綺麗な空間が広がっていた。七海名の視界には、神ノ辺市の観光パンフレットの表紙に必ず掲載される朱色のタワーと、船の帆を連想させる建築物が近くに見え、人通りは少なく、湾を行く大型貨物船や観光船から、時折、汽笛の音が心地よく響いてくる。遠くには海上空港の影も見え、西から、着陸しようと高度を下げて向かってくる飛行機の姿もあった。そのような落ち着きの感じられる空間で、七海名は暖かい春の雰囲気を感じながら、先ほど喫茶チェーン店で購入した、アイスカフェラテの入ったプラスチック製の透明カップを手に持っていた。気を利かせた店員の手によって描かれた、可愛らしいスマイルマークを見て、唇が緩んだ。そして、深緑色の固いストローを口に含み、カフェラテを一口飲み、織和香のことを思い出した。先週、学校の中庭で話し、頭の中に鮮やかな色が咲き乱れた感覚を得てから、毎日、織和香のことを考えていた。

「織和香って、どこに住んでるのかなあ。バスで帰ってるみたいだけど」

 あれから、朝と夕方に挨拶を交わす仲になったが、会話らしい会話をする機会は無いまま、大型連休を迎えてしまった。七海名は、自宅の最寄り駅、電車の中、そして中心街の駅から、今座っているベンチまで歩いてくる間に、どこかで織和香とすれ違えるかもしれないと、ほんの僅かな可能性に期待していたが、当然のことながら、会えることも、住んでいる場所がわかることも無かった。

「織和香は、親とあまり仲が良くないって言ってたけど。あの子の言う『あまり』は、結構、深刻なんじゃないかな」

 海側から吹いてきた心地よい春の風が、七海名の黒髪をなびかせた。

「親子の仲が良くないってことは、家にいてもつまんないってことかな。今の私みたいに。織和香は放課後も、すぐ帰っちゃうし。あんなに良い子が、私みたいに、つまらないまま三年間過ごすのは、もったいないような気がする」

 青空に映える、白い半円形の大型ホテルを眺めた。去年も、一昨年も、この景色を見たことを思い出した。

「せっかく同じ学校に通ってて、席も近いんだから、私と織和香の二人で、なにか楽しいことをしたいな。中学生の時、私と比奈子と愛莉と三人で、自分が描いた絵とか同人を見せ合ってたみたいに、織和香と私の二人で、好きな作品を見せ合ったり、話し合ったり出来ないかな。織和香は、どんな漫画、どんな音楽が好きなのかな。休み明けに学校で会ったら、聞いてみよう」

 先ほどの風によって目尻に触れた前髪を指で払い、整え直した。そして、ベンチから立ち上がり、銀色のゴミ箱の前に行き、空になったボトルを入れようとした。店員がサービスで描いてくれたものとはいえ、絵が描かれたものを捨てることに、多少の後ろめたさを感じながら、

「ごちそうさまでした」

 丁寧に、ゴミ箱に入れた。

 海辺の公園を出て、神ノ辺市の中心街まで戻り、とある雑居ビルに向かった。そのビルの入り口は、人が溢れかえる賑やかな商店街の途中に、一見の観光客では見落とすであろう位置に、ひっそりと存在し、ビルに入っていく人間も、どこかそそくさとした素振りを見せている。周りの目など全く気にせず、堂々と入り、エスカレーターに乗った。商店街を歩いていると嫌でも鼻につく、チョコレートの甘い匂いも、化粧品の匂いも、このビルの中までは届かず、代わりに紙とインクの匂いが漂っている。三階に到着すると、エスカレーターを降り、アニメと漫画のグッズが多く売られる店舗の前で足を止めた。店の中を覗くと、男女関係無く、若い客がひしめき合い、陳列されたアニメグッズなどに触れ、騒がしい様子が見て取れた。

