第14話 絡繰る青と赤



 海風が、強く吹き抜けていった。

 漸く見えたはじめさんの車が、私たちの前で停車した。勢いよく飛び出してきた彼の顔色は青白く、酷く動揺している様子だった。いつもの落ち着いた雰囲気はなく、言動から焦燥感が伝わってくる。彼は、きっと自分のせいで妻が居なくなってしまったのだと、頭を抱えながら自身を呪っているようだった。

 壱弥さんは彼女が居なくなった経緯を源さんに問うた。

 本日の十三時過ぎ、七海子なみこさんは昼食を終えた後、きっちりと記入した外出届けを病院へ提出していた。そこに記された行先は自宅であり、病棟看護師曰く、彼女は夫が駐車場で待っているからと言って、一人で出掛けていったそうだ。病室のクローゼットに仕舞っていた水色のワンピースに青いストールを翻す彼女は、とても幸せそうに笑っていたという。

 病室には彼女の書き置きがあった。

「行ってきます」

 ただその一言だけを記し、彼女は忽然と姿を消してしまったのだ。

 きっと、心の何処かで源さんは気付いていたのだろう。彼女の深海のような瞳が、「死」を見つめていることを。

 源さんは私たちに深く頭を下げた。

「ここまでしていただいて、勝手なお願いなのは分かってます。もう指輪は見つからなくても構いません。代わりに、妻を探していただけませんか……!」

 壱弥さんは優しい表情で、源さんを落ち着かせるように肩に手を添えた。

「僕も勝手ですが、それはできません」

「それじゃあ、妻は……!」

 源さんは懇願するように壱弥さんのシャツを掴む。しかし、壱弥さんは彼の言葉にも狼狽えることなく、強い瞳で前を見据えていた。

「指輪の代わりになんて、とんでもありません。奥様も指輪も、僕が必ず見つけます」

 その台詞は、源さんの心を震撼させたようだった。手を解いた彼は、泣きそうな表情で再度頭を下げ、私たちに礼を告げた。

 どうして、壱弥さんはこうも強く在ることができるのだろう。未来なんて誰にもわからないのに、彼は簡単に「できる」と断言してしまう。だからいつも彼の言葉を信じ込み、何でも出来るように感じてしまうのだ。そう思い込まれ、期待されてしまうことに恐怖心はないのだろうか。私なら、それは自身への圧力だと思ってしまうだろう。

 壱弥さんは私の顔を見ると、にんまりと笑った。

 その瞬間、私は自分の考えが如何に無意味であるかということに気付かされた。目の前で笑う彼は、確固たる自信を持ってそう告げているのだから。


 一体、彼女はどこへ姿を消してしまったのだろう。

 車も持たない彼女は、たった一人で病院を抜け出して、いま何をしているというのか。考えれば考えるほど、嫌な想像ばかりがぐるぐると頭中を駆け巡る。

 源さんは彼女が愛した思い入れのある場所をゆっくりと思い出し、地図の中にそれぞれの場所を示していった。

 ――彼女の生まれ育った隣街、彼女がかつて働いていた研究所、よく足を休めたシーサイドパーク、小さな海のアートギャラリー、大好きだった水色の壁のケーキ屋さん、お気に入りの海が見えるカフェ、砂の鳴く浜辺。

 そのひとつひとつを抱きしめるように、彼は妻の記憶を辿っていく。私たちはその思い出の土地を進みながら、彼女の影を追い続けた。しかし、どれだけ探しても彼女の姿はどこにも見つからなかった。

 空しくも時間だけが過ぎ去り、徐々に陽が傾き始めていく。

「日没まであと一時間もありませんよ」

 そう、落ち始める太陽を見上げながら呟くと、壱弥さんが低い声で相槌を打った。

 このまま闇雲に走るだけでは、指輪どころか七海子さんの姿さえも見つけることが出来ないかもしれない。壱弥さんは真剣な面持ちで、青ざめたままの源さんに問いかける。

「奥様がもう一度行きたいって言ってた場所に心当たりは」

「少し前に言ってたんが、ここやったはずなんです……」

 源さんはゆっくりと声を絞り出すように告げた。

 私たちが訪れていたのは、京丹後きょうたんご市にある琴引浜ことひきはまという名の砂浜だった。そこは、歩くと音の出る鳴り砂で有名な白砂青松はくしゃせいしょうの景勝地で、名勝にも指定されている場所だ。

