第4話 雨の降るカフェと嘘


 窓の外には優しい木の壁が可愛らしい小さなカフェが見えた。

 壱弥いちやさんは周囲を確認しながら、小さな駐車場にきっちりと停車させる。

 車を降りると、雨雲は更に厚くなっており、立ち込める匂いがいつか降りだしそうな雨の兆しを感じさせていた。

「ちょっと急がな降りそうやなぁ」

 壱弥さんは空を見上げて目を細めながらぽつりと呟いた。

 カフェの入り口を開くと、ドアベルが澄んだ音でからんころんと鳴り響く。扉が閉まった途端、先程までの雨の予感は消え失せ、湿っぽい夏の音を初めから無かったかのように遮断した。

「いらっしゃいませ」

 柔らかい女声が響いた店内は、仄暗い橙色の照明が浮かぶ木目の内装で、落ち着いた雰囲気を纏っている。普通のカフェだとばかり思っていたが、実際はカフェベーカリーであり、香ばしいパンの香りが充満していた。

「飲食スペースはご利用ですか?」

 嫌味のない茶髪を一つに纏めた三十代半ばほどの女性が静かな声音で問う。壱弥さんは短く断りを入れたあと、直ぐに本題を切り出した。

「オーナーさんに少しお伺いしたいことがあるんですが」

 壱弥さんの言葉に彼女は不思議そうな顔をしたが、私達の姿を見るなり何か納得した様子でふんわりと微笑んだ。

「わたしがオーナーの秋帆あきほです。今お客さんも少ないんで、少しの間なら伺いますよ」

 私達を奥のテーブル席へと座るように手で示しながら、秋帆さんが言った。

 壱弥さんが名刺を差し出し、花田さんについての話をすると、直ぐに状況を飲み込んだようだった。

「二葉ちゃんに会ったのは先週の月曜日が最後です。春瀬さんが仰る通り、引っ越しするって言って挨拶に来ましたよ。何でも、お母様がご入院されて、実家のある倉敷に戻るとかで」

「それはご本人が?」

「えぇ、間違いなく」

 秋帆さんは静かに頷いた。彼女が俯く度に、睫毛にかかる照明が白い頬に影を落とす。

「因みにその時、彼女は誰かと一緒でしたか」

「いいえ、一人だけでした」

「そうですか、ありがとうございます」

 たったそれだけのやりとりで、壱弥さんは秋帆さんに深く礼をした。そして席を立とうと僅かに椅子を引いたとき、店の隅から現れた男性が、暖かいコーヒーと艶のあるクロワッサンを机に差し出した。

「どうぞ、ごゆるりと」

 秋帆さんが表情を綻ばせながら言った。

 甘く焦げたバターの香りが、コーヒーの芳ばしさと絡まるように溶けていく。早々に退席しようとした壱弥さんも、彼女の計らいを受けて一息着くことを選んだ様子だった。

「すごく良い匂いがしますね」

 感嘆の声を漏らし、キラキラと目を輝かせる葵を見て、秋帆さんは口元に手を当てながらくすりと笑う。

「あなたが葵ちゃんやね。そしたら、あなたがナラちゃん?」

 彼女の問いに私は小さく頷いた。まるで初めから私達の事を知っているように、優しい視線をこちらへ向ける。私たちの顔を見比べながら、どこか懐古しているようにも感じられた。

「二人は、高校生の時から仲がいいんやってね。二葉ちゃんがよく二人の話をしてくれてたんよ」

 私の疑問を紐解くように秋帆さんは言った。

「二葉が?」

 葵は目を丸くして、念を押すように問うと、秋帆さんは首肯する。その瞬間、葵は身を乗り出すように勢いよく立ち上がった。

「あの、二葉があたしに黙っておらんくなった理由って、何かご存知ないですか……!」

 両の拳を強く握りしめながら、必死に感情を抑えた震える声で彼女の欠片に縋り付く。

「二葉と喧嘩したつもりもないし、何も言わんとおらんくなった理由が全くわからないんです。あたしが何かしたんやったら、二葉とちゃんと話をして謝りたいんです」

 泣き出しそうになりながらも声を絞り出し、葵は助けを求めるように告げた。しかし、秋帆さんは申し訳なさそうな顔で首を横に振る。

「私にはさっきも言った通りのことしか」

 それでも葵は縋りつくような目で秋帆さんを見つめている。

「葵ちゃん」

 両目に大粒の涙を浮かべる葵の名を、壱弥さんが静かに呼んだ。すると、彼女は強ばっていた体の力を抜いて、脱力するように椅子に座り直した。

「すいません……」

「いいえ、私こそ力になれへんくてごめんね」

 角のない秋帆さんの柔らかい声が、午後一時を知らせる時計の鐘の音に吸い込まれていった。一度だけの鐘が止むと、静寂が再び押し寄せる。

「そういえば、あなた達の話する時、二葉ちゃんはなんか寂しそうな顔をすることもあったんやわ。葵ちゃんに対する気持ちは、好きとか嫌いとか、そんな単純な話ではないんかもしれんね」