「パス」

 瞬時に判断し、再び歩き出した。次に足を止めた場所は、先ほどの店舗から、いくつかの店舗を挟んだ場所にある同人誌の専門店で、客の数が少なく、やや静かな雰囲気が流れていることを確認すると、店内へ入った。七海名が同人誌の専門店に入る際は、常に、今回はこのジャンルへ行く、ということをあらかじめ決めてあり、今日は、アルファベットでジャンル分けされたコーナーのうち、白色あるいは桜色が目立つコーナーに行った。そのコーナーには、七海名より明らかに年上の女性客が二人、やはり少し浮足立った様子で、棚に並べられた同人誌を物色していた。同じコーナー内にいる三人の客の中で、最も年下であろう七海名は、最も落ち着いた様子で、本棚の下部に並べられた同人誌の表紙を、鋭い目つきでゆっくりと追っていくと、少女漫画風のタッチで人物と背景が描かれた同人誌が目に入り、即座に手に取った。既存アニメのキャラクターではなく、作者が創り出した二人の女性キャラクターが、赤いリボンを共に咥え、裸で抱き合っている表紙を見ると、七海名の鼻の下が伸び、感心したように頷いた。

「ほう」

 フィルムケースがかけられているため、中身は確認出来ないが、表紙と裏表紙を確認すると、そのまま手に持った。再び、並べられた同人誌を入念に眺めていくと、アニメ塗りで描かれた、身長差のある、裸体の少女同士が、唾液に塗れている表紙が目に入った。

「なるほどね」

 表紙を見ただけで、内容をある程度予想し、先ほどの同人誌と同じように、表紙と裏表紙を確認してから、手に持った。購入したいと思える作品に、二冊も出会えたことに満足した七海名は、二人の女性客を後目にコーナーを出た。そして、会計場所まで移動する際、店の中で最も広いスペースが確保されたコーナーが視界に入った。そこは、男女のキャラクターが表紙に描かれた作品が多く置かれた、最も一般的なジャンルであり、書籍や映画など、他の媒体で作品化された旨が書かれたポップが、所狭しと並べられている。七海名は、そちらには目もくれず、真顔で通り過ぎた。七海名が好きな同人誌というものは、多くの作品が、ジャンル別にコーナー分けが出来る程度に、それを描く人間と、手に取る人間の価値観や趣味嗜好の差が明確に表れる。同人誌という同じ概念が好きな者同士であっても、その中身の嗜好の分類は極めて細かいため、語り合うには総論賛成各論反対が非常に多く、その棲み分けや、どのような内容であるべきか、議論を好む人間もいるが、七海名としては、他人の考えや議論に興味は無く、絵と内容が好きだから読む、という考えを持っていた。自分の中で興味関心を抱いたものに対しては徹底的に向き合うが、入学式の日に織和香に対してそうだったように、興味の抱けないものに対してはまるで無関心になるという、芸術家肌を感じさせる、七海名らしい性格だった。

 二冊の同人誌が入れられた茶色い紙袋を持った七海名は、下りエスカレーターに乗り、地下一階にある、コスプレショップに入った。店内は、上品な赤い壁に囲まれ、アンティーク風の照明が、落ち着いた光を灯しており、パステルカラーのウイッグと、ロリータ服、コスプレ用の服が多く整列され、独特の存在感を放っている。この店は、いつ来ても客が少なく、七海名は、この店で商品を購入したことは無いが、並べられている服を眺めることが好きだった。商品には手を触れず、店の中をゆっくりと半周すると、カップルと思われる二人組の後ろ姿が見えた。二人は、手を絡めるように繋ぎ、肩を寄せ合い、それぞれ、紅色と、クリーム色のゴシック服を着ており、顔を近づけ、お互いの目を見つめながら、ひそひそとなにかを話していた。七海名は、二人が着ているゴシック服のデザインに加え、赤ワインと白ワインが並んでいるような、絵になる組み合わせに、口元が緩んだ。そのまま二人の横を通り過ぎようとした際、その二人組が、女性同士であることに気が付いた。七海名は思わず、えっ、と声が出そうになり、一瞬だけ目を白黒させたが、真顔に戻し、出入り口まで歩き、店内に背を向ける形で立ち止まった。ここで振り返り、二人の様子をずっと見ていたい気持ちが生まれたが、赤の他人を見るなどという、はしたないことは出来ず、そのまま店を出た。

