Episodi 10 薄荷と半球

 丸い光がヘロの目蓋を撫ぜている。血の色を透かした明るさに、 ヘロは睫を震わせて瞼をもたげ、目をわずかに開いた。睫毛の隙間から見える景色は、一面の空色だった。半球の天井の中心から射し込んだ朝陽が放射状に分散 して、沢山の筋になっている。筋の一つ一つは円形の光の欠片が葡萄のように連なっていて、じっと見つめていると視界に緑色の靄がかかった。ヘロは一度目を 閉じて、今度はばちりと目を大きく開いた。眩しいことに変わりはなかったけれど、光の葡萄はもう見えなかった。ヘロは深く息を吐いてから体を伸ばした。わ ずかに残っていた怠さが体中に染み渡って、溶けて消えた。ヘロは身体をうつぶせにして、真っ白な枕に顔をうずめた。頭がずきずきと痛む。……昨夜は結局、 殆ど眠れなかった。

 かちかちという、陶器を擦るような音が部屋の扉の向こうから聞こえていた。その音に誘われるようにヘロは首を回して、枕から視線を上げた。朝食を思わせ る、澄んだいい匂いがする。アポロが作るなんて思えないから、ジゼルが用意してくれているのかもしれない。未だ寝ぼけ眼のヘロを諭すかのように、シクルが 白い掛布団の上に伸ばされたヘロの手の甲に張り付いて、また離れた。ぴたん、ぴたん、とくっついては離れ、を繰り返すシクルを二本の指でそっと挟んでヘロ はようやく上体を起こした。

 昨夜とは違い、明るい空の光で満たされた部屋を改めて見渡してみる。濃い飴色の木板を、その上端は疎らに揃え、縦に繋げただけの仕切りのような壁。その一面にたくさんの操り人形や、紙でできた色とりどりの五芒星を綱状に繋げたエルリーモニュメントが所狭しと画鋲で綴じ付けられ、飾られていた。操り人形の腕や足に伸びる釣り糸は全部赤紫色だ。人形の目は片方が木でできた大きなビンケボタンで、もう片方が鉄でできた小さなビンケボタンだった。その様子はどこか不気味だ。人形は体中傷だらけだったが、それはすべて刺繍でわざわざ傷痕を模してあるのだった。

 ヘロは、壁にだらんと垂れ下がる人形の一つを手に取った。赤い毛糸でできた前髪が、ぺろん、とひっくり返って、紅茶で染めたのであろう茶色の布肌の額が露になった。それを見ていたら、ヘロの眉根は無意識にぎゅっと寄せられていた。

 アポロはジゼルのことを土でできた子供だといった。人間の振りをした人形だって――この人形達もまた、アポロの無言の訴えなんだろうか。ジゼルに、お前 は人間ではないんだって戒め続けるための――。どうしてこの人形達は、埃一つかぶってやしない、手入れが行き届いていながら、こんな刺繍で傷だらけな風体 を装わされているのだろう。ぼろぼろに見える人形は、それなのに、愛着の沸くような不思議な魅力があった。ヘロは人形の前髪を撫でつけ、元の場所に戻して やった。

 ヘロはもう一度、天井を仰ぎ見た。天井からたくさん吊り下げられた五芒星は、まるで鎖みたいだとヘロは思った。誰かを守り、閉じ込めるための鎖――

 ふと、ヘロは星座の話を思い出した。星の神秘に疑問を持つことも、星の真実を学ぼうとすることも、大人達からはそれは全て禁忌だと教えられてきた。けれ ど不思議なことに、彼らは子供達が夜空に瞬く星々を線でつなげて星座を見出すことも、その星座に勝手気ままな物語を付け加えて楽しむことも、禁じはしな かった。それだけは、許してくれていたのだ。荒唐無稽な話なら害はない、と言ったのはどの大人だったろう。――じゃあ、現実味を帯びた物語だったら? ヘ ロは向こう側からとんとんと音が響き続ける壁を見つめた。壁にかけられた五芒星と、天井から垂れ下がる五芒星の並びには、なんだかずっと違和感があった。 それらを一つ一つなぞる様に、ヘロは指を空で動かした。シクルはヘロの指の傍をふわふわと舞った。

