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  三月九日 零時一四分



 場末の、ホテル。


 場末といっても、どこが場末だといわんばかりの、裸電球がまたたいて彩るピンク色の看板、ライトアップされたゴシック調の壁面、悪趣味極まりないそんな建物の、一室。


 「別れてくれ」


 「ナンデ?」


 さおりは即答した。相手がスキだとかキライだとかそんなことは関係なかった。ただその男はよかった。モノ買ってくれるしHうまいしえっとあと何がいいのかよくわかんなかったけど、よかったのだ。よいものは、なくならないほうがいいに決まってる。


 彼女の思考は常に、そんな一センテンス漢字五個以下の世界にとどまっていた。


 髪留めをはずし、豊かな髪をふぁさりと揺らして落とす。


 「しないの?」


 さおりは目尻を下げて、屈託なく言った。


 ……相手が彼女のために何百万という金を使い込み、離婚訴訟は泥沼に入り、もはやのっぴきならない状況に陥っていたとしても、彼女はそれを知らなかった。誰も彼女に事情を語ろうとしなかったし、彼女自身、相手の事情など知ろうとしていなかった。


 面倒はすべて置き去りにすることが本能的な行動だった。自分のためのことだけあればよかった。自分から五メートル範囲外は、無条件に視野からはずれるようになっていて、そういう自分が世界でいちばん好きだった。それが彼女の基本原則で、地球の自転も二進法も憲法も石垣りんも、それらの存在は毛頭かまわなかったが、自分の枠内に一瞬でも入ってきたなら、邪魔、としか受け止められなかった。


 彼女に必要なものは、彼女自身と、せいぜい彼女のトモダチという範疇のことがらだけだった。そしてその男のことを、彼女はトモダチだとも思っていなかった。


 「さおり」


 「なーに?」


 「それなら、一緒に死んでくれ」


 振り向くと、相手は、焦点の定まらない目でナイフを閃かせていた。


 さおりにはそれがサスペンスドラマのワンシーンに見え、だから当然次の瞬間には目の前の映像が窓の外からのシルエットに切り替わるものだと思った。


 しかし映像は切り替わることなく、同じカメラワークのまま進んでいったが、彼女は血の海に倒れてなお、そこにある痛みが邪魔に思えてならなかった。

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