 大型連休明け初日の日女野女子高校。一年三組の教室は、もはや親に対する接待のような雰囲気すら感じさせる家族旅行を経て溜まった心身の疲れ、あるいは寝不足によって、眠気を隠し切れず、欠伸を我慢する生徒が目立っていた。七海名は、疲れは無いものの、落ち着かない様子で、自席に座っていた。自分と織和香との二人で、なにか、面白いこと、楽しめることをしたいと考え、織和香に話しかける機会を伺っていた。朝の登校時、昼休みなど、機会はあったはずだが、なかなか話しかけられないまま、放課後になってしまっていた。織和香が帰り支度を済ませ、立ち上がった時、やっと声をかけることが出来た。

「織和香」

 既に廊下の方へ身体を向けていた織和香は、七海名の方へ振り向いた。

「七海名さん」

 七海名は、織和香の微笑んだ表情に安心し、そのまま近づいた。

「もう、帰っちゃう?」

 織和香は表情を変えず、

「そうですね、バスの時間がありますので」

「だよね。あまり遅くなると、親御さんが心配するかな?」

「良い顔はされません。ですが、必ず決まった時間に帰らないといけない、という訳ではありませんので、少し遅れる程度ならば平気ですよ」

 織和香は、七海名がなにかを話したいと思っていることに気が付いた様子だったが、七海名としては、無理に織和香を引き留めてまで、この場で話す必要は無かったため、

「そっか。じゃあ、明日の昼休みにまた話そ。急ぎの用事じゃないからさ」

「はい。申し訳ありません……」

 織和香に謝らせてしまったことで、逆に申し訳無い気持ちになった。しかし、ここで七海名が謝ることで、妙な謝り合いになることを無意識に避けた。

「いや、いいんだよ。いきなり話しかけちゃったし。気を付けて帰ってね」

「ありがとうございます。また明日、よろしくお願いします」

 七海名は二重瞼の垂れ目を細め、ぎこちない笑顔を浮かべた。

「うん。んじゃ、また」

「失礼いたします」

 織和香は軽く会釈をして、廊下へ出て、昇降口の方へ歩いて行った。七海名は自席に戻り、手のひらに滲んだ汗をハンカチで拭った。

「まったく。緊張する必要なんて無いのに、なんでいつも緊張しちゃうのかな。それに。私は相変わらず、笑うことが下手だなあ。もっと、自然に話したいのに」

 先ほどの別れ際、他の女子生徒と話す時のように、つい愛想笑いを浮かべかけたが、織和香の自然な微笑みを見ると、愛想笑いなぞを浮かべようとしている自分が恥ずかしく思え、真顔に戻そうとしたところ、引きつった顔になってしまった。あらためて、自分の会話の苦手さと難しさを実感し、左手を胸に起き、ふうと呼吸を落ち着かせると、通学鞄を手に取り、帰宅した。

 次の日の昼休み。七海名は、織和香が昼食を終えたことを確認し、昨日と同じように話しかけた。

「昨日、言おうと思ってた話なんだけどね」

「はい」

 七海名は、昨日に比べると、やや落ち着いていた。

「高校生活、せっかく三年間あるんだからさ、私達二人でなにか、楽しいことしたいなあと思って」

「なるほど。誘っていただいて、ありがとうございます。実際には、どのようなことをしましょうか」

 昨日まで考えていたことを聞いた。

「逆に聞きたいんだけど、織和香はどんなことが好きなの? 好きなアーティストとかいる?」

 織和香は、少し申し訳無さそうに、一度、目を閉じて、

「学校以外では、音楽を聴いたことが無いですね……」

「そ、そっか。私、絵を描くのが好きなんだけど、好きな漫画はなに?」

 七海名の中で、最も興味を抱く質問を投げかけた。

「漫画は、読んだことがありませんね……」

「うう……」

 七海名としては、織和香は、漫画の類はあまり読まないであろうことは予想していたため、織和香が好みそうな作品を勧めようと考えていたのだが、読んだことが無いという、意外な答えが返って来た。七海名は、自分が残念そうな表情をしていることに気が付き、意識して元の表情に戻し、