 純白の砂浜に真っ青な海が映えるその様は、彼女の白い肌にかかる青いストールのようにも見える。余りにも美しいその景色を見つめていると、彼女がもう一度見たいと望んだ気持ちがわかるような心地がした。

 遠くまで続く砂浜を、音を立てながら踏みしめる。

「確かその時、海に沈んでいく綺麗な夕日が見たいって言ってたと思います」

「夕日か……」

 壱弥さんは何かを考え込むように、小さく源さんの言葉を復唱した。

「陽が沈むまでもう少し待ちますか」

 私が告げると、源さんは不安気に顔を上げる。

「妻はここに来るんでしょうか」

 それは、わからない。一か八かにかけるには根拠が弱すぎるため、自信を持って返事をすることが出来なかった。返す言葉に詰まっていると、壱弥さんは私の頭に優しく手を乗せた。そして私に代わって、口を開く。

「恐らく、彼女はここには来ません」

 壱弥さんの目はその言葉が冗談であるとは感じさせない程に、真っ直ぐと彼を捉えていた。何を考えて、その結論に至ったのだろうか。

「奥様が今日を選んだ理由は分かりますか」

 その問いに、源さんは小さく首を振った。

「奥様に、僕たちの調査に立ち会うってことは伝えてましたよね。奥様はあなたの面会時間が遅くなると知っていて今日を選んだんやと思います。きっと、直ぐに見つけられることのないようにしたかったんです」

 そして眉間に皺を寄せながら、彼は残酷な言葉を続けていく。

「今から身を投げようとしてる人が、簡単に見つかる場所を選ぶはずがないですから」

 源さんの表情が強張った。

 彼の推理は当然頷けるものではあったが、どこか引っかかってしまう部分もあった。彼の言葉通りであるのなら、海ではなく、誰も想像のつかないような場所を訪れているということになるのだろう。しかし、七海子さんは誰よりも美しい海を愛していたのだ。だからこそ、最期はきっと海の見える場所を選ぶのではないだろうか。

 私は、壱弥さんに反論する。

「それでも、七海子さんは海を見てると私は思います」

 強く告げると、壱弥さんが私を見遣った。

「彼女は目が悪かったから、病室からの景色もはっきりと見えてへんかったはずです。もう一度近くで綺麗な海を望みたいと思うのは当然やないんでしょうか」

「あぁ、そうかもしれへん」

 穏やかな表情で肯定すると、源さんも同じように頷いた。

「絶対に海が外せへんのやとすると、気付かれにくくて、公共交通機関を使って行ける範囲の場所はどこか、や」

「今まで一度も行ったことがない場所かもしれませんね」

 口元に手を添えて思考を巡らせるように、壱弥さんは言った。視線を落としていた源さんが、思い出したように顔を上げる。

「私も妻も海洋学の研究をしてたんで、色んな場所の海を見てきました。けど、妻が言うような海に沈む夕日を見に行くってことは一度もなかったと思います」

「やっぱり夕日か」

 ここからそう遠くはない、夕日の美しい浜辺には心当たりがあった。私と壱弥さんは同時にその名称を呟いた。

――夕日ヶ浦ゆうひがうら

 私たちはどんどんと水平線に近づいている太陽を確認すると、砂浜に足を取られないように気を付けながら、真っ直ぐに走り出した。

 彼女はきっと今ごろ白い砂浜を歩いているだろう。もう一度、鮮やかな青海と真っ赤な斜陽をその目に映したいと願って。



 夕日ヶ浦と呼ばれる砂浜までは、三十分もかからずに辿り着いた。車を降りた源さんは早く彼女の姿を確認したいと、駆け足で浜辺に向かっていく。それを追うように歩き進めていくと、彼はすぐ目の前で立ち止まった。