『どうした、ヘロ』

「うん……」

 ヘロは曖昧に頷いた。

「なんだか、この家、鳥籠みたいだ」

『鳥籠?』

「そう。この五芒星が、まるで籠の柵みたいにちゃんと一つ一つ縦に曲がって連なってる。天井のところで壊れてしまった鳥籠に、形がすごく似てる」

『そうかの。そなたは想像力が旺盛なことだ』

 シクルはからからと笑って、ヘロの周りを飛び回った。

「おれ、あの天井嫌いだなあ」

 ヘロは天井から差し込む光に目を細めた。

『ふむ?』

「なんか、空みたいに見えるから、ここから上に昇れば出ていけそうじゃんか。でも、本当はただの透明な壁なんだ。出ていきたくても、ここからは出ていけないじゃないか」

『ふむ。天井から出ていこうという発想が、なかなか独特だがの』

「それは……だから、空に見えるから」

 ヘロはシクルをそっと掌に閉じ込めた。

「ジゼル、こんなところで、ずっと過ごしていたんだな……」

 ヘロはシクルをぎゅっと握りしめた。五角形の角が肌に食い込んで、鈍い痛みが走った。この家は開放的に見えて、残酷だとヘロは思う。見上げればそこには 空が一面に広がっている。もしも飛べる羽があるなら、いつだって空へ飛んで出ていけそうだ。けれど本当はここは鳥籠だ。たとえ飛べたとしたところで、天井 には透明な半球の壁が待ち受けていて、空は手を伸ばせば届きそうなのに、結局は出られないのだ。外の世界を見せつけられながら、そこへは辿り付く事さえ許 されない。ましてやジゼルは魔法もうまく使えず、劣等生の烙印を押され、お前にはどうせ何も出来やしないのだと羽を切り取られてしまっている。これが飼い 殺しでなくて、一体なんだと言うのだろう――

 考えすぎかもしれない。ヘロは頭を振った。けれど、アポロの考える一つ一つに、何か恣意的なものを感じるのだった。それは、彼が人ではなく、【英雄】の生き残りだと知らされてしまったからかもしれないけれど。

 ヘロはシクルを指でくるくるとなぞって、頭上へ放り投げ、背中を丸めた。シクルは背中にこつん、とぶつかって、水色の光を左右対称に三対、放射状に放っ た。水に零れた絵の具の雫がやがて混じりあって透き通るように、水色の光は空気の中で透き通って蜻蛉のような羽となった。ふるふる、と震えた羽を、ヘロは 緩やかにはためかせた。

『やれやれ、朝から挨拶もなしに、こき使うの』

 シクルがぼやく。ヘロはくすりと笑って、羽を大きく一度震わせた。ヘロの身体は宙を舞い、手を伸ばしたまま天井に向かって昇っていった。あっという間に 天井に手が届いて、僅かな指紋がついた。日光が集中するせいか、そこは思った以上に温かかった。ヘロは手をゆるく握りしめた。ここがもし、天井なんてなく て空だったら、俺なら簡単にここから逃げ出せた。この硝子の半球を壊す力だって、持っている。だから俺は、こんなまがい物の鳥籠からでもジゼルを連れ出す ことができるはずだ。抱えて飛ぶことくらい、なんてことない。そのために努力してきたのだし。

「【勇者】ってのは、【魔道士】を守るためのものだから」

 ヘロはぽつりと呟いた。シクルは羽を僅かに揺らした。

『ふむ』

「だから、そういうことだと思うんだ、俺が、これからやらなきゃいけないことは。……うまく言えないけど」

 ヘロはもう一度手を伸ばして、汚れたところをごまかす様に手の甲で拭いた。分厚い硝子がちかちかと朝日を編み込んで、ヘロの瞳に眩しさを与える。

「何があっても、どんな場所でも、ジゼルを抱えて逃げる。なんとなく、この家見てたら、そうしたい気になってさ」

『そうか』

 シクルは優しい声で言った。

『その気持ちを……忘れなければいい』

「え?」

 シクルのいつになく静かな声に、背中を顧みた時だった。

「おやおや、朝から粋なことをするね」

 下の方から朗々とした声が届いた。眼下を見下ろすと、別の部屋から――赤紫色の明かりがまだ鈍く輝くその部屋で、アポロがヘロを見上げてにやりと笑っていた。ヘロは背中を丸めた。

「あ……すみません」

「別にいいよ。ただ、よかったねえ。もしも今ジゼルが風呂に入っていたら、君は張り倒されているところだ。当然、そこからならこの家の部屋はどこでも丸見えだろうからね。部屋の一つも、天井はないのだし」