「小説は読む?」

「そうですね。お話は好きで、小説も読みますよ。中学生の時は図書委員でした」

「ふむふむ。わかったよ。じゃあ、織和香がやってみたいことを、ひとつ挙げて。私も同じように、やりたいことをひとつ挙げるから。合わせてふたつのことを、これから一緒にやろうよ」

「わかりました。少し、お時間をください」

「よろしくね」

 二人はそれぞれ自席に戻った。七海名は、織和香が小説を読むと知った時点で、既に挙げることは決まっていたため、織和香の横顔を見た。織和香は、真顔で、考えを巡らせている様子だった。間もなく、なにかを思いついたように、目を輝かせ、明るい表情に変わった。その様子を見た七海名も、自然と微笑んだ。そして、織和香が立ち上がる動きを見せたので、七海名は視線を黒板の方に向けた。

「七海名さん。お待たせしました」

「おっ。思い浮かんだ?」

「はい。私は、園芸部に入ってみたいと思います。一緒に、校内の植物のお世話をしませんか?」

 織和香は、七海名が今まで見たことの無い、明るい笑顔を見せた。

「園芸部ね。織和香らしいね。いいよ!」

 織和香につられ、笑顔になった。

「よろしくお願いいたします。七海名さんの方は、どのようなことをされたいのですか?」

「私は、実はもう決めてたんだ。漫画を描こうよ」

 織和香は、嬉しさの余韻が残る顔で、軽く会釈をし、

「かしこまりました。ただ、私は絵心が全くありませんので、足手まといにならないように努力したいと思います」

「ううん。絵は私が描くから。織和香はストーリー、お話を考えて」

「なるほど。それならば私でも出来そうです。配慮いただき、ありがとうございます」

「いや、配慮というか、私は絵を描くのは好きなんだけど話を考えるのは出来ないからさ。役割分担って感じだね。前から、ストーリーのある漫画を描きたいなあと考えていたんだけど、私だけじゃ、なかなかうまくいかなくてね。織和香と二人で漫画を作れたら、楽しそうだなあと思って」

 七海名はこれまで、何度も漫画を自作しようとし、その度に、ストーリーを考えることが自分に不向きであることを痛感させられた経験を思い出しながら言った。

「織和香と二人で、っていうのが大事なんだよね。まあ、これからよろしくね」

「こちらこそ、よろしくお願いいたします!」

 園芸部に入ることが決まった織和香は、心の底から嬉しそうだった。

 深夜。自室にいた七海名は、両親から園芸部入部の承諾を得て、入部届を書き終え、寝る準備をしようと、椅子から立ち上がると、本棚に並べられた、ひとつの漫画が目に入った。その背表紙には、原作者と作画の欄に、それぞれ違う人間の名前が書かれていた。

「お。この漫画は、ストーリーを考えた人と、作画の人が違うんだったね。この漫画を意識した訳じゃないけど、知らない間に、アイデアに繋がるきっかけになってたかもしれないね」

 その漫画は、既に十回以上読み返しているもので、日女野の入学式の前日にも読んでいたものだった。七海名は、このお気に入りの漫画が、自分と織和香とを引き合わせてくれたような気持ちになった。

「ありがと」

 漫画に向かって優しい微笑みを見せ、部屋を出た。

 昼休み。七海名と織和香は、揃って職員室に入った。初めて入る職員室は、昼食を終えた教諭達が、本や新聞を読んでおり、喋る人間はおらず、静まりかえっている。七海名と織和香は、教諭の顔を一人ずつ確認しながら、窓際に座る、園芸部の顧問である女性教諭を見つけた。園芸部の顧問は、高学年の理科を担当する、若い女性教諭で、鋭い目つきで、学会誌を読んでいた。そして、自分の元に、一年生と思われる生徒が二人も現れたことに気が付き、何事かと思うような表情をした。七海名は、女性教諭と目を合わせると、一歩前に出て、一礼をした。