「七海子」

 その視線の先には、爽やかな水色のワンピースを着た女性が映る。靡く海風に飛ばされないように深く被った帽子を手で押さえながら、彼女は遠くの海を見つめるように立ち尽くしていた。その足元を、押し寄せる波が濡らしている。どれだけ長い時間そこに立っているのだろう。その姿は、目の前に広がる青海に溶けてしまいそうなほど、弱く、小さく見えた。

 大きな深呼吸をした源さんは、彼女に駆け寄りその手を取った。

 彼女が振り返ると、胸元の大きなペンダントが揺れる。

「源さん……!」

 目を丸くしながら驚くその言葉にも構わず、源さんは華奢な彼女の身体を強く抱きしめる。彼女の柔らかい体温を感じていると、安心したように彼の瞳には涙が浮かびあがった。

「無事で……良かった」

 源さんの撫でるように囁かれた言葉を聞いて、彼女は下唇を噛み締めながら震える声で謝罪した。源さんがここにくるまで、ずっと後悔を重ねていたのだろう。彼がゆっくりと身体を開放すると、漸く緊張を解どけ脱力するように、七海子さんはそのまま砂浜へと座り込んだ。さざ波が水色のワンピースを濡らす。

「大丈夫ですか」

「えぇ、無事です」

 壱弥さんと共に二人の傍まで駆け寄っていくと、私たちはぐったりと座り込む七海子さんの手を引きながら波の中から救い上げた。

 鮮やかに耳を抜けていく波の音が、緩やかな時間を作り上げる。

 直ぐに落ち着きを取り戻した七海子さんは、彼と二人で夕日が見たいと言った。そのため、私たちは少し離れた場所で砂浜に腰を下ろす二人を見守ることとなった。


 海の風を感じながら、七海子さんは少しだけ悲しそうな表情で微笑んだ。

「――私な、源さんには幸せな記憶だけを憶えてて欲しいと思ってたん」

 そう、徐に言葉を紡ぎ始める。

 彼女は、自分の病気のせいで悲しむ夫の姿を見ることが辛いのだと言った。きっと、彼は最期まで自分のために己を犠牲にしていくのだろう。そして、苦しむ自分の姿を目に映す度に、どこかで傷付いていく。そう考えると、不器用に笑う彼の姿を見ることに耐えられなくなったのだろう。

 かつて彼が褒めてくれた長い髪も抜け落ち、身体は酷く痩せ細ってしまったのだと言った。彼が愛してくれた頃の自分の姿がどこにもないと気付いた時、彼女は恐怖感に苛まれた。今の自分の姿が、彼の綺麗な記憶を上書きしてしまうのではないか。もしかすると、醜い姿が彼の愛情を削ぎ取ってしまうのではないか。そんな考えばかりが彼女をずっと取り巻いていた。それと同時に、彼女は感じたのだ。彼には幸せな頃の記憶だけを憶えていてほしい、と。

 だからこそ、いま姿を消してしまうべきだと彼女は考えたのだろう。これ以上夫と時間を共にすることは、幸せな記憶を蝕んでしまうことになるのだから。

 彼女は、夫の愛情を忘れようとした。――もう、彼は私を愛していない、と。そうすれば、罪悪感を抱かずに済むのだと、何度も何度も言い聞かせた。

 愛情とは脆いものだと静かに彼女は言った。波に浚われてしまえば簡単に崩れ去る。どれだけ強く固めていても、いずれは風化し、壊れてしまうのだ。真っ白い砂の城のように。そして彼女は何度、愛情を詰め込んだ城を壊したのだろう。辛くなっては壊し、寂しくなってはまた作る。そうして歪になった愛情が、彼女の心に闇を作ってしまったのだろうか。

 七海子さんはあの凪いだ瞳で海を見る。

「ずっとこうやって海を眺めてたら、海の神様が私を浚ってってくれへんかなぁって思ってたん。そしたらどんだけ楽なんやろう、って」

 静かに言葉を紡ぎながら、唐突に彼女は両手で顔を覆った。

「……でも、やっぱり私は……もっと源さんと一緒に生きたい」

 大粒の涙を零しながら、七海子さんはか細い声を絞り出すように言った。

 源さんが、彼女の手を優しく握る。

「そんなん当たり前や」

 そして彼女の目を見つめながら、強く諭すように言葉を掛けていく。

「僕が君を嫌いになるなんて絶対にあり得へん。その笑顔も、幸せな記憶も、全部忘れるわけがないやろ。勿論君が苦しむのは辛いに決まってるけど、一緒に痛みを感じて何が悪いんや。それが夫婦やろ」