 秋帆さんはおっとりとした店内の空気に合わせ、ゆっくりと諭すように告げた。

「きっと、二人の姿をみて、羨ましいと思うこともあったんとちゃうかな」

 途端、ずっと堪えていた涙が葵の両目からぽろぽろと零れ落ちた。

 葵と花田さんはとても仲の良い親友だった。大学に来てからの友達とは思えないほど、気を許しあっていたように感じる。しかし、彼女はどこかで葵との間に見えない壁を感じていたのだろうか。

 それでも、心の中に差す翳りを感じさせるものなど、彼女は何一つとして溢すことはなかった。誰にも言えないまま、感情を圧し殺しては傷付いていたのかもしれない。

 そんな彼女にとって、私達が決して触れることのないこの場所が唯一、内に秘めていた細やかな不安を見せることが出来る空間だったのだろう。だからこそ、たった一人で秋帆さんだけに別れを告げに来たのだ。

「考えてみれば、近いようで遠いような、そんな空しい気持ちもあったんかもねぇ」

 窓の外に広がる曇り空を見上げながら、どこか遠い目で呟かれた秋帆さんの独り言が、ふわりと行き場もなく宙を舞った。


 カフェの外に出ると、生温い空気が全身を包み込んだ。対照的に、ぽつぽつと降りだした雨が肌に冷感を与えていく。

「雨も降ってきたし、今日の調査はここまでにしよか」

 壱弥さんが言うと、葵は未だに溢れる涙を拭いながらこくりと頷いた。

「葵ちゃん、明日の予定は?」

「お祖母ちゃんの手伝いしあなあかんので……」

「わかった。明日は俺が実家を調べとく。進展があったら連絡するよ」

 壱弥さんは家まで送ると言ったが、葵はそれを断り、最寄り駅までで良いと告げた。壱弥さんはその申し出を緩やかに承諾し、葵を駅まで送り届けた。

「独りにしてもよかったんかなぁ」

 離れていく葵の後ろ姿を見つめながら、小さく溢す。無事に一人で帰ることができるのだろうかという不安は残っていたが、壱弥さんは躊躇いなく車を発進させた。

「独りになりたい時もあるやろ」

 彼は正面から視線を背けずに、ただ静かにハンドルを握る。私は何も言えなかった。

 三条通りをぐるりと回ると、意外にも軽やかな運転で簡単に事務所へと辿り着いた。事務所の扉を潜るなり、壱弥さんはきっちりと締めていたネクタイを軽く緩めながら、パソコンの電源を入れた。

「まだ仕事するんですか?」

「あとちょっとな」

 思い返すと、未だ葵の依頼は解決したわけではなかった。花田さんは実家に帰ったのだと秋帆さんが言っていたが、例えそうであったとしても、彼女の実家を探し出しその裏を取る必要があるのだ。そして、その連絡先を葵に伝え、初めて契約上の依頼を完遂したことになる。壱弥さんはそれを分かった上で、最後の仕上げをしようとしているのだろう。

「やっぱり、花田さんは実家に居るんですかね」

「今日の聞き込みの通りであれば、そのはずやろうな」

 壱弥さんの作業を横目に、私は氷を入れたダブルウォールグラスにアイスコーヒーを注ぎ込む。そして席にも着かず、屈んだ状態でパソコン画面を覗き込んでいる壱弥さんに差し出した。

「ありがとう」

 彼は左手でマウスを動かしながら、右手で受け取ったアイスコーヒーに口を付ける。ほんの僅かに動きを止めたかと思うと、静かにグラスを置いた。

「これは、どういうことや……」

 明らかに怪訝な顔で、壱弥さんは吐息を漏らすように呟いた。

「どうしましたか?」

「実は彼女の実家は昨日のうちに調べとってな、割り出した実家に彼女がおるか調べて貰うように、岡山の探偵と連絡を取ってたんや。それでさっき届いてた調査報告のメールをみたんやけど」

 壱弥さんの口調は、どこか憂いを帯びる。彼は画面に示された調査報告書をじっくりと眺め、再び深く息を吐いた。

「実家は合ってるらしいけど、今はその実家には誰も住んでないらしい。……しかも彼女の身内は母親だけで、その母親は半年前に病気で他界しとる」

 それは先の調査結果を崩壊させる事実であった。

「それじゃあ、花田さんが秋帆さんに言ったことは嘘ってこと…?」

「そういうことになるな」

 壱弥さんは眉間に皺を寄せながら、真っ黒なオフィスチェアに腰をかけた。そしてメールの返信タブをクリックし、速やかに返信する文章を打ち始めた。

「信頼出来る探偵やから、調査内容が間違ってることはまずないやろうし」

「そしたら、また調査やりなおし?」

「いや、昨日からのやり取りで何かおかしいことが無いか確認してみる」

「どうやって?」

「記憶を辿る」

 話をしながら書き終えたメールを送信すると、壱弥さんは視線を落とし、左手を口元に添えた。集中力を高めるためなのか、外界を遮断するように、ゆっくりと瞼を閉じる。頭の中でどのように記憶を辿っているのかは理解できないが、おそらく鮮明な映像が流れるように頭の中を巡り、端々を繋ぎ合わせていくのだろう。壱弥さんは一分もしないうちに、ゆっくりと目を開いた。淡い琥珀色の瞳はどこか一点をじっと見つめ続けている。

 邪魔をしないようにと、私は彼のデスクの手前にある応接用のソファーに座った。その瞬間、彼は何かを得た様子ではっと顔を上げた。

「違和感の原因がわかった」

 壱弥さんはにんまりと口角を上げた。ぱっちりと開かれた瞳は瑞瑞しく輝いている。そして壱弥さんは勢いよく立ち上がり、するりとデスクの脇を抜けて、私の向かい合うように席に着いた。右手に握っていたアイスコーヒーのグラスを机に置く。

「何が分かったんですか」

「あぁ、根本的なところや。まんまと騙されるところやったわ」

 壱弥さんは意気揚々と言った。一体何に騙されていたというのか、考えを巡らせてみても私には全く検討がつかない。頭の良い壱弥さんですらその場で気付くことが出来なかった問題となれば、小さな違和感が重なり合ってようやく綻びを見せた程度なのだろう。

「私にも分かるように教えてください」

「今はまだ憶測でしかないから、言うのは後や。でもナラに協力して欲しいことがあるで、これだけは伝えとく」

「はい」

「俺の推理が正しければ、葵ちゃんは幾つか嘘をついてるし、花田さんが何処にいるんか知ってると思う」

「えっ?!」

 余りにもさらりと告げられた衝撃的事実に、驚きを隠せずに声を上げてしまった。

 壱弥さんは、葵が必死になって花田さんを探し、涙を流していたのは全て演技だったとでも言うのだろうか。そう考えると少しばかり納得いかない点もあった。

「もし葵が花田さんの居場所を知ってるんやったら、根本的にこの依頼の意味がなくなるんじゃないですか」

「つまり、本来の目的は別にあるってことやろうな」

「でも」

「まだ確信はないし、納得できへんのもわかるよ。だから、ナラに協力してほしいことがあるんや」

 私を見る壱弥さんの目がとても真剣で、私は妙な緊張感を覚え、固唾を飲んだ。ゆっくりと頷くと、壱弥さんは口を開く。

「葵ちゃんの監視を頼みたい。恐らく、葵ちゃんは定期的に彼女がそこにいるかどうか確認してるはずやから、居場所を目で確認してきて欲しいんや」

「そんな大事なこと私で大丈夫ですか?」

「目的地が目的地なだけに、俺よりナラの方が変装して尾行するには適任なんや」

「目的地?」

「そ、祇園ぎおんや」

 にっこりと微笑みながら壱弥さんは躊躇いなく告げる。そして側に置いていたメモパッドを開き、取り出した万年筆を左手に据えた。

「明日は午前十時に祇園の『大和路やまとじ』っていう呉服屋に行くこと。地図はここに書いておく。そのあとは『椿木屋つばきや』に行ってここに書いたものを買ってきてほしい。ただし、椿木屋の抹茶を必ず飲んでくること。そのあとはこの事務所に戻ってきて、結果報告や」

 その説明通り、壱弥さんは一から順に箇条書きでさらりと書き込んでいった。

「それだけ?」 

「それだけや。注意して欲しいのは、葵ちゃんを見つけたら必ずばれへんように尾行すること。花田さんの居場所を確認さえすれば尾行は終わりでいい。絶対に単独で葵ちゃんに声をかけたり、花田さんに会いに行ったりしやへんこと」

 壱弥さんの示した行動内容の意味がよくわからなかったが、何らかの大きな意図が有るのだということは分かる。ただ、どこで葵に会えるのかということは今一つはっきりと分からない上に、壱弥さんの様子を見ている限り説明する気もないらしい。

 私が問うと、「何処で会うかわからんから、常に別人になりきっておくんやで」とはぐらかすばかりであった。これも葵のためだと言い聞かせ、仕方なく受け取った箇条書きのメモを手帳に挟み、特別任務を承諾することにした。


 表へ出ると、激しさを増した雨音が街全体を飲み込んでいた。やっぱり傘は必要だったと考えながらぼんやりと空を仰いでみると、中々切れそうにない雨雲が迫るように覆い被さってくるような錯覚を覚えた。

「よう降ってるなぁ」

 私の隣からひょっこりと顔を出した壱弥さんがわざとらしく手を翳す。

「まぁ、明日は晴れるらしいから大丈夫やろ。暗くなってきたし、気つけて帰りや。ナラやったら心配要らんやろけど」

「どういう意味ですかそれ」

「男でも張り倒すやろ」

 そう、私を見下ろしながらにんまりと笑う。

 デリカシーの欠片もない壱弥さんに向かって私は文句を告げたあと、土砂降りの中を飛び出した、と思った。手が、事務所の入り口に引き戻すように捕まれる。驚いて振り返ると彼は呆れた様子で口を開く。

「あほか。ちゃんと家まで送ってくに決まってんやろ」

 そう、優しい口調で紡がれる言葉に、握られた手がじわじわと熱を帯びていった。


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