「お忙しいところ、失礼いたします。私は一年三組の、津戸と申します」

 七海名の挨拶に、織和香も続いて、

「同じく、一年三組の、頼野よりのと申します」

 二人の丁寧な挨拶を受けた顧問は、学会誌を閉じ、年季の入ったオフィスチェアから立ち上がった。

「はい。どうしました?」

「園芸部に入部したいと思い、入部届を持参いたしました」

 七海名が、脇に抱えていたクリアファイルから、二人分の入部届を取り出しそうとすると、

「入部。本当ですか?」

 顧問は、頭を僅かに後ろに反らし、意外そうな表情をした。

「はい。こちらが、入部届になります。よろしくお願いします」

「よろしくお願いします」

 静かな職員室に、七海名の落ち着いた声と、織和香の明るい声が響いた。

「あ、ありがとうございます。こちらこそ、よろしくお願いしますね。あの、早速ですが、津戸さん、頼野さん。もし、時間があればでいいのですが、園芸部の部室へ案内してもいいですか?」

「はい、お願いします」

「お願いいたします」

 顧問は、机の上に置かれた、畳まれた白衣を手に取り、

「では、行きましょうか」

 三人は、園芸部の部室に向かった。

 七海名と織和香は、昇降口に近い場所にある、狭い教室にいた。この教室は、一年三組の教室に行くまでに、必ず通り過ぎる位置にあるため、入学以来、毎日通りかかっていたが、誰かが教室内にいる様子を見たことは無く、室名札も白紙であったため、誰もが空き教室だと思っていた場所だった。先ほど、この教室に入った際は、淀んだ空気を感じたが、今は、顧問の手によって開けられた窓から、新鮮な空気が入って来ることを感じられる。七海名と織和香は、立ったまま、教室の中を珍しそうに見回していると、白衣を着た顧問が、水を絞った布巾を持ってきて、教室内に並べられた六つの机と椅子を、そそくさと拭き始めた。

「先生。お手伝いいたします」

 七海名が、顧問のすぐ横に出たが、

「いいえ。しばらく掃除していなかったのは、私なので。私にやらせてください」

 顧問は、あっという間に机と椅子を拭き終え、七海名と織和香に向かい合った。

「園芸部は、以前は部活として機能していたのですが……。ここ数年は、部員が誰もおらず、そろそろ廃部になってしまうところだったのです。今年は二人も入部していただき、とても助かります。ありがとうございます」

 こちらこそ、と言う気持ちを込めて、七海名と織和香は揃って会釈をした。顧問は続いて、

「学内の植物のお世話が、活動内容になります。活動内容は、このひとつだけですが、校内の美化、維持のために、とても大切なことですね。わからないことがあれば、私に聞いてくださいね」

 七海名は、左隣に立っている織和香の目と口元を見てから、顧問に質問した。

「はい。お花の世話が終わったあと、この部室を利用しても、よろしいですか? 私と頼野さんとで、絵を描きたいのです」

「はい、問題ございませんよ」

 顧問の快い回答を聞き、七海名と織和香は、安心した顔を向き合わせた。そのあと、顧問は、園芸部の活動に必要なジョウロや肥料が置かれた場所、種類など、二人に対して要領の良い説明を行い、あらためて挨拶を交わしたあと、職員室に戻った。部室に残った七海名と織和香は、綺麗に水拭きされた椅子に座った。

「あの先生って、見た目キツそうだし、生徒からもそういう風に言われてるけど、意外と優しい人なんだね。誤解してたよ」

「そうですか?初めてお会いした時から、とても優しい雰囲気が伝わりましたが」

 織和香は、不思議そうに答えた。

「さすが。見る目あるって感じだね」

 七海名は感心しながら頷いたあと、正面の窓の向こうにある、中庭を見た。

「今日から、園芸部の活動と、漫画作成。頑張ろうね」

「はい。よろしくお願いします」

 七海名は、普段、三組の教室で座っている、間隔のあけられた席とは違い、隣り合わせの席で、間近に迫る織和香の笑顔を見て、ふと、真顔になった。その様子に気が付いた織和香は、七海名を心配して、