「……源さんが辛いんは嫌なん」

「君が今居らんくなった方が辛いに決まってるやろ」

 その台詞に、七海子さんはくしゃくしゃの顔で大粒の涙を零す。

「やから、一緒に最後まで生きていこう」

 彼は優しい口調で彼女に囁き、もう一度強く彼女の身体を抱きしめた。

 涙がこみ上げる。

 きっと、これから近い未来に直面するであろう困難でさえも、二人でゆっくりと受け止めていくのだろう。そう感じさせるほど、彼らは強く手を取り合っていた。

 ずっと黙って見ていた壱弥さんが、感動している私の顔をみてふっと笑う。

「泣きすぎや」

「泣かんほうがおかしいと思うわ」

「それもそうか」

 そう言いながらも一滴の涙も零さないまま、壱弥さんは空を仰いだ。

 気が付くと、傾いた夕日がいつの間にか海を真っ赤に染め上げていた。赤い景色が視界いっぱいに広がっている。

「見て、壱弥さん。さっきまであんなに青かったのに、凄い!」

 その景色はとても幻想的で、私たちだけをどこか別の世界に連れてきてくれたように感じさせる。赤い太陽が作り上げる自然の優美さに、時間が止まったような錯覚に陥ってしまうほどだった。

 感動のあまり大きい声を上げると、七海子さんが振り返り、おかしそうに笑った。源さんに支えられ、ゆっくりと歩みだす。

「ご心配をおかけして、ほんとうにすみませんでした。ありがとうございます」

「いえ、とんでもありません」

 壱弥さんが会釈をすると、七海子さんはにっこりと笑う。そして、また何かに気が付いた様子で声を上げた。

「私、指輪は見つからんと思ってたんですけど、ここに居るってことは見つかったんですか?」

 彼女は大きな目をぱちくりとさせながらそう問うた。

「指輪自体はまだなんですけど、ヒントは見つけましたよ」

 壱弥さんは義母から彼女宛ての手紙があると告げ、源さんがそれを持って病室を訪れたことを話す。そういうことですか、と彼女は言った。恐らく彼女は、何故こんなにも早く気付かれてしまったのかとずっと疑問に思っていたのだろう。壱弥さんの話を聞いて、漸く腑に落ちた様子だった。

 源さんは懐に仕舞っていた手紙を静かに七海子さんへと差し出した。

 彼女はゆっくりとそれを開封する。



『七海子さん、夫婦とは、相手のどんな姿でも愛しくて、どんな感情でも共有できるものなんですよ。

 だからあなたは、堂々と甘えれば良いのです。

 そしていつも笑っていてください。

 あなたの笑顔は陽の光と同じ。

 その光の前では、源の誠実さも、情熱的な愛へと変わるのです。』



 その文面に、鳥肌が立った。まるで彼女の感情を見透かしているように綴られたそれは、優しい文面に反する不気味さを感じさせる。同じように感じているのだろう、七海子さんは茫然とその手紙を見つめていた。

「やっぱり母は七海子がどう思ってたんか、気づいてたんですね。それを知っていて、七海子に僕の想いを気付かせようとしたってこと、ですか」

 源さんがそう零すと、義母の記憶を思い出した七海子さんはまた泣き出しそうな顔をする。一見は母の愛を感じる手紙なのかもしれない。

 しかし、壱弥さんは疑念を抱きながら、最後の一文をもう一度確認した。

「光の前では、誠実さが、情熱的な愛に変わる……か」

 沈んでいく太陽と赤い海に視線を向けた瞬間、壱弥さんははっとした。

「七海子さん、昨日見せてくださったルビーのペンダントを、もう一度お借りしてもいいですか」

 壱弥さんが少し早口で告げると、七海子さんは不思議な顔でそれを差し出した。受け取ったロケットペンダントを開くと、やや紫がかった赤い石が淡い光の中に浮かび上がる。絡繰りは昨日と何一つ変わらない。その様子を確認したあと、壱弥さんは小さなケースから名刺を取り出した。そして、彼は灯る光を遮るように手にしていた名刺を宛がった。ペンダントを覗き込む。すると、先ほどまで赤く光っていたはずの宝石が、いつのまにか深い青色に輝いていたのだった。