「な――」

 視線を彷徨わせると、ジゼルはちょうどヘロの寝ていた部屋の隣で小さな包丁を握っていた。その手には熟れた真っ赤な苺が握られていて、手元に緑色の下手 がたくさん散らばっている。ジゼルは響いたアポロの声に不思議そうな顔で顔を上げた。ジゼルの目が、栗鼠の目のようにぱちくりと見開かれた。ヘロは頬を引 きつらせた。

「お、おはよう」

 ヘロは手を心もとなく上げた。ジゼルは小首を傾げて、口を動かした。多分「おはよう」と返してくれたのだろうけれど、声は全く聞こえてこなかった。視界 の端で、別の部屋に据えられた銀色の浴槽もありありと捉えられた――考えなしだった。顔が火照るのを感じながら、ヘロは力なく羽を震わせ元居た部屋の床へ と脚をつけた。アポロのこらえたような笑い声が、壁を超えて響いた。



     *



「お迎えが来たようだね」

 三人で食卓を囲んでいたら、玄関――迷路のように部屋の扉があちこちに備え付けられたこの家で、それが玄関と言えるのかはわからないが――ヘロが最初に潜り抜けたその扉の向こう側で、かさりと草を踏む音が幾重にも重なって聞こえた。アポロは汚れた口元を布巾で拭い、レオフードを深く被り直してふわりと立ち上がった。アポロが扉を開けると、目をつくような白い日差しが差し込んだ。惑星プルートの研究員――白装束に身を包んだ者達の輪郭は、日の光を反射してよけいに眩しく見えた。彼らは緩慢に指を組み、アポロの前で頭を下げた。

「【勇者】をお迎えに上がりました」

「おや、うちの娘も確か【魔道士】に選ばれたはずだが。あの子はいいのかい?」

 アポロはどこか楽しげに、からかうようにそう言った。

「儀式には代役を立ててあります。【魔道士】様には出立のぎりぎりまで、杖に慣れていただきませんと。時間が惜しいでしょう」

 白装束達は、表情をぴくりとも動かさず、抑揚のない声ではっきりと答える。

「へえ」

 アポロはふん、と鼻で笑って、ヘロににやりとした笑みを向けた。

「お迎えだってよ、勇者」

 ヘロは眉間にしわを寄せながら、ジゼルをちらりと見た。ジゼルは一度を掌でぼんやりと転がしていた。ヘロの視線に気づいて顔を上げても、困ったように笑っただけで終わった。

「じゃあ、終わったらまたここに来るから」

 ヘロは低い声でそう呟き、宙に漂うシクルをそっと掴んだ。ジゼルは小さく頷いた。どうしようもできない。ヘロがここで憤ったからといって、事態がよくな るわけでもなかった。それに、ヘロ自身、ジャクリーヌには伝えておかなければならないこともある。だから、会いに行かないと――

 ヘロは英雄の隠れ家を後にした。白装束の一人がヘロの背に手を触れさせ、歩くように促してくる。触るな、と言いたいのをぐっとこらえていた。ヘロの手の中で、シクルがふるりと震えた気がした。



     *



 ヘロ達が歩く道の両脇には、牛や羊が佇んで、どこともない空を見つめながら草を食んでいる。人々はその牛の乳を搾り、羊の毛を狩る。小屋の方からは騒が しい鶏や豚の声も聞こえる。長閑な、いつもと変わり映えしない朝の光景だ。その光景の通り、惑星アポロは他の星から【畜農の星】と言われているのだとい う。

 惑星サタンは雪の星。

 惑星アフロディテは遺跡の星。

 惑星ウラノスは迷宮の星。

 惑星ヘルメスは墓場の星。

 惑星プルートは裁きの星。

 惑星ガイアは図書の星。

 そして、惑星マルスは砂漠の星。

 そんな異名で呼ばれる連合星は、それぞれその特徴が強いゆえに不便も強いられる星の集まりだ。それぞれの星で、人間が無事に生きていけるよう、かつて女神が八人の英雄に与えたと言われる道具が、今では神器なんて呼ばれ、【時計城】とも呼ばれる寺院に安置される。