「七海名さん。どうかしましたか?」

 七海名は真顔のまま、数秒、織和香の顔を見つめ、

「私、織和香の左側だと、どうも落ち着けない。右側に座りたい。席、交換しない?」

「いいですよ!」

「ありがと」

 二人は席を交換した。

 夕方。七海名は、制服を着たまま、放心したような状態で、自室のベッドに横たわり、天井を見つめていた。昼休みの部室で、織和香の笑顔を間近で見て、香しい匂いを感じてから、気持ちが落ち着かず、午後の授業にも全く集中出来ず、ノートには、黒板に書かれた文字の写しではなく、ぐるぐるとした渦のようなものと、織和香の名前がいくつも書かれていた。

「まさか、私」

 先ほどから、七海名は、自分が織和香に抱いている感情は、もしや恋心ではないかと考えていた。織和香のことを思った際、そして対面した際に、七海名の心の中に必ず生まれる緊張感、抑えようの無い、あの熱い気持ちは、今までに得た経験の無いものだった。あのような、これまで誰にも抱いたことの無い感情が、織和香と出会ったことで湧きだすように生まれ、幾度も浮かび、今でも七海名の心を満たしていることを考えると、自分が織和香を思う気持ちは、恋心以外には当てはまらないのではないかと考えた。

「うう、どうしよう」

 七海名は、顔をほんのりと赤くさせ、むくりと起き上がり、学習机の、鍵の掛けられた引き出しの方を見つめた。

「現実に女の子を好きになることが有り得るなんて……」

 七海名は、大型連休中にコスプレショップで見かけた、女性カップルを思い出した。二十歳前後と思われる彼女達は、揃って、色白の肌に映える濃い目のチークを塗り、大きな黒目を潤ませていた。二人は、自分達が親密にしている様子を七海名に見られたことも、驚かれたことも、気付いていたのか、気付いていないのかわからない。しかし、仮に気付いていたとしても、他人の目など、全く意に介さない雰囲気で、ビルに入ってきた時の七海名と同じように、堂々としていた。威圧感とはまた別の、あの二人でしか成し得ない、独特かつ強い世界観を放っており、他人がつけ入る隙は、まるで無い様子だった。

「私は今まで、同人誌を見て、男同士で結ばれることも女同士で結ばれることも、格好よくて、素敵で、綺麗なことだと思ってた。それを、現実に当てはめることは無かったけど……。お店で見たカップルみたいに、実際に有り得ることなんだよね」

 七海名は立ち上がり、引き出しの鍵を開け、購入したばかりの同人誌を二冊、並べた。

「あの二人は、服装も雰囲気も、同人誌から出て来たような雰囲気だった。現実でも、あんな雰囲気が出せるんだ。羨ましいかもしれない」

 七海名はこれまで、誰に対しても、恋心も、恋愛感情も抱くことは無かった。自分が誰かを好きになる可能性は、無きにしも非ずだと考えていたが、異性交遊を厳しく禁じられている日女野女子の生徒であるということもあり、恋愛とは、どこか別の世界で展開されている行為だと捉えていた面が強かった。七海名は、そのように、これまで客観的に鑑賞していたはずの恋愛の世界に、誰かから背中を押されて迷い込んでしまったような気持ちになった。

「現実で、同性を好きになっちゃったら、どうしたらいいのかな。明日から、どういう風に織和香と話したらいいのかなあ。同人誌を読み直して、参考にしてみようかな」

 その時、玄関の鍵が開けられ、母親が帰宅した。その音に気が付き、時計を見た七海名は、思っていた以上に時間が経過していたことに驚き、私服に着替え、脱いだばかりの制服のスカートに触れてから、夕食の用意を手伝うため、一階へ降りて行った。

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