「なんで?!」

 その不思議な現象に、私は思わず声を上げた。

 壱弥さんがにやりと笑う。

「これはルビーやない、カラーチェンジサファイアや」

「カラーチェンジサファイア?」

 聞きなれない言葉を繰り返すと、彼はそれが光の照射によって色味を変える宝石であることを説明した。

「じゃあ、このペンダントがサファイアの指輪の正体ってこと……?」

 七海子さんが問う。

「ルビーとサファイアは同じコランダムと呼ばれる鉱物で、赤いものをルビー、それ以外をサファイアって言うんです。お義母様はルビーに見立てるために、指輪を絡繰りペンダントに作り直したんでしょうね」

 その事実に、皆が不思議そうな顔をした。

「何でそんなことする必要があったんでしょうか」

 源さんがそう訊ねると、壱弥さんはふっと表情を和らげた。

「……恐らくは昨日言ってた、ルビーが病を癒す意味を持つことが一つ。あとは、ルビーは愛の象徴で情熱的な愛をもたらすとも言われますから、お二人の愛情を守ろうとしたんでしょう」

 事実を伝えながら、壱弥さんは穏やかに微笑んだ。

「粋な贈り物ですね」

 様々な絡繰りを残した母親は、ずっと二人の未来を案じていたのかもしれない。自分の死後、様々な困難にぶつかるであろう二人の事を考えて、その絡繰りに沢山の想いを詰め込んだ。そう考えると、彼女がどれだけ慈悲深い母親だったのか、読み取れるような気がした。

 七海子さんは胸元のペンダントを、大事そうに両手で包み込み、そっと抱きしめていた。



 八月を迎え、暑さは更に加速し、京都の街をサウナのように熱し続けていた。

 壱弥さんはいつも通りに黒いふかふかのソファーに身を投げ出し、寝息を立てていた。グレーのTシャツの裾を捲りあげ、いつもと変わらずお腹を掻いている。漸く事務所の掃除を終えた私は、余りにも見るに耐えない彼のおっさん臭い姿に嫌気が差し、冷凍庫から取り出したアイスクリームをその腹に乗せた。

 びくんと身体を震わせた壱弥さんは、腹の上のアイスクリームを手で払い、むっくりと起き上がった。

「何なんお前」

「人が掃除しとんの手伝わんと気持ちよさそうに寝てるおっさん見てたら腹立ったんで」

「性格悪いな」

「そっくりそのまま返すわ」

 不愛想に頭を掻きながら立ち上がり、飛んでいったアイスクリームを拾い上げると、私に向かって放り投げる。

「要らんの?」

「腹冷えたから要らん」

 まだ少し眠そうな様子で目を擦りながら、彼は事務所の方へと歩いていった。仕方なく、アイスクリームは元の冷凍庫へと仕舞うことにした。

 綺麗に片付いた事務所へ出ると、彼はパソコンを開いていた。休日なのに仕事でも始めるのだろうかと首を傾げていると、彼は私の名を呼んだ。

「もうすぐ、倭文しとりさんが此処にくるんや。用事でこっちに来とったらしくて、一言礼が言いたいって」

「そうなんですか。そういえば遺言書の検認って済んだんですかね」

「あぁ、ちゃんとできたそうやよ」

 ふうん、と応接間の椅子に腰を下ろすと、反対に壱弥さんは立ち上がる。

 守りたかった指輪が別の姿に変わっていたという事実に、遺言書が効力を発揮できるのかという心配があった。しかし、新しい遺言書に同封された財産目録に、しっかりとそのペンダントの名前が記載されていたそうだ。それを聞いて、私はほっと胸を撫でおろした。