 アポロの縄は元々、痩せた土地で人間が家畜を飼育して食べていけるように、鞭や手綱として使うものであったし、アフロディテの竪琴は廃墟に閉じ込められ ても尚、人が希望を失わないですむように音を奏でるための慰みだった。プルートの鏡は繁栄に奢らず己を省みるための戒めの道具であったし、ガイアの筆は記 憶を記し蓄え、生きる知恵を伝えていくための道具だった。ウラノスの地図は、迷宮の地で迷うことなく進むことができるように道を指し示す記録であったのだ し、サタンの天秤は作物の育たぬ極寒の地で金属を利用して栄えるためのよすがだ。マルスの水瓶は、枯れた砂漠の地でわずかな水を零してしまう事がないよう に女神が託した道具だった。そしてヘルメスの杖は、夜が長く光に飢えた人々の心を導けるようにと女神が英雄に与えた希望だったのだ。けれどそれらは女神を 打ち倒すために使われ、そのために【神器】だと呼ばれるようになった。神様からもらった有り難い道具だからじゃない、神様を倒した尊い武器だから――人が 人の手で自由を勝ち得た道具だから、【神器】なのだ。

 神様を消し去り、その痕跡さえ口に出すことを憚るこの世界が、それらを神の名を冠して【神器】だなんて呼び続けていることが、ヘロには滑稽に感じられて ならない。ヘロに限らずそれは、無邪気な子供なら誰でも――否、少々捻くれた頭の回る子供ならば誰でも、一度は考えてしまう疑問なのだった。『そんな風に 人を豊かにしてくれるような道具を与えてくださった神様を、どうして人は消し去りたい程憎んだの?』と。

 子供が呟いたその疑問に対する答えを、大人達は決して口にしない。それどころか、子供がそんな疑問を抱いたことを折檻するのだ。それは考えてはいけない ことなのだと体で教え込む。子供達もまた、やがては考えることも諦めて、いつの間にかその慣習を受け入れていく。世界に真実なんてないのだと。語り継がれ てきた大人の言葉が全てだし、大人になり行く自分達もまた、同じ言葉を子供に伝えていかなければならない。女神から自由を勝ち得た尊い歴史を、人が忘れて はいけないのだと、同じことを一つ覚えのように繰り返すだけの、木偶の坊になる。

 そんな大人達のその心を支えるものが、【時計城】なのだった。星のそれぞれに一つ存在し、その外壁の中央には、十三の時を刻む巨大な針時計が据えられ、昼も夜も人々を見下ろしている。

 時計城の時計盤上で規則正しく動く針は、今日もまたどれだけの生を無駄にしたのかと人々を苛む。人の命には限りがあり、その命を日々使い果たすことで少 しずつ死に近づいていくのだと戒めてくる。学校でも家庭でも、子供たちは“時計とはそういうものだよ”と教えられる。人の生、時間を司る時計城に隠された 星の神器は、ゆえに侵すべからざる、畏怖すべきものなのだと、本能に絶えず傷をつけて覚え込ませるのだ。親が子供を折檻で躾けるのと同じように。

 アポロに限らず、この八つの星は全て球体であるがゆえに、歩き続ける限りいつかは必ず同じ場所へと辿りつく。まるで引き寄せられるように、始まりの場所 へと人は帰らずにはいられない。だから時計城は、人々にとって星の始まりを示す記号でもあった。自分達のよすがが、時計城であり、その中に眠る神器なのだ と疑わないのだった。時計城の中に入ることができるのは、限られた人間だ。惑星プルートの研究員か、皇族、そして巡礼者だけ。他の誰も、進んで足を踏み入 れようとはしないのだった。それは、時計城が人々にとって侵してはならない領域だからだ。

 けれど、ヘロはそれをおかしな話だと思っている。仮に禁を破って時計城の腹の中へ勝手に足を踏み入れたところで、罰を与える神など存在しないのだ。人々 を苛むのは、【言いつけを守らない子供を躾ける親】――即ち、滑稽にも自らを【魔術師】と名乗り続けることで権力を有した、惑星プルートの大学に身を置く 研究者達だけだ。だのに誰も、禁を破ろうとはしない。彼らの言いつけに背けば、恐ろしい刑が待っているのだともっともらしく言うけれど、下されるであろう その刑がどのように恐ろしくて、どのように人を苛むのかを、誰も知りはしないのだった。ヘロだって、その得体のしれなさが不気味に感じられて、今までわざ わざ時計城に入りたいだなんて思ったことはなかった。けれど目の前にそびえる時計城に、今は違和感を持っていた。

 既視感。何かに似ている。それを、怖がる必要なんてないんだという気持ちがふつふつとわき上がってくる。

 時計城の壁は、泥を固めて焼いた赤煉瓦と、白い大理石でできている。四芒星の下半分だけを切り取ったような、奇妙な形の白木の扉。地面から煉瓦が積み上 げられ、その上端は獣の下牙のように鋭く疎らな形を成してやがて白い大理石の壁へと移行する。白い壁は半球を描いて、その中央の天辺に空から円錐を逆さま に突き刺したかのように大理石の短い塔を伸ばしていた。四芒星の上半分を模ったようなその短塔の屋根の下に、白木造りの大きな時計盤が埋め込まれている。 盤上には白焼きのの煉瓦で一から十三までの十二個の数字が刻まれていて、その中央では葡萄酒色の二つの輪環が、長さの違う二本の木の枝を重ねて円盤の中心 に繋ぎとめ、針としていた。二つの輪環のそれぞれには、八つの惑星の印が彫刻されている。その中には当然、惑星アポロの印――英雄アポロの額にあったのと 同じ印が象られ、陽の光を浴びて赤紫色に輝いていた。

 そのアポロの印を見つめながら、ヘロは左手の小指をもう片方の手で握り締めていた。右手の指先が、夕焼け色の指輪の感触を確かめる。ヘロはぼんやりとしていた。背中を何度か押されたけれど、ヘロはしばらく時計盤の前から動かなかった。英雄の生き残りに、土から生まれた人形(ひとがた)の子供。【勇者】を選んだ傷だらけの鏡(シクル)。人間よりも人形(ひとがた)を選んだヘルメスの杖――

 随分と日常からかけ離れた世界ばかりを、たった二つの朝と一つの夜の間に知ってしまった。昨日までの自分と、今の自分は同じもののはずなのに、違う何か に思えた。脳裏に蛹から孵る蝶が思い浮かんだけれど、ヘロは自分は蝶ではないなと思った。もっとずっと、暗くて恐ろしい何かになってしまった心地がする。 かつては近寄ることも恐ろしかったこの時計の城が、なぜだか懐かしく思えてしまうのだから――

 そこまで思いをはせて、ふと、ヘロは目を見開いた。視界いっぱいに、時計城の屋根が飛び込んでくる。

 親近感がわくはずだと思った。なぜなら時計城の概観と似たものを、既にヘロは間近で見たのだから。その場所で包まれるように一晩の眠りに墜ちたのだ。

 遠目に見ると、赤煉瓦と大理石の壁の境目は、割れた卵の殻の半分が牙状の割れ目を地面に向け、赤土の上にぐさりと刺さっているかのように見える。それ が、透明な半球の下で、上端がぎざぎざの壁ばかりを突き立てたアポロの家によく似ているのだ。あの家にいた時には統一性のない様に見えた、飴色の壁の鋸刃 のように不揃いな上端は、改めて思い起こしてみれば、透明な半球を――透明な卵の殻を受け止め、その切っ先を沈みこませる赤土を模しているようだった。結 局。アポロの家そのものが、この惑星アポロの時計城の模造だったのだ。――でも、何のために? ヘロは喉をごくりと鳴らした。

 今朝、まるであの家がジゼルを閉じ込める鳥篭のようだと思ったことを思い出す。似ていると一度思ってしまえば、目の前の時計城まで何かの牢獄のように思 えてくるのだった。この時計城は神器を――アポロの縄を閉じ込めておくために作られた牢なんじゃないだろうか? 既に割れてしまった卵の殻で、卵から孵っ た雛を再び地面との境に閉じ込めようとするようなものだ。アポロの家はジゼルを閉じ込めていた。それとも、アポロは籠の中でジゼルを守ろうとしていたのだ ろうか? ヘロにはアポロの考えなんてわからない。けれど一つだけ、ヘロは分かってしまった。

 少なくとも英雄アポロにとって、ジゼルは閉じ込めておくべき雛なのだ――ジゼルはアポロにとって、神器にも等しい。

 ――怖い。

 再び喉を鳴らすと、シクルが手の中で暴れた。背中をもう一度強く押され、ヘロは重々しく開いた扉の向こうへと足を踏み出した。なんだか、とてつもなく恐 ろしい心地だった。足下には、飴色の虫入り琥珀を畳のように敷き詰めた床が広がっていて、一つ一つの虫を繋ぐような金色の傷が無数に走っていた。それを見 ていたら、まるで床一面が星座図のようにヘロには思えた。

 赤煉瓦の壁は、中で揺れる炎の灯りに照らされて、目に染みるような金色に輝いていた。その光景はまるで、夕焼けを反射して揺れる黄昏時の海のようでも あった。目のちかちかするような景色の中で見慣れた姿を認めて、ヘロは安堵の息を吐いた。ジャクリーヌはヘロを一瞥した。知っている人間が――しかも、自 分が心を許せるような人間が一人いるというだけで、ざわめいていた心がすっと凪いでいくのだった。

 ヘロはジャクリーヌの隣に歩み寄った。ヘロの影で、ジャクリーヌの顔半分が黒く染まった。

「リナ。昨日はごめん。酷いこと言ったと思う。お前だって、大変な一日だったのに。かっとなった。ごめん」

 ヘロはジャクリーヌの横顔を見つめながら、静かな声でそう言った。ジャクリーヌは睫毛を震わせて、目を閉じた。

「いいの。それよりもね、この場所にいるってことがずっといや。だからあなたが昨日あんな風に怒ってくれて、胸がすっとしたわ。だって私も、本当はいやだったんだもの」

 ヘロはへら、と笑った。頬を掻きながら下げた視線の先に、ジャクリーヌの履いている靴が見えた。真っ赤な靴だ。ヘロは眉根を寄せた。

「お前、赤色嫌いじゃなかったっけ?」

「嫌いじゃないの。ただね、私、恐ろしく赤色が似合わないのよ。だから赤色のものを身につけるのは大嫌いなの。私、この日のためにこの靴おろしちゃった。これはね、私なりの精一杯の抗議よ。『私はいやいややってあげてるのよ!』ってね」

「はは、お前らしい」

 ヘロはようやく自然に笑った。ジャクリーヌも微笑んで、目蓋をそっと開けた。翡翠色の視線が捉える先を、ヘロも静かに目で追った。そこには痩身の、背の 高い一人の男が佇んでいた。他の白装束のように、顔を隠すことも無く、翠がかった銀髪をさらさらと肩から流している。青銀色の布に金糸の刺繍が豪華に施さ れたレープローブに身をまとったその男の佇まいには、どこか高貴さが感じられた。男は宝石のような薄荷色ミントブルーの瞳でジャクリーヌとヘロを見下ろし、口の端をつり上げた。男の影が、炎に合わせて壁にゆらりと揺れた。

「英雄アポロの加護を受けし二人の巡礼者よ。我が名はフォスフォフィラレイア=ヘンリク=リルヴァイス=ユーロ=ハルヴィーレ。連合星を統べる惑星プルー トの皇家ハルヴィーレの嫡男である。旅立ちの前に、そなたらの力量をこの【サタンの天秤】によって我が皇室は量らねばならない。これより、その儀式を執り 行う」

 男の声は、静かな城内に反響した。男が手を上げると、白装束の一人が恭しく白い布に包んだ何かを掲げた。男――皇子はそれを受け取り、白い布を解いた。 そこから、孔雀石でできた天秤が現れた。両端にぶら下がる二つの皿は水色で透明な――シクルと同じ玻璃だ。ヘロは殆ど条件反射的にそれから目を逸らしてし まいそうになった。けれどどうにかこらえて小さく被りを振った。

「本来この場には、現皇帝であり我が父であるヘルリッヒの姿があるはずであったが――」

 皇子は口を歪めたまま、長い睫毛を震わせ天秤を愛おしげに眺めた。

「……現在、帝王は病に臥している。そのため、皇太子である私がこの星を訪れることとあいなった。実は私がこの星の地を踏んだのは、これが初めてでね。初 めて訪れた惑星アポロで、二人の巡礼者の誕生をこの目で見届けられることを実に嬉しく思うぞ。さあ、そなたらの名を告げよ。名とは、我々人間がこの世に生 まれ落ち最も先に送られる魔法であり、連合星という母体と我々を繋ぎとめる臍の緒だ。そなたらは名を名乗ることにより、臍の緒を断ち切り、この星を捨てね ばならない。故郷アポロから切り離されたそなたらは、八つの星を巡るための加護を得ることとなろう。まずは、勇者よ。名を述べなさい」

 皇太子は袖を翻し、天秤を高く掲げた。ヘロは床に右の膝をつき、左の膝を立てて腰を下ろした。シクルを掌に納めたまま、手の小指同士を結ぶようにして指 を組む。それは学校や家で、何度も何度も練習させられた所作だった。頭を垂れて、ヘロは大きく息を吸い込んだ。張り上げた声は、朗々と響いた。

「我が御名はヘロ=ナファネ。アポロに生まれ、アポロを去るもの」


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