 その直後、訪問者を告げる呼び鈴が鳴った。壱弥さんはだらだらと入口まで歩いていくと、相変わらず鍵のかかっていない格子戸を滑らかに開いた。

「こんにちは、春瀬さん」

「お久しぶりです」

 源さんが優しい笑顔で挨拶をすると、壱弥さんも頭を下げる。たった一人でこの事務所にやって来たのだろうか。そう思っていると、彼の後ろからひょっこりと七海子さんが姿を見せた。身形を整えた彼女は、病気療養中とはおもえないほど、とても綺麗な女性だった。白いブラウスの胸元には、あの貝殻のペンダントが輝いている。

「すごいお洒落で綺麗な探偵事務所なんやね~」

 ゆるりと率直な感想を告げながら、彼女は物珍しそうに周囲をゆっくりと見回していく。涼しい空気が逃げてしまわないようにと、彼らを事務所へ招き入れると、応接用のソファーへと案内した。壱弥さんは奥のディスプレイクーラーから取り出したお茶をグラスに注いでいる。

「ナラちゃんは相変わらずかわいいなぁ。春瀬さんは私服やと探偵さんとは思えんくらいイケメンのお兄さんやね」

 腰を下ろした七海子さんが告げる。

「でも壱弥さんめっちゃおっさん臭いんですよ」

「え、何か百合みたいなええ匂いするけど?」

「そうやなくて、言動のほうです」

 それを聞いた源さんが失笑した。むうっと頬を膨らませながら、その天然ぶりを恥じている彼女の方が断然可愛く見える。

 奥からお茶を運んできた壱弥さんが、眉間に皺を寄せ私を睨む。それに反抗するように彼に変顔を向けると、壱弥さんは小声で「ぶっさいくやな」と笑った。その何気ないやり取りを見ていた七海子さんは、どこか楽しそうに微笑んでいた。

 壱弥さんが席に着くと、源さんは姿勢を正し口を開く。

「そういえば、これナラちゃんにって思って持って来たんです」

 源さんが、傍らの鞄から一冊の本を取り出し、私に差し出した。それは、茶色い表紙の古い本で、私が少しだけ読んでいた「林檎の樹」だった。あれからずっと物語の続きが気になって、原文の本を探し続けていた。しかし古い洋書は簡単には見つからず、諦めて日本語訳の本を購入しようかと悩んでいたところであった。

「いいんですか?」

「うん、大事にしてくれると嬉しいです」

 私が深く頭を下げると、源さんは嬉しそうに表情を和らげた。嬉しさからほんの少しページを捲っていると、今度は壱弥さんに声を掛ける。

「あの後、母が抜き出した詩の続きを読んでみたんです」

「そうなんですね」

 それは、ワーズワースの書いた『オード』という詩のことだった。

 壱弥さんは真剣な顔で彼の言葉に耳を傾ける。

「もしかするとあの詩の内容が、母が私たちに伝えたかった一番のことなんかもしれません。だから、私たちは今を大切にしながら強く生きようと思います」

 その強い言葉に、壱弥さんは安心した様子でゆっくりと頷いた。


 あの詩の続きとは、どういうものなのだろう。

 彼らが帰ったあとでこっそり壱弥さんに訊ねてみると、彼はその詩を優しく諳んじてくれた。



 What though the radiance which was once so bright

 Be now for ever taken from my sight,

 Though nothing can bring back the hour

 Of splendour in the grass, of glory in the flower;

 We will grieve not, rather find

 Strength in what remains behind


 かつてあれほど輝いていた光が、今はもう永遠に私の視界から失くなったとしても

 あの草原の輝きや草花の栄光が取り戻せないからと言って、嘆くのはよそう。

 むしろ、強さを見出すのだ。残されたものの中に。



 その言葉はとても強く心に響き渡った。

 誰だって輝いていた時間を失えば、嘆いてしまうものだろう。けれど、それがもう戻らないとわかった時、大切なのは過去を嘆くことではない。今在る時間を見つめ、前に進んでいく強さを見出すことなのだ。

 私は彼の言葉を反芻しながら、ゆっくりと目を閉じた。

 きっと、彼らは強く輝きながら生きていくのだろう。





――第二章『わだつみと白砂の城